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Miss Marlene/ドナルド・フェイゲン 「Sunken Condos」考察 [スティーリー・ダン]

 扨て、曲冒頭のイントロ部のコード進行は、それこそロドニー・フランクリンが弾いていてもおかしくない位洗練された感じに聴こえて来ます。それはおそらく脈絡と親近性の希薄な調域へコードが移ろう為に、先を予測しづらい情景に惑わされ乍らも、こうしたコード進行に少々耳が慣れて来ている人達はジャイロが追従するんですね。その移ろい感覚に酔いしれるワケですね。


 通常SDの作品というのはイントロで使った進行は再び曲中で現れる事が少ないので、「コレだけに使うのが勿体無い!」と言われる事が多い位SDは印象的だという事があらためて判ります。

 コード進行そのものは次の様に表す事が出来ますが4小節+2小節で一括りという進行になっておりまして、リズム譜では次の様になります。

 B♭m7(on E♭) -> GM9 -> BM9 -> F#M9 -> DM7 -> B♭m7(on E♭) -> GM9 -> BM9
MissMarlene_fixed.jpg


 とまあ、こういう表記ですが私のブログを継続して読まれている方なら、「アレ!?左近治ってIIm7 (on V)系の表記嫌ってたんじゃなかったっけ?」 →  ※IV6 (on V)の表記を好むという意味

 と疑問に思われる方もおられるかと思います。私もケースバイケースで語っているのですが、基本的に私は先述の様に後者の表記を選択していますが、今回は敢えて前者の表記にする狙いは他にありまして、こうした脈絡の希薄なコード進行が齎す調性逡巡した様というのは「何処にジャイロが働こうとしているのか!?」と考えてもらいたくて、原曲のそれとは全く別の側面なんですが、後に語る事になる「六極応答」の応用例みたいにこの機械にご理解いただけると助かるかなー、という風に企てている上での「狙い」なワケです。


 調性そのものを「平衡感覚」と見立てた場合、三半器官からすれば身を委ねられるジャイロとしての方角が早く欲しいモノですよね(笑)。つまり、脈絡の希薄なコード進行というのは、この場合六面体であるサイコロがコロコロと転がっている最中だと思っていただけると助かります。

 まあサイコロというのはあまりにもザックリとした表現なので、和音そのものは触手をいくつか身にまとっている分子構造のようなモノとお考えいただけると助かります。花粉シーズンになりますと分子構造がレセプターにピタッ!とハマるCG画像とかあるじゃないですか!?あーゆーのをイメージしていただくと助かるんですな。

 そして、レセプターにズッポシ嵌った時が一種の安定した時の様子でありますが、先のコード進行のひとつひとつを「触手」と形容した場合、最低音は次の譜例の上段の様にE♭ -> G -> B -> F# -> Dという音列を描いている事が判ります。でも譜例にはその先に「B♭」もあるけど!?という疑問もあるかもしれませんが、それはこの一連のコード進行の「接続先」としての「強固な脈絡」として見えて来る音でありまして、一連のコード進行をリピートすれば1つ目のコードの上声部に現れる根音に接続する音でありますし、この一連の進行が次のパターンのGマイナーに接続する際のトニック・マイナーの短三度音だと理解してもらえると助かります。

 この曲がGマイナー・キーに接続する際は、直前のBM7の5th音であるF#が導音となってG音に接続しているのが曲中では顕著ですが、和声的には接続する「触手」は他にもある、という視点で捉えていただきたいワケであります。


 扨て、先の一連のコード進行の「最低音」を抜粋していたのは理由があります。これらの抜粋した最初の5つの音「E♭ -> G -> B -> F# -> D」は、混沌とした状況で全てが一様に混ざっている状況だと想定してみて下さい。そうした時、時間軸も関係なく互いに結び付けあって「和音」を構築させようとした場合、構築しやすい和音として想起しやすいのは次の通りです。

