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平仄の符合 [楽理]

 扨て、前回までは中心軸システムを例に挙げ乍らペンタトニックの種類の在り方、チェレプニン音階の組成の在り方、それと調性の在り方という風に順序立てて語ったワケですが、チェレプニン音階が包含している増三和音の「骨格」。これに伴う応用的な部分はこれまで予々語って来ている事なのであらためて語る事は致しません。いずれにしても普段私のブログをお読みになられている方が、よもや左近治が調性を語るとは思いにもよらなんだ、と思われている方も多いかと思います(笑)。


 調性を知る事で調性感の希薄な世界観を深く知る事もできるワケですね。ところがネット上ではどうしてもウィキペディア基準になってしまうのがアレな所なんですが、そもそも調性を語った所で調的な軸がひとつに据えられている音楽ばかりではなく、調号に反映されない一時的な転調もありますし、転調というものを視野に入れると調的な社会でも世界は拡大するワケですが、先の批判の様にウィキペディアが平行調の行き交いまでを「転調」と述べてしまっているモノだから「平行調へ転調」という馬鹿な事を抜かす輩は後を絶たないという始末でありまして、それに対してあまりにも愚直なまでに理解してしまうような奴らが私のブログに目を通しているのは正直ご勘弁いただきたい所であります(笑)。


 全音階=ダイアトニック・スケール。主要三和音の各和音の構成音を一様に並べると全音階、つまり調的枠組みのヘプタトニックである全音階を得るワケですが、古い枠組みでの「調性」という仕来りでは、平行長調と平行短調それぞれの主要三和音は同一な為、転調とは呼ばないという事を何度も念を押している左近治でありますが、平行調への行き交いというのは珍しいモノでもないので、それを仰々しく各パターンに対して「栞」の様に明確に平行長調と平行短調を使い分ければそれは調性の変化した印象を抱くのは当然ですが、肉体で言うならば輸血も血液型が変わるほどの旋術を施されて初めて「転調」と言えるのであり、平行調を行き交うのは何度も言う様に血液など全く変わっていない様な状況でもあり、それを転調とは呼ばないワケですね(笑)。とはいえこの程度の事でここまで話題にするのもホトホト辟易してしまう事なので平行調の行き交いについてはこの辺で留めておく事に(笑)。


 私の周囲にですら嘗て中心軸システムを学ぶ際に、仮にハ調の調域を基準に中心軸を見立てたとすると、ハ調の調域とはいえ調性外の音が存在するモノだから、その時点で中心軸は半音階をどこから見ても一様に同じモノだと曲解(誤解)してしまう愚か者を何人も見て来ました。どこから見ても同じ機能なワケがないだろう(笑)。Cがトニックならば・・・という所から開始されているのにも関わらずこうした理解ですからね。


 ハ調の調域での中心軸システムでドミナント属を見てみましょうか。G・B♭・D♭・Eです。


 Eは平行短調の属音でもありますし、D♭もナポリタンな方面です。同様にB♭も平行短調の為の音でもあるように、それぞれを四度進行させるだけでもE -> A、G -> C、B♭ -> E♭、D♭ -> G♭と進行するので、進行先は等しくトニック「属」であります。


 ところが更に愚かな者は、通常その調域での「G♭」は「F#」として現れる事が多く、「F#m7(♭5)」など最たるモノで、これをトニックとして受け止めるのは無理があって論理が破綻しているとまで宣う馬鹿な連中を見て来たりしたモノです。


 この手の愚か者というのは2種類存在しておりましてですね、ひとつは本当の無理解から来る馬鹿と、もうひとつは詭弁を振るう為に無意味な三段論法をもって本質を唆してしまおうとする愚か者(概して自分だけ得をしたいタイプ)ですね。


 中心軸システムという理解そのものに脆弱な人からすれば、先の後者タイプにも充分な反駁を用意できないワケですね。亦は一本気の強い相手に対して労力を使わせようとする事も狙いのひとつだったりするのですが、いずれにしてもその手の議論をしても無意味で不利益蒙る連中をすぐに見抜く事が可能かどうか!?という事が本当はまず問われているワケで、悪意を持っている連中ならば他人の良心につけ込んで、良心を発揮しようかどうかと逡巡・躊躇している所の足元をすくうという事をやって来る連中なので、不毛な議論や酔っぱらいの類の無意味なやり取りというのは概ねこうした連中が居たりもするので注意が必要です。


