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秋らしくなってきたワケですが [プログレ]




ようやく涼しくなって参りまして、暑がり左近治はようやく音楽制作に没頭できそうな今日この頃でございます。


とはいえ暑い日からチョコチョコ作っていたモノもありましてですね、例えばアイアート・モレイラの某曲やらGG(=ジェントル・ジャイアント)関連とか色々作ってはいたのであります。


まあ、先のGGの「Free Hand」で楽理的側面に触れてみましたが、リフというものは別に単旋律ではないわけですが、シンプルなフレーズで構築されているのは言うまでもありません。そんなリフのモチーフを延々拡大解釈させてフーガを書くことでありえるワケでありますが、旋律が持っている強固な情緒に惑わされずに「縦軸」としての和声感を鋭敏にすることで可能な限り体得することが重要、というコトを言いたかったワケですな。


先のGGの「Free Hand」だってイントロからずーっと「G#△/A△/F#」という和声が鳴り続けているワケではありませんし、F#から見れば完全五度と減五度と完全四度の「うつろい」がもたらすその様式美の中に「特異な」和声が忍ばされている、というコトを述べたかったのでありますな。


先の「便宜的な」コード表記では「F#m7(#11、13)」と表記していましたが、「F#m7(9、#11、13)」と表記した方がより正確ですので、その辺りはお間違えの無いようご理解願えたらな、と。


旋律の持っている情緒に引き込まれてしまっていると、この「特異な」和声を聴き逃がしたり、あるいは「経過的なブルーノート」程度の解釈に収まってしまうかもしれませんが、和声的な感覚を鋭敏にしてトコトン原曲の魅力に触れるためには、こういう所で埋没してしまってはいけません(笑)。


ジャズの世界においてもそうそう触れることのないような和声なんて、別にジャズの世界でなくとも普通に存在するものなのでありますが、ジャズというのは各プレイヤーの適宜解釈によるインプロヴィゼーションがキモとなるので、演奏や和声そのものを制限してしまうと返って面白味が無くなってしまうのも事実ですが、特異な音を弾いてくれない時だってそりゃあるとは思います(笑)。いつ何時観ても聴いてもその音に出会わない場合は、プレイヤー自身に何らかの問題があるのだとは思いますが(笑)。


とはいえ、音楽によってはジャズのような高次なハーモニーを導入して楽曲を構築しているものがジャズ以外の世界ではポピュラーではないかもしれませんが、こういう楽曲は結構多いモノであります。


経過的にしか聴こえずとも鋭敏さを養おうとする方ならば、少なくともこういうジャズ以外のジャンルに目を(耳を)向けて研究するのもアリでしょうし、正直こういう方が早道かもしれません。


民族的なエッセンスがある楽曲やら高次のハーモニーを追究する音楽においては、「特異な」響きというのが顕著なのでありまして、それらが一瞬で消え去ってしまうようなものではなく、寧ろ「聴かせて」くれるモノなので、こういう楽曲から学べるコトは実に多いと思うワケでありまして、そんな特異な響きを無理してでもポピュラー・ミュージックにあてはめろ、とまでは言いませんが(笑)、そういうエッセンスを忍ばせるということなら幾らでも可能であります。想起するモードがチャーチ・モードでないという統率感さえ備えれば可能なのでありますよ。


まあ、「そんな特異な世界とやらを声高に語る必要もなかろうに」と思う方も中にはおられるかもしれません(笑)。無論その手の人達であれば私のブログなど興味など示さないとは思うんですが、「そんな事などポピュラー・ミュージックには無縁」などと思ってしまうことに落とし穴があると思うんですな。


その理由に、ポピュラー・ミュージックにおいても局面々々では「ドミナント離れ」と呼ぶに等しい、解決感の暈かし、つまりは中和感など今に始まったコトではなく、分数コード(onコード含)などでも頻繁に多用されているワケであります。そういう技法がありながらも特異な色に染まらないのは、チャーチ・モードを想起していることが多いために特異な感じを極力出さないようにも演出していたりするワケでありますな。


こういう風に音楽を追究してみると、チャーチ・モードと訣別しろとまでは言いませんが(笑)、チャーチ・モードからの離脱感覚を養いながら背景の和声感覚を養う、というコトが重要になってくるのではないかな、と思うワケでありまして、こういう世界をオリコン・チャートでランキングされているような曲から見付けるというのは無謀かな、と思うワケでもあります(笑)。


