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ホ短調の50セント高い微分音表記 [プログレ]

 音樂を知るという事に於いて、樂音を知るに当たり形容する方の言葉に頓着するようでどうする!?と思いつつも、實際には樂理的背景を知るには音樂の秩序を構成するあらゆる部分の「呼称」を理解する必要があります。それすらも頓着するな!?という事を言っているのではないという事は賢明な方ならお判りの事でしょう。


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 例えば調性ひとつ語るにしても、ハ長調やらKey in Cという言い方が有る様に、それらふたつの言い方に底意地の悪い「罠」という悪意を仕込む事が可能なほど両者は乖離しておらず、そんな細かな所に頓着する程の差異など無いにも拘らず、そうした所に頓着する様では最早、官僚言葉が閣議決定の為に忍ばせる語法を隈無くチェックしきれなかった事を悔やむ様なモノでして、それを樂音の摂理に同じテーブルに持ち込む様に凝視していては生まれて来て時間を過ごす事すら難澁する様にすらなりかねません(笑)。そういう違いを通常の理解なら態々こうして言わなくとも理解できていると思うのでありますが、振れ過ぎてしまっている人が私のブログを読んでいる人の中には居る為か、そういう所に誤解が及ばぬようあらためて申しているワケですな(笑)。


 呼称の違いは疎か、音樂等ワールドワイドな世界に目を向ければ實際には原語が理解出来ていなければ真の意図を見出す事すら出来ないのではないか!?という位、音樂の難しさという側面が備わっており、理解を深める為の分析という楽曲をアナリーゼする作業もあったりするワケですね。
 呼び名の違いや原語の違いに頓着するのは、樂音という現實をしっかり受け止めた後から理解を進めてナンボの事だと思うので、樂音すら捉えきれていない所で言葉に頓着する様なら「体系」に拘りを求め過ぎるのと変わらないのですね。

 音樂というのも、音そのものの成立は秩序あっての事であり、調性やら無調にしても音はつきまとう(無音も)物でもあり、結果的にはそうした樂音の成立には「音樂」という歴史が積み上げて来た物理の体系化なのですね。それを繙いても繙いてもバラバラになる事なく何かに収斂している音の秩序の存在に人は感動を持続させる為、こうした世界観の成立に考え方を少し変えれば宗教にすら変貌を遂げてしまいかねない神格化された体系の歴史がずっと続いていて今があるワケですね。


 私がある音樂を繙いても、それは何らかの(既知の)体系に収まっているワケです。私に既知であっても他の方にしてみれば未知の物があるでしょう。ネットというのものはどれだけ「拓かれた」かの様に存在してはいても、人間というのは自分可愛さの為に他人を懐疑的に見てしまうきらいがあります。それは自身の防衛に繋がるからです。愚直に何もかも信じ込んでしまえば虚偽の情報すら正否の判断が及ばず不利益を被る場合もあるでしょう。然し乍ら、周到に懐疑的になろうとも本当に不利益を被ってしまう時というのは往々にして自身が欲深くなってしまった時でして、欲求の深浅度に依って左右される判断は結果的に本質を理解していない事に等しいワケですね。

 音樂の理解に不利益&利益とはなんなのか?共通理解を一方では利用しつつ、たかだか音樂にまつわる用語の呼び名に拘ってみたり、そこに頓着し過ぎてしまう事がどれほど愚かな事なのか、という所に気付いていない物が得てして文学性を要求したりする所に、ネット社会に存在する情報が徒に先鋭化してしまおうとする弊害があるワケで、私はそれを嘆いているワケですな。述べてる音樂性の部分は大した事が無い癖に言葉の綾に執着してさも自身の在り方すら正当化してしまうような情報の鏤めというのはゴミのポイ捨てと変わりない行為なんですね。そういう行為と同一視する事なく、きちんと音樂の本質を見てもらいたいと思ってココの所私は敢えてこうして指摘しているのであります。音樂が言葉で知れてしまうという安易な考えを持つ輩に對してですね(笑)。

