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Out Of The Ghetto/ドナルド・フェイゲン 「Sunken Condos」考察 [スティーリー・ダン]

 扨て「Out of the Ghetto」を語るワケですが、その前に前回のブログ記事にて語っていた「The New Breed」の話題をほんの少しだけ引っ張ると、「The New Breed」の曲の一番最後のコードは「D♭7(#9、#11)」なので、こうした「本物の」オルタード・テンション・サウンドを聴かせる所は、このアルバム主人公が思い描く嘗ての思い出やらを鏤めたかのような演出がされている様に私には思えるのです。勿論ドミナント・モーションという方向も避ける様な異端な方面の姿も併せ持っているため、主人公がそうした2つの世界を彷徨う感じが音として演出されている様に私には思えてならないのであります。
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 こういう「ジャズの語法」に耳慣らされた世代であるならば「The New Breed」の曲の一番最後の先のコードは懐かしく感じるモノなんですよ。私はついつい11PMの番組オープニングタイトルの一番最後のコードを想起してしまうんですね。
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 11PMのあのコードは「F7(#9、#11、13)」というコードで先の「The New Breed」とは少し違うものの、11PMのあの曲って確かに私の過去のブログでも取り上げた事がありましたが、あの記事で間違っていたのは最後の当該部分でアコベがハーモニクスを鳴らしていると書いていたんですが、アコベはダブルストップを使っておらず、ただ単にフルアコの純朴な音だという事が今更乍ら判明できました事をお詫び致します(笑)。あの曲は巨匠猪俣猛オールスターズに依る演奏というモノ(男声:岡崎広志、女声:伊集加代子、他奏者不明、作曲:三保敬太郎)だそうでして、少し前の題名のない音楽会に於いて山下洋輔が出演して私はあの放送で初めて「る*しろう」を知ったのですが、まるで日本におけるヘンリー・カウの様なバンドなのですが、名前を耳にするだけでも懐かしいという事に加えて、懐かしい耳慣れたジャズの語法を耳にした日には、さらに懐かしさというキモチは増幅すると感ずるワケでございます。

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 更に補足しておくと、同様のコードは小野リサの「Catupiry」の曲の一番最後のコードも同様でD7(#9、#11)でナチュラル13thをCPと思しきピアノがさりげなく弾いているのも顕著な例ですな。余談ではありますが、私は彼女の同名アルバムでも耳にする事のできるベース、ルイゾン・マイアの音はかなり好きな方でして、故ゲイリー・キングをも思わせるような音という所がその理由のひとつ。

 アトランシア・ユーザーであったゲイリー・キング、実はジェントル・ジャイアント・フリークでも有名で、ボブ・ジェームスとの共演が有名な所だったりしますが、実はジャンルを全く異とする方面にも明るかったのは有名なハナシでありまして、そんな人の音についつい投影してしまう事もあって、ルイゾン・マイアという人には注目していたワケであります。ルイゾン・マイアも日本のメーカーであるTUNEのTRBを使っていたりしていたのですから、日本製のベース使いという所も共通していてついつい取り上げたくなってしまったんですなー。横道逸れてゴメンナサイ(笑)。

 そこで「Out Of The Ghetto」を語るのでありますが、今作唯一のカヴァー作品でしてスティーリー・ダンはおろかフェイゲンやベッカーの各人に於いてもカヴァーするという事はとても稀な事だと思いますが、イケイケなノリでクラビの音でグイグイ来る所が郷愁を誘う音と言いますか、やはり店訪れたらジューク・ボックスで掛けたい曲選んでという、あの時代の嗜みを思い起こさせるモノなんですな。勿論フェイゲン達もそうした狙いがあってこそこうした音作りであるのは明白です。ホントにベタなAOR系やらソウル・トレイン全盛辺りの音ですね。1・3拍目の8分裏で鳴らされるギターのダブル・チョーキングがあまりにも絶妙にエグい位にハマり過ぎて歯が浮いちゃいそうな位なんですが、この曲、実は歌詞でも結構社会的にエグい方の事を唄っていたりするんですな。


 扨て、歌詞の冒頭から用いられている「welfare」。この単語の扱いについてはつい先日にもツイッターの方で呟いていたのでありますが、嘗て私が米国人と話している時に私の友人の話題になった時があって、丁度職業のハナシをしようとしていた所、私の拙い英語力では彼の職業を言い表す言葉がなかなか思い付かなかった事があったモノです。とりあえず「社会福祉全般に関わる・・・」位の説明はしたかったのですが、私は「福祉」だけに食い付いて唯単にぶっきらぼうに単語だけで「ウェルフェアだよ」と言った事がありました。