 で、先の「F#m7(♭5)」という和音の訪れ。私も確かに遭遇します。ハ調調の平行短調であるイ短調(=Am)側ではシャープ・サブメディアントの類で出て来る和音ですね。

 まあ、その手の調域でよく見掛けると言ってもこれは部分転調であり、中心軸システムを見ていたとしてもF#m7(♭5)という和音を見た時点で、それはハ調の調域の中心軸システムを見ているのではなくト調の中心軸システムに移行している事に気付かないおバカさんであるとも言えるでしょう(笑)。

 調的情緒の枠組みの中でハーフ・ディミニッシュの体を「トニック」として機能させるなどお話になりませんし、ましてやハーフ・ディミニッシュが現れた時点で部分的な転調が起こっているにも関わらず、前の調性に執着・固執しているような和声感覚持っているようじゃ、ツー・ファイヴ延々繰り返しても「ハ調調が全て」とばかりに聴いてしまうような稀有な馬鹿の見本でありましょう(笑)。ところがこの手の奴ぁ結構存在したりするんですね。中心軸システムとコルトレーン・チェンジの「畑」にはこの手の馬鹿共が昔からワンサカ居るので気を付けましょう(笑)。


 転調というのは、何の脈絡も無しに縁遠い調性へ転調するのも珍しくはないですが、前回語ったコード進行における「共通音」に見られる様に、異なる調性同士であっても音を「共有」する事で連結し合う様に転調が行われるのが概ね自然な転調でありまして、ポピュラー音楽で顕著なのはジョン・レノンを筆頭に挙げる事ができるかと思います。


 スーパー・トニック(=上主音)だと思っていたら、その音は次の転調先の根音にすり替わったとか非常によくある形式だと思います。つまり、転調もしっかり視野に入れてハナシを進めないといけない事でもありまして、それでなくとも対位法音楽だってこうした共通音を手掛かりに「応答」し合う事で複数の調性が併存したりする事にも発展しているワケで、理論的な側面だからといって転調も視野に入れないといけないのでありまして、それは理論への不十分或いは無理解が起因する、音楽的な理解と視野を狭めてしまっている事であるため、此処に収斂してしまう様な人が概ね「音楽理論など不要」と言い出したりするのでもあります。


 無理解で愚かであるにも拘らずふんぞり返って社会や秩序に反抗してしまう様な愚かな人達は居るもので珍しくもありませんが、そこまでして習得する事が馬鹿げた事であるのなら、その人達は自分自身を「生まれて来る必要が無かった」とは何故考えられないのかが不思議でたまらない物です。親御さんからしてみたら生まれて来て欲しいと思っていただろうし、作るつもりは無かったけど産んでも別段構わない程度の考えだったでしょうが、何よりも生まれて来た本人が生まれたいとは望んでいなかったのだから人生に固執する必要もなかろうと思うのですが、身勝手な行き方というのは概ね他人に迷惑をかけて足を引っ張ったりコミュニティを阻害して強弁を放ったりするのが関の山です。ネットというインフラがそういう身勝手な行動をしやすくなってしまっているから、まともな情報に辿り着くのも難儀な物になってしまっていたりするのが厄介な所なんですね。とはいえ、そこまで音楽理論を会得する事が重要か!?と自問自答し乍ら私のブログをお読みになる方は、おそらく音楽への強い欲求があっての事だと思うので、誰しもが知っている様な事を態々語ったりはしませんが、蔑ろにされてしまっている様な事は時々取り上げたりする事もあります(笑)。


 音楽を理解する上で言葉に惑わされては本末転倒なのですが、音だけで理解することも亦難しい事なので、理解に及ばない事を身に付けようとするのはほとほと難しいものですが、次の様な論法がまかり通ってしまう様な理解では先が思いやられます(笑)。

 
●中心軸システムに於いてCがトニックの場合G♭(=F#)もトニックである(正)
●ハ調の調域(=C/Am)に於いて、F#m7(♭5)は出現頻度が高い(←論点のすり替えがココ)
●F#m7(♭5)をトニックとするのは無理があり、中心軸システムの見立ては間違っている(誤)


