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8つ目の「階名」 (2) [楽理]

ハ長調において色々突き詰めていくとFis音(=F#音)を導入したくなる時が頻繁にあるので、いっそのことこれを8つ目の階名として導入してみたらどうだろう!?


こういう事が既に1000年も前に議論されていたのは驚きの事実でありますが、やっぱりそれまでの世界観で閉じ込めておいた方が音楽としてのポジションは安定したのか、そこから何百年も議論されることなく、結果的にその後時が経過して中世に入り、二重導音という扱いのカベに当たる時に再び議論が生じるワケですな。


8つ目の階名やら二重導音というのは、これまで左近治が語っていた所のハイパーな和声観として語っている一部でもあります。左近治が異端なのではなく、多くの音楽家は1000年も前から導入しようとしていたコトなんです。しかしながら現在においてもそれを導入しようとせずに、ジャズの世界にあっても異端な扱いをされがちなのは、基盤となる理論が何世紀という時を経過しようともさほど変わっていないという嘆かわしい事実を受け入れつつ、ホントはもっと異端であってイイ筈なんだよね、と受け止めてイイ筈なんです。

一部のジャズ・ミュージシャンは、左近治のハイパーな和声観というのを突き詰めておりますが、正直なトコロ比率としてはごく僅かでありまして大多数はいわゆるポピュラーな音楽観に収まる所でジャズをやっちゃっているのが事実であります。ジャズであろうとも、ですね(笑)。

ジャズというジャンルではなくとも、クラシック界隈やプログレなど一部の「異端な」音楽では、一般的な世界観に収まるコトのない音楽観で構築されていたりするワケですが、なかなか遭遇する事が無いのが現実なのではないでしょうか。また聴き手もこういう感覚を持ち合わせていないためになかなか理解をしてもらえないという向きもあるワケです(笑)。

で、二重導音という事象だけをピックアップしてみても興味深いことに、中心軸システムにも目を向けることのできるモノでありまして、いわゆる増四度/減五度という音程幅を持つ「対極」側へ感覚を向く指向性というのは、もはや人間の感覚としてもそれは不可避だったのでありましょう。


なんでそーゆー風に結び付けるの!?とギモンを抱く方もいらっしゃるかもしれませんが、今日、我々は平均律という音律の下で楽音を繰り広げているワケですが、オクターブを12個に分けたというのも或る意味では不可避だったのかもしれませんし、それは人間にとって好都合でもあり、そちらに耳傾ける必要があったというかマストとなるべきモノであったと言えるワケですな。これは「知覚プロセス」という意味における、神経面がそうさせている、とも言えることなのかもしれません。

んで、都合良く12音を得て、音律も平均化したとなるともうその時点で協和音程ですらも協和性を弱めたコトになるわけですね。コレは言い換えると不協和度も弱めたという事に等しいワケです。


そういうシステムを手にすると自ずと高次倍音にさらに目を向ける(耳傾ける)コトになるワケで、通常我々が一般的に取り扱うポピュラーな音楽理論というのは「低次」レベルの倍音の「振る舞い」を好意的に解釈しているのであります。第7次倍音を「7th(=短七度)」と扱うコトで培われているワケですな。

しかしながら、さらに高次レベルに目を向けると4オクターヴ上に行く直前に出現する第15次倍音の存在を耳にするコトとなり、結果的にコレを好意的に受け止めることで、根音と短七(=増六)、長七を混在させるような解釈が必要とされるようになってきたワケです。

それらの「半音」の集合体というのは根音と7度に集中するように目を向けるだけではなく、あらゆる音程の周囲の半音音程に目を向けるコトにも等しくなり、長三度音を含む和声の中の増二度はもちろん、属和音とカテゴライズされる和声の中のナチュラル11th音という取り扱いも同様となります。ココに目を向ける理論が一般的には馴染みが薄いので、これを少数意見と忌避されがちな部分でもあるんですが、正直な所、ある程度高次なレベルで楽理を追究するとですね、クラシックもジャズもココは絶対通る所なんです。絶版にもなっていない理論書もきちんと存在し、対位法が確立され、平均律が市民権を勝ち取りドビュッシーやらサティやらバルトークやらハチャトゥリアンやらカバレフスキーやらシェーンベルクやらヒンデミットとか出てくると途端にこういう「高次な」方向の音を使ってくるワケですな。

「低次な」方のジャズというのはこれらの世界を適用してはおりませんが、一般的にモード・ジャズを採用するコトで「高次な」音の扱いをジャズ方面でも行うようになりますが、ブルーノート1500番台やら4100番台くらいまでで満足しているような方々の殆どは「高次な」扱いのジャズの語法は習得出来てはいないのではないかと思うんですな。残念な事に(笑)。


Pelleas_Melisande.jpg
で、「高次な」世界観というのは既に先ほども列挙したように数々の作曲家が導入していたワケですな。ドビュッシーはラモーに捧げる曲を書いておりますが、このラモーという人も近代の和声において欠かせない人物なのは言うまでもありませんが、ペレアスとメリザンドで用いられる通称「ペレアスの和声」というのは私自身これまで幾度となく用いておりますが、それがドビュッシー出自でなく使う人だって居るかもしれません。しかし先人達は既にその和声の魅力を発見しておりますし、平均律化させた以上、和声という集合体はやがて誰もが同じモノを利用するだけでしかない「枯渇」した状態が現れるのかもしれませんが、大きな視野で見た場合の「和声観」というのは枯渇してしまうのかもしれませんが、その和声を得るための全てのモチーフやらが全て同じ旋律になるのかというとそういう事ではありません(笑)。

三度を幾多にも累積すると、ポピュラーな音楽理論の範疇では13度までしか扱いませんがそれは何故なのか!?という事を問うと答えられる方はそうそうおりませんでしょうから左近治が語ってしまう、と(つづく)。