E♭aug + F#、D

 という音になります。B♭音はリピート時と次のパターンへの接続先として表した音でもあり、その音を異名同音の「A#音」として付加させると、長七度違いで生じる増和音が2つ生じるようになります。つまり「E♭augとDaug」が見えて来る様になります。


 でも、こうした長七度=半音違いの増和音同士というのは何処かで長三和音という安定形を作ろうという牽引力も備えてしまう物で、メシアンはこうした方への牽引力を調的な力を見出して曲を構築するのでありますね。

 で、この時点ではE♭aug(E♭、G、B)とDaug(D、F#、A#)という和音ではあるものの、それは結果的に「E♭△ + Bm」というメジャー・トライアドとマイナー・トライアドに変容する牽引力が生まれるのであります。その理由は同じ音を構成音とする長和音を基本とする方に音が調和しやすくなるためです。



 そこで譜例で下段に示してある和音をそれぞれ弾いてみると、構成音そのものは異名同音で等しいのにも関わらず、音高が転回されてはいても趣きの異なる和音として捉える事が出来る様に認識できると、「多調な耳」という風に捉える事のできる世界観を備えて来ると信じてやみません(※最高音であったA#音がオクターヴ下のB♭へ転回しただけの物ではあっても別の響きとして認識するという意味)。
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 こうした和音だと耳が未習熟な人には強烈な不協和を生じるので、それを避けるために横軸方向に音符を「アルペジオ」で下から上に弾いていただくと和音というよりもフレージングのように耳に馴染んで来るので、ガツン!と白玉で弾くばかりでなくアルペジオでバラけて弾いてみると、こうした難しい和音の情緒が判りやすくなるかと思いますのでお試しあれ。


 先述の「E♭△ + Bm」というハイブリッド・コードは、これはもうレンドヴァイ著の「バルトークの作曲技法」をお読みの方ならすぐにお判りになるかと思います。同著のp86に紹介されている「ドゥアモルの和声」と同様なのであります。ドイツ語圏では長調を「dur=ドゥア」短調を「moll=モル」と呼ぶ事は、一般的な国内の学校教育に準えた場合高校生以上ならばご存知かとは思いますが、長和音や短和音を表す時も同様なのでこのように「ドゥアモル」という風に呼ぶのであります。

 こうしたドゥアモルの和声に「解体」できたように、ドゥアモルの和声の最大の醍醐味というのは両者の構成音それぞれに半音で隣接するように成立しているのであります。私のブログでもこうした事を語っているのでありますが、いかんせん突飛で難しいのか比較的目を通されていないように思える所がありまして(笑)、ドナルド・フェイゲンなら多くの人が食い付くであろうからそういう時についでに語った方が効果があるだろ、という狙いもあって今回こうして語ったワケです(笑)。


 「フェイゲン自身はドゥアモルの和声として使っていないのだから取り上げる必要はないのでは!?」と思われる人もいらっしゃるかもしれません。確かにフェイゲンはドゥアモルの和声としては使っておりませんが、コードが進行していく方向は紛れも無くドゥアモルの和声に見られる「触手」の方角を選んでいる事は偶然ではないでありましょう。ドゥアモルの和声として構築される六声の音が白玉でガツン!と鳴らされるばかりが和声感および複調のシーンではありません。上と下の声部で異なる調性を併存させている時、例えば今回は上声部にEs dur(=E♭=変ホ長調)と下声部にH moll(=Bm=ロ短調)という状況も視野に入れて「複調」というシーンをこれを機に体現してもらいたいというキモチもあって取り上げているのです。

 私が表現している「接続先」というのは、調性感覚としてジャイロの針が示している方角の事を示しているのでありまして、調性外の方角であるノン・ダイアトニックの進行というのは得てしてダイアトニックな方と比較すると脈絡は希薄なモノです。が、しかし、そうした脈絡が希薄な側も足跡を辿ると、そちらの世界がどういう道筋を辿ろうとしていたのか!?という事が判るかと思います。つまり、今回提示している6つの「触手」としての接続先は、私はそれらを全てひっくるめた世界観にて形容しておりますが、フェイゲンのそれはひとつひとつ時間軸に則って道筋を辿っている脈絡、という風にお考えいただけると、進行させることに依る世界観という事があらためて理解できるかと思います。


