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チョッパー・ベース [アルバム紹介]

いんやぁ~、イマドキこんな話題語ってイイんですかね!?みたいな、そんな雰囲気すら感じてしまうくらい死語になってしまった感の否めない「チョッパー・ベース」。今で言う「スラップ・ベース」のコトですな。そんなネタでたまにはハナシに花を咲かせるのもイイのではないかと思い、今回は肩の力を抜いてベースの話題について語ってみましょうかね、と。
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先日、ソニーさんのオーダーメイドファクトリーにて入手した朝比奈マリアの「MARIA」を購入する際に一緒に注文していた村松健絡みのCDも実は手に入れていたんですが、まさか「Still Life Donuts」が再発されていたとは思いもよらなかったのですが、それ以前に今回の再発は前回の再発のアンコールだそうで、前回の再発のコトすら知らなかった左近治(笑)。

かれこれ相当年月が経過しますが、Kクリにおいて「着メロ」フォーマットの「New York, Cloud 9」をリリースしたコトのある左近治でありました。

この曲はフジテレビ系列の夜ヒットDXのテーマに使われていた曲なのでご存知の方も多いのではないかと思うのですが、この曲が収録されている村松健の1stソロ・アルバムが先のアルバムなワケであります。

CD黎明期に私がこのCDを手にしていた理由は、単純に渡辺直樹のベース聴きたさで購入したモノです(笑)。しかも、このアルバムに収録されている「Moonlight」におけるソプラノ・サックスのソロ中(ソロの13~14小節目)の渡辺直樹のインタープレイには、当時としてはなかなか珍しい32分音符のスラッピングがあったりして、当時は結構このプレイに食い付いたモンでしたよ(笑)。

しかもこの曲のスラップ・ベースは心憎いコトに、いわゆる「スラップ・ディレイ」という数十ミリ秒程度のショート・ディレイが施されているんで、32分音符のスラッピングがショート・ディレイに埋もれない心憎さが余計に聞き取りの「篩い分け」をされているようにも思えたモンでして(笑)、ミュージシャン側からの挑戦状とばかりに聴き込んでいたモンです(笑)。「コレ、聞き取ってプレイ出来ねーよーじゃベースやめちまえ」と言われているのではなかろうか!?とばかりに闘志ムキ出しにして練習に励んでいたモンでした(笑)。まあ闘志ムキ出しってぇのは冗談で、私の当時のバイブルのひとつだったワケですよ(笑)。


この翌年辺りにシャカタクで有名なビル・シャープがソロ・アルバムをリリースするんですが、そのアルバムに収録されている「Washed Away」という曲も片chをショート・ディレイでずらして、ワイドなステレオ感のあるスラップ・ディレイを施したという、時代背景的にはThumpingがとにかく多いスラッピングを聴かせている曲にも遭遇するワケです(その理由に櫻井哲夫の活躍があったのは言うまでもないでしょう)。

豆知識程度に語っておくと、当時はマーカス・ミラーっぽいリフ形成とは対称的に、サムピングの連打でリフを形成するタイプの「スラップ土方」とも呼べるような汗かきタイプという、すなわちチョッパーのスピード競争みたいな世界観がありまして、櫻井哲夫というヒトは間違いなく世界的に見てもコチラの第一人者であったワケですな。ラロ・シフリンとか映画音楽手掛けたりするとダーティー・ハリー4とかで、「いかにも」な当時のチョッパー・リフで曲をメイン・テーマ曲を作っているワケですが、こういう世界観があったんだよ、というコトをあらためて認識してほしいワケです(笑)。

ビル・シャープのこちらのソロ・アルバムの方は、世の中は既にヤマハのSPX90というマルチ・エフェクターの到来があってのコトなんですが、村松健の先のアルバムだとSPX出現前の時代でのコトでありまして(REV7は出ていたかもしれませんが)、そういう時代というのを考えると、当時としては比較的珍しい32分音符のスラッピングというプレイもさることながら、ベースにおけるエフェクトのアイデアという側面を分析する上でも非常に参考となるアルバムだったのは間違い無いモンでして、ただ単にプレイ面ばかりに没頭するコトなく、抜かり無くエフェクト面も追究せざるを得ないほど、私にとっての渡辺直樹というプレイヤーはとにかく遠く遠く何処までも遠く、という存在に感じたモンでした(笑)。