 あるアーティストの音使いを私が着目する。それを見付けた私が凄いのではなく、そうした音を使うアーティストが評価されて当然な事でして、昔からブログ上で何度も言っておりますが、私がそうした差異を見付けて来た事が見付けられない人より凄いと言っているワケでもありません(笑)。だからといってネット上の情報の在り方として権威を持とうなどとも微塵も感じていないモノの、立場が対等と謙ってはいても愚か者が発する情報と私の情報を等価にしてもらっては甚だ迷惑であるのも至極当然です(笑)。情報の価値が判らない者に何を言っても無駄ではありますが、その辺をきちんと見定める事ができない限り、ネット上の情報だけを頼りにするだけでは人間性も何も向上はしないのです。ネットで情報収集して、水泳の出来ない人が泳げるようになったとか、匂いがネット越しで判る様になったとか、ネット越しに出会った異性と物理的に遭う事なく出産してしまったという社会にでもなればネットの在り方は別なのでしょうが、所詮ネットの在り方というのはこんなモンです。

 殆ど多くの人は、似たり寄ったりの他人と少しでも差異感を演出したいが為に箔付けの為の情報を身にまとい差異感を得ようとしているだけで、自分で咀嚼するワケでもなければキャバ嬢相手に口説く為の話のネタ程度の情報収集にしか使われていない側面があったりするのがネットの現状ではないかとも思います。その現實の中での音樂ですから推して知るべし、ですね(笑)。



 扨て、今回はプログレ界の話題になるのでありますが、久々にジェントル・ジャイアント(=GG)の話題を語る事にします。GGの5thアルバム「In A Glass House(=邦題:ガラスの家)」に収録の「The Runaway」という曲についてです。
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 「The Runaway」の樂理的背景を理解する前にこの曲の「歌詞」を理解するとこのアルバム全体が見渡す事が出来る重要なメッセージがあるので語っておきますが、それが《And yet all his joy is empty and sad.》とピリオドまで打たれている点が實に暗喩めいております。直訳すれば「彼の楽しみなど空虚で悲しい物にしか過ぎぬというのに」という客観視が表れていますが、このアルバムは自分自身を客観的に投影しただけのドラッグに浸った情景(=サイケデリック)をそれまでのサイケデリック系の樂音とは違った側面で歌詞も樂音もコーディネイトされている所がこのアルバムの全体像なのだという理解が前提にある事が重要です。これは英国人から私が教わった事です(笑)。



 サイケデリック感がどういうモノであるのかという事は扨て置き、例えば本アルバム2曲目の「An Inmates Lullaby」の歌詞だと、日本語對譯では子供が精神病院に入ってしまった事を唄にしているというモノですが、これは自分自身の悪事で収監させられた情景を自己防衛の為に子供の悪戯の様に置換して客観視している「廃人の唄」なのでありますね。マレット楽器類とコーラスしか用いていないアンサンブルの時のGGこそ高次な樂理的背景が用意されていたりするのですが、こんなにゆったりとしたテンポで冒頭からケリーの聲に依るボーカルは8小節を息継ぎ無く歌い上げてしまう所に、實はこの歌詞中に登場する主役の異常性が垣間見えたりするのです。實際にオーバーダブ抜きでこの8小節を息継ぎ無しで唄える人は吹奏楽器奏者で無ければ無理かもしれぬほど素晴らしいモノです。

 誤解しないで欲しい所は、薬物に溺れサイケデリック感を理解するという事を礼賛しているのではなく、薬物を利用してどんなに非日常的な体験をしようが、それは既知の人間の感覚が幻惑されて何らかの情景やら感覚に置換されているだけの事で、そうした麻痺や中毒症状での非日常的な経験とて単に命と健康あっての「既知の歪曲」にしか過ぎないので、歪曲した世界を好むのであれば別に止めはしませんが、既知の物をしっかり理解していた方が人生は何倍も面白いと私は思いますよ。歪曲した世界観を薬物無しで作り上げたり、音で表現したりする研究の方がよっぽど私には興味深いモノで、薬物体験に走るのは馬鹿げた事だとあらためて申しておきます。


