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1984年(昭和59年)について ~Gazebo、Propagandaの後に~ [Techno]

 以前の記事にもGazeboやPropagandaについて語りましたが、この年はまさにトレヴァー・ホーン率いるZTTサウンドが席巻していた頃でした。その様相はまさに、その数年前にYMOの音楽がどこにでも溢れ返っている時と同じように。

 YMOが流行っている時というのは、インベーダー・ゲームやルービック・キューブなどの時代で、その他にもコカ・コーラのヨーヨー・ブームなんてのもありましたか。

 生まれは川崎の横浜育ちのハマっ子だった私は、暇さえあれば横浜の五番街(西口・南幸)や、川崎の新川通りや砂子周辺で当時のインベーダー・ブームを満喫していたのですが、1980年までは野球少年だったため、ションベン球場などと揶揄された川崎球場や横浜スタジアムに足を運んでいたというわけです。当時の大洋(→横浜→現ベイスターズ)やロッテだけでなく、色々な試合を観戦していたのが懐かしいですね(笑)。

 まあ、野球観戦は口実で、野球観戦と偽って夜遅くまでゲーセン通いをしていた小学生ですが、補導を逃れるために横浜と川崎を転々としていたというのが真相です(笑)。

 川崎球場は、バックスクリーン裏の売店が昭和の雰囲気というか、昭和30年代を髣髴とさせてくれる暖かい、少し小汚い温もりがありまして(照明も暗めだし)、雰囲気のある球場でした。そんな当時は街を歩けば店内から聞こえてくるBGMはYMOの「ライディーン」や「テクノポリス」だったわけです。

 ZTTサウンドは1983年の90125イエスの「ロンリー・ハート」やABCの「Look of Love」など既に世間を騒がせていての1984年という年だったのですが、ただでさえ私にとっては音楽の出会いのある年に加え、その年の夏の釜本邦茂の現役引退という一大事がありまして、私はすでに王貞治の現役引退と同時にサッカー少年に鞍替えし、その後のトヨタカップのマラドーナなどを見てきていたため、日本のサッカーの終焉を思わせるようなそんな一大事に16歳の誕生日が過ぎるとすぐに、国立霞ヶ丘競技場に友達や後輩を引き連れて観に行った覚えがあります。

 1983年にはYMOの解散があり、ひとつの時代の終わりを子供心に痛々しく刻み、さらには釜本選手までも現役引退という悲しい事実を受け止めなければならなかったというどうしようもない気持ち。それから15年足らずで中田英寿という選手が日本サッカー界に現れました。まさか私の生きている間にW杯に出場できるようになるとは夢にも思いませんでしたからねえ(笑)。そんな中田英寿も昨日、突如現役引退のニュースが!

 釜本邦茂現役引退の数年後、私はファン・バステン見たさにアナログCS放送を見ていたものでした。それくらいサッカーが好きだったので、中田英寿の後は一体誰が現れてくるのかと、とりあえずは寿命の半分以上は生きたであろう私に、あとどれくらいの楽しみがサッカーにあるのかなあと首は長くせずに長い目で見守っているつもりです。

 私は子供の頃から、どちらかというとマイナー好き、大多数に巻かれないというひねくれた姿勢がありまして(笑)、野球は巨人戦以外にも前述のようにロッテや大洋を見に行ったり、たまに父が休みの時は多摩川グラウンドに巨人の練習を見に行ったり、色んな野球を見てきましたかねえ。

 そうやって長い目で追ってみると野球だろうがサッカーでも記録的なシーンを目の当たりにすることがあって、私は記録そのものが楽しいのではなく、そのプロセスを追って見るのが昔から好きだったんですね(笑)。記録的なものとなると、新聞やテレビでは報道合戦になるのは今も昔も変わらず(笑)。

 世間の喧騒に紛れて大騒ぎする群衆によって、本当は見たいであろう私がいつも見られなくなってしまうようで本当に嫌なものでしたよ(笑)。サッカーにおけるW杯も然りです。

 じゃあさらに遡って、30年前の7月の話をしましょうか。この年は王貞治がベーブ・ルースの記録に近づいている時期でして、ご多分に漏れず私はある日川崎球場に足を運んでいたわけです(この時はまだ小学校2年生のため親と同伴)。
翌日の土曜日に家族で少し長い間夏休みを使って旅行をするため、旅行の間野球が見られなくなるので観戦に行ったら、王貞治が700号を達成したというメモリアルな日に出くわすことができたものです。

 結構珍しいものを見れたものだと子供心に胸を躍らせご機嫌で旅行に行くことができ、翌日の羽田空港の搭乗手続の所では、私の傍らに「リリーズ」の2人が!(笑)。



 時はそのとき止まった。



 いや、ただ単に私は「ガン見」(笑)。

 この時の私はキャンディーズのミキちゃんや太田裕美が好きな頃でして、リリーズが私の好みだったというのも分かる方には分かっていただけるのではないかと(笑)。小学校2年生だというのにマセていたものです。

 決して時が止まったワケではありません。リリーズのお姉さんの方が私にニコッと微笑んでくれたという、良いことは続くものです(笑)。まあ、インベーダー・ブームの頃となると朝比奈マリアとか横須賀昌美、その後、真行寺君枝という風に興味が変わっていたという小学生です。地名が先に愛着が湧いたというのもありますが(真行寺さんの本名は大口さん)。

 とまあ、日頃から足を運んでいると予期せぬものに出会えたりするので、私はそれが楽しくて子供ながらに街を徘徊することを覚えたようなものでしょうか。

 何に出会おうとするのか、誰と出会おうとしているのか、そういう理想を求めずに徘徊すると突如自分にとって大きな出会いに遭遇するものだと私は思っているので、日本サッカーもやたらと理想ばかりを求めず、身の丈でオシムさんで頑張っていってもらいたいものですね。