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72セント幅で作る音階 [楽理]

 足の甲の故障のため身動きが取れずに忸怩たる思いを強いられている左近治でして、走る事はもとより通常の日常生活の行動ですら苦難を強いられている過酷な状況なのでありますが、こういう事態に陥るとあらためて健康や健全という物を尊びるモノであります。まあ、普段とは異なる体の不具合も手伝ってか、頭の中では普段考えが及ばない様なモノを思い立ったりするモノでして、体を思う様に動かせられないが故にDAW環境の前に居座り、72セントステップの五十音階を作ったりしたモノでした。 この五十の音階、1オクターヴでは割り切れません。上行の際、開始音の同音を除けば、九全音(1オクターヴ+三全音)で初めて十二平均律に遭遇し、3オクターヴの同音で漸く50音目。つまり50/3octという音階なのでありますね。72セントの平均律というワケです。


 平均律にも色んな考えがあって、完全音程(四度と五度)にはうなりを生じない共鳴に同調させる音律が望ましいのではないか!?という考えがある事へは私も理解してはおりますが、オクターヴの共鳴以外にはそれほど執着せずに作ってみようという考えでこのような72セント・ステップで3600を分割させてみたワケですが「いろはにほへとちりぬるを」じゃありませんが、五十音を当て嵌めてランダム生成させるのもひとつの面白い手法かもしれません。

 まあしかし確率論というのはその作業そのものが面白いだけであって、五十音と先の72セント幅の50平均律/3オクターヴに当て嵌めた所で、ランダム生成がそれこそ芥川賞や直木賞を凌駕する文章を生成しないのは至極当然の事でありまして(笑)、確率論から生成された物が文学的にも楽理的にも評価される様な「思慮深い」モノが容易く生み出されると理解してしまうのは早計です。

 あてずっぽうにロボットにランダムに50音喋らせたとしても、意味のある文脈が生成される確率を探っていた方がまだ面白いかもしれません(笑)。たかだか5音から組成されているペンタトニックの名曲はありますが、それとてあてずっぽうに作られたモノではなく、ランダム生成とやらは12音技法に当て嵌めるどころかペンタトニックにパラメータを置換させた所で名曲を生成する事は極めて困難だという実際をあらためて知っていただくと、ランダム生成のそれの本当の魅力というのは、調的な情緒の助力でアイデアを生成されていく牽引力に頼らずに「自力で」メロディとやらの真のメッセージを生み出そうとする事に意味があるもので、本来トータル・セリーもこうした調的呪縛からの解放の為のモノであるのですな。


 調的な呪縛に「頼る」という形で作曲をするというシーンをある言葉を思い付くシーンに置き換えた場合を例に取ってみましょうか。「今日明日」という言葉を思い浮かべたとしましょう。大概の人は「今日」と「明日」という熟語の意味を知っていてそれが重なると大体次はどういう言葉が来るのか!?という事を「経験則」で捉えています。この経験則が生じて本来無い「次」の到来をなんとなくイメージする事で、次の語句を色々生み出すワケですね。唄の歌詞であれば「今日明日」というフレーズが来たら、その後に「おやすみ」という言葉が浮かんだ事で新たなメロディーを生む「牽引材料」として使う事にもなるワケですが、この新たなメロディーは大抵前フリである「今日明日」と脈絡の深い或いはその同一の調性内に生じる音並びなのでありますね。こういう場合は確かに前後の関係は保ってはいるものの「調性」という因果に頼って凭れ掛かって生じた音並びでもあるんですね。

 それを考えると調性の脈絡すら突拍子も無い音をイメージして、それらを連結して音楽にしようとするととても難しい事がよく判ると思います。つまり、調性の呪縛と、どこかしら何かの因果に頼ろうとするメロディーの発端とやらも希薄にするのは非常に困難な作業であるはずで、十二音技法は言葉としての意味も希薄な物を目指そうとする物であるのかもしれません。

 つまり、我々が普段実感している音楽の大半は、言葉の前後の経験則と聴き慣れた感のあるリズムやら調性に頼った聴き方をしているという事がわかります。作曲を志す人でアイデアが乏しいというのは、こうしたあらゆる面でのボキャブラリーに乏しい状況に陥っているのだという事が判るかと思います。