例えば、ジャズの世界においても演る側以外の人達(例えば評論家など)で、器楽的な心得が全てあるとは言えないと思うのでありまして、器楽的な心得すらない人が楽理的側面で語ることができないのか!?というとそれは違います。和声の構造さえ理解できている人ならば、それを分析することが可能であるなら語ることは可能でありましょう。


しかしながら、楽理的側面で語るというのは美辞麗句や形容詞の羅列で文章を構築することができない世界でもあると思いますので、決して雰囲気や感想程度で真実を語ることができない世界でもあるんですな(笑)。


雑誌のアルバム評やら目にすることがありますが、楽理的側面で語っていることなど皆無と言えるでありましょう(笑)。全ては雰囲気そのもので伝えております。雰囲気で語りやすい楽曲が紙面をにぎわせ、それらがいつしかポピュラー化&スタンダード化していくのは私にしてみると「もう、そんな手法やめましょうよ」と言いたくなるくらい辟易しているモンなんですな(笑)。


楽理的な知識はおろか器楽的な心得すらもたないリスナー向けなのだから仕方がない、というのは逃げ言葉でありまして(笑)、ソコが無責任だからこそ、リスナーはもっと無責任に自分の矮小な世界の好き嫌いだけで音楽を判断してしまうようになっちまう、というワケなんですよ(笑)。


つまり、その手の人達の好き嫌いの「好き」にフィットしない音楽は全てNGになりかねない、と(笑)。


最初は誰もが楽理的なコトなど知らないワケなのだから、その辺も上手く伝えるようにしながら作品の本質を語ったり分析したりしないといけないのではないかなー、という思いがあって、左近治はこうしてKクリとリンクして「レコメンデッド」しているワケでございます(笑)。「雰囲気」だけを伝えてくれる人など真砂の数ほどいるワケですから、そんなコト左近治が語る必要もありません。


いい曲ならば、音程さえ採れていればどんな人が歌っていようが私は構わない、というスタンスなんですな(唄モノだったら)。だから歌詞なども二の次三の次です(笑)。歌い手の容姿も無縁。これらの要素というのを排除して音楽の魅力を語れればなー、と思っておりますので、その辺りは今一度ご容赦願いたいな、と思うワケでございますよ。


とまあ、文章でダラダラと書いていても限りなく冗長になってしまうだけなので、音の方で示さなければならないかなーとも思うワケでありまして、先に挙げたGGの「Free Hand」の方を今後着うたでリリースしてみよっかな、と重い腰を上げて制作を終えた所でございます(笑)。


旋律的なアレンジに肝心の和声感を埋没させてはいまいか!?と、「Free Hand」にとことんハイパーな和声を与えて、聴き逃してはならない重要な和声感をこれでもか!とばかりに和声タップリにアレンジしたモノを近々披露することになると思いますので、GGの名曲とやらにあらためて魅力を感じていただきたいと思うことしきりであります。


例えば、一発モノなんてぇのは各奏者とも共通して描いているモノがありまして、それが「モード」であります。ジャズのソロ部分でない限りは、モードという統率があって、その支配下で自由に各パートがリフを連ねているようなのがいわゆる「一発モノ」なんですな。「一発屋」のコトではありませんからね(笑)。

だからといって、一発モノの中のリフにおいてもポリ・コードのように聴こえる要素はあれど、それを分数コード化させてしまったりするのは論の外でありまして、意図的にそれをポリ・コードあるいはハイブリッド・コードのように聴こえさせるというアンサンブルになっていなければ一発モノでしか有り得ないワケですが、一発モノとして聴いていてはいけないシーンがあるのも事実なんですな。


一発モノ系に耳慣らされてしまった人が陥りやすい、旋律の情緒への没頭。これが背景にある和声感を大きく阻害してしまって気付かない人というのが実に多いワケでありまして、その辺に一石を投じて語らなければならないだろうという想いもあってGGの「Free Hand」に手を付けたというワケでございます。


いずれにしても既成のコードやらでは端的に表記することは極めて困難でありまして、便宜的なモノとしていずれは表現しなくてはならないのでありますが、この辺の混乱を招きたくないがために、まーた話題が冗長化してしまうのは明白なのであらかじめお断りをしておかないとマズイかな、と(笑)。