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培養 [ネタバレ]

唐突に楽理的なハナシになっちまいますが、私左近治はジョージ・ラッセルのリディアン・クロマチック・コンセプトを否定するつもりはございません(笑)。とはいえ、リディアン・クロマチック・コンセプトを自分自身に備えるよりは、各局面において特異な和声的な響きにも対応しうる「ボキャブラリー」と、それに伴うフレージングとしての情緒を扱うための術は磨きたいと思っているのであります。
トーナリティーがコロコロ変わる曲ってぇのは概ねジャズには多いワケですね。しかしながら耳がそれに付いて行かないヒトが多いのでありますが、聴き手はいつだって自身の立場が崇高なモノでありまして(笑)、愚弄されてしまうのは大抵楽曲側だったりするんですね(笑)。ヘタすりゃペンタトニック覚えた程度のヒト達にだって嘲笑われかねない悲しい現実があったりします(笑)。

しかしながら、音楽がそーゆー人達にすり寄る必要は全く無いと思っているのが左近治。寧ろソノ手のヒト達に媚び諂うほどブレるスタンスなのであれば、その時点でその程度の音しか出せない人というコトを自覚しなくてはなりません(笑)。

リディアン・クロマチック・コンセプトを少々辛辣に語るとすれば、まあ国産のケータイ的なモノと形容できるかもしれません。ケーキおかずに白いご飯と味噌汁食うようなモノにも等しいかもしれません(笑)。まあ、こーゆー言い方をすると、知りもしない輩が「リディアン・クロマチックってダセェ」とか、す~ぐ歪曲的に見てしまう向きがあると思うんで、表現には十分配慮が必要なのでありますが(笑)、とりあえずリディアン・クロマチックの世界というモノを、とっても判りやすいシーンで置き換えてみると、次のようなモンだと思っていただければな、と。それが全てではないですけどね(笑)。


例えばCメジャー・キーにおいてG7が出て来るとします。ドミナント7thですな。リディアンがモード・スケールとなっているのはFの時。

リディアン中心に見立てるんで、Fのスケール・ディグリーを「I」とすると、G7は「II」となるワケです。

で、ココが重要なんですが、ジョージ・ラッセルという人はリディアンから派生した幾種類かの派生的なリディアン・スケールを用意しておりまして、それらはプレイヤーの選択に委ねておりまして「リディアンに値する所にそれら当てはめてもイイよ」という風に用意しているのであります。

つまり、ある既製の曲にドミナント7thが出てきたら、それはリディアン・クロマチック・コンセプトにおけるスケール・ディグリーは「II」だから、リディアン属とも言うべきスケールから選んで2番目のモードとして対処すりゃ間違いねーんだよ!というようなモンなんです。


で、今回はこのようにあまりに判りやすいシーンを例に出しているんで、リディアン・クロマチック・コンセプトは応用も利かせられるのでありますが、とりあえずはこーゆーコトなんですが、「判りにくい」モードを導入しているような時というのも実際に数多くありましてですね、概ねそんな時はチャーチ・モードに収まるコトのない他のモードを想起している曲だったりするモンなんです。

で、そーゆー特異なモードってぇのは、モード・スケールの第5音が必ずしもドミナント7thとして表記されるコードがダイアトニック・コードとして出現するモンでもないですし、特殊な世界ゆえにコード自体はドミナント7thが出現しようとも、それがドミナントという性格とは趣きが異なる世界があるんですな。

判りやすく言えば、ダイアトニック・コード形成してみたら

「色んな所に7thコードが現れるねん、このモード」

意図せぬ所に出現したドミナント7thこそが、通常の世界観とのドミナント7thとしての扱いが違うことを示唆しているワケなんですな。


つまり、この手の特殊なモードを常に意識している人というのは、何もリディアン・クロマチックだけを導入する必要はなく、もっと多様で細かなモード・チェンジやらに対応すべくボキャブラリーを備える必要が必然的に出てきましてですね、或る意味便利であろうリディアン・クロマチックという使い方は幅を狭めてしまうことにもなりかねないコトがあるんです。

良くも悪くもリディアン・クロマチック・コンセプトというのは真砂の数ほどの曲をひとつの世界観にパッケージして、それをひとまとめに解決しようとする向きは、理論的にはゴリ押しな部分もあるんですが、それが妙にハマる時もありますし(笑)、「リディアン」の派生系として幾つか用意した特殊な音階というのは他のシーンでも可能性は秘めているモンです。

とはいえ、リディアン・クロマチック・コンセプトの先の一例はあくまでも限定的な一例でして、ある曲において「メジャー7thが出現したら○○、マイナー7thが現れた××」とか、独自のスケール・ディグリーを定義(私からすると狭義的な見方なんですが)しているのであります。人によっては楽曲の捉え方の「視点」が変わるため、別の角度から見た世界を一挙に引き受けてしまえるような感覚を身に付けるように思えるかもしれません。

しかしながら12平均律を用いて、或る程度情緒を備えつつの特殊な音階を導入しようとする人なら、たまたまジョージ・ラッセルの作った特殊な音階と同一の音階を用いることも有り得るワケでして、今まで左近治が列挙してきた特殊なモードの世界やらというのはジョージ・ラッセルにも合致しない世界を語ってきているモノであります。

