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同主調ってヤツは [楽理]

扨て、今回のテーマは『同主調』。つまるところ「メジャーか!? マイナーか!?」ということにも繋がるコトであります。


楽理的知識に疎い人でもハ長調・ハ短調というようなコトバは耳にしたことがあるでしょう。つまるところ「ハ音」は同じなのに、長調と短調の違い、というコトですな。


ンなこたぁ、今更ココで語る必要も無いほど無粋な話題かもしれませんけどね(笑)、同主調という調的なカンケイってぇのは互いにどういう関係にあるのかを今一度探ってみると興味深い事実が見えてくるよ、と言いたいワケなんです。ですので、今回「同主調」をテーマにしているワケですな。


音楽メディアがレコードからCDになり今や配信モノにも変容しつつある中、とりあえず「アルバム」というカタチに収録されているのは、ある意味「アルバム」という総合的なモノがテーマとなって、そこに収録する楽曲数や尺の長さというのはレコードでは収まりきれない尺のものを収めるようになったのがかなり大きな違いだと思うんですが、今回はレコード・メディア時代の頃をも並行して語るコトにしましょうか。


日本のいわゆるポピュラーな音楽産業界ではCD隆盛が産声を上げる辺りから正直なトコロ「アルバム」という形が希薄なモノとなりつつあって、アルバムをリリースしてもそれ自体が「シングル・ベスト」と揶揄されるような売り方にシフトするようになりました。今もこの流れというのはポピュラー音楽界隈では引きずっているように思われます。

つまるところ、シングル曲を追い掛けていれば結局の所アルバムはそれまでのシングル曲の寄せ集めでしかないワケで、シングルでリリースされない曲をアルバムに収録したとしても、シングルとして売っていない曲は訴求力が弱いのか、そこからヒットを生じるというアルバムならではの曲のクオリティというのは「ほぼ皆無」と言ってイイほど、アルバムそのものが持っているテーマやコンセプトというのは希薄になってしまったというのが現在の姿。


これがレコード・メディア時代に遡ると、アルバム作りのためにアーティストは注力して、そこに収録されている楽曲からヒットが生まれたりしていたりしたモノでして、アルバムというモノに対して一定のテーマを与えて制作に勤しんでいたというのが主流だったように思えます。

まあ、アルバムに収録する曲というのもアルバムのテーマに沿ったモノを選別して収録したりなど、アルバム収録が叶わなかった楽曲というのも昔は結構多かったりするんじゃないかと思うワケですが、そんな時代についてひとたび振り返ってみるとアルバムのための「選曲」という重要な作業において「関係調」を意識した楽曲の構成、というモノを耳にしたコトがあります。つまるところ、楽曲同士がある程度調的な近親性を持って収録されているアルバム作りという意識の高まりを意味しているもので、確かに昔のアルバムで「統率された感」のあるアルバムというのは調的な関係で近親性を持った「関係調」を意識しているような構成になっているものは結構多いと思われます。勿論、全てがそうではありませんけどね(笑)。


例えばCメジャーの曲があったら、次はEマイナー。これはハ長調を基準にすれば平行調の属調の同主調ですね。変ホ長調があればこれはハ長調の同主調の平行調、というコトになるでしょう。

アーティスト自身に調性の得手不得手があって、偶然それが関係調やら近親的な調的関係になっているという偶然の産物というのもあるでしょうが、調的な近親性というのは平行調・同主調・下属調・属調のカンケイを呼び起こしながらどこかに近親性を見出すコトは可能でありますが、近親性が無くとも「名盤」というのは勿論存在するものです(笑)。

「シングル・ベスト」と揶揄されるアルバムが多い昨今、このような調的関係も見越してアルバム作りに注力しているという背景があるというのは今ではあまりピンと来ないかもしれませんが、アルバム作りに挑むあらゆるファクターを想定して作るというのは勿論評価されて良い側面でありますし、ある意味では至極当然とも言えるワケであります。まあ、平たく言えば「スゲー!」と言えるコトでもあるし「別に凄くねぇよ」みたいなコトでもあるんだ、と(笑)。

「至極当然」とも言える側面の理由というのは勿論ありましてですね、まあポピュラー・ミュージック・オンリーな人だと馴染みが薄いコトかもしれませんが、例えばクラシック界隈の楽曲の様式のひとつであるソナタ形式やらというのは関係調という近親性の高い調的関係にある曲を「組曲」として導入していたりする様式があるので、こーゆー側面から見れば調的関係を意識したアルバム作りというのは何も珍しいコトではないという見方からすれば「至極当然」なワケであります。


無論、調的関係を念頭に置きながらも他の楽曲との近親性が非常に希薄な調をワザと割り振ったりするコトも中にはあるかもしれません。1曲だけやたらと浮くワケですから色んな意味で目立つコトは間違いないでしょう(笑)。


とはいえ、原曲そのものに調性が希薄だったりするようなタイプの音楽のアルバムにもそれが当てはまるというモノでもありませんが、調性がクッキリハッキリ東芝さん!してるタイプのアルバムの調的関係を探ってみると興味深い事実が見えてくるコトもあるかもしれませんよ、と言いたいワケでして、概ね我々はそういう所に身を置いて音楽を普段耳にしているワケなんですな。


