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ジャズ心を鍛える [クロスオーバー]

シアトル出身の某外国人(男性)と話をしている時。

互いにこれまでの事を話し合っていて、左近治は「やり直せるなら~」という表現をする時に、スティーリー・ダンの「Any World」の歌詞を拝借。「If I had my way」の部分。



これを使って会話をしたら、その人はスティーリー・ダンの「Do It Again」は聴いたことがあるものの、他は全く知らないという人。話が終わって「If I had my way」って凄く胸を打つ表現だと褒められてしまいました(笑)。「ありがとう、フェイゲン!」(笑)。

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すぐさま「実はスティーリー・ダンの歌詞なんだ」という事を告げましたけどね(笑)。それほどイイ表現だったとは思いもよらなかったんですが、日本人同士ですら言葉を交わしてもどれだけ通じ合うかは判らないのに、他言語がゆえになせる業なのか!?そんな経験をした覚えがありました。


さてさて本題に戻すとして、ツーファイヴ覚えた程度やモード・スケール一所懸命体系的に覚えた程度じゃまだまだジャズと呼べるにはほど遠く、鍵盤で左手ようやく七度(クラシック的なアカデミック系ヴォイシングはオクターブ)でヴォイシングしようともまだまだ遠いのがジャズ。

ジャズを咀嚼しているという点で左近治が判断するのは、メロディック・マイナーの咀嚼とオルタード・テンションの7thコードを使い分けているか否か!?という点。


例えばA7(♭9、♭13)というコードがあったとすると、このコードの構成音は

=A、C#、E、G + B♭、Fという音ですね。


では、B♭mM7のコードの構成音はというと、

=B♭、D♭(=C#の異名同音)、F、Aという音となりますね。


つまるところ、○○7(-9、-13)というオルタード・テンションのコードがあったら、そこでは半音上のメロディック・マイナーを使ったアプローチが可能ということであり、B♭メロディック・マイナーのモードとして当てはめることができるワケですね。

両者のコードを選択する場合、決定的に違うのはベース音。A音かB♭音ということになりまして、A7(-9、-13)を選択するよりもB♭mM7を選択する方が次のコードへ進行するための調性としては制限されません。

こういう使い分けが出来る人がジャズの造詣が深い(というか、ジャズはこれを使い分けてナンボ)というか、これを使い分ける人は確固たるメロディック・マイナー感を有している人であります。


ところが、メロディック・マイナーの音階は叙情性が希薄なので、「唄える」ほどに咀嚼するのが難しい音階でもあります。ゆえに使いこなせずに、A7(-9、13)を呈示すると水を得た魚のように遊ぶ人が多いのに、B♭mM7を呈示すると途端に目隠しして外歩かせるようなアプローチになってしまう自称「腕自慢」の人もかなり多いワケです(笑)。

B♭mM7をマイナー・メジャー7thコードと捕らえずに、オルタード・テンションをベースに持ってきた分数コードという解釈をして、和声をシンプルに、且つ、上声部で浮遊感のある自由なトライアドとして解釈するのもアリです。これの最たる人がスティーリー・ダンのウォルター・ベッカーが代表的です。


上記の2つのコードの使い分けはジャズでは常套手段でありますので、これからジャズを覚えようとする人には是非知ってもらいたい部分でもあるんですが、実は左近治がリリースする着メロや着うたというのは、楽曲の中に垣間見ることのできる和声で長七度や増四度の面白さがある曲を抜粋しているのを信条としているので、それらの共通項を探って聴いてもらえると楽曲の楽理的な部分での興味深さがお判りいただけると思います。この共通項を見いだせないと、ただ単に「雑多な」ラインナップとして見られてしまうかもしれませんね。別になんでもかんでもやりたい放題の「よろず屋」的な陳列をしているワケではないんですね(笑)。