 これはですね、本来Cの調域で見立てた時のBm7(♭5)の位置を本来ならト調の出自のF#m7(♭5)にすり替えてしまっているだけで、これで議論をしようとすると議論のすり替えで全くおハナシにならんのですわ(笑)。いくら出現頻度が高いとしてもそれはポピュラー音楽体系で偶々起こり得る因果関係の事実であるだけでF#m7(♭5)という和音の訪れにハ調を堅持する云われなど全く根拠が無いにも拘らず、そのすり替わりが部分的な転調である事すらも見抜けない頭と耳の持ち主が調的社会に於けるツー・ファイヴの連続で12の調を一回りしてくる一連のシーンでも常にハ調を堅持して音楽を聴いてしまう様な愚行を繰り広げている奇人だという事がお判りいただけるでありましょう(笑)。

 出現頻度云々でさもそれが正解かのようにすり替わってしまっているだけの物で、音楽を理解する以前に国語の方面の論法のすり替えをきちんと判断しなくてはならない問題でありまして、音楽以前の問題なんですね(笑)。

 
 概ね議論が不毛なやり取りに成っている時や膠着している時というのは本質がすり替わっている事がしばしばです。三段論法化させると、どこで論理破綻が生じているのかという事がすぐに判る事が出来る様に、言葉を理解する以前の器楽的な知識も備えていなくてはなりませんが、音楽だけに没頭して言葉の理解を蔑ろにしてもいけません。そうして言葉と音楽の側面から見渡すと、この様な事で理解が遅々として進まぬ者の意図が心底理解できていない物なのか!?唯単に議論そのものを混乱に陥れたいだけの意図なのか!?理解が身の丈に合わずにそれに混乱する自分可愛さへの他者への反抗なのか!?という全てが見渡せるワケでありまして、そうした方面を一望するかの様に雑音など気にせず音楽を理解できる様にならないとネットでの情報収集という選別は一層厳しさを増すのではないかと思います。ただでさえゴミだらけですからね(笑)。


 最近、「インターネットは馬鹿と暇人のためのもの」という本が刊行されました。私はこの本のタイトルが実にキャッチーでとても惹かれているワケですが残念乍ら未読であります。例えばこのタイトルに倣って、強弁を垂れる様な輩の論法に則った場合、次の様な論法も成立しかねません。

※本ブログ記事投稿時から2週間ほど経過して読了。正確には光文社新書刊 中川淳一郎著『ウェブはバカと暇人のためのもの』です。本記事最後にこの本の感想を加筆しておきました。


●インターネットは馬鹿と暇人のための物である(とりあえず正と理解)
●株をやっている者は馬鹿で暇人ある(あてつけにも程がある)
●インターネットを作った者も馬鹿で暇人である(あてつけにも程がある)


 という風になりかねません(笑)。自分を馬鹿、という風に置換しようとしないのはおそらく自己愛から来る者でもあり、暇人を今度は善悪の二者択一で選別してしまう様になりかねません。短絡的な考えしか及ばない者が本当は「馬鹿」である筈なのに、言葉のパラドックスを嗜む様では最早音楽や言葉の本質を理解しようとする欲求から離れて行っている事に等しいワケですね。そこに気付かずに言葉の魔力にハマってしまう様なら抑も音楽をも理解するのは難しいですし、言葉をきちんと理解する事も亦難しいというワケです。


 まあついつい愚痴を語ってしまいましたが、耳に厳しい類のハイパーな音楽の世界観はともかく少なくとも調性社会の枠組み位はきちんと理解しておかねばならないと思われる所に、いつまでも単一の調性にばかり固執している様な考えで頭でっかちになってしまっている様ではとてもじゃありませんが、それだと少なくとも長調・短調それぞれ12種類の情緒を会得するのは何時の事になるのやら!?と気が遠くなってしまうような見立てをしているようでは音楽には不向きです(笑)。


 或る意味、「音楽に向いている」という人というのを私から見るならば、先の三和音の構成音のそれぞれがトニック、ドミナント、サブドミナントと等しく1音ずつ持ち合う体は無いのか!?という風に語っていた様に、そちらに興味が行くタイプの人の方が「向いている」ワケですね。先に語った例では「増三和音」だったワケですが、調的な世界だけの枠組みばかりではなく、等音程やらを視野に入れると他にも1音ずつ持ち合う和音の体ってあるんですね。それが完全四度音程累積の和音ですね。つまり「T、D、S」とやらをひとつずつ持ち合う和音の体として括れば、増三和音も完全四度累積(=三声体)の和音も機能的には等価なのが興味深い所なのです。


