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グリッサンドを例に [楽理]



またまたアウトサイドのアプローチについて語ろうと思うワケですが、「なにゆえソコまでアウトな音にこだわるのか!?」と思われる方がいらっしゃるでありましょう(笑)。


まあしかし、アウトサイドな音への欲求に対してそのような「素朴な疑問」を抱く時点で、そのような方は自身がアウトサイドな音を欲していない感性の表れだと思っていただいてよいでしょう。アウトな音が万人に必要な音でもありませんし、机上で学んだところでそれを操ることができるようになるのは限定されてくるのでありまして(笑)。

あらゆる音階を覚えて「スケール博士」になった所で、それを使うための根拠に執着すれば誰でも杓子定規の「アウトな音」は得られます(笑)。それらの根拠を元にあらゆる音階を用いようが、フレーズがただの音の羅列になってしまえば言語道断。それらを覚えてもその先の「フレージングとしての歌ゴコロ」が備わらない限りは、本当の意味で使いこなすのは難しいワケであります。

器楽的な心得が非常に浅い人が、フレージングを間違って弾いてしまい、その間違った音に対してムリヤリな根拠を導入してアウトサイドなアプローチだからと弁明してしまう人を生産しかねないワケでもあります(笑)。

異性を口説くにしても、テレビや雑誌で見かけた口説き文句をそのまんま使ってカッコイイことなどありません(笑)。中には通用しちゃうコトもあるかもしれませんが(笑)、いずれその手の化けの皮ははがれるモノでありまして、自身が感性を備えた上で目の前の相手に対して対等にコミュニケーションを取っている中で出て来る自然なボキャブラリーの豊富な言葉の方が断然説得力があるのは明白ですよね。音楽もそれと等しいワケですな。

正確にフレージングをすることすらおぼつかないような人がアウトサイドなアプローチを覚えようとも、それは無理がありまして(笑)、どんな難局においても技量がカバーするフレージングと正確さがあって、そこで初めてアウトサイドな情緒のボキャブラリーを備えるという段階を積まないと難しいモノである、と言いたいワケですな。

ただ、自分の立ち位置など自認していなくとも、アウトサイドなアプローチというのは人によってはとても便利で魅力的なアプローチに映るコトだってあるでしょう(笑)。

こういう人であれば、まだアウトな音は受け入れようとしている土台があるワケですが、場合によってはそんな音を拒絶する人だっているワケです。

ありとあらゆる音を知ってきた上で、自分の中では選別していて「敢えて」アウトな音を用いないという人というのはまた少し違うワケでして、大概の人は自身の未習熟な能力など棚上げして拒絶してしまうのが関の山なんです(笑)。こういう後者タイプの人はレコードやCDのコレクター程度に収まってしまう可能性の高い人でもありまして、数持ってりゃ良いってモンじゃないんだよ、と(笑)。あまりに数少ないのもそれはそれで少し問題が生じますけどね(笑)。

とはいえ、インサイドだろうがアウトだろうが流麗にそれこそ自由奔放にフレージングが出来ればそれこそ魅惑溢れる領域ではあるワケで、和声的にアウトサイドな世界であろうとも、ひとたびその情感とやらを身に付けた時の心地良さというのは扱えるようになった者でしか判らない部分もありまして、扱いが難しいから結果的に扱わずに食わず嫌いのままその手の世界をコキ下ろすのはどうかなー、と思うのが左近治のスタンスなんですな。

こういう世界において言及する理論というのは数少なくなってしまうでしょうし、義務教育的な側面で誰しもが必要とする楽音の領域ではないため、人によっては眉唾なモノにも映りかねないワケですが、だからといって即批判すべき対象物ではないのも事実であります。

自然倍音列ですら微分音が多数存在するワケで、人間とは都合良くそれらの曖昧な音を音律の中で巧くすり合わせることもしちゃうワケですな(笑)。純正律によって生み出された和声で比類なき整数比の振動数こそがよどみのない世界だとすれば、平均律なんてぇのはいくらベタ凪ぎであろうとも湖面が僅かにさざ波立っている状態だとも言えるワケですな。そんな所に属七の和音など、まさに湖面の一部で魚が群がって水面に波が漂っているような世界とも言えるワケであります(笑)。