アプローチが違うだけで、結局使う音は一緒、みたいなシーンだって普通に有り得るんですが(笑)、リディアン・クロマチック・コンセプトだけに頼るのではなく、多くのボキャブラリーを備えて特殊なモードの世界のボキャブラリーも備えて、耳を養って行けばもっと多様なフレージングは可能なんだ、というコトを言いたいんですな。

リディアンというスケールの特徴から、そのスケールをさらに派生させた音階を生んだという部分においては濱瀬元彦も著書で述べているように、それを「肯定的に」導入するメリットはあるでしょう。

例えばリディアン・ディミニッシュトというモノや、オグジュアリー・ディミニッシュトという8音音階などは非常に興味深いものでして、前者のリディアン・ディミニッシュトという7音音階は、左近治がチョット前に語ったモノでもありまして、それは坂本龍一作曲の「Sweet Illusion」における渡辺香津美のギター・ソロ内でも聴く事はできますが、渡辺香津美の導入しているやり方はリディアン・クロマチック・コンセプトとは違う当てはめ方で用いております。

渡辺香津美のギター・ソロにおいては後日詳しく語りますので、とりあえずは「リディアン・ディミニッシュト」というコトだけ覚えて置いてくださいね。

但し、ディミニッシュト・スケールを「便宜的に」簡略化した7音音階が「Lydian Diminished」という見方も可能なので、私は敢えてジョージ・ラッセルの世界にすり寄って実例を挙げようとは思っておりませんし、ジョージ・ラッセルと同じ音を用いた渡辺香津美のアプローチはリディアン・クロマチック・コンセプトのそれとはまた違うアプローチでもあるというコトを述べたいのであります(笑)。


いずれにしても、調性を拡大しようという狙いは同じなワケでして、調性を拡大解釈して用いたそれらのアプローチに違いがあってもどちらが正しい、というコトではないんです。結果的にアウトな音を導入できて、且つ、そのアウトな音の情緒が統率された情緒の導き方、というフレージングである重要性を説きたいワケであります(笑)。


リディアン・クロマチック・コンセプト流な視点で見れば、ハンガリアン・マイナーをモードとする曲ならばそのダイアトニック・コードには多くのメジャー7thコードを形成してくれるんで、或る意味「宝庫」とも言えるモードかもしれません(笑)。

そんな宝庫とも呼べるモードで、ジョージ・ラッセルの言う通り、幾種類ものメジャー7thコード上のスケール・ディグリーを「I」と見なして、ジョージ・ラッセルの提唱する派生したスケール群をあてはめるとしましょう。確かにアウトな音は得られます。

じゃあ、それをショパンの幻想即興曲のテーマ部分に用いたら、幻想即興曲をさらに「インプロヴァイズ」したジャズっぽいアレンジになるのか?と言えば、それはチョット違うと思います(笑)。ちなみに幻想即興曲のAテーマは概ねC#ハンガリアン・マイナーで構成されておりますからね(C#、D#、E、F##、G#、A、B#)。幻想即興曲の左手の分散和音フレーズからコードを見出してハンガリアン・マイナー・モードを形成してリディアン・クロマチック・コンセプトを導入しても、それはやはり異質なモノとなってしまうでありましょう、という意味です。

そもそも、事前に用意されたスケールを定義通りに当てはめてそれが真のインプロヴァイズと呼べるのかどうかも疑わしいんですが(笑)。


左近治でなくとも、毒の強度を好むタイプのミュージシャンなら、メジャー7th上でb9th、#9th、b13th、#13thの音など平気で使ってきます(笑)。通常の世界ならこれらの音を使うための根拠など指南してくれるような手引きなどそうそう目にしないと思うんですな。リディアン・クロマチック・コンセプトを導入すれば確かに得られますが、その根拠は別の方向でのアプローチからでも充分得られるアウトな音です。

左近治が過去に語ってきているのは、リディアン・クロマチック・コンセプトとは全く別の角度から用いているモノでありまして、それらについて説明してきているワケですが(笑)、よっぽど毒を好むタイプの人でなければ、そんな音使うコトなく人生を終える人もいらっしゃると思うので(笑)、万人に必要な音ではないことだけは確かではありますが、30~40年も前の世界からも限定的ではあるもののそれらの音は既に用いられておりまして、ヒンデミットを例に挙げれば70年以上も前にこういう音を使っています。

平均律を得た人類にはもはや旧来の属和音が持っていた情感に帰依することなく、別の方向の可能性を拡大したのかもしれません。僅かなモノかもしれませんが。


扉をキッチリ閉めたつもりでも、隙間から漏れる僅かな光というのは認識できるものです。都市部の夜の闇は本当に真っ暗なのか?と言えばまず違うと言えるモノでありましょう。

そうであっても「夜には間違いないから」という解釈で「旧来の世界」を持ち込んで楽しんでいるのが、大半の音楽(笑)。僅かな違いの中に差異を見出して拡大した世界を彩ろうとするアプローチが毒の世界と言えば判りやすいでしょうか(笑)。

「旧来の音楽」と「毒の世界」を比較した時、それらの差は、真の意味での「完全五度」と「不完全五度」の離れ方くらい違うモノなのかもしれません(笑)。トライトーンの帰結感がそれくらいのセント幅も違う、という意味ではないので混同してほしくはないんですが(笑)。