プレイ面で32分音符を出来たとしても、音の面でさらに上を行かれるような。誤解してほしくはないのですが、闘争心ムキ出しにしているのではなく、自分の敬愛するプレイヤーだからこそ自分の想像のはるか上を逃げ水のように行ってくれる様な、そういう姿として映っていたんですね。それくらい私は影響を受けていたワケです(笑)。まあ、こんなコト言うと失礼ですが、当時の84年頃なんてのはかなりマーカス・ミラーの人気はウナギのぼりでして、「あの音」というのはホントにあちこちで話題かっさらってたモンですよ。でもですね、私は渡辺直樹とエイブラハム・ラボリエルが好きだったんです(笑)。加えて、田中豊雪のサムの音を欲していたのが当時の左近治だったんですな(笑)。まあ、AB'sやらザ・スクェアの頃と言えば、当時を謳歌した人ならお判りだと思うんですが(笑)。


で、私がなにゆえ渡辺直樹を好きになったのか!?というと、元々ドラムを叩いていた左近治が周囲の兄ちゃん達と音楽談義を交わす時はドラマーである私ですらギターを片手に談義を交わさなくてはならず、アコギでFのコード押さえてどっかがミュートしようモノならソコから鬼のような拷問が始まるような、左近治にとって暗黒の歴史であったんですが(笑)、まあ、みなさんバック・ミュージシャンに耳を研ぎ澄ましていたワケですな。そもそも私がそこに居る理由というのは早くオトナになりたいという願望から来るモノでありましょう。今では煙草と絶縁できた左近治ですが、下の毛がようやく生え揃った時に煙草プカしていたのはこの時代からでありまして、煙草吸いたさで参加していただけなのかもしれません(笑)。

例えば私が西城秀樹を聴くにしたって、どこぞの黄色い声上げて聴いてた今や立派な閉経オバチャンとは違って、別にヒデキ本人聴きたさに聴いていたワケじゃない(笑)。ヒデキのどこかメランコリックな世界観にはプロコル・ハルムやユーライア・ヒープやケストレルのそれに似た情感を感じ取りながら細野晴臣の方とは違うもうひとつの「イエロー・マジック」(by One Line Band)とか、後のSHOGUNとかスペクトラムやら、CharさんやらTENSAWとかに耳奪われていたのが当時の左近治だったとゆーワケですわ(笑)。この頃の器楽的な方の志を持った方なら大概はこんな姿だったのではないかと思います。その中でも私が拷問のように駆り出されるその集まりはなぜか一際プログレ好きが多かったというのも事実であります(笑)。

でまあ、そんな頃に後藤次利を好きになっていた左近治は渡辺直樹も好きになっていたんですな。BCリッチのイーグル・ベース好きだったんで。でまあ、そんな時にbpm130超え辺りで16分刻んでダブル・ストップでコードかき鳴らしながらスラッピングという渡辺直樹のテクニックを耳にした私はそこで完全にココロ奪われてしまったワケですな。そんな技決められた直後に16分音符よりも更に細かい異次元とも呼べる音に面食らったのが1981年という時。その後多くのベーシストを耳にしてマーク・キングの「Love Games」を聴いてもなお、私の耳には渡辺直樹の方が衝撃的で、マーク・キングの方ですらも耳で音を追えるコトが出来ましたんで、耳を追うコトの出来ない渡辺直樹のプレイに私は完全に心奪われていたというワケですよ。その後年月も経てエイブラハム・ラボリエルの教則ビデオがリリースされた時は心躍らされたモンでした。

とまあ、私がなにゆえソコまで渡辺直樹が好きなのか!?とゆーコトを述べてみたワケですが、そんな渡辺直樹が参加しているアルバムとならば先ず間違いなく買っちゃうワケですわ(笑)。村松健という、当時は私が耳にしたコトが無いアーティストでもバック・ミュージシャンの名前で即買い!みたいな。そういう出会いで入手したのが「スティル・ライフ・ドーナツ」だったワケですな。

で、当時の音楽番組というのはスタジオ・ミュージシャンがセットになっているコトが多くて、それこそ本当なら聴きたくもないアイドルですらもスタジオ・ミュージシャンの音聴きたさに色んな音楽番組を観ていたのが当時の左近治で、テレビにかじりついているのは音楽番組の時くらいで後は楽器とオーディオのスペースでベース爪弾いていたのが当時の私。ただ正直な所85年辺りからはそれまでとは違ってテレビの前にデン!と座ってベース片手に観るコトも少なくなってきましたし、徐々に生活が限定されていってしまうワケですな。当時談義を交わしていた連中は車スッ飛ばして「あの時の俺の拷問のような時間は何だったんだ!?」と思わせるくらいの掌返したような静けさのある部屋。

