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メディアの変遷とコンテンツの質 [たわごと♪]

音楽メディアにおいて左近治が一番最初に目に触れたメディアというのは「レコード」であり、車に乗れば「8トラ」のミュージックテープだったんですね(笑)。ガソリンスタンドに行けばレコード屋もビックリ!ってな位8トラのミュージックテープが陳列されていたのが1972年頃の世界でした。それがいつしかカセットテープ→CDとなって、今ではデータ形式で配信されている、と。

ココ10年ほどのメディアの変遷を振り返ってみると、携帯電話という無線端末の普及とネット(PC含む)の普及ですよね。Windows95出現以降、顕著な例として挙げられるでしょう。ネットもそうですが、PCを必要とする環境に伴ってオフィス・アプリケーションの普及というのも社会に貢献したひとつの例であるでしょうね。

まあ、ケータイとは結局双方向の「無線端末」であって、アマチュア無線などを古くから操っている人達からすれば「そんなモンに高い金払って」などと嘲笑されてしまうかもしれません(笑)。確かに、本来の機能面だけを見れば嘲笑されるに相応しいのかもしれません。

じゃあインターネットはどうかというと、おぼろげな記憶でもとりあえずは検索すれば何かしら情報を引っ張って来れる。これこそがネットの利便性で、欲する情報を即座に見つけることが簡単になったというワケですね。

まあ、人によってはアダルトコンテンツ見たさなどで飛び付いた方もいらっしゃるかもしれませんが(笑)。

これだけの情報を便利に見られるようになった現在、子供たちには見せたくないようなコンテンツがあるかもしれないというコトで制限しようとする人もいらっしゃるとは思うんですけどね、私はそういう思考に結びつけるのは反対なんですね。私も子を持つ親のひとりですが、親である私がガキの頃、質の違いはあれどアダルトコンテンツなんか大人たちから制限されてもいつでも視界に飛び込んで来ていたワケで、欲する時にはそれに応じて見ることが可能だったのが現実だったんですね(笑)。

マジックミラーもどきのエロ本自販機が登場したのが1975年頃。その後10年以上君臨し(笑)、1985年辺りから「エロビデオ自販機」になっていたのではないかと(笑)。無修正など非合法であるにも関わらず、いつしか目にするようになってしまった現在、それが良いのか悪いのか。左近治、無修正の「ビニ本」とやらを初めて拝見した時は既に「オトコ」になっておりました(笑)。

まあ、男と女がひとたび対峙すれば「バロローム」になるのが今も昔も変わりなく、結局やることなすこと大差ないワケですな。

で、現在において子供たちの目にそれらを見せようともそれだけで満足しようもないので、結果的には同じことだと思うんですよね。

ただ、決定的に違うのは女性優位の性の低年齢化くらいなモノでしょう。これをコンテンツとして見た場合、昔よりもコンテンツの質が向上しているのか?というとそうではなく、露出度の違い、または髪型や眉の形が違う程度で、ある意味ではほぼ素顔で勝負していた昔の女性の方が美を求められていたのかもしれませんよね。

ネットも然りで、ネットの無い時代と比較して数十倍の情報量を得たとしても世の中の知的水準がそれと同様に向上したかというとそうでもなさそうなんですよね(笑)。

教育現場に至っては教育水準の低下すら嘆かれている始末。五体満足であらば誰もが喋る言語。しかし言葉を駆使して感動するような言葉を発したり、文筆でメシ食う人など限られたモノで、同じ言葉を使っているのにそれだけの違いがあるワケで、結局は利用するだけ利用はするものの、「肥やし」としない人々の比率は常に変わらず、肥やしにしたモノだけが「勝ち組」とも言えるワケです。

PCの普及とオフィス・アプリケーションの普及とて、それまでの「キー・パンチャー」と呼ばれる人々が身に付けなければならないモノが増えた程度で、それらによって技能習得が高度化して、多くの人々のサラリーが向上したのかというと、そんなコトないんですよ(笑)。

その勝ち組にすらなれない現状で、英語をまんべんなくセカンド・ランゲージにしようが誰もが英語を使える社会にしたらそれが標準となるだけで職に困らないような技能になるワケではないんですよね(笑)。

音楽においてもそれは同様で、「のだめカンタービレ」に感化されても楽器を習得しようと志す者は少なく(笑)、多くの人にとっては雑学のような予備知識が増えるだけでしかないんですよね。

多くの人々にとっては「汗かき」こそが面倒であるから、楽理的や物理的な楽器習得には目もくれず、新たな専門性のある分野を誰かが咀嚼してくれるのを待って、出来上がったそれを欲しているだけなんですね。つまり、心のマージンの中において、雑学としての地位をキープさせながら楽しむ、と。そこだけで十分なのが多くの人々。

今と昔でマージンの量が変化したのでしょうか?今も昔も時間は等しく結局消化できる量に変化があるだけ。新幹線のスピードが速くなれば、同じ時間で多くのランドスケープを見ることができたとしても、その「景色」は本当に「景色」なのか!?と。

音楽というものの共通項を見出せずに、良いコンテンツをただ偶発的に遭遇することだけに時間を費やしているのであれば、その過程でどんな雑多な音楽を情報として蓄積しようが結果的には時間のムダでしかないんですよね。

つまり、どれだけ情報量が増えて目にしようが、汗かきを嫌がる層が大半を占めているのが現実なので、今も昔もヒエラルキーそのものは変わっていないのに、結果的には多数の層のために大量生産が始まりコンテンツの質そのものが低下する、と。秀でたコンテンツに遭遇する「確率」がさらに低下しているだけ、と。

誰かが咀嚼したモノを食え!とばかりに出されても、家族のソレだっておいしく食べられないでしょう(笑)。歯ブラシだって気が咎めてしまいます(笑)。

「お袋のオッパイの味を覚えているのか!?」

お袋の味はオッパイではなく食卓にあるはずですよね(笑)。そりゃあ、左とん平も嘆きます(笑)。

そこに気が付かないまま、ただひたすら人の群がる場所だけを頼りにコンテンツを供給したり、それを模索する層が必ずあるんですね。米国じゃあ、iTunes StoreではCD化すらされていないコンテンツ(ブルーノート関連など)がリリースされたりポジティヴな側面が生まれているものの、日本ではサーバースペースが与えられているにも関わらず、お蔵入りになっている良質なコンテンツのポジティヴな利用よりも先に、CDで失った分を取り戻せ!とばかりに雑多コンテンツが幅を利かせているのが現実なんですよ(笑)。誰もがセンター街に向かっているからセンター街に群がる、と。神泉辺りをプラプラ徘徊して下界を高見の見物している人がせせら笑っているワケですよ。

誰もが見失っているようなコンテンツに彩りを与えて提供する、と。彩りじゃないとしてもそれをせめて味わえるような場があれば良いのではないかと思うワケですよ。インスタント食品を売る店が軒を連ねていようとも、インスタント食品をバカにしてしまう輩の中にどれだけインスタント食品を開発できる人がいるだろうか!?と。こういうコトなんですよね。汗をかかないと思考すら本末転倒になりかねないワケで。

人生はスリコギなんですよ(笑)。

とまあ、左とん平の曲を制作しながら思いを語ってしまった左近治(笑)。