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嘗ては無学な音だと思っておりました (4) [楽理]

それでは前回の続きとして、もう少しだけ「Subway Music」の楽理的な部分について詳しく語ってみたいと思うのでありまして、その辺をもう少し突き詰めていこうかな、と。


スコット・ヘンダーソンにある「あの」特異なアプローチというのは曲中で全部で3回出現しまして、1回目&2回目は前回述べたアプローチ同様なんですが、実は3回目というのはアプローチが違うんですね。

Cismoll_Fdur01.jpg音を拾えばそれらは同様にドゥアモルの和声を導くことができますが、それまでの「Cis moll + F dur」ではなく、「D moll + Fis dur」として説明しないといけなくなってしまっているワケなんですな(笑)。


「半音上げただけやん」


こういう風にしか探れない人は正直なハナシ、楽理面覚えても全くセンス無しです(笑)。豆腐の角でアタマぶつけるコトをオススメします(笑)。


いやぁ~、確かにその音列は「Dm7 + F#△」を導くコトとなり、1回目&2回目と比較すれば半音上のアプローチとして見るコトは可能ですよ。しかし、このアプローチを執るシーンというのは全く同じ箇所なのに、なにゆえ「半音上」からアプローチを行うのか!?というトコロを突き詰めないと左近治らしくありません(笑)。その辺を語ってみるコトにしましょうかね、と。



Cismoll_Fdur02.jpg結論から言うとですね、1回目&2回目の時の「C#m7 + F△」は、背景のコード(C#)に対してドゥアモルのマイナー側の方をインポーズさせておりまして、3回目の方は背景のコード(C#)に対してドゥアモルのメジャー側をインポーズさせているんです。


dm7_Fisdur.jpg但し、メジャー側をインポーズする際、F#メジャーというのをあてはめるのではなく、元々生じていた(1回目と2回目の時の)C#mというマイナー・トライアドの5th音から鏡像音程つまりミラー・コードを想起して「F#メジャー」を導くコトで、F#メジャーのペアとなるドゥアモルの和声のマイナー・トライアドを導くと自ずと「Dm」を導くこととなりまして、ドゥアモルの和声の「長短」の一方の方のインポーズというやり方と、それに加えてさらにマイナー・トライアド側のミラー・コードの想起による「結果的に半音上のアプローチ」という重要な2つのアプローチをお勉強するコトが可能となるんですね。

就中楽理面を学びたい人は、単純に「半音上」という解釈にとどまってしまうのではなく、その先にある動機や誘因を探らなくてはならないのであります。無論、そこを判るようになるまで左近治も月日を費やしたモンです、当時は(笑)。この曲のそれがあまりにもあからさまで奇異だったからこそそこまでの探究心が生まれたコトは言うまでもありません。


しかし、同じ音を学生時代の文化祭で誰かの音で耳にしようものなら、どんなに高次な言い訳があろうとも尾てい骨上足で蹴り飛ばし、顎を掌底数発見舞ったかもしれません(笑)。人によってはそれくらい忌み嫌われてしまうくらいのキケン度の高い音であることは言うまでもありません(笑)。ヘタすりゃ低次な所でのさばってるなんちゃってジャズ屋さんがオイシイ酒で出来上がっているトコロにこの音聴かせた日にゃあカラまれてくるのが関の山だと思うんですよ(笑)。「おめー、ホントにジャズ知ってんのかよ!?」みたいに(笑)。

「アナタよりかは知っているとは思うんですが・・・」と言っても時既に遅し・・・。概ねこういう席では引き下がった方が後々どっちもケガしないで済むモンでございます(笑)。場所が変わればシャンソン聴かせてくれる店でカンツォーネを要求する客が来るコトだってあるのが酒場の世界ってぇモンよ(笑)。まあ、ホントは無視したい所なんですが、無下に対応するだけでも相手に対して角が立つワケですな(笑)。だからといって客の足元見て手加減できねーし、なんて考えてもしょうがないから、その辺の客が喜びそうなヤツでお茶を濁したりしてオトナの対応で済まさざるを得ないコトだってあるかもしれません(笑)。


