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小鳥がピッツン♪ [楽理]

まあ、前回は微分音やらというモノを題材にしてみたんですが、器楽的な心得があればあるほど、この手の記譜法はもとより、音響的な側面においても非常に興味深いというコトを実感していただけるだけでも私としては題材にした甲斐があるというモノであります。


先のサンプルで実感していただいたと思うんですが、用いた音源がアートリアのProphet V2とはいえ、プロフェットVSの方の音を使っているワケではありませんので、その辺はご注意くださいね(笑)。先のデモはよくあるアナログ・シンセの原波形となるような三角波を元としたものをレイヤーしているだけなので、そんな波形でもあのように「ヴォイシング」するコトできらびやかでツヤのある金属的な音を得られるというコトを実感していただきたかったという意図が伝わればコレ幸いです(笑)。


先のデモで痛切に感じ取っていただきたい部分は、強く耳に印象づけられる母体となる和声が金属的に彩りを与えているように聴こえるのは、実はコードを組成するには脈絡の無さそうな音が音に色ツヤという影響を与えている、というコトです。まあ、こんな風に念を押さなくとも実感していただけたと思うんですが、独特の金属的な「揺れ」みたいなモノを感じるのは微分音が含まれているからでしょう。


嘗て黛敏郎はオーケストラを使って「鐘の音」を再現するという実験を行った先駆者でもありまして、この辺りの事は黛敏郎のバックボーンにおいてあまりに有名なコトなのでご存知の方は多いのではないかと思うのであります。無論そこにはオーケストラの各演奏者がありとあらゆる演奏方法を駆使したモノだと思いますが、こういう実験も、あらゆる音響的な音をどのような部分音の集合にすればよいのか!?という壮大なテーマから入っているモノだと思うんですな。フーリエもこの世の音は全て正弦波の集合だと言っていたワケでありまして、それらがどういうADSRやらで鳴れば「それっぽく」再現出来るのか、非常に興味深いモノであります。


ピアノという楽器にしたって、クラスターを与えながら弾く事で「なんとなく」人が喋っているかのような音を再現したりすることも可能ですし、オーケストラだと微分音も使えるのでより再現性は増すのかもしれません(笑)。いずれにしても耳を鍛えた上で部分音の集合をきちんと計算ずくで統率すれば、楽音を超越した音をも再現可能だというコトの暗喩でもあるワケで、指揮者というのはオーケストラという「シンセサイザー」のマニュピレーターでもあり、素晴らしい精度を備えたコンデンサー(回路)がオーケストラの団員であり(笑)、シーケンサーよりも遥かに柔軟性のある再現力を備えた演奏など、これらを統率し得る指揮者というのはやはり相当な耳と腕が要求されるワケでして、それをも見越した所から音を再現しようとする作曲者という位置をも超越するかのような黛敏郎という人の研究は特筆に値すると思うのであります。


指揮者からすれば「今更そんな無粋な事を語らなくとも」などと思われてしまうかもしれませんが、一般的な感覚を超越した耳や脳の能力を持つ彼らの凄さをあらためて語らなくては気が済まないモノでもありまして(笑)、色んなシンセやサンプラーのライブラリを揃えても思い通りの音などなかなか手にすることが多かったりもするモノでありまして(笑)、それがいつしか脳裏に描く音など本当は幻にしか過ぎず、音のキャラクターそのものが新鮮であればそれを欲してしまうだけの実に貧しい欲求だったのではないか!?などと気付かされたりする事も多々あります(笑)。

理想の音を追求していたつもりで蓄財して、ある程度のオーディオ装置を前にしても有り余る金を手にいざ究極のオーディオ装置を買おうとすると、横から音とは別の側面のプライドをくすぐられ、理想の音を手にする直前に思いもよらぬ唯単に値が張るだけのモノを手に入れたりしてしまう事など意外と多くの人が経験するコトなのかもしれません(笑)。楽器選びにおいてもこういう遠回りなどあるのかもしれませんし、結局は周囲に流されてしまう弱みを持ってしまっているのは、自身に備えている「究極」を欲する能力が未習熟だからなのであります。だからこそココだけは頑なまでに強固であり続けて理想を追い求めていくことが重要だと思うんですな。それを手にするだけの金を持っていても金のパワーが要らぬ方向へ気を削いでしまったりするコトのないように。


「究極のシンセサイザー」がオーケストラだとするならば、その余りに大きな「システム」の前に「微分音」などなんてミクロな事を語ろうとしているのでありましょう(笑)。とはいえ、そんな微細な事に思えてしまうコトでもオーケストラにおいてもそれはとてもデリケートな要素でもありまして、ほんの少しのバランス具合でアンサンブルは全く異なる姿を見せてくれるモノなんですな。


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一般的な楽曲としての善し悪しだけでは語りきれない、音響面での心地良さや、希薄な調性がもたらす音空間の形容の妙味、それがとても耳にも脳にも心地良い作用があったりして、メシアンのトゥーランガリラ交響曲などまさにそんな形容がピッタリの作品だと思うワケでありますな。小澤征爾が指揮のトゥーランガリラ交響曲しか持っていない左近治でありますが、小澤征爾の指揮というのは少なくとも私の感じる限りはミドル・レンジを余す事無くタップリ太く聴かせるアンサンブルに仕上げるのが特徴的なようで、私にとってはマランツのアンプにJBLサウンドというイメージなのであります。佐渡裕はBOSEサウンドみたいな感じと言えば言わんとする事はお判りいただけるでしょうか(笑)。私が好きな楽章は2~4楽章で、特に第3楽章における序盤のティンパニ出現後の世界はとても好きな世界であります。

ただこういう音世界というのは、例えばリスナーが無意識に楽音に身を委ねるとそこには捉えることが容易なメロディが向こうからやって来てくれるかのような甘っちょろい世界とは全く別物ですので(笑)、この手の音をもきちんと理解できる方が聴くべきだと思います(笑)。皮相的な輩がこの手の曲を理解するのは相当難しいとは思います。まあしかしながらクラシックやジャズ界隈に限らずたいていのリスナーっていうのは、自らを厳しい世界に身を置かず、向こうからスンナリやって来てくれる「わっかりやすい」系の音楽に身も心も委ねてしまっているようなのが現実ではあったりするので、闇雲にオススメできるモノでもないのは重々承知ではあるんですが、興味があったら是非とも聴いていただきたい作品のひとつではあります。

まあ、そんな小難しいコトは抜きにして、音楽のディープな側面に興味を抱いていただけるような話題を展開していければなと思っておりますのでお楽しみに。