 そして別の日に私の友人とその米国人が直接会う事がありまして、米国人の彼はあらためて彼に職業を尋ねているのでありますな。そして訊ねてすぐに私の顔を見て「言ってる事全然違うじゃねーか!」っていう驚きの表情をされてしまった事があったんですね。私は後にそれがトンデモない理解だったという事をあらためて気付かされるのですが、英語では単純に「welfare」と言ってしまうとこれは世俗的的な生活保護の意味になってしまうようで、仮に「He is on welfare」だと彼は生活保護である、という意味になってしまうのですね。私はonを使っておりませんでしたが通常はそのように受け止められてしまうようです。だったらただの事務員として説明しておいた方がよっぽど良かったのでありますね。


 とまあそんな嘗ての一例を引き合いに出して見たのですが、歌詞に「welfare」と出て来る所に、30年以上も前の曲にもアメリカではこうした事が歌詞にされ、現在あらためてこうした側面を強調するのは日本だけの事ではなく最早世界もそうなんだなー、とつくづく感じさせるワケですな。勿論国内のそれは年金制度の信用不安から生活保護に安易に頼ってしまう人が居るというような魔女狩りの材料にされているきらいがあって、本来なら年金制度や雇用の充実を国がやらなければいけない筈なのですが、そこが先細っているため好転しない側面があると、2012年10月22日付の朝日新聞社説に於いてもタイミング良く語られていたモノでした。


 米国社会というのは、私にも知人がおりますので色んな側面を訊く事ができるのですが、彼らの社会では医療が日本よりも遠くて高いモノで、兵役に従事する人はかなり近い所にあるというのも私が感じる特徴でしょうか。一般の人で、例えは悪いかもしれませんが平均よりもやや下という程度の生活水準の人達からすると、仕事も少ない中での兵役というのは魅力的であって、兵役がそうした社会の受け皿になっているという側面があるというのも私は知人から知った事です。軍隊に従事するのは勇気も必要だが免税される物は多く、サラリーが民間水準と安くても免税される物が多いから意外とまともな暮らしができるのだという背景を知らされたモノです。
 

 然し乍ら日本には自衛隊があったとしても決して失業者の受け皿にしようとは思ってはいないでしょうし、自衛隊ならばもっと活力のある健康な人材を欲するかもしれません(笑)。国がそのまま働き口を創るとなったら「それってどこのソフホーズ!?」などと揶揄する人も出て来るでしょうが(笑)、朝日新聞の社説が言いたい事は国が労働者を囲うくらいの策を整備するべき、という事だと感じたワケです。そこには社会主義とか資本主義とか無関係に「労働と福祉」の前提が崩壊されている事を朝日新聞の社説では嘆いているワケですね。今でこそ朝日新聞はどこぞの右に振れた人達からは揶揄されたりするものの、戦前は日本海軍と蜜月の関係にあったという事をどれだけ知っている人がいてそういうレッテルを貼っているのだ!?と疑いたくなりますけどね(笑)。第二次大戦中は軍用機だと敵に狙われてしゃあないってぇんで朝日新聞の社用機を使って軍幹部は空飛んでたっていうんですから(笑)。そうした過去の揺り戻し程度に考えればイイものを嘗てはアカだった人が日本で一番読まれている新聞のボスというのも笑止千万じゃあありませんか、日本という国は(笑)。

 レッテル貼ってるヒマあるなら目先の物きちんと白黒ハッキリさせて判断しろと言いたいワケですな。それは音楽でも同様。童謡なら俺にも判るっていう様な童謡の意味じゃないですよ(笑)。童謡ですら旋法的に嘯くことなど沢山例があるのに、馬鹿共は音歪んでたりエレクトロな音とかじゃないと食い付いたりしないモンですわ。初音ナンタラだの女子キャラが先にないと音楽脳にスイッチが入らないドスケベ脳の持ち主とかね。

 政治や行政が財界に靡くのは今に始まった事ではありませんが、日本だけでなく世界の投機筋が同様の動きなので同じ様な問題を抱えてしまうようになる。AORを懐かしむ頃の時代のエリッヒ・ヤンツは経済を語るにあたって資源関連に触手を伸ばしてはならないと提唱しておりましたが、今やあらゆる資源関連はハゲタカの恰好の餌食とされているモノです。行政やらもサブカルキャラに靡いているのが現状でしょ、日本では。知恵使って一部の人間の鶴の一声で誰もが悦ぶ事のなさそうなサブカル系に予算つぎ込まれて弱者を魔女狩りに使って「こんなにミジメになりたいか!?」とばかりに生け贄にされる芸人を行政側がそんな人達のプライバシーを提供している様な世の中ですからね。日本という国は選民意識に依って誰もがエリート意識備える様になってもせいぜいサブカル方面に活路を見出す程度のゲットーに成り下がり、弱者を増やしてもゲットーになるのならばどちらがイイのか!?というハナシにもなりかねません。サブカルはアレだけど、音楽聴いてるだけで平和になりゃあしないってのも事実ではありますけどね(笑)。
 

