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Big Swiftyに秘められたモノは [楽理]

 とまぁ、前回の続きを語るワケですが、つまるところ、ドリアン一発系の類に用いられる2コード・パターンというのは、ヘプタトニックにおけるドミナントがトニックへの解決を目的としない事を重要視している動きなワケですね。その2コード間では四度進行しているけれどもその先が無いという在り方なワケです。


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 扨てココで今一度、先日例に出したフランク・ザッパのアルバム「Waka/Jawaka」収録の「Big Swifty」におけるジョージ・デュークのエレピ・ソロにおける「A△/F/E」という、分数の分数コードとも呼ぶべき表記にあらためて注目していただきたいワケです。今回はそうした特異な和声の成立を譜例にしてみました。

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 確かにこのコードは、わざわざ3層構造で表記せずとも「FM7aug (on E)」という表記で済むものなのかもしれません。しかしそうした表記にした場合、ただ単純に上声部のFM7augから半音クリシェとしてE音が「剥離」してきただけのようなアプローチを捉えただけかのように誤解されかねないので、敢えて「A△/F/E」という表記にしているのです。

 「Big Swifty」の、先のモチーフである重要な主従関係で例えると、Eが「主」であるため、E音から見た短九度方向に対して豊かな和音の世界が拓けているかのように存在するワケでして、隷属支配となる牽引力はFからEを見た時の長七度の関係ではないというのがお判りになるかと思います。つまり、Fの方から「剥離」してきたE音というワケではない、という意味でこうして例えているのです。

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 その、誤解されやすいであろう「半音クリシェ」というのは、ビートルズのミシェルのイントロに代表されるような、トニック・マイナーのルートから半音ずつ下方に下がって上声部はペダルを堅持してVIbに収まるというアレですね。ビートルズの場合はトニック・マイナーのトライアドという母体の音をペダルにして上声部がroot -> M7th -> b7th -> M6thとなっておりますが、それをベースに置き換えるシーンもありまして、キーがFmの場合、上声部Fmとペダルとして堅持し乍ら「Fm -> Fm/E -> Fm/Eb -> Fm/D -> VI♭△...」に収まる体ですね。

 余談ですが「クリシェ」というのは半音クリシェばかりではなくダイアトニック音列に沿うタイプのクリシェやら全音等音程クリシェやらディミニッシュトなクリシェ(半->全->半... or 全->半->全...)やら多くのタイプがあります。


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 多くの「半音クリシェ」の体系の殆どは、トニック・マイナーからベースが半音下行&上声部ペダルで、道中の不協和は更なるVIbへ収まるための物!という世界観でありまして、VIbまでの虚ろで不安を抱きかねない不協和な刹那の時が、VIbへ収まるコトでより一層VIbが頼り甲斐のあるモノとして投影されて落ち着きを得るワケですな。満員電車でよろけてしまった体が、転んだり怪我することもなく収まった先でようやく落ち着きを得たと捉えていただければ良いでしょう。収まった先がチカンだったらどないすんねん!?とかそーゆーツッコミはやめて下さいね(笑)。

 つまりコレが、Cマイナー・キーという基準だったらAbメジャーの方へ収まる為の移ろいなワケですが、冒頭の「FM7aug/E」とも表記可能なそれは「FM7aug」のルートから下行してきた音ではない、という風に理解してほしいが為の区別なワケです。

 というのも、通常の半音クリシェというのはトニック・マイナーありきという形式なワケですから、ここから半音でも下方に「剥離」するのであれば、剥離した側からのトニックマイナーの音程関係は長七度なんですね。短九度を見つめているワケではないです。


 『トニックとして捉えたい』


 つまり、本当はE一発系のアプローチでありながら2コード・パターンとしてE7alt -> Aという四度進行を基本としている所に、Aの所でF音をぶつけて来るというアプローチとして理解してもらいたいが故の表記だったワケです。そうした表記をし乍ら「四度進行」を内在させるような「E -> A」というツーファイヴを視野に入れやすくするために、ツーコードのパターンではないものの、そうした「方角」を強く意識させる為の表記であったワケです。

 ジョージ・デュークに依る「Big Swifty」のアプローチばかりではなく、マックス・ミドルトンに依るジェフ・ベックのアルバム「Blow By Blow」収録の「Scatterbrain」のインタールード的存在「Air Blower」でのE一発のソロで対蹠点の裏モードであるBbペンタトニックを弾く前にF音をぶつけてくる所がありますね。バックのE音堅持で自身がb9th方向からEに対しての半音/長七ぶつけとして見ることができます。こういうアプローチに近しいモノでもあります。

