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ツルチュルピッツン♪ [楽理]

扨て、前回はメシアンのトゥーランガリラ交響曲をも引き合いに出して語っていた左近治でありますが、ソコん所をもう少し深く語ってみようかな、と思っております。とはいえ作品そのものの「感想」とかその程度のコトではなくてですね(笑)、楽音の魅力について語るモノでありまして、その上で小澤征爾指揮によるトゥーランガリラ交響曲は不可避だったんですね。なぜかというと私は最近微分音についても触れていたのでそんな所に狙いがあるワケであります。


小澤征爾指揮によるトゥーランガリラ交響曲は少なくとも私にとってのリファレンスであります。これを聴いてしまうと今ではYouTubeでもチラ見出来たりするモノでありますが、まあNHKのBSからのキャプチャ物とかと比較するとアチラの方は小澤征爾の比較してもアンサンブルがボコボコしたように聴こえてしまう位に小澤のそれは整っているんですな。これはある意味「ミックス的」な側面で感じるモノであります。

先にも語っている通り、小澤征爾が指揮を執るアンサンブルというのはトゥーランガリラ交響曲に限らず、ミドルレンジをふんだんに活かして各音が喧噪するコトなく殺さない音に仕上げるというのが私の感想でして、特に現代音楽という作品を扱う場合、指揮者の作品の理解度にもよりますがどの辺りの楽節に重きを置いた「ミックス」に仕上げるのかという側面だけでもかなり興味深いモノがあるんですが、難しいアンサンブルにならざるを得ない作品ほど、ミドルレンジが死なない音に仕上げるということは聴衆に対して凄く大事なファクターだと思うワケですよ。

そのレンジが死ななければ、どんな安物のオーディオ装置であっても決して埋もれてしまう事は少ないであろうという音になるのは明白でして、余りにオーディオ装置のキャラクターが強い所にチョットした偏りがあったりすると、埋もれてしまってなかなか気付いてもらえない音となってしまうコトだって起こりかねず、実はこういう音の違いとやらもあまり頓着せずに聴いてしまっている人が多いのも確かです。少なくともクラシック・ファンの多くはこの辺の聞き取り具合というのは多くのポピュラー界隈の人達よりは緻密で繊細に取り扱って聴いているのではないかと思います。


扨て、小澤征爾指揮のトゥーランガリラ交響曲をなぜ取り上げたのか!?というと、まずはその魅力について語ってみたいのでありますがまず前置きとして注意していただきたいのは、左近治自身はトゥーランガリラ交響曲の楽譜を見たコトはありません(笑)。あくまでも先の作品を聴いた上で語るコトですので、その辺りは注意していただきたいと思うのであります。まあそんなワケで作品の魅力について語ってみようかな、と思うんですが私が最も重要視するのは第3楽章の冒頭部分なんですな。


「指揮者というのはこういう所まで作品を弄ってイイものなのだろうか!?」とも思わせてくれるような「微分音」の妙味を感じ取るコトが出来るんですな。実際の作品の方でメシアン自身がこの冒頭部分で微分音を指示しているのかどうかは定かではありませんが、他とのトゥーランガリラ交響曲と比較した場合、私が感じるのは、ここでの微分音は「敢えて」小澤征爾が意図して統率しているのだろうな、というコトを痛切に感じるワケですな。

少なくとも第3楽章のド頭の部分はクラリネットで3声出現します。最高音がGis (As)、最低音がC、最後にDです。この最低音は「Ces」と、今回は表記しますが、音律で各声部を判断すると、最高音のGis (As)は平均律よりも11セントほど低く、最低音の「Ces」というのはC音よりも23セントほど低い(ですのでCesとしておりますがCesesesesが適当なのかどうかの議論は扨置き、とりあえずCフラット的な方向で判断してください)音でして、D音が平均律と合致しているように聴こえます。少なくともこのアンサンブルはわざと「ズラしている」のでありますが、音痴に聴こえさせるのではなく、トーシロにも音痴として知覚されない程度のギリギリの所を卒倒感を伴うような微分音を備えて「設計」しているのだというコトをまざまざと感じるのは、他のトゥーランガリラ交響曲ではこういう妙味を感じないからなんですな。


で、その妙味を語る上で少々音律の方を詳しく語らざるを得ないのですが、例えば先のGis (As)が11セントほど低いと言いましたが、つい先日私が掲載した微分音の例というのは八分音が最も細かくて25セント刻みとなるモノで、11セントとかその辺りは扱っていないワケですが、11セントほどの違いの微分音はどういう時に意識するモノなのかというと、ココで取り上げるのが「九分音」なのであります。