 中心軸システムとやらを「図形的」に見ると、結果的にそれは3種類に収まるワケです。例えばC音のみを基準に見れば一目瞭然ですが、C音はいかなる調性であろうとも常にトニックであるワケではありません(笑)。まあ先述にはそういう風に考えてしまいかねないアホな連中も居たりするのですが、その手の連中は放っておきましょう。「機能的」な側面で見れば、トニックかドミナントかサブドミナントのいずれかに収まるワケですので、結果的に3種類のいずれかの体に収まっていると考える事ができるので今回はまず3種類の図形を用意しました。
01tonic.jpg


02dominant.jpg


03subdominant.jpg

 そして今度は完全四度等音程の三声体という風に図を見る事としましょうか。判りやすく先の図形の11時から時計回りに1時迄の範囲を見ていただくと「F - C - G」という三声体を導いている事が判ります。C音がトニックの時は他の構成音がどうなっているのか!?それと同様にC音がドミナントの時、或いはサブドミナントの時、という風に全て見渡すと、12音の分布も自ずと判るようになるワケです。


 翻って、完全四度等音程の三声体を「sus4」と見立てる方というのもとても考えが柔軟な方であります。私は完全四度等音程の類を「便宜的」にsus4として扱う事がありますが、本来sus4とは「掛留」がある体で、収まりの体が他にあるという風に考えてしまう向きもあるので本当は便宜的にも使いたくはない表記なんですが、他に相応しい主流とすべく表記が無い為私自身sus4という表記を忌憚無く扱っておりますが、拡張的な音楽の考え方に於いてはsus4という表記に私は少々疑問を抱いている所がありますが、今それを語っても仕方がないので「意図」についてお判りいただければ幸いです(笑)。重要なのは、増三和音と完全四度等音程の三声体が機能的に等しく持ち合っている所(和声としては全く別物)なのでありますね。



 あまりに調性の情緒にぶら下がっているのも「ベタ」なんで、そんな情緒を中和させるために、増三和音かsus4を使って中和させようとする狙いがあったとします。おそらく曲の情緒としてそれらの和声を使いやすい体系は増三和音の響きよりもsus4の方が「馴染む」と思います。違和感が少ないという意味ですね。


 それではココからが漸く本題ですが、仮にCをトニックとする世界観の仕来りに於いてCをルートとする増三和音「Caug」があったとすると、この構成音は先の図だとC音が赤色の図を選べばイイので、4時の位置がドミナント、8時の位置がサブドミナントとして持ち合っている事が判ります。

 C音をトニックとするsus4は?同様に11時・12時・1時の四声体です。和声的に「進行」させても和音としては全く異なるのでメリハリはありますが、機能的には「等価」です。ココが重要です。「進行」というメリハリを付けたいのか?それとも「等価」という事を拡張的に扱いたいのか!?という取り扱い方で、これらの使い方は全く異なる使い方が可能となります。

 古い進行の仕来りから見たら掛留する四度音が長三度音に収まりつつ、折角そこで留まる事なく五度音を増五度にするという「当てこすり」的な変化のやり方というのは「×」が付きますが、複調由来の仕来りであれば最早こうした「変化音」として出現するその現れを禁則とは取り扱いません。それよりも重要なのは、同様の機能的部分を「等しく」扱ってsus4或いは増三和音のトランスフォームを行う所が最も重要なのです。


 仰々しく和声的に態々「変換」する必要はないのですから、Csus4という和音の登場シーンにおいてアナタが「E音やA♭音」を用いたとするのはアリなのです。但し、通常の和声的な感覚からすればCsus4の現れる所でE音を使うのは凄く難しいと思います。しかし、そうした和音の配置をする作者が掛留の体としてではなく、独立体系としてのsus4を使っているという意図がある場合、Csus4の場面でE音を使う事は許容するでありましょう。とはいえ、全てのsus4に於いて増三和音に置換出来る、というおバカな考えはやめていただきたいです(笑)。sus4しか和声的に与えられていない状況下に於いてどのように他の脈絡を見付けるか!?という風な見立てこそが重要だと言っているワケです。逆も然り(増三和音という和音の体が与えられている状況下でsus4への脈絡を見付ける)です。