左近治にとってのスティーリー・ダンとは、当初は「ドナルド・フェイゲンありき」という穿った見方をしていた時期がありまして、ウォルター・ベッカーは殆ど眼中に無かったと言っても過言ではありません。ベッカーが初のソロ・アルバム「11の心象」をリリースして私が耳にするまでは。

「11の心象」を聴いて、ようやくスティーリー・ダンの音はウォルター・ベッカーこそが不可欠だということをまざまざと思い知らされたというワケなんです。その理由は先述にある通り。

それまではフェイゲンの「ナイトフライ」や「KAMAKIRIAD」が既にリリースされていたものですが、心のどこかではブルージィーな曲よりも、「Deacon Blues」や「Glamour Profession」や「Green Earrings」や「Josie」、「Black Friday」のような曲を耳にしたかったんですが、フェイゲンのそれらのアルバムからは私が嘱望していたタイプの曲はそれまで聴くことはできなかったんですね。勿論いい曲ありますけど。「Tomorrrow’s Girls」のイントロはベッカー風(笑)。

なんだかんだで、ベッカーのアルバムの中は一気にそういうフェーズの和声達がこれでもか、とばかりに鏤められており、その後数年が経過して「Negative Giri」を耳にした時は完全ノックアウト状態でありました(笑)。

「もはや、ここまでモノにしないとこの次元に到達できないのか」という感じ。本当に、彼らは「見えないモノが見えちゃってる」位、先行ってると感じました(笑)。


YMO関連曲を手掛けていてもついつい坂本龍一の作品が多くなってしまうのもそういう理由。「A Tribute to NJP」を最近じゃ着うたで3バージョンリリースしている左近治ですが、Kクリデビューの3&4和音時代で既にリリースしていたのは、そういう「テーマ」を名刺代わりにしたつもりでリリースしていた、というワケなんですね。

中にはYMOは盲滅法好きなんだけどジャズは嫌い!というような人、私の周囲にもYMO世代ドンピシャの人が多いんですがそういう人結構居ます(笑)。

でも、共通点を呈示させると食わず嫌いだったのがもの凄く好きになったり、と。そういう人も多いワケですね。


今度リリースされるであろう日野皓正の「Key Breeze」、ジョン・パティトゥッチの「Baja Bajo」やらで是非ともそういう和声の魅力を探ってもらえたらな、と思うワケですね。特に日野皓正のコード・プログレッションは特筆に値します。というか、YMOがバンバン流行ってた頃、左近治は日野皓正の「City Connection」に酔いしれ(笑)、スピノザのチョーキングとアンソニー・ジャクソンのプレベに虜になっていたという当時。周囲はYMOやらホール&オーツの「Maneater」に狂喜乱舞していた時代でしたっけ。

別にジャズやらなくても、アレンジの妙味として知っておきたいMUSTなコードワークとして覚えるのもよろしいかと。

ただ、音楽界というのは楽理など頓珍漢な知識なのに、音質やら音楽の好みという話題になると途端に上から目線の評論家が出現してしまうのが残念なところ。確かな機材や確かな耳に裏打ちされているのはごく僅か。

しかし、そういう人達でも音楽が好きなのは同じ。その人達が理解できるような酒宴の席にてちょっとしたネタにでもなるようなディープな話題があればハナシもはずむってぇワケであります。

楽理なんて音楽やってる人だって敬遠されやすい部分。中にはそんなこと覚える前に自分のセンスだけで勝負したいと言い出す人までいる。しかし平均律の世の中で、耳の鋭敏な人が好むであろう音というのは共通するようで、その音の魅力を追究するとどうしても楽理を覚えてしまうことに。ただ、楽理が最初にあって咀嚼できるのではなく、自分自身が「その音」が好きなのかどうかで道筋は変わるのではないかと思うわけであります。

楽理にほど遠いと思われるであろうロックの世界でも、そういう音は普通に存在するわけでして。共通項を見いだすともはや音楽ジャンルなどは全く無関係になってしまうものでもあります(笑)。