彼奴らも私が邪魔になったのか異性に心奪われ車の中に身を投じて謳歌していた時、私はまだまだオトナの階段登っていたんでしょうなあ(笑)。そういう意味で音楽的にも社会的な意味でも自立心が芽生えていた頃でもあったので、85年辺りというのは例えばシンセ面に関して語るにしてもDXブームの到来が起こる頃で、音楽的な側面ではかなり変革的な時代だったワケでありまして、そういう時代背景との兼ね合いで遭遇して来たモノは、ごく普通に出会すモノよりも記憶に残るコトが多かったのかもしれません。ですので、1985年前後という時代は私にとっても結構特別な意味合いがあったのだと思われるので、そういう時代にあった「最後のフュージョン」とも呼べるようなアルバムのひとつだったのも大きな理由だったのかもしれません。

なにしろDXブームなどによってフュージョン系の音楽はトコトン死に絶えた時代が来ましたからね(笑)。オーソドックスなフュージョン路線というのは伊東たけしの「ディア・ハーツ」と村松健の「スティル・ライフ・ドーナツ」それとザ・スクェアの「リゾート」で終わったような気がします。奇しくも全部ソニーさんですが、当時のCDソフトというのはなんだかんだ言ってソニーさんが多かったですから自然とこうなっているだけでソニーさんを批判しているワケではないですので誤解のないように。


まあ、フュージョンというジャンルはどちらかというとメロディが一人歩きして背景の気の利いたハーモニーすら必要ないほど「唄えて」しまうような所に、各プレイヤーの脂ぎったリフは希薄になりシンセやらがやたらとポリフォニックに攻めて来る(笑)。こういう潮流に飲まれオーセンティックなスタイルを堅持していたクロスオーバー類はほぼ駆逐され(笑)、音楽界の変貌に合わせて止せばイイのにフュージョン界は一緒になって競争してしまおうとするんですなあ。コレにて失敗します(笑)。そんな時代にオーソドックスなフュージョンを聴くことが出来たのは私としては嬉しいコトでもあったワケです。


デジタル音色といわれるシンセに覇権が移ると最初に駆逐された楽器パートはドラムでした。でも、どこかで汗臭さを残したジャンルでは腕を競い合い、ギター・ソロやらベース・ソロやら、その手の楽器の速弾きプレイはもてはやされたモンですが、いずれはこれらの楽器も忌避されていくとは当時はまだまだ思いもよらなかったものです(笑)。


まあ、そんな過渡期に生まれた正統なスタイルのフュージョン・アルバムが「スティル・ライフ・ドーナツ」だったワケですな。私としては渡辺直樹が聴けるだけで満足だったワケですけどね。


で、私は以前から公言している通り、人生初のCDプレーヤーを手に入れたのが1985年の6月頃でしたでしょうか。CDソフトとして入手できるモノはまだまだ少なく、CDとしても聴きたい(ホントは自分が所有するアナログ盤の方で、どんな手を使ってもプチノイズが発生してしまうアルバムでCD化されているものを優先して入手)アルバムを買わざるを得なかった時代です。グローヴァー・ワシントンJrの「ワインライト」シャカタクの「ナイトバーズ」EW&Fの「黙示録」渡辺香津美「桜花爛漫」などですね(笑)。

これらのアルバムの中で、今でこそ「音圧上げ」(最近では音圧上げそのものがようやく忌避されるようになりました)と言われるテクニックでCDのピークメーターだけでなく底上げもされていたアルバムがEW&Fの「黙示録」でありまして、なかなか当時から参考になる位音圧を上手い具合に稼いでいたCDだったと思います。少なくともレイ・ヘイデンがプロデュースしたクレモンティーヌの「男と女」が出るまでは、数あるCDタイトルの中でもEW&Fの「黙示録」の音圧の稼ぎ方は1、2を争うくらいでありました。


音圧上げるのを賞賛しているワケではなくてですね、あの時代にそういう方法論を確立していた人が既に居たというのが驚きなのでありまして、シンセ界ではそのシンセの持つキャラクターばかりを欲して皆が画一的な音になってしまったり、どこかZTTサウンドを追い掛けてみたりとか、そういう胡散臭い時代にフュージョン界は完全に飲まれてしまったワケですな。