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 尚、マックス・ミドルトンは「Air Blower」でのローズ・ソロの冒頭はバッハの「トッカータとフーガ ニ短調」に倣ったE音ペダルにAdim7の分散フレーズをぶつけてきます(バッハのそれは余りに有名で語る必要もないかもしれませんがD音ペダルにGdim7というの減七分散です。D音ペダルに半音下のcis音から減七の分散を開始しているアレです。ちなみに以前の私のブログ『コンビネーション・オブ・ディミニッシュを今一度』の記事内でのトッカータとフーガニ短調の解説はニ短調をC調に移調して解説しているので、整合性を図る上で新たにこうして注釈を加筆しておくことにします)。

 これはAの減七として構成されるA、C、Eb、GbのEb音が実はEの調域(=Em)の属七(=B7)が齎した「D#音」と一緒なのであります。更に言えば、E音とAの減七であるそれは便宜的に「Adim7 (on E)」というポリ・コードで表記することができますが、ここでの上声部「Adim7」は「B7」という属七を母体とする和声の断片、という風に理解して差し支えありません。B7という体が「ジャマ」なのは、元がE一発系のコード体系であり、どうせなら「E -> A」という2コードに依る体系に収まってくれていた方が旋法的にも扱いやすいシーンなワケです。ですので「B7」という仰々しいカタチは鬱陶しくもあるワケですね(笑)。そこで、元が「B7(b9)」という体からの断片という風に考えると、E音をベース音としてのペダルで上声部に減三和音或いは減七の体という選択肢が現れ、属音としての牽引力を伴うことのないシーンを想起するので結果的に「総和音」的発想を生むことで、ホ短調の三度をルートとする和音(=GM7aug)を中心に見立てたダイアトニック・コードを想起し乍らの総和音に近しい呼び込みを行うことが可能となるのです。マックス・ミドルトンの場合、ソロでのアプローチにおいて新旧の技法をサラリと織り交ぜているというワケですね。

 話は少々逸れますが、ジェフ・ベックに反古にされるかのように憂き目に遭うジェフ・ベック・グループの亡骸と共にマックス・ミドルトンが在籍したバンドであるハミングバードに、あの有名曲「Diamond Dust」の作曲者であるBernie Hollandを迎えている事は偶然でもなく、先の「新旧」を表す技法の「新」という部分においてバーニー・ホランドが志向していた世界観というのがジャズ・ロック・シーンにおいても充分武器になるという事が認知されていた証左でもありまして、こうしたさりげない和声の使い方を我々はきちんと吟味せにゃならんのですな。

 YouTubeでは、バーニー・ホランド自身がSGを弾き乍ら「ダイアモンド・ダスト」を解説している動画がありますので必見です。それにしてもザッパといいフィル・ミラーといいホールズワースといいバーニー・ホランドといい坂本理といい、マイナー・メジャー9thやオーギュメンテッド・メジャー7thの世界観に覚醒している人は何故こうもSGを持っているのか!?とても不思議な共通点であります(笑)。
 話を戻して更に言えば、先の減七フレーズを生んだ音において、D#ではなくEbとして強固に見立てるとバイトーナルの世界を引き連れて来れるキッカケにもなるので覚えておいてください。頓着せずに唯の異名同音として理解してしまっていると、その後の楽理的な理解に大きな差を生じかねないのでご注意を。

 最低音であるEから見れば内声のF音というのは短九度を形成します。ヒンデミットのルードゥス・トナリスにおいても短九度という音程は「最果て」となる近親性が最も希薄な音程関係であるワケですが、そんな短九度が発生しようとも最低音と上声部では共鳴的な音程関係を維持し乍ら、内声と上声部では増音程を形成しているというエグい側面も持ち合わせているワケです。

 つまり、共鳴的な音程を持ちつつ、エグい音程関係も両方持ち合わせている事で強烈な協和と不協和を同居させるワケですね。どちらかでもない所に意義があるワケです。

※少し前にツイッターで呟いておりましたが、音楽之友社アレクサンダー・ウッド著「音楽の物理学」第10章「不協和と協和」(p.217)に書かれている曲線が表している「不協和度」がまさにヒンデミットのルードゥス・トナリスの遠 <-> 近という調的な関係を表しているコトでもあるのでご参考あれ。


 増音程というのは確かにそれ単体では不協和ではありますが、そこまで忌避したくなるほどのモノか!?というと実はそうでもなく、ボサノヴァにおいてトニック・メジャーに解決する直前のオーギュメント構造(亦はb13th)など実に思慮深いアレンジとなるワケでもありますし、ムーミンのテーマソングの様にトニックの変化音としても表すコトで、実は平行短調のIII度をチラ見せするという、曖昧な長調と短調の行き来よりもよっぽどメリハリのある長短の移ろいをたったひとつの増和音に移行するだけでヘプタトニックの情緒は深みを増すんですね(長調と短調の両面が一瞬でも明確になる)。