 目先の出来事に目を背けたり理解が及ばないのは誰もが備えてしまっている悪癖とも言えるかもしれません。そんな側面に近似する社会的な方面での目を塞ぎたい部分を忌憚なく現在においても取り上げる狙いがあっての事でのカヴァーだったと私は信じてやみません。曲のテンポは「I'm Not The Same Without You」に準ずる様に疾走感に富み乍らも覚醒した感は少なくなっている様に比較する事ができると思います。


 一聴すればすぐに判るのがフレディ・ワシントンのベース・プレイ。嘗てのパトリース・ラッシェンの時代を彷彿とさせてくれるような頃の音。しかもこの音はどちらかというと是亦74、5年頃の時代を思い起こさせてくれる当時のデヴィッド・ハンゲイトのPBにロト・サウンドのニッケルのフラット・ワウンドを張っている時のようなゴリゴリ系ファットでエグい音を彷彿とさせてくれるのが実にイイんですな。これがJBの時は指板はラウンド貼りでないとゴリゴリ感が失せてしまうというゴリゴリの音。もう、この音聴いているだけで私は垂涎モノなんですが(笑)、楽理面で強調すべき点は曲中盤で現れるブリッジのフレージングにカノンが用いられている所ですね。8分音符1つ弱起で入って来てその後8分音符が5つ続く計6つの音形。

 これが更に2つのフレーズへとカノンに依って演出されるのですが、カノンを用いて複雑な和声を演出しようとする狙いの方ではないものの、曲そのものが持っている情感だけで終始演出できてしまいそうなアレンジに更にエスプリを利かせている所にメリハリを感じ取れて、飽きの来ない演出になっているのが判ります。

 で、このカノンとして用いられている最初の追行句の方はポリトーナルを演出しておりまして、曲の調性そのものはロ短調(=Bm)なのですが、下声部にEハーモニック・メジャー・スケール、つまりEメジャーの調域ですがEメジャーが混合長旋法として短調を包含した雌雄関係にあるかの様にホ長調の姿を短調っぽく変容させた長音階へと姿を変えた旋法とハモっている、というのが最たる特徴でありましょう。
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 通常、キーのBmを強く感じていれば、C音の発生というのはなかなか起こり得ないモノです。それこそBmのキーをBフリジアンに嘯くような時ではない限り、♭2ndの音を与える動機付けはなかなかしないモノです。勿論、上声部の調的な牽引力を利用して下声部で嘯くのでありますが、この手法はジェントル・ジャイアントのケリー・ミネアーに近いモノです。

 因みに、下声部に「Eマイナー」を想起しても構わなくはありません。但し、基の動機がBドリアンの特性音であるナチュラル6thも想起し得る状況で下声部をEハーモニック・マイナーとして捉えるだけだとBマイナーという調域で使っていたナチュラル6thと整合性が合わなくなり、もうひとつの調域でさらに紡ぐかのように発展しないと混紡が上手くいかないだろうという判断から私は断腸の思いで、上声部Bハーモニック・マイナー&下声部Eハーモニック・メジャーという風に判断させていただきましたので、あらためてご理解いただきたいと思います。
 
 とはいえ当のご本人達がどのような解釈でアレンジをしているのかまでは判りませんので、そうした部分は推測に依るモノですので、確定せずに言及にとどめておいた方が良かったかもしれません。旋法的な嘯きというのは他にも幾つかの可能性はあるもので確定には至ってはおりませんが、可能性の高い所から語っている事を念頭に置いてご理解願いますようお願いします。

 私は「Out of the Ghetto」の原曲の方は聴いた事がないので詳細までは判りませんが、元のアレンジなのか今回このようなアレンジが誰が手掛けたのかは無関係に高く評価できるものでありまして、しかもさり気なさが心憎いですね。こうした手法をこなせる所に、あたかもベッタベタの曲の情感にメリハリを与えているという事がまざまざと判りますし、主人公の捉えている世界観、それは通り一遍の事は熟知して来ていても嘗ての昔の経験に投影してしまう懐かしい出来事を現在の自分に当て嵌めつつも、現在の状況に満たされていない部分を直視したくないのか、それとも直視したい部分だけをフィルタリングして知ろうとしているのか!?という逡巡がとても巧みに投影されている様に思えるのです。その主人公の「現実の受け止め」としての動機が若い女性である事は明白なんですけどね。

 その女性に恋心を抱こうとも相手の心があっての事なのでそうそう上手くは事が運ばない(笑)。そうして猜疑心ばかりが増幅して来てアルバムも終わりの方へ進んで行くという、こういう人生の「老い」と社会の「衰退」という物がとても上手く反映されているなと痛感させられる事しきりなんですね、今作は。私個人では今作はナイトフライよりも数多く聴く事のできる名アルバムになるだろうと踏んでおります。カヴァー作品において最も聴衆を注意深く聴かせようとする狙いを持って来ている所に、フェイゲンが聴衆に対して「惰性で音楽を聴くなよ」とメッセージを送っているかのようにも思えます。今作を皮相的に「カヴァー作品なら興味ねえや」とか言いそうな人なんてそれこそツイッターで呟いていそうじゃありませんか!?(笑)。