後年、このようなデジタルの波に飲まれた音楽ジャンルは多岐に渡りまして、その反省からか、手のひらを返したかのようにアナクロニカル路線への回帰というブームがやってきます。奇しくもテクニック系の音楽が駆逐されようとして古き良き音楽を掘り起こすような潮流はプログレ界においても例外ではなく、カンタベリー系の再認識がほのかにバカラック再認識ブームという陰でうごめいていたモノでございます。とはいえどんなジャンルも干支が一回りするくらいのスパンで輪廻したりするモンですが、大体5年アクティヴになって7年引っ込む!みたいなそんな感じで多くのジャンルって回帰していたりする所ありますよね!?そういう風に捉えると、現在は80年代中期から干支がふた周りした位の感じで見ると釣り合うのかもしれません。


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時代背景はこの際どうでも良いのですが、村松健の「スティル・ライフ・ドーナツ」の再発リマスタは結局の所どうなのか!?というと、CDレベルで比較するだけでもやはりリマスタ盤は音のフォーカスも全然違います。絶対的な録音(音圧)レベルも違いますが、分離感がさらに明瞭になっているのは明らかで、同じCDクオリティとはいえども二昔ほど前のCDの音というのはこれほどまでに違うモノなのだと実感させられます。因みにリマスタ盤はSACD対応となっているため、私は敢えて過去のCDと比較する上で「CDレベル」で語っているのであります。手っ取り早く周波数スペクトラムを見るだけでも違いは一目瞭然というのがお判りだと思います。

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CD黎明期というのはAD/DAコンバータというのも結構クセがあったのでしょうか、結構高域のロールオフが低い方から出現したりとか、走査ノイズ走ってたりとかあったりするんですね。まあガゼボの1stとかリマスタ前の伊東たけしの「ディア・ハーツ」とか周波数スペクトラム見るとビックリする位、当時のデジタル音声って結構荒々しいんだな、というコトを古い盤であらためて確認できちゃったりするんですね(笑)。


まあ私だってMacで音楽制作をする上で、シーケンサーとオーディオ・データを同期させるような環境を扱うようになったのはDigital Performerだったワケでして、この頃のオーディオI/FなんてDATの録音待機状態でやり取りさせていたんですから時代を感じます(笑)。それが今から17年くらい前のコトですね。最近じゃあ生まれて物心付いた時から消費税があった!なんて人に多く出会すようになったモンでして(笑)、消費税が登場した頃辺りのデジタル・オーディオ信号のやり取りなんて意外に結構いい加減だったりしたモンです(笑)。


なんだかんだ言って2011年という今、CDというメディアのフォーマットはそれこそレガシーなモノなのかもしれませんが、意外や意外。まだまだきちんと記録できるモノなのだなとあらためて痛感するのであります。古い当時の盤をお持ちの方なら如実に判るかもしれませんが、例えば「New York、Cloud 9」のイントロの北島健二のシングル・ミュートのプレイなんて如実に聴こえてくるんで劇的に違いを実感するのではないかと思います。

私の場合は、以前Kクリにおいて旧盤にて「New York、Cloud 9」を着メロリリースするにあたって耳コピした時、意外にこの北島健二のパートに難儀した覚えがあったので今回あらためて私は違いを実感しましたねー。

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まだまだCDも捨てたモンじゃない!と言えるワケですが、だからといってSHM-CDも一緒に評価を上げようとしてもソコはチョット頷けない所があったりする左近治です(笑)。でまああらためて「スティル・ライフ・ドーナツ」の旧盤と新盤の周波数スペクトラム状況を比較して確認するだけでも、同じCD-DA再生とはいえども年月を経てみるとこういう違いを生じたりするモンなんですね。CD黎明期の頃のデジタル録音における方法論というモノが現在のように成熟しておらず画一的な中での模索とそれと相反する妥協の産物という側面があったと思うんですが、当時のそれが総じて悪いモノと言いたいワケではありません。音圧稼いでいればイイというモノでもありませんしね(笑)。CDという枠に収まるフォーマットでも時代を経るとコレだけ違うモノなのだ、というコトをあらためて実感していただければイイのです。

私の場合色んな側面を斜に構えて見る傾向があるためか、それこそ常にネガティヴ志向みたいに思われてしまうかもしれませんがそんなコト無いんですよ(笑)。よくいるじゃないですか。自身のストレスの捌け口として他人様の良心を巧みに利用しながらズケズケと文句や批判を繰り返すような人。そういう人と同様の近視眼的な捉え方で批判やらネガティヴ・キャンペーンを繰り広げていると誤解のないようにご理解いただきたいんですな(笑)。