まあ、そんなハナシは扨置き、「ど」が付くほどのパワー・コード一辺倒が似合いそうな曲調におけるサブドミナント部でのドゥアモルの和声の当てはめ方というのは参考に鳴るのではないでしょうか。ドゥアモルの和声のメジャー・トライアド部に当てはめてたり、一方ドゥアモルの和声のマイナー・トライアド部(この場合ミラー・コードで対応)を当てはめてみたりと、当てはめ方にバリエーションはあっても、そこにドゥアモルの和声というハイブリッドな和声を当てはめているというのが、一般的な対応とは異質で超越した対応とも言えるでしょう。しかしながら、チェレプニン・スケールという特殊な音列が近接的な関係調的関係にある五度応答を伴う調的関係から生じている所を見ると、近接的な調がハイブリッドな状態(多くの場合対位的で多旋法な世界観を生じている時)にある時、そうした世界を呼び起こしたり、または無理矢理にでも近接的な調的関係を呼び起こしたりするアプローチとして用いるコトができるという大きなヒントに気付くことができると思います。

無論、あからさまにそんなアプローチを用いると、多くの場合は、スコット・ヘンダーソンのそれよりもさらに強い拒絶観を伴うようなフレージングになってしまうかもしれません。少なくともそれをさりげなく聴かせるためには、背景のアンサンブルやらリフの音形を利用した動機付けや、経過的にやり過ごせるような音価や音形を選択することが無難であるとも言えるでしょう。アウトサイドな世界は不要であるならばこういう例をわざわざ会得する必要はないと思います。ただ、甘いモンばっかり食ってりゃ糖尿になりかねませんし、そんな甘ったるい世界だけに浸って音楽を聴く人も稀有だと思うんですわ(笑)。少なくとももうメリハリは欲するモンだと思いますし、アウトサイドだと思って聴いてみても耳が拒絶する状態というのは、実は自身の能力がまだまだ未熟だというコトに気付いていない人のエクスキューズなんですが、ココを声高に言わない所がキモなんですよ(笑)。ココに謙虚に気付くコトが出来る人が次のステップに進めるワケなんですな。


楽曲分析と耳の習熟度というのは常に比例していなければならないと思うんですな。覚えきれないのはどちらかのパワーバランスが低いからでありましょう。ただ、かけ算の九九もままならない子供にいきなり平方根教えても無駄なように、物事にはある程度順序が必要なんですね(笑)。子供というのは早い内に自分が優位になりたいがために学ぶプロセスを省いてまで答を欲してしまうコトもあり、教える側を羨むように「なにゆえそんな学ぶステップの順序を説くことが出来るようになるのか!?」という立ち位置を得ようとするのでありますが、九九も会得していないような者が教鞭を執ろうとしてもチャンチャラおかしいのと同じコトでありまして(笑)、覚えるコト覚えてから自分を見つめなければならないワケですな(笑)。そもそも楽理覚えたさで無料コンテンツの何処の馬の骨かも判らぬようなブログの情報引っ張ってくる時点で少なくとも勝ち組になることは出来ないのではないかと自覚しつつ学ぶことが必要ではないかな、と。


まあ、左近治がこーゆー風に辛辣に語ってはいても、ここで謙虚に自分を見つめることが出来る人こそが可能性のある人なんですね、実は。義務教育なんて「義務」ではあるものの、義務というモノをなくしてしまえば自発的に覚えようとする子供なんておそらく相当少ないと思うんですな(笑)。ラク覚えさせてしまったらトコトンわがままになるのが関の山(笑)。一部の楽曲でアウトサイドな音があろうが(私が紹介する曲の中で)それは決して無学ではないんですなあ。説明もなければその辺のギター歴1週間のお兄ちゃんの無学な音とほぼ同じような音使いしちゃっているのかもしれませんが(笑)、実は全然違うという所を見抜くことができるようになるまでは少なくとも学んで行く必要があるのだろうと思わんばかりであります。


いずれにしても、音を羅列してみれば使うことなど難儀な奇妙な音並びとなってしまっている非チャーチ・モードの音階の中でも特異な音列に相当する幾つかの音列に「手軽な情緒」とやらを想起してしまおうとする所に無理があるかもしれないんですな(笑)。スケールライクに弾いただけで音階そのものの情感得られるような音並びなんて、フツー以外の所だとそうそう遭遇しませんからね。また、そうやって「情緒」だけを頼りにしてしまうと、本当の意味での非チャーチ・モードの性格って理解できないと思うんですよ。そういう所に惑わされるコトなく本質を見抜いて使いこなせるようになるのが理想的だと思うんですな。少なくとも「Subway Music」のスコット・ヘンダーソンのアプローチから学ぶべきことは非常に多いと思いますし、ただ単にアウトサイドとなってしまっている「うわべ」だけを見ても、その背景にあるものってなかなか見抜くことはできないと思うんですね。だからこそ愚弄するコトなくきちんと学んでナンボだと思うワケですよ。