 72セント幅の音階から端を発する事に依って原点を見つめる、という風に解釈していただいても結構です。器楽的な意味合いでの「動機」という発端という物は、砂漠に突如オアシスが脈絡も無く現れる様なモノではなく、実際には何かしらの因果関係が絡んでいるワケでありますが、コレが時に邪魔をする事もあるので払拭した時の動機の発展方法もある、という違った角度からの解釈を得るという理解だけでも先ずは十分だと思います。

 
 今回用意したデモは、3オクターヴに渡って72セント幅の「半音」が続きます。C音から3オクターヴ上のC音迄というモノなのですが、C音以外が平均律の他の音に遭遇するのは九全音(1オクターヴ+三全音)のF#と、3オクターヴ上のC音以外では全て平均律からズレます。C音とF#音の「応答」をイイことに、後に三全音でハモる弦のサンプル音源が入って来ます(笑)。

 お時間のある方なら是非試していただきたいのは、例えばC音から3オクターヴ上のC音へ72セント幅で音階を作った場合、そこに平均律のC音をペダルにしたりF#音をぺダルにしてみたり第二次対蹠点であるE♭音やA音をペダルにして一緒に弾いてみて下さい。こうした微分音に耳が慣れていない時は、平均律のオクターヴに近似する音(この場合3オクターヴに遭遇する前の1&2オクターヴ上のC音)が現れた時、ペダルノートに最も近しい音と接近する時、脳の逡巡が起こります。ペダルノート側が72セント幅側の世界の音律にピッチを合わせようとするのです。徐々にこの「音律」に慣れると脳の逡巡は消失します。
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 つまり、こうした脳の逡巡が消失した時こそが「経験」なのでありまして、この感覚に対してもっと鋭敏になれば更に興味深い作用を演出する事も可能であると言えるでしょう。これは今回例に出した72セント幅に限らず、微分音に総じて言える事です。但し大抵の微分音はオクターヴ内での分割と転回を視野に入れているので脳の逡巡を体得する事は難しいので、敢えて今回こうした例にしているワケですね。

 
 こうした1オクターヴでは分割しきれずとも数オクターヴに跨がって生ずる平均等分律に於いても、「割り切れる」事に依って生じる奇妙なシンメトリカルな構造がある事に気付かされます。例えば九全音の間に生ずる微分音を「絶対値」として見た場合でも12音毎で「絶対値」はリフレクトするという鏡像関係を生み出しますし、どこかにシンメトリカルな構造がある、という事をあらためて強調したい理由というのがありまして、実は先にもバイトーナル和音やらでも語った様に、多調が齎す和声というのは、或る安定的な和音にぶら下がる形でそれに付随するかの様に調性外の音を「捕捉」して来るのであります。捕捉して来た時の形をあらためて見ると、マクロ的な形ではシンメトリカルな構造を見付ける事が往々にして起こるのであります。


 ペレアス和音にしてもマイナー・メジャー9thの和音を包含していて、マイナー・メジャー9thという和音は自身の5th音を基準にして上と下との音程関係が鏡像関係になっているというシンメトリカルな構造を持っているという事は既にお話した通りです。こうした数奇な状況から導き出される答というのは、調性外で生じた音の魅力というのはどこかにシンメトリカルな構造を持っている事がある、という所に気付いてもらいたいワケです。勿論シンメトリカルな構造としてなるべく成立しない様な和音の成立も起こしたりする事は可能ですが、和声的な色彩を応用する場合往々にしてシンメトリカルな構造が視野に入って来るのです。


 例えば今回用意した72セント幅の音階を用いたデモに於いても、ペダル音との微分音上行のフレーズとの間には脳の逡巡は起こりにくく作用しているのは、背景のカウベルやブロックの器楽的な音程感に支えられている為脳の逡巡が起こりにくいのです。そこで「自分自身で試してほしい」とお願いしたワケは、脳の逡巡を体得できるのは、そうした下支えの極めて少ない状況での構成に於いて起こる現象なので敢えてこうしたデモでは作りたくなかったというのが正直なキモチです。大事な感覚を此処で不完全な状態で維持していた方が後々良い経験となるであろうという配慮であります(笑)。