 こうした見立てとは別に、私は複調由来の見立てやら色々例に挙げて来ているので、どういう脈絡の見付け方がひとつの答なのか!?という事ではありません。多くの方法があるという事だけで、ある程度自分自身に備わった楽音への偏重的な見方というのは人夫々でありまして、自分自身にとって身に付けやすい見立て方や振る舞い方という物があるものです。私はそうした振る舞いがひとつに収まっておらず幾つかの種類を持っているという風に理解していただければ、他の人がどこかに役立つ見立てもあるかもしれませんという事を謳っているだけに過ぎません。ただし、黒を白だの、白を黒だのと宣う事だけはありません(笑)。

 
 先のCsus4とCaugとの例は、あくまでも和声的な差異感を和声の進行という風に捉えるモノではなく、「機能面」を等しく括る、という側面で等価に眺めてアプローチとして置換するという事なので、決して旧来のsus4やaugのコードを置換可能という事を言っているワケではないのでやたらと身勝手な体系化にしてしまわない様ご理解のほどをお願いしたいと思います(笑)。


 例えば、次の音列に見られる「T、D、S」の音形というのは、C音がトニックの場合、他の音はどういう風になっているのかという事を一望できる物です。C音が「T」の時は3文字列の先頭が「T」であり、他の音も同様に文字列の先頭を見ていただければイイのです。C音が文字列の中央「D」の場合、同様に他の音も文字列中央を見ていただければ各音の機能をどのように持ち合っているのかが判る様になっています。
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 先までの例はG - C - Fの完全四度等音程の三声体を「便宜的に」Csus4として見立てていたモノで、この三声体「G - C - F」という物は下から上に見ると「DTS」という並びとなっている事が判ります。

 同じ並びとなっている他の完全四度等音程三声体を抜粋すると、「E - A - D」「B♭ - E♭ - A♭」「D♭ - G♭ - B」と他に導く事が可能ですが、先の例と同様にCsus4、Asus4、E♭sus4、G♭sus4という風に中心軸システムが短三度ずつ同機能を持ち合う事で先の様に「置換」させて、本来なら縁遠い音を呼び込むアプローチとしての牽引材料として用いる事も可能であります。


 とりあえずは増三和音から同機能のsus4を見出す事で本来なら因果関係の無さそうな両者の和音を脈絡として用いて別のアプローチとして使うのは、和声外の音に加えて調性外の音をも脈絡として使ってはいるものの、機能的な見立ては調的因果関係を頼りにして導いている為、決して当てずっぽうなアウトサイドな音の呼び込みではないのであります(調的因果関係を用いている為)。


 扨て、増三和音を長三度等音程として捉えつつ完全四度等音程も今回視野に入れて語ったワケですが、調的システムに於いてはもうひとつ見逃せない等音程があります。それがディミニッシュの体でありまして、次回からはディミニッシュを視野に入れた等音程のアプローチを語る事に。化学式の様なケミカル的発想で見立てる事が可能な様に知恵を絞って語る予定です(笑)。



 あとがき  中川淳一郎著『ウェブはバカと暇人のためのもの』を読んで  2013年3月から8-12週ほどの加療を伴う足の負傷に伴い、いつにも増してジックリとブログを書いたり読書に勤しんだり出来ており、遅ればせ乍ら私も先の新書に目を通しました。ネットというメディアを信奉するもなく、ネットユーザーの在り方とメディアの活用すべき双方の側面というものを、双方がダメージを受けるほどでもなく巧みに柔和に批判をしている点が冷静に分析していて納得できるモノでありました。ただ、一点、そうした腑に落ちる理解ができぬポジションを見逃してしまって価値観を繰り広げている所が残念な所ですか。  社会的ステータスの価値観を金銭的な階層付けに拘っているきらいがあり、おそらくはクライアントというパトロンの存在を明確化するコトでコントラストがより一層浮き彫りになるからでありましょうが、どんなに社会的なステータスを得ようとも金をどれほど積もうとも得られぬ能力や健康や命という、そうした側面に対峙する層には全く無縁である価値観が基準となっているので、メディアや社会的な立ち居振る舞いに於いて《一般的》で且つ《平凡》であるコトで初めて理解が腑に落ちる論点でありました。こと無形なレベルでの音楽の楽理的背景を繰り広げたりする私の情報発信の在り方は、それそのものが暇人レベルであるかもしれませんが、私の情報が「架空の対価」というもので常に価値を図られてしまう様な見方をされるとしたら残念でありますが、私のブログを継続してお読みになられる方なら、先の新書で語られているかのような括りで見られるコトはないと思いますが念のためご容赦を(笑)。