今回私が取り上げる九分音の分割は、平均律における「全音」を9等分したモノとして計算します。ですので「約22.22セント」が九分音で分割された音となります。


ターキッシュ・マカームと呼ばれるトルコの九分音は、大全音=204セント幅を九等分した物であり、今回の私の表記はそれとは表記を異なる物として取り上げております。

 尚、大全音は一応全音音程を標榜するので1オクターヴ内には6つの全音音程が生ずるものの、大全音を6つ並べるとピタゴラス・コンマ分多くはみ出てしまう事になります。中東地域ではオクターヴの相貌を繰り返す事なく着地点として音程を採るのは普通に存在するのでありますが、オクターヴを繰り返す音律体系からすると不都合を生ずるので、本来なら大全音×6音=1224セントを標榜して然るべきでしょうが、これだとコンマが54個生じてしまう事になるので、53等分平均律とは大全音×6音より1コンマを差し引いた体系として取り扱われるのであります。中東音楽はオクターヴを跳越した音程を採る演奏がごく普通に存在するので、53等分平均律の体系に惑わされずに両者の違いを知っておいてください。




「11セントは何処で取り上げんねんな!?」


とお思いになられている方もいらっしゃるとは思うんですが、実ぁですね(愛川欽也風)、11セント辺りの微分音というのは九分音を取り扱うと出て来るんですよ。ですのでその辺りをチョット詳しく語ってみようかな、と(笑)。


扨て、「全音を9等分」したというコトは、200セントを等しく9分割したというワケです。すると各々はどのようにして分割されたのかというとですね・・・


(1)…22.22
(2)…44.44
(3)…66.66
(4)…88.88
(5)…111.1
(6)…135.96
(7)…155.54
(8)…177.76

とまあ、上記の5番目で生じているのは「111.1セント」ですが、すなわち半音上下から111.1セント離れている微分音という風にご理解いただきたいんですな。ココでチョットした九分音のパラドックスがあるのでその辺をより詳しく説明したいと思います。


Microtones_Nov.jpg
九分音の1ステップは約22.22セントの幅であるワケなので、平均律から見たある音よりも22.22セント高い場合は先の1番目なんですが、22.22セント「低い」場合は8番目で扱わないといけなくなります。この場合、22.22セント低い音を表記する場合、ダブルフラットを基とする表記による微分音の表記にしないと矛盾が生じるのであります。つまり、上下に等しい音程差であっても隣接していないワケですね。だから「飛び越える」表記をしなくてはならなくなります。

更なる例として、11セント低い音を扱う場合、先の例からすると九分音の「4番目」のステップとして表記せざるを得なくなります(元の音から11セント低い音ではなく、半音上の音から88.88セント低い音として表記せざる得ない)。

11セントほど高い音を生じさせたい場合、九分音を用いるのであれば元の音から11セント高いというのではなく、半音下の音から111セント高いという風に表記せざるを得なくなるという意味です。お判りになりましたでしょうか!?(笑)。このジレンマが九分音はもどかしいワケですわ(笑)。

まあこんなワケで九分音の表記は結構難しいものでして、元の音に変化記号(シャープとフラット)が無い音から生じている時と変化記号が生じている時との表記では全く趣きが異なるので、コレがとても難しいワケですよ(笑)。


ある意味「救い」なのは、九分音のそれは六分音で生じる音程幅が3種類生じてくれているコトです。しかし、先のような「飛び越え」の矛盾から六分音と九分音の表記の共有というのは結構難しいのであります(笑)。


でまあ、今回九分音を便宜的にでも楽譜で表記するにはどうすればいいのだろうかと思案してみたんですが、まあいずれにしても難しいモンでしたわ(笑)。

譜例では最初に、変化記号の有無の差異で生じる「上昇方向」の例、同じく「下降方向」の例、とこうして4種類の譜例にせざるを得ず、実に骨が折れるモノでした。ジレンマだらけで自分でもここまで全ての音を網羅させたコトがなかったので疲労困憊です(笑)。



まあ、こうして九分音がどういうモノかお判りになっていただけたかと思うんですが、先の小澤征爾指揮のトゥーランガリラ交響曲の第3楽章のド頭のクラリネットの最高音は、平均律のGisよりも11セントほど低く、最低音は平均律のCよりも23セントほど低く、D音がそのまま、というアンサンブルで聴こえて来るワケです。


