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Gentle Giantと矢野顕子とレイハラカミと [プログレ]

最近yanokamiなるユニットが誕生しましたが、矢野顕子とレイハラカミのコラボですな。

以前のブログでも矢野顕子さんのことを語ったことがありました。KYLYNの話題で今年の春先に『Inner Wind』を制作した時辺りでしたでしょうか。

レイハラカミに関しては左近治はそれほど多く語ったことはありませんが、着メロ時代に日立のCMで小坂明子の「あなた」のバージョンを制作しようとしてですね、レイハラカミの「強編曲」としてリリースしようとした時もあったんですよ。

いざ作ってみると、やはりレイハラカミの世界観は当時の着メロのデータサイズやらの兼ね合いもあってやはり作るべきではないと断念したことがありました。

レイハラカミはSound Canvasしか使わない!という事実を知ったのも驚きでしたが、この方のリズムの捉え方というのは実にドープな感覚を有している人でして、例えて言うなら

「4を3でノる」

みたいな、つまり4×4(16ビート)のビートを一人半拍半でノる、みたいな、まあ、今でこそステップシーケンサー的なポリリズミックなアプローチでありますが、そういう感覚が多くのテクノ系アーティストのステップシーケンサー的発想の安直幾何学リフとは全く違う、異質なノリの感覚というのはシラフじゃ絶対理解できない要素があるものでして(笑)、レイハラカミの感覚はそういう感覚を備えた人なんですね。

で、矢野顕子とレイハラカミがコラボレーションした!というニュースは私にとって実に嬉しくもあり、両者の共通点を巧く強調できる組み合わせだと思ったワケです。

それは、レイハラカミの持つ「ドープなポリリズム感覚」というのは、古くはGentle Giantというバンドが巧みに活用しておりましてですね、例えば、Gentle Giantのアルバム「In A Glass House」収録(ドラッグ・アルバムとして名高い)の名曲『Experience』という曲こそが、私の言うところのレイハラカミのポリリズム感覚に等しいかな、と。

で、Gentle Giantの同アルバム収録のアルバムタイトル曲はですね、ケリー・ミネアーのよくやる属和音に行かせないお得意の世界観なんですが、ダイアトニックな響きはバリバリなんですが、薬物に無理矢理ドライヴされた体というのは概ねダイアトニックな響きや純正律などの純朴な音が安らぎを彩るワケなんですけど、「In A Glass House」(アルバムではなく曲の方)というのは、まさにこういうOverdoseな時に必要な「癒し」の曲なんですね(笑)。まあ、アナログ時代の「Way of Life」の牧歌的な終盤や最後のオルガン・トーンも、実はOverdoseを癒してくれるための母なるCannabis Waveにいざなうものだとも思うワケですが(笑)。

ま、なにはともあれ、この曲の方の「In A Glass House」の歌詞は「Looking thourgh my window pane~」というのは、YMO関連に詳しい方ならピンと来る曲が2曲浮かぶと思うんですが、それが、

「I’ll Be There」/KYLYN
「Tell ’em To Me」/坂本龍一

の歌詞に酷似するワケでありまして、Gentle Giantのケリー・ミネアーが何かを引用しているのかリスペクトしているかは判らないのでありますが、おそらく矢野顕子や坂本龍一はGentle Giantへのリスペクトソングだと私は思っているワケであります。

矢野顕子の名曲「電話線」のコード進行も実にケリー・ミネアー的で、Gentle Giantのアルバム「Interview」収録の名曲『I Lost My Head』に対するリスペクトソングだと思うワケです。

ケリー・ミネアーや矢野顕子、坂本龍一の嗜好する世界観とは非常に似ていると思うので、こういう共通点やら、Gentle Giantに見られるようなポリリズムの感覚やらがレイハラカミにも投影できるので、私の感じる共通点という意味はそういうことを意味しているというワケなんです(笑)。

まあ、音楽なんてえのはもっと深く掘り下げれば別の視点での共通点も探れるかもしれませんが、嗜好性が似ている人間が聴く音楽というのは物量の差はあっても、楽理的な部分さえ知っていれば、どういう響きが好きなのかを知っているというコトでありましてですね、私が説明付けやすいところがたまたまGentle Giantだったワケであって、楽理的な部分を知らない輩が、「彼らは結局パクリなんだ」と安易に思ってしまうことの方が悲しい側面なんですけど(笑)、耳で聴いても即座に判らない人には言葉で説明するしかないのだから仕方がないんですが(笑)、咀嚼する側の意図を読み取らずに、そのまま引用してうわべだけの意味しか感じることができないでモノ申そうとする安易な姿勢が最近の一般的な人たちの間には非常に多く存在しているなーと痛感するのであります。

だからこそ、発言者の舞台の配慮など無視して、話題の対象となるものだけに無我夢中になって議論のレベルにすらならない「ブログ炎上」(笑)というシーンを多く見受けるようになったのも、そういう背景があるからこそなんだなーと痛感するワケであります。