まあ、批判だけを繰り広げている人のタイプの特徴的な所は、物事の捉え方が皮相的で幼稚だったりします。その批判的なポジションを成立させてしまっているのは自身の未熟と無理解によって構築されてしまっているコトを本人が気付いていない事が多いワケですな(笑)。自分自身の理解力の無さに激高してくれればイイのだけれど、概ね、その怒りの矛先はチョットばかりモラル意識の高い人の良心を逆手にグチを聞いてもらったり、或いは酒のチカラに任せてクダ巻くとか、その手の人多いですよね。無下に扱ったりするとケガしかねないので、どうにかこうにか丁重に扱わないとイケないのでありますが神経使うワケですよね、この手の人達は(笑)。

その手の人は、概ね否定的なポジションで批判する側としての立ち居振る舞いであるコトが楽なモンですからそうそう自分の生き方変えません(笑)。ところがホントは自分が批判されるポジションに行き着きたくないがために批判する側に延々と居座るケースが殆どだと思うんですな。概ね努力の足りない人間というのは本質を知る為の道程を歩いたりするコトをしないので、時間をかけて得た物や知識は非常に薄っぺらいモノになるのが常です。でも、この手の人達ってぇのは大声やら嫌がらせの類となるようなエネルギーの使い方だけは人一倍なんですわ(笑)。良識ある人間が割を食うコトなど日常茶飯事なんです。本当に懐の深い人というのは心が淀んでおらず疑うコトもなく悪気が無いモノだから、一旦悪意を持つ人間に遭遇して、それこそ他人の良心にツケ込むタイプの人間がこういう善意の塊みたいな人に出会うと、度を超して非礼被る事になってしまうのも事実なんですな。

きちんと順を追って学ばなければいけないのに、そんな過程で外部からやいのやいの言われて集中出来なかったりしたコト、誰にでもあるんじゃないでしょうか。殊更音楽という世界では、外野からは忌み嫌われるかのように嘲笑されたりするのがあっても不思議ではないですからね。無理解の人達が足かせになってしまうコトって結構多く遭遇すると思うんですよ。


ハナシを戻すとですね、CDが悪いのではなくアナログが悪いのではなくSACDが良いのでもなく、近視眼的な発想で物事捉えてるよーじゃ少なくとも左近治の語って来ている楽理的な部分はまず理解できませんぞ、とあらためて言いたいのであります。そういう意味でも私の斜に構えたポジションというのはそういう人をも惹き付けながらもフィルタリングしているのでありまして(笑)、こう言ってはアレですが千客万来の姿勢では全く無いんですわ。客千人来てくれようが理解できる人は5人くらいだろうな、みたいなコトを述べているので(笑)。

誰が得をして誰が勝ち組で、とかそういうのは関係無いコトなので、せめて音楽においてはいくら未成熟であろうともキッチリ腰据えて身に付けないとダメなんですよ。今理解が難しくても耳や脳に経験させるだけでも後々違いますからね。


で、CDというフォーマットの新旧を比較出来るような時代になったものの、旧盤が常に劣るというワケでもありません。CDという役割はもっと別な役割もあるはずなので。

CD世代というのは、レコード時代にはよっぽど神経質にケアしない限りプチノイズのような針の拾うノイズは耳にするコトがないと思うんですが、世にリリースされているCD全てがアナログ時代のノイズが皆無の音を耳にしているのか!?というと全然違うんですよね(笑)。それこそ耳を済ませばプチノイズは無くともマスター起因のテープヒスがあったり、マスター起因のハムノイズが乗っていたりする音源だって珍しくありません。

それを忌み嫌うかのようにリマスターしてみたら、ノイズ除去のアルゴリズムがまだまだ黎明期のモンで、結果的に楽曲本編の音をロスさせてしまっていたり、フェードアウトが早かったり(笑)、或いは元の音源相当ノイズが多かったのか、チャタリング起こしながらCDになってたりとか(笑)、こーゆーの珍しくないワケですよ。