概ね7~8セント程度でしたら指揮者というのは、会場の気温の変化で管楽器類などチューニングの狂いを察知したりして何らかの指示を出した時は上げ下げするような取り決めを演奏中でも送ったりするとは思いますが、トゥーランガリラ交響曲においては偶然の産物ではなく微分音を指定しているモノだと私は「確信」しております。但し、それがメシアン本人によるものか小澤征爾本人の解釈によるものかと問われれば後者なのではないかと思っております。楽譜を見たコトがない左近治はこういう風に言わざるを得ないのですが、小澤征爾の解釈によるものだろうと推察するのは、私の知る限りのトゥーランガリラ交響曲の他の演奏が、少なくとも微分音のように細かいモノではなく「カッチリ」し過ぎた音律で演奏されているモノが殆どなのでして、ですからこういう表現にならざるを得ないのです。

ただ、どういう解釈にせよ、このようなミドルレンジを余すことなく埋めてある、それこそDAWレベルで言えば「生けるWaves L3」みたいな(笑)、いやあこれほどまでに超越した人間の能力をたかだかDAWプラグインに形容することすら烏滸がましいモノではありますが、このようなムダの無い素晴らしい音のバランスを現在のDAW世代に手っ取り早く理解してもらうためにはこーゆー表現しか見付からないのでありますよ。ココには皮相的な理解や形容がインスタントなモノであってもトーシロでも瞬時に判断が可能なほど素晴らしく超越したモノであるから、そんな皮相的な表現であろうとも許容できるであろうという配慮から敢えてこんな表現にしているワケであります。


ミドルレンジの太さや豊かさが必ずしも良し悪しに繋がるワケではないとは思います。各人の好みにもよります。まあしかしオーケストラを聴いて木管グループや金管のツッコミやモタり具合や、チェロとコントラバスのツッコミ&モタり具合はオケにどう影響するのか!?というのは、ある意味DAWミックスにおいても距離感や音の立たせ方や引っ込ませ方に昇華できるモノだとも思います。弦や管のレコーディング経験というモノは少なくともレコーディングのミックスでは大いに役立つコトなのではないかと信じてやみません。


で、23セントほど低いという事実も少々気になる「ズレ幅」でありますね。八分音の25セントという幅とどう違うのか!?コレをちょっと紐解いてみましょう。


この23セントという数字は「おおよそ」のモノでありまして、おそらくはこのズレは「不完全五度」を想起させたズレであるモノだと思います。そもそも不完全五度というのはいわゆるシントニック・コンマで生じるズレだと思っていただきたいワケですが、つまる所「純正なる」完全五度を累積していくとオクターヴを生じて良い筈の所ではズレきっているワケですな。

古い文献だと純正律での完全五度以外は「不完全」だという位置付けにより、その他の音律で不完全な五度という微小音程差を生ずる純正音程を「長五度」とか書いたりするコトもあったりするようですが、私のブログでは少なくとも平均律を基準にしているので、その辺りのツッコミは抜きにしてご理解いただきたいな、と(笑)。


で、不完全五度ほどのズレが生じているというコトは完全五度累積を重ねに重ねて戻って来た筈の世界なのになぜか縁遠くなってしまう、ある意味「最果て」なのかもしれません。しかも基準としていい筈の世界から不完全五度分「高い」方向にズレればイイものを「低い」所に生じさせる二度音程。コレが妙味なんですな。

二度音程というのはドビュッシーの件でも取り上げましたが2つの完全四度累積構造を示唆させたもの。すなわち四度累積の和声は3度を捨てた二度の累積による和声の訪れなのだというコトですね。短三度を生じる時は完全四度累積が3つの体。つまり完全四度応答と短三度を互いに応答させる左近治のやり方は、この3度構造から結果的に属二十三の和音を呼び込む構造に持ち込もうとする(属二十三の和音は長短それぞれの3度を用いており短三度のみではありませんが、完全四度累積を11回行えば同様です)世界ですね。

つまり、この2度は普通の二度ではなく、Dが安定した基準ではなくCよりも23セントほど低い所に「あたかも」基準を生じさせるワケです。おおよそその不完全五度よりも半分ほど低い、九分音の5/9ステップで生じる見かけ上111.1セントという音は仮想的な半音下Gから生じたモノだと思っていただけるとありがたいのですがそれがGisであり、オクターヴを9分音×6全音=54とした場合、この世界は52<x<53というような九分音の世界を見せているようなモノだとご理解していただきたんですな。奇しくもオクターヴを53分割した世界というのも実在しまして、過去にハーモノデイクについてチラッと語ったコトがありましたが、そんな世界を垣間見せてくれているかのように「統率」して構築されているオーケストレーションだと思うワケですな。