でまあ、「同主調」という肝心のテーマ部分に話題を戻しますが(笑)、楽譜の読み書きが出来る方もしくは器楽的な心得のある人であれば、「同主調」というのは下属調や属調のそれらと比較すれば単純な四度/五度の応答ではなく調号にも近親性が希薄で、表面的には「縁遠く」思われるかもしれません。しかしながら同主調においても四度/五度の応答というのはそれほど遠くない音程関係にあるものでして、ここには「変格」としての姿を実際に目の当たりにすることになるという興味深い事実が存在するんですな。

Cmajor.jpg











Cminor.jpg


今回用意している五度圏の図というのは、緑の半円状の矢印で示している方が「ハ長調」(=Cメジャー)、水色の半円状の矢印で示している方が「ハ短調」(=Cマイナー)を表しているものであります。


矢印の起点を12時の所にしておらずC音を軸として見立てているのは深い深い理由があるのでありますが(笑)、いずれにしても調的な性質というのは半円内に収まるモノでありまして、ハ長調の世界を抜粋するならば、ハ音を12時に配置した時は11時から5時に相当する範囲がハ長調を表しているというコトを意味するのはお判りだと思います。無粋ではございますが、平行調というのは(この場合Aマイナー=イ短調)同じくこの範囲に収まっているワケであります。ところが平行調のAマイナーというのは主音がCと違うのは明らかでありまして、CとAというのは図形的に見ると「90度」離れている関係に位置しているというのがお判りになるかと思います。

五度圏という図で確認する場合の「90度」という位置関係というのは、音楽においてはかなり重要な関係を意味しておりますので、この辺りを深く知りたい方は一度はバルトークの中心軸システムを学ばれた方がよろしいかと思うのでありますが、まあ、平行調という単純な関係であってもそれは90度の間隔を持った関係に位置しているというコトを念頭に置いてもらえれば今回はよろしいのではないかと思います(笑)。で、ハナシをさらに進めていきましょう。


それではまず、図のハ長調を示す範囲が11時に相当する所から端を発する理由から述べますが、C音という単純に「単音」が発生している状況があったとして、そこに「和声的に」五度で「共鳴する」音程というのはC音に対して上下等しく完全五度で隔たれている所に着目します。それは下に完全五度の音程差である「F」と、上に完全五度の音程差で現れる「G」というコトになりますね。これがC音に対して和声的に共鳴するということでありまして、C音を基準にしていようとも、和声的な共鳴関係は下の音程にも視野を向く(向かざるを得ない)というコトが生じるので、C音を12時に配置すれば自ずとそこからズレるような形でF音に相当する11時の部分からハ長調の調的な音列群として目を向けざるを得ないワケであります。無論、この「和声的共鳴」という基準とする単音に対して強固な牽引力が生じるシーンというのは、そこに結果的に生じた和声が短和音の時とも思っていただいて差し支えありません。


で、同主調の「ハ短調」。ハ短調というのは平行調(長調)が同様に存在するコトになります。それは変ホ長調(=Eb)というコトになりますね。ハ長調と変ホ長調というのは五度圏で表すと90度の関係で現れていることが確認できまして、五度の応答を用いればこの90度の隔たりというのは反時計回りに3回の応答を繰り返している事で呼び起こすコトのできる、比較的「近い」近親性を持っているコトが判ります。


濱瀬元彦著の「ブルーノートと調性」の方で強進行の調的牽引力の「根拠」というものを、本来の調性では出てこないはずの「チカラ」というものの発生プロセスを同主調においても語っております。私の場合はバルトークの中心軸システムの側を用いて説明していることなので濱瀬元彦の解釈を知りたい方はそちらを学ぶべきであります。


バルトークの中心軸システムでは、ハ長調の第7音。すなわちモード・スケールで言えばロクリアンに相当する音をルートとする和音(=減三和音)はサブドミナントとして扱います。古典的な扱いだとドミナントと同様に分類されているワケですが、これがサブドミナントとして解釈されるようになった経緯というのは中心軸システムと濱瀬元彦著のブルーノートと調性を理解すれば自ずと理解できることと思います。いずれにしても重要なことは、基準とする音が単音であれば和声的共鳴は上か下かに必ず音は存在しうるモノであり、そうして五度の共鳴によって構築された音列というのは正格の姿ばかりではなく変格の姿を垣間見せるというコトを強固に感じていただきたいワケですな。

C音に対して和声的に五度で共鳴するF音を生じるのに、人は強固にFリディアンという性格を感じ取るのではなく、概ねCアイオニアンとしての強固な姿を描くワケですな。ただ、図形的に見た時の「ズレ」というものはそこで「変格」という形を垣間見せるのでありますが、多くの人は耳や頭で正格に戻そうとするのでありましょう。最も情緒を得やすい形のアイオニアン/エオリアンという全容が判明しない五音音階などになっていれば、そこに正格という形を見出せなければ途端に色んな形で「変格」としてのバリエーションを人々は感じ取って、多くの変格という姿で五度の応答をどこかに求めながら時には基軸すらも変えて結果的に調的な世界の多様性を手にした、というワケですね。五音音階から生じる色んな可能性というのはそうして変格の姿を多く示唆することになりチェレプニン音階というのはそういう事例から生じているというコトを再確認できることにもなるワケです(つづく)。