 扨て、「E♭△ + Bm」というそれぞれのコードの構成音は互いに半音音程で隣接し合っているワケで、ペレアスの和音(2つの長三和音が長七度離れて併存)という物もそれぞれの構成音は半音音程で隣接し合っておりますが、ドゥアモルの和声とは若干違います。どういう違いがあるのか!?という事を今回あらためて明記しておく事にします。


 次の譜例の最初の小節部分を見ていただくと、下声部にE♭メジャー・トライアドに加えて上声部に「F#、D」という2音がある5声の状態であります。ここから発展可能な6声のハイブリッド・コードとして想起し得るのは上声部にA音を加えた時がペレアス、上声部にH音(英名=B音)を加えた時がドゥアモル、という事を意味しております。

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 つまり、「Miss Marlene」の先のコード進行の進み具合の主音(分数コードの場合は最低音)を抜粋した時、素材をひとつずつ並べたモノが先のフェイゲンの例で、これらをすり身の様にして混ぜこぜにした時は、こうした音たちが混ざり込んでいるとお考えになっていただくと、集積し合った複雑な和音をひとまとめに聴くのか!?それとも判りやすくバラバラに断片的に聴いていくのか!?という、ハイパーな世界観に於いても2種類の見立て方があると言いたいワケです。

 冒頭のコードをD♭6/E♭と捉えずに「B♭m7(on E♭)」と表記する狙いも「B♭」の脈絡が必要だからこそ今回この様な表記にしているという事も併せてお判りいただけたかと思います。

 フェイゲンが今回「Miss Marlene」で用いているこの手法は徒にコード進行させているワケでもなく、こうした音関係を包含したモノだという事でハイブリッドな形として見立てるとこうして見る事もできるという意味なのです。ごく普通にこうしたコード進行を「やり過ごす」場合、フェイゲンの歌詞にある通り、嘗ての情景を思い浮かべる様に幻影の様な光り輝く女性の姿を見るのかもしれません。そこに脈絡が希薄な「音」が鏤められる事で、現実と嘗ての思い出が交錯する様が非常によく表現されている様に思え、曲としてはシャッフル・ビートなので「I.G.Y.」やらついつい想起しそうですが、私はこの曲全般に弾かれる泣きのギターに、どうしても幻想の摩天楼の頃を思い出してしまうんですな。しかも、この「Miss Marlene」、特異なコードなど抜きにして一般的な目線でもかなりの名曲に仕上がっている曲だと思います。曲の情緒の深みそのものは「Home At Last」に投影できるほどです。

 この曲の様に特に難しく曲を捉えるまでもなく作品の良さに惹かれるのは「Weather In My Head」もその部類でしょうね。細かく聴けばどの曲においても調性を嘯く所はあるのでそれがSD関連の人達特有の事なので今更言う事でもありませんが、いずれにしても一般的な目線で見ても「ド」が付くくらい叙情性タップリの唄モノ系の曲という振れ幅も今作は併せ持っている為、難しく聴ける所とカンタンに曲に身を委ねる事のできるそれとのメリハリが絶妙で、弛緩しそうな時にも必ず緊張を忘れる事のなりメリハリが常に用意されている所が心憎い所でもあります。じっくり各楽器に耳を注力してもそこにはやはり納得してしまう良さを備えているという。特異な音の方面も聴き手に忌避されぬ様に忍ばせる。この曲に限らずですが今作は本当にお見事です。


 まあ、こうして「Miss Marlene」を語って来たワケでありますが、これだけ身を委ねて聴けるような曲であるにも関わらず、調味料の使い方が巧みと言いますか、マニア心をくすぐる楽理的にも高次な方面で判断出来る所を忍ばせているという事が冒頭から語っていた事であらためてお判りになるかと思います。