そういう世界を想起させる11セント低い音と23セント低い音の混在。これが実に絶妙な卒倒感を生むのでありまして、これを「音痴」に聴こえさせない所も絶妙ですな。


で、トゥーランガリラ交響曲第3楽章にはついでに語っておかなくてはならない興味深い和声がありましてですね、小澤征爾指揮のモノですと1分45~46秒辺りの所に注目です。ピッコロは六分音ほど低いですね。ファゴットがG - C - E - Aと行く所のAの部分でピアノがハイブリッドな和声で「Baug/Aaug」というハイブリッドな増和音を聴くことができます。半音違いの増三和音のハイブリッドはドゥアモルの和声やオーギュメンテッド・スケールを導くことができますが、全音違いとなる増和音構造となるとコレは単純に「ホールトーン・スケール」という全音音階の構造を導くことにもなりますが、みなさんがよく知る所の「全音音階」の体ではない多様な響きを演出しているのは、ハイブリッドな増和音の体で響かせているからです。

※YouTubeで確認できるチョン・ミュンフン指揮によるトゥーランガリラ交響曲第3楽章ですと、1分47秒の所の和声です。しかし、小澤指揮によるモノをご存知の方はすぐにお判りになるかと思いますが、アンサンブルの聞こえ方が前述のようにまるっきり違うので、小澤指揮を知らない人がトゥーランガリラを聴いて皮相的な感想を抱いてしまいかねず、トゥーランガリラ交響曲を知る上ではおいそれとYouTubeなどで知っていただきたくはないのであります。但し、チョン・ミュンフンの指揮が悪いと言っているのではなく、小澤征爾の出来栄えはそれほど凄いモノだというコトをあらためて言いたいのであります。世界のオザワを引き合いに出していれば間違いなかろう、みたいなそういう単純な発想でもありませんので。こういう指揮者の妙味みたいなコトはまた別件で語りたいと思っております。

かなり前に、全音音階の一部を半音に分割して7音を得た場合、どういうシンメトリックな構造となってそこから牽引力を生じさせて近似的な旋法から生じる和声的・旋法的な世界観を得るのか、というコトを取り上げたことがあるかと思いますが、こういう所にもヒントが隠されているワケですね。


まあ今一度語っておきますが、例えばC、E、Gisという増和音構造があったとします。その一部であるC - Eという長三度音程を「半音+短三度」というカタチで分割してみるとしましょうか。ココでは仮にDesで断ち切るとします。するとそこで生じるのはマイナー・メジャー7thという体ですわ。コレが以前語ったコトですね。マイナー・メジャー7thという構造はどういう世界で生ずるのか、というコトは少し前にもドビュッシーのペレアスとメリザンドを例に出してペレアスの和声やらマイナー・メジャー9thやら下方倍音列で散々語りましたね。一方ではオーギュメンテッドな旋律から移ろわせるリストのファウスト交響曲なんていう例もありまして、シルヴァン・カンブルランという人が、どういう世界を示唆しようとしているのかという興味深さをあらためて知るのもイイのではないかと思って語っていたワケでありまして、そんな興味深い世界がトゥーランガリラ交響曲にもあるんだぞ、というコトを言いたかったワケなんですね。

こういうコトを語りつつも、前回では私、またまたやっちまいました!それまでティンパニだと信じてやまない私でしたが、トゥーランガリラ交響曲にはどうもティンパニは存在していないようで(笑)、私が永らくティンパニだと思っていた音はただの大太鼓のようです(笑)。とんでもないヘッポコ耳ですやん!!(笑)。ステレオタイプな考えというのはこうして耳にまで作用するモンなんですなぁ、とあらためて感じる左近治。こんなにヘッポコで説得力を欠いてしまっているワケですが、とはいえどうしても伝えたい部分はどうにかして伝えたいというもどかしさが実に気絶するほど悩ましいワケでありますなー。ブログをアップしてから色々調べる前にきちんと整理してからアップすれば恥をかくこともなかろうにとあらためて思うことしきりであります(笑)。


とまあ、そんなワケでトゥーランガリラ交響曲の魅力について触れてみましたが、今回の九分音を視野に入れた微分音と全音違いのハイブリッドな増三和音の和声(結果的に全音音階の総和音)の魅力についてという所に力点を備えたつもりですので、その辺をキッチリとご理解いただければな、と。