平均律においてもマッディなものだと割り切ることで、関連性すら希薄な音にも根拠を求め追究する、と。コレこそがアウトな音の追究と言える側面だと思うのであります。


もっと判りやすく言えば、ハイラム・ブロックのフレージングはまさに調性の上で千鳥足状態ですよね(笑)。だからといって見てくれもヘッタクレもねえ!という風にカッコ悪くフラついているのではなく、気分よく酔っぱらったオッサンが少し異性よく肩で風切ってフラつきながら歩くようなカッコ良さがあるワケですな(笑)。


扨て、本題に入りますが何故冒頭でコレだけ語ったかというと、アウトサイドな音に縁の無い人にとってみれば例えを持って語らないとなかなか伝わりにくいのではないかと思ったワケでして、少々回りくどいとも思えますが、このように語っているワケです。

縁の無い方々にいくら例えを用いても、実際にそれを導入していない人にしてみれば全くピンと来ない話題かもしれませんが、いくら縁の無い人でもグリッサンドくらいは用いたコトがあると思うんですな。

フレットレスの弦楽器ならばポルタメントになっちまいますが、フレット楽器ならばクロマチックに、鍵盤楽器ならば概ね黒鍵or白鍵を主にした(両方やる場合もあります)グリッサンドがあるワケですが、今回は鍵盤を基に語ってみようかな、と。


ピアノの黒鍵は5つ。白鍵は7つあります。まあ概ね白鍵と黒鍵の双方をグリッサンドするようなタイプだと、明確な音程跳躍よりもノイジーな音の動きのように映るワケですが、大抵は白鍵メインか黒鍵メインかのいずれかに当てはまるのではないかと思います。

白鍵メインのグリッサンドでも、音が多くて「重い」という印象を抱いてしまうためか、黒鍵の5音というシンプルなグリッサンドを選択することもあるでしょう。明示的にキッカリ5音というグリッサンドというのも少ないでしょうが、概ねE、F音かB、C音の所で白鍵を勢いで弾いてしまうこともあるかと思います。


まあ、いずれにしてもグリッサンドというのは調を無視(逸脱)しているアプローチというのが大半でありまして、ものすごい速いパッセージで2種類のホールトーン・スケールを用いても、それはそれでグリッサンドになるかもしれません(笑)。


あまりに速いパッセージが「効果音」的にしか感じられずに許容できるのありましょう。おそらく無意識にグリッサンドを導入しても調から逸脱することのあるグリッサンドの前には、外れた音は許容できるほどの短いものだから功を奏している(と感じている)人が大半だと思います。

それすらも許容できぬほど厳格に調性に沿ったグリッサンドを導入するのであればハナシは変わりますが(笑)、重要なのは、なぜそこでグリッサンドといえどアウトな音を欲したのか?というトコロなんですな。ただの偶発的な音としての要素かもしれませんし、それは各人様々でありましょうが、いずれにしても外れた音を許容しているシーンには間違いありません。また、グリッサンドという音の連なりのベクトルを頼りにしていただけの効果音的な音として導入したとしても、その音を欲した、という事がまず重要なのであります。


グリッサンドという速い局所的で経過的なパッセージではなく、それをもっとスローに明示的に弾いたとします。すると、当初のグリッサンドとは性格がだんだん異なるように聴こえて来るのではないかと思います。

グリッサンドでは許容できた音を、ゆっくり明示的に弾いた時にも等しく許容できるような術はどうすれば良いのか?

という風に考えると、アウトサイドな世界観というのは判りやすくなってくるのではないかと思います。調性からハミ出た半音やダブル・クロマチックなどの装飾音というのも、メインに行き着く音へのベクトルが弾き手も聴き手もその意図は判るワケでありまして、装飾音であろうとなかろうと、外れた音に情緒を持たせる術というのを追究して、初めてアウトサイドな音を操れるようになった、と言えると思います。

その近道はグリッサンドや装飾音というものを明示的に捉えて、自身のフレージングが意図したベクトルをより深く知る、という事が重要になってくるかと思います。別にグリッサンドというものだけに注目する必要は無いんですが(笑)、あまりに無造作に導入している人が多いと思われるモノだからこそ敢えて取り上げてみた、という所を感じ取っていただければな、と。