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先のハットフィールド&ザ・ノースの再発絡みだって、本当は盤起こしってアフターズだけじゃないんですよ(笑)。しかしながらロッターズ・クラブの旧CDのMumpsの終わりのチャタリングはアレ、あまりにも酷すぎだろ!とか思っている古いファンは絶対存在するワケですね。じゃあ盤起こしとしてリマスターしましたけどどうでしょう!?みたいなのが今回なワケですな。人によっては盤起こし起因のプチノイズがCDに入っているなどけしからん!!!と思う方もいらっしゃるでしょうが、いずれこの手のリマスター・ビジネスというのは色んな手法が施されて行くとは思うんで、モノホンのマスターが消失していない限りはいずれまた別のカタチでリリースされるのではないかと左近治は読んでおりますが、いつ遭遇するかも判らない次へのリマスターを心待ちにしているのではなく、左近治は常にその状況を悦んでいるのでありますな(笑)。無論、ファンの一部には「アレよりもコンディションの良い盤を持ってるぜ!」みたいにほくそ笑む方もいらっしゃるコトではありましょう。

いずれにしてもCDの盤起こしというのは「CD世代」の一部の人からは些か信じ難いクォリティなのかもしれませんが、私自身はこだわるべき点はそこではないのでどちらでも構わないというスタンスです。盤起こしではない究極のノイズレスのリマスタリングというのはそれはそれで魅力をかき立てるモノでもありますが。だからといって無秩序に盤起こしを許容するというコトではありませんので誤解のなきようご理解ください。少なくとも「SHM-CD」という通常のCDとは異なる構造で音質に寄与しているというフレコミの盤質(笑)なワケですから、そんなフレコミのSHM-CDが盤起こし出しちゃうようでは本末転倒だろうなとは感じます(笑)。この時点で大手レコード会社がSHM-CDの付加価値を無価値にしたものと等しいのではないかと感じるのでありまして(笑)、イタズラに旧盤、特に放っといてもそこそこ回転してくれて売れるアイテムを廉価で売らなくともソコソコ売れそうなモンだから、そこにアレコレ手ェ付けて品番変更に伴う言い訳程度の再発でSHM-CD仕様煽ったりとか(笑)、こーゆーの多いじゃないですか。こういう風潮を改善されると世の中良く回るんでしょうけれど(笑)。

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再販制度に伴うデリケートな問題を含んでいるのがSHM-CD仕様の事情というのもあるのは確かでしょう。いくら価格保護をしているからといってそれは永続的なモノではなくて2年が限度なワケですわ。2年したら消費者から「安く売れよ」と言われたらホントはそれに応じなくてはならないのがCDの再販制度の事情なワケですね。

企業側はこういう盤を駆逐するために難を逃れようと品番を変更したりして手段を講じるワケですな(笑)。そもそもCDや書籍の再販制度というのは価格保護が消費者のためになっておらず小売店のためのモノとして活用されてしまっているのがダメダメな点だと思うワケです。粗利をある程度確保できる所に乗じて卸先もそれを見越して小売店に一定的な取引額を迫る。小売店としては自分の欲しく無い商品を仕入れたくはないが返品に応じてくれる契約なら致し方ない、というワケで取引をすると。書籍なんて小売店側からすれば返品自由な商品なワケです。卸側の方は返品リスクを常に伴っている。つまり価格保護(小売価格)がされている一方で粗利額が膨れ上がる。書籍などCDよりもさらに粗利を確保できるワケですが、返品リスクを鼻から反映することで粗利率が膨らんでしまう。これを許容してしまっているのが現在の再販制度になってしまっているワケですな。つまり、業者側のリスク回避が消費者のツケとなっている価格保護は本当に消費者のためなのか!?というコトですな。こんなコト熱く語る必要ないんですけどね、別に(笑)。


まあ、色々言いたいコトは多くなってしまうワケですが、いずれにしても古い音源が新たなカタチで流通されて手元に届くという喜びがある一方で、CD再発やCD化すらされていないコンテンツが色んな事情でリリースされない事情が再販制度に関わるコトがリスクを伴うようでは本末転倒なコトだと思うワケですな。今となってはCDとしての希少価値の高いレアアイテムを手にしたいというファン心理を操りながら、CD卸業者が直販するワケですな。小売店を介さない価格ですから粗利率としてはかなりのボロ儲けだと思うんです(笑)。ここまで粗利確保をしてやって数を見込めないとCDにしてもらえないモノなのか!?というトコロにギモンを抱いていただけると助かるワケですなー(笑)。直販してもイイからもう少し消費者の声実現してほしいという人だっているでしょうし、直販するくらいなら小売店なくせ!とか言うヒトもいるかもしれませんが(笑)。

まあいずれにしても今のCD業界とやらがあらためてよく判るというモンです。旧作のリリースというのは色んな側面を投影しているワケですなぁ。