 音樂というのは、ある一定のフレーズに對して特定の長さ(短さ)が必要なのです。ある種の鼻歌程度の断片のフレーズとやらは、それはまあモチーフと一般的に呼ばれたりするのですが、そうした断片というのは、人間が直接的にしろ客観的にしろメッセージを理解する際に他人の節回しと自分の呼吸のペースを有る程度合わせる所から、「協調」や「理解」という物が生まれます。ですから息継ぎという感覚は音樂のフレーズ作りに於いて無意識であったとしてもそれはとても理に適った物理的な産物なのでありますが、「An Inmates Lullaby」では息継ぎが行われないので、これほど遅いテンポの8小節でノー・ブレスで唄いきるというのはとても非日常的な物を感じ取らざるを得なくなり、瞠目する事になり、歌詞に注力するとまるで自分の悪事を悪びれたりする事のない客観視や精神異常者をも演じているのではないか!?という戦慄すら感じ取る事も出来ます。終盤のコーラスと聲が交錯する所で「本当の男の聲」が出て来る所が「本性」を表している様に聴こえるワケですね。自身の内成る聲=医師の聲=権威有る聲=神の聲という風に同化させているワケです。



 そうして4曲目の「Experience」では歌詞中に「Master inner voices」と出て来るので、因果関係が判って来るかと思います。この「Experience」の符割と拍子のマジックも實に卒倒感を醸すモノで、ドラッグ体験のある英国人はとにかくアルバム通して聴いて「Experience」に差し掛かった時は世界観が変わるとまで言っておりました(笑)。



 とまあ、ついつい話題を「The Runaway」以外にも拡大してしまいましたが、GGがマレット楽器に拘ったりするのは小沼純一が最近「オーケストラ再入門」でも語っている様に、チェレプニンへのリスペクトや、そうした所のアイデアがあって事だとも思ってしまうのですが、「The Runaway」の拘りは實はもっと凄い所に潜んでいます。


 「The Runaway」の曲冒頭は、ガラスの割れる6拍子(=3/2拍子)のSEとコンサート・ピッチ=440Hzでのハモンド・オルガンのリフを経て本題に入るのですが、此処で態々コンサート・ピッチを引き合いに出している所にヒントが隠されています。

 というのも、この曲に合わせてコピーをしようとした時おそらく誰もが、この曲のコンサート・ピッチの異端な所に気付くでありましょう。特に弦楽器奏者なら耳だけでは判らなくとも、いつもの楽器と一緒に演奏してみれば即座に判断可能だと思われます。その秘密というのが、この曲の本題はコンサート・ピッチ=440Hzよりも50セント高く録音されている事であります(冒頭のSE部分を除く)。



 この曲は、ライヴではEマイナーで演奏されているのですが、つまりはEマイナー(ホ短調)より50セント高く、Fマイナー(ヘ短調)より50セント低い音で録音されているのです。聲のキャラクターが変わっていない所をみると、MTRのバリ・ピッチ(通常バリ・ピッチは±50セントもありません)やらを弄っているモノではなさそうです。おそらくチューニングで対処しているのでしょうが、本当は低くチューニングしてカポタストの類で対処しているのではないかという風に私は見立てております。ゲイリーのギター音のペナペナ感がそれを感じさせるのであります。

 Eマイナーよりも50セント高い世界観を五線譜で表してみると次の様な調号を与える事も可能なのですが、実に奇怪なモノです。但し、教育上好ましくないという類のモノではなく、寧ろこういう表記もあるという現實を早期の段階で知っている事の方が重要だと私は常々感じております。

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 「The Runaway」という曲は結構な好做品であるにも拘らず、あまり話題にならないのは、曲のピッチの所為もあるでしょう。それに加えてGGというバンドは非常に多くのライヴ盤がブートレグも合わせて流通しているのでありますが、オリジナル・アレンジのままでライヴ演奏されている物が耳にする事の出来る音源はかなり少なくなります。