 脳の逡巡を起こりやすい状況にするには、背景のペダル音はC音かF#音のいずれかにした方が宜しいでしょう。それ以外の音は現れないようにして行くと面白い現象が起こると思います。脳の中で強制的に「聴き慣れた」音律を補正しようとしてしまう力を実感する事ができます。しかも「補正」の力は72セント幅のフレーズを補正しようと働くのではなく、音の変化が少ない方の音、すなわちペダル音として使う音のピッチが補正されようとしてしまう力を体感できます。それが一瞬で終わるのは、72セントフレーズの音程が補正しようとするとまた別の方角へ動き、もしかすると共鳴的な音(完全音程や三度/六度音程)へ「ぶら下がる」事が出来るのではないか!?という推測から脳が補正をやめてしまうのです。


 今回のデモではカウベルが10音毎に鳴る様に仕掛けてあるのでどこか九全音かという事もカウントしていれば自ずと判る様にしておりますし、ブロックの音も5音毎に鳴る様にしておりますので追い掛けやすいと思います。


 あらためて強調しておきたい事は、平均律とは異なる独立体系での微分音を生ずる音の空間が重要なのではなく、平均律+somethingという形で、ある一定の強固な仕来りが必ずあって、そこで規律の外にある音を少しずつまぶす事で色彩感が増す、という事の方が重要だという意味なのです。

 馬鹿げた喩えを挙げますが、例えば、427.5Hz辺りで調律したハ長調というのは現在のハ長調から50セント低い「変ハ長調」の姿であり、これはピッチの低いハ長調やピッチの高いロ長調ではない!!と強弁しても誰も相手にはしません(笑)。微分音の世界をレコメンドするというのはこういう事ではなく、安定的に用いる強固な仕来りは、平均律や平均律での長和音やら、なにかしらの和声的空間は必要とした上で、そこで音律外の微分音をまぶす手法が受け入れられて来ているのだという事を「実感」する事が重要なのであります。

 しかし、427.5Hzのピッチでのハ長調が440Hzのハ長調とほんの少し性格が変わるという程度の実感があってもそれはそれで良いのです。17世紀にはプレトリウスの提唱に依りコンサート・ピッチの標準ピッチは424.2Hzとされておりましたので、440Hzでの音律と同じ調でも四分音以上離れている(三分音に約4セント及ばない)というのが現実です。ひとつのアンサンブルが440Hzのハ長調を弾いていて、もうひとつのアンサンブルが427.5Hzのハ長調を「併存」させての「複調」を生じさせるオーケストラがあったとしたらこれはこれで別の枠組みでの面白い挑戦かもしれませんが、427.5Hzやらのハ長調の空間はほんの少し違うだけで単体ではやはりハ長調なのだ、という事を理解していただきたいと思います。若干色合いは違えど、単体で使えば考えるだけムダです(笑)。

 因みに、平均律の空間では変ハ長調もロ長調も全く同じですので混同せぬようご理解くださいね。「変ハ長調」というのは古典調律でなければ概念的な事であり、その概念的な世界を指し示す上で「なるほど、ロ長調とハ長調の間か」という「共通理解」で用いたりする、あくまでも概念的使用での言葉なので、平均律の何処に「変ハ長調」があるのか!?という事を探るのは馬鹿げた理解なので、その辺りを混同せぬようご理解くださいという事ですね(笑)。

 逃げ水をいくら追い求めてもオアシスは登場しませんし、不毛なやり取りは徒労に終わるのが関の山。君が代も本来はスコア上では「変ハ長調」で書かれていたというのですから滑稽なものです。謙って半歩下がっていようともスーパートニック(=上主音)で終止するのは世界を見渡す為の高見の見物という隠された意味合いなのか!?実に深いですなー(笑)。私のブログ上で仮に「Hisisis(=B###)」という表記を見たら、それはH音(=英名B音)より25セント高い音を指している事を「概念的に」語っているのだな、という風にご理解いただければ幸いです(笑)。あくまで「概念的な」表現であるため、必ずしや正確な微分音を語る時以外では「目くらまし」程度の表現として使っている事もありますがその辺だけご注意いただければ更に助かります(笑)。

 ま、何はともあれ微分音を視野に入れる場合は、微分音の仕来りを独立体系で用いるのではなく、強固な音律や和声空間を基にした上で使うという事の方が重要なのだという事をあらためて強調しておきたい部分で、これだって戦前・戦後辺りから模索されている手法だったりするんですけど、ポピュラーな理解になるまでは時間を要するのでありますね。次回はウェイン・ショーターの例に倣った等音程和音の話題になりますので、等音程やら等分平均律やらシンメトリカルな構造については頭の片隅に常々置いておくと理解が早まると思われますのでご注意を!