 増音程の発生やら短和音というのは、長音階や長三和音の「落ち着き」と比較すれば不安定な方です。ただそれを否定的に捉えるのではなく長音階や長三和音以外の振る舞いというのは実は「動的」であると思っていただけると判りやすいのではないかと思うんですな。

 本当ならオルタード・テンションを含んだ属七の体として表現可能なコードであっても私はバイトーナルな側面を目撃できるようにハイブリッドなコード表記で表すことが多いです。仮にバイトーナルもしくはポリトーナルな側面が現れることがないにしても準備としてそのように常々心掛けているだけではなく、そうしたアプローチを客観的に理解しやすいものにするためでもあるのです。

 先の「Tomorrow's Girls」のイントロの例のように、下声部にF#メジャー・トライアド上声部にEオーギュメンテッド・トライアドがある状況を参考にしてもらいますが、この時現れる六声の和音は「混沌」とした状況にあると思ってください。つまり、構成音「Fis、Ais、Cis、E、Gis、His」というのが重力からも解放されて本当はこれら分子構造が均一に分布している合金のような状態と思ってください。こうした平衡状態から増音程、或いは長三和音という形態から得られる「牽引力」を頼りに、例えばE音を引っ張って来た時、Eaugとして組成されたり、F#を持って来た場合はF#メジャー・トライアドとして組成することになったり、と。そうしてその後それらの引っ張って来た音というのは特に隷属支配される因果など希薄で、何れの音をベースに持って来ても破綻しないモノなのだという事を述べていたワケです。


 こうした平衡状態の中から、牽引力として最も強く現れる分子構造が長三和音であったりするワケですが、下声部に長三和音や長音階の構造が必ず存在しなくてはならないという決まりがあるのではなく、仮に不安定で動的であろうともそうした構造が音楽になっていたりしても構わないワケです。ここでの「動的」というのは放っとけばメロディすら作ってくれる、とかそういう事ではないですよ(笑)。そうした音の世界で曲を構築した時に「まだ先を感じるような暗喩めいたもの」とでも形容できるかのような、明確な終止感の無い世界をより強調しているかの様な世界観を形容しているワケでして、下声部に短三和音や短音階配置しただけで「さぁ、曲作れ!」と自動作曲してくれるワケではありませんからね(笑)。そういう風に理解しないで下さいね(笑)。

 それを考えれば、やはりメシアンのトゥランガリラ交響曲というのはとても参考になる曲でありまして、対位法によって構築されたフレーズを紐解きながら並列にもイメージを捉えつつ多調な世界を吟味するという意味でも非常に優れた作品のひとつでありまして、トゥランガリラを聴いて何も見抜けない人は、ジェントル・ジャイアントの「Talybont」や「Design」を聴いても何一つ気が付かない人かもしれません(笑)。音楽を熟知するというのは、徒に多くの音楽をかき集めればいいというモノでもなく楽理的背景をきちんと知って図書館の司書のように音楽を取り扱う様でなければならないと個人的には思っております。

 哀しいことに、今やCDショップですら司書の様なスタッフに巡り会うことは極めて少なくなりました。浅薄な客なら誤摩化しが利く程度のスタッフですかね。いずれにしてもリアルに展開するCDショップの在り方というのは最早岐路に立たされていて、誰もが食い付く様な商品の牽引力に思う存分頼って商品知識が全く無いパートでも販売できてしまうような売り方というのは不可能だと思うんですな。店舗もそれを実感しているにも関わらず正社員を配置せずにパートやバイトだけで頼らせてしまう。そうして今度は商品知識と語学力を備えた人件費が安く済む外国人に置き変わるのでありましょう。もう、胡座をかいた売り方でダメなんでしょうな。そういう職場に身を置く若年層に吸収力が不足しているのが最も問題なんですけどね。これだけ情報過多とも言える社会において目の前の客には今何をしているのかも伝えることをせずただ単に商品を追うだけで端末と数分無言で凝視。おそらくや彼らはこうして時間を稼いで長い一日が経過するのをやり過ごすことのできる至福の時間なのかもしれない。言い換えると客の良心にも甘えているだけなんですけどね(笑)。こーゆーのが蔓延している社会で音楽へのまともな理解だってそうそう進まないのは自明ですわな。どうしちまった!?日本よ。