 というのもGGのブートのライヴ盤でよく流通するのは1974年以降の音源であるのですが(1972年からもありますが)、おそらくこれは録音機器(カセット・テープ)の普及に依るモノだろうと思われます。但し、カセット録音と思しき物の中には酷い録音状態の物の比率が高まるので、録音状態の良いブートのライヴ盤というと、今から四半世紀程前位では「Playing The Foole in Wonderland」と「Playing For Fools」の2枚の評価が高く(音質クオリティ)、よく流通していたモノです。これらもブートして現在でもレコードはおろかCDでも偶に流通しているので、私も以前画像にした事がありましたが、今回は「The Runaway」の話題なので、「The Runaway」の事について掘り下げます。
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 「The Runaway」のオリジナル・スタジオ・アルバム・アレンジと同様のライヴが聴く事が出来る音源は非常に少ないモノです。そのアレンジの違いというのはCDタイムで言う所の4:14秒〜辺りのブリッジの有無になるのですが、それが次に示す譜例です。



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 リズム表記はアラ・ブレーヴェの為、2/2拍子表記のリフ2小節は「實質」次の4/4拍子表記の1小節と物理的な速度は全く同一という事になります。

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 とはいえ、18小節×2の後の3/8拍子という拍子変更は、アラ・ブレーヴェ表記が持て余す拍子構造(=最小単位の1/2拍子に満たない音価の合計)となるため、2拍子を實質1拍子とカウントする流儀ではなくなるため、此処をアラ・ブレーヴェの続きだからといって3/4拍子として表記してしまうのは間違いなのです。曲を知らない人はよく理解できないかもしれませんが、アラ・ブレーヴェ表記以外の表記に「戻る」と、實際には先の3/8拍子としてアルバム・アレンジを表記する事が適切となるのです。


 とまあ、此処まで注意深く当該ブリッジ部分を声高に語っているのですが、このブリッジ部分をライヴで再現しているのは、私の知る限り音源で残っているのは次の3タイトルのみとなるのです。

●「Totally Out Of The Woods」・・・オフィシャル盤2枚組
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●「In A Palesport House」・・・オフィシャル・ブートレグ(先行リリースしていたのはブートのHighland盤での同一タイトル)
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●「Manchester」・・・ブート盤(Wilkinson盤)
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 これら2做品は何れも1973年ライヴの物で、「トータリー・アウト・オブ・ザ・ウッズ」ではBBCスタジオ・ライヴの録音で、記録に依れば1973年8月28日録音・9月28日放送との事です。「In A Palesport House」はイタリア・ミラノでのライヴで1973年ではある様ですが、正確な日付が判らずじまいなのが難点であり、GGのオフィシャル・ライヴ・アルバム「Playing The Fool」の中身を確認してみても載っていないのです(笑)。  ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品を剽竊するジャケットのブート盤であるマンチェスターのライヴも同様にして「Playing The Fool」の方で確認できるのは1975年と76年のライヴの事なので、1973年のマンチェスターのライヴは他の時期の物だったという事が考えられます。
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 何れにしても、これら1973年の時でないと「The Runaway」のオリジナル・アルバム・アレンジに触れ合う事ができず、他のライヴ音源だと、先のブリッジ迄及ばない所で「Experience」へのメドレーとなってしまうのであります。  とはいえ、「Playing The Fool」を凝視してみると、「In A Glass House」のテイクは1973年収録テイクを用いているという事が記載されているので、もし「Playing The Fool」に「ガラスの家」から他の曲も収録されていたら!?と思うと、実に興味深いモノなのですが、おそらく世に出る可能性は限りなく低いのではないかと思われます。    GGというバンドは、メンバー間での楽器の持ち替えやらマルチな才能を見せつけるのも特筆すべき点なのですが、先の「Playing The Fool」の画像の左下部分をみていただければ、各メンバーの担当楽器が詳細に判りますのであらためてご確認していただければなと思います。
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