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和声を欲張る必要などない [プログレ]

扨て今回は、前回語ったキャラヴァンの「Songs and Signs」の例をもう少し掘り下げていこうと思います。

とりあえず説明がヘタな左近治が今回用意したのは、メロディック・マイナー・スケールを「モード」として用いる(一定の支配下においてメロディック・マイナーの音列規則を維持する)と、視覚的に図形で確認していただくことに。

Melodic_minor_diatonic_scales.jpg


こうしてご覧になっていただくと、メロディック・マイナーの第5音から開始されるモード(=メロディック・メジャー)というのは「山本山状態」だということがお判りですね(笑)。つまるところ対称的な音列だということ。

ジャズの世界では常套句であるメロディック・マイナー・モードであっても、この音列の支配下において和声を導入すると、どうにもこうにも普段聴き慣れない響きを耳にしてしまうことが多くなる(笑)。そうするとその響きが不慣れな人にしてみればついつい嫌悪してしまいかねない(笑)。というよりも使いこなせていないというのが真相なんですが、いずれにせよ巧く調理できないから作らない、ということにもなりかねません。

キャラヴァンの「Songs and Signs」というのは、ごくありふれたような主旋律において、実はそれとは別の調的な世界観を和声的に導入しているというのが特徴です。和声的には欲張っているんだけれども、どうにかシンプルに和声を解体して、そこに旋律的に導入したりしてアレンジの妙味が窺い知ることができるというタイプの曲。しかしながら主旋律の情緒が非常に色濃いため、多くの人は毒を気付かずに服毒してしまう、と(笑)。

一方で、和声的にはさほど欲張らずに多旋律の絡みを利用して、一般的な調的な世界とは別の性格を導入しようとしている実例もあります。

例えばその例の一つにジェントル・ジャイアントの5thアルバム「ガラスの家(=In A Glass House)」収録の「Way of Life」という曲があります。

なんともまあ、バルトーク風のリフをさりげなくかましている所にケリー・ミネアーのセンスを存分に感じ取ることができるのでありますが、この曲の唄メロが入ってくる所に今回は注目です。


唄メロは↓

「You’ll find an answer you’ve got to believe~」という風に続いていくんですが、ココのメロディラインに注目です。

ここのメロディラインのモチーフは1拍半のリズムを刻んでいて、8分音符が「3・2・1」という音価が一組のモチーフとなっていて

「You’ll find an」 と 「answer」のそれぞれのモチーフは
3・・・D音
2・・・B音(上記より短三度下)
1・・・C音(上記の半音上)

そういうモチーフを2回繰り返した後の3回目のモチーフ「you’ve got to believe」

3・・・D音
2・・・B♭音(上記より長三度下)
1・・・C音(上記より全音上)


という風に「you’ve got to believe」の「to」の所でB♭音に変えてモード・チェンジをしております。


この曲は当初Gマイナーで始まるのでVI♭から唄メロが始まるというワケですが、E♭をルートにするということはコード的にはEb△7の響きですが、旋律的に見れば最初の2つのモチーフはEbリディアン・オーギュメンテッドになるので、メロディック・マイナー・モードの支配下にあるモードという風になり、最後の3つ目でチャーチ・モードの支配下になるよう使い分けているんですな。

ただ、ボーカルのデレク・シャルマンの声質は音程感が微妙なので曖昧に聞き流してしまうかもしれませんが、和声的な響きでEb△7の雰囲気を醸し出すのではなく、旋律的に楽しんでいるワケですね。

「ガラスの家」というアルバムは詩の内容に加え、とことんポリリズムにこだわって酩酊間を誘うドラッグ的要素の高い作品なんですが、和声的な部分でもこういう「うつろい」を楽しんでアレンジしているワケですな。アルバム全体としては低域ソースを抑え気味のミックスにしているため、迫力感に欠けるかもしれませんが、アルバムタイトルにある通り、この手の音は意図したものであるでしょうからギンギンに低域でノリを得ることは難しいかもしれませんが、逆に旋律的、和声的に注力してもらいたいという配慮が込められているのでしょう。

当初は私自身、デレクのちょっぴり音程感の乏しい声でやり過ごして聴いていたクチでして(笑)、ジェントル・ジャイアントの未発表音源ボックスである「Under Consruction」収録のケリー・ミネアーのデモを聴くまでは、「Way of Life」の実態を見抜けなかった左近治でした(笑)。

ただ、それがヒントとなって原曲を聴き返してみると、デレクの曖昧に聴こえていた音程がきちんと掴めるように聴こえた左近治でありました。

そのように、先のロル・コックスヒル&スティーヴ・ミラーの「Chocolate Field」がキャラヴァンの「Songs and Signs」から引用した「判りやすい提示」というのは、原曲に隠されたヒントを掴むのには格好の素材となると思われます。「Songs and Signs」の全貌を明らかにしているワケではなくアレンジしておりますけどね。隠された毒とやらを垣間見ることのできる世界観を凝視することができるかな、と思います。

和声に欲張らずに、旋律的に和声感を満たすといいますか、ジャズの世界だと和声に欲張って、旋律に関してはプレイヤーの自由な発想が多くて、リフとなる部分も希薄(そうでなければジャズではないというのもあるんですが)。ただ、プレイヤーの自由な発想が時としてスケールの羅列程度にしかなっていない演奏だって実際には多く、そういう羅列を覆すような歌心を兼ね揃えているジャズ・プレイヤーというのはやはり限られたプレイヤーになるのも事実。

自由なインプロヴィゼーション部分においてもある一定の約束事を厳格に制限させているカンタベリー系のジャズ・ロックというのは、一定の美しさを持っておりますし、また、完全に呪縛から解放されたインプロヴィゼーションにおいても、逸脱した世界を完全に噛み砕いている世界を共有しているのがジャズ・ロックの世界であるとも言えます。

ボキャブラリーが乏しいクセして、常套句で逃げようとする自称ジャズ・プレイヤーが近年では多いワケですが(笑)、ジャズ畑での世代交代がなかなか進まず、30~50年くらい前のプレイヤーが今も現役で、それらの人たちを超える人がなかなか出現しないのも、ある意味ではとうの昔にやり尽くされたから、ある程度の制限下で活躍できないプレイヤーしか残されていないということを表しているのかもしれません。つまり、ジャズがジャズではなく、ジャズロック的なアプローチで活躍せざるを得ない時代が今なのかもしれませんな。

そうすると、ジャズ的なアプローチとは違う、和声的に彩りや拡大を求めるジャンルは他のジャンルにも可能性があり、その響きを得るために必ずしもインプロヴィゼーションやらのアドリブは必要性がなくなってくる、と。

ロックの世界の調的な世界も拡大しているように、ジャズ畑がジャズであるためにはボキャブラリーばかりを増やそうと「スケール博士」になるのではなく、歌心を真に備えたボキャブラリーが必要になっているのではないかと思うんですな。

ジャズ/フュージョンの世界は間違いなく没落しておりますし、DAWが浸透している現在、プレイヤー自身が生の演奏慣れ(モニター慣れ)していないためか演奏力が落ちた70~80年代の著名なプレイヤーなど数多く見受けられるようになってしまったのが残念なワケですが、ジャズ・フェスの多くが先細ってしまったのはロック・フェスに置き換わっただけではない根拠がそこにはあると思うんですな。

ジャズが他のジャンルに調的な世界においても侵食されてどーすんだ!?と私は言いたいんですけどね(笑)。

まあ、ジャンル関係なく調的な世界というのは温故知新こそが全てとも言えるのかもしれませんが(笑)。