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(前編)坂本龍一の演奏に見られるポリ・メトリックとノート・イネガル考察 [楽理]

 先日私がYouTubeにアップロードした動画は、坂本龍一がシンセを弾く「Elastic Dummy」のソロ部分の抜粋を譜例と併せて披露していた物でありまして、本曲オリジナルは高橋ユキヒロ(カタカナ時代)の1stソロ・アルバム『Saravah!』収録の物からの模倣であります。1978年発売のアルバムであり乍ら今猶色褪せる事の無い充実した和声感を堪能できる物でありますが、そんな坂本龍一の《プレYMO》時代とも呼べるもう一つの節目である、りりィ&バイバイ・セッション・バンドというのもある物ですが、つい先日りりィが肺ガンで逝去したというニュースが飛び込んで来たのは記憶に新しい所であります。





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(文字数の多さから、ブログ仕様の為か今回は改行レイアウトが崩れてしまっており大変読みづらいので御容赦を。念の為に本記事前編&後編の箇条書き程度ではありますがPDFを用意したので併せてどうぞ)

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 殊に世俗音楽方面にて顕著なのは音色面にてやたらと時流に乗っかった装飾を施した場合、月日が経過する毎にその時流に乗った音は陳腐化してしまいいつしか耳に届く事すらも遠ざけてしまう物ですが、他方、そうした音色面の時流には乗らずにオーセンティックな音作りに終始して楽曲本体部分に手の込んだアレンジを施している物というのは錆び付かないというのも皮肉な側面であります。

 人間というものは概して己が健康・健常であるほど自身の加齢や健康には無頓着である物ですが、ひとたびそれらを喪失すると途端に脆さが露わになってしまい、無力である様をまざまざと味わわされてしまうという酷な側面を見せつけられてしまう物でもありまして、人間の形体とは異なり音楽という姿が月日を経ても不変であればあるほど、生身の人間の脆さを痛感させられる事頻りです。音楽の産出・創出とは、先の様な「脆さ」を見せる人間から創られるのでありますが、疾病や加齢の前にはあまりに無力であるのが実に慚愧に堪えぬ側面がある物です。脆さを抱えている人間とて、脆さを見せぬ時というのは強靭なまでの力が漲る様にして横溢する姿を音として耳に届けてくれる物です。

 器楽的習熟能力に於いて「脆さ」を招いてしまうのは、往々にして無知・未経験に伴う理解不足であります。楽音に対しては調性の音組織に諂う様に従順であることは固より、音高そのものよりも唄が随伴させる「歌詞」という言葉が音楽を理解させる動機であったりと、旋律に耽溺する前に歌詞の文語面に耽溺してしまうという側面を見せるのはそうした理解不足や未習熟に依る所が非常に大きなウェイトを占めている物です。概して「卑近」な音運びの旋律や和声感、及び聴き取りやすい拍節構造などを好んだりするのも特徴のひとつであると言えるでしょう。




 今回、坂本龍一の演奏例を引き合いにして語るのは、「ポリ・メトリック」という構造についての事であるのですが、ややもすると一般には耳慣れないこの語句に関して約言するならば、ひと塊のリズム構造である「尺」に対して、その等しい尺に別個の異なる符割を強制的に充てる例の事であります。更に端的に言えば、《左手で三角を書き乍ら右手で四角を書く》様な物、と思っていただければイメージを抱きやすい事でありましょう。

 坂本龍一の演奏に関しては、聴き手の凡庸な器楽的能力に均して解釈してしまってはならない部分が隠されているので、こうした側面を徹底的に分析する前に、その特徴的な部分を理解する上で必要となる様な前提を幾つか語っておこうかと思います。



 例えば、楽曲の背景にあるメイン・ビートがシャッフルであるにも拘らず、ある楽器パートが2連符や4連符構造のリズムを強制的に固守する様なシーンを表わした次のex.1の譜例の原型では、冒頭小節のリズム注釈に於て「8分音符=8分3連音符2:1のスウィング」を示しているので、譜例中の平時の8分音符で示される歴時はシャッフルを示すという物であります。処がこうした「平時がスウィング」を示した譜例にて2小節目1拍目の様な4つの16分音符が連なった連桁の歴時に遭遇した場合、通常の暗黙のルール(=不文律)では、これらの16分音符は「4連符」として、平滑で凸凹感やイネガル感の無い演奏をする事が「通例」となっている物です。ですから、原型の譜例というのはex.1の「正」の譜例に見られる様に解釈して奏する事が望ましい物となるのです。処が、スウィング表記を深堀りして解釈し過ぎてしまい、ex.1の「誤」で示した2小節目1拍目の様に、4つの16分音符をも8分のスウィングがそのまま細分化させて、ニュー・ジャック・スウィングにあった様なハネた16分音符だと解釈してしまう人も稀に存在したりする物であります。然し乍らこうした不文律や暗黙のルールというのは現今のジャズ/ポピュラー界隈だけの事ではなくて、旧くは大バッハ(J. S. バッハ)の頃から顕在化していたのでもあったのです。
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 次の譜例ex.2の様なF・ショパンの『幻想即興曲』の左手の3連に対して右手の16分音符(=右手パートはいわば4連構造)などはポリ・メトリックを示す最たる例の一つでありますが、今回私が示した譜例は偶々この様に左手パートの連桁総てに3連音符を明示しておりますが、西洋音楽の通例は、こうした連音符は初めに現われる小節の拍頭だけ記して後は略記化する事が多く、本来在るべき歴時の中に記したパルスが詰まっている or 拡がっているかでそれが連音符なのか単なる連桁なのかが判断材料となる事もあります。8分音符が2拍というバルスで書かれるとすれば、その2拍内に8分音符が通常ならば4つ書かれるのでありますが、この歴時を示す物理的な楽譜上の距離の中に、連音符の記載無しに6つの音が詰まって書かれていたとしたら、それは1拍3連が2組あって、それぞれの連音符同士の連桁が繋がっていて連符の数字が略記となっているのだと解釈するというのも通例である訳です。
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 処が、時代を遡って中世にはどのような「通例」があったのかというと、3拍子系統の記譜の通例と2拍子系統の記譜の通例がそれぞれ罷り通っていた事もあって一義的な解釈ができないという不文律を生じました。例えばそれらの3拍子系統と2拍子系統の記譜慣例化の実際が、楽曲演奏の多様化に伴って表記面を便宜的に対応させるという二重の慣例化が横行していた訳です。西洋音楽の旧くからの記譜法に於けるリズム構造の慣例というのは、青島広志氏も自著『究極の楽典』76〜79頁に於いて、分母の異なる混合拍子に於ける「1拍の歴時の長さ」という観念という物を詳密に取り上げていて呉れているので是非とも手に取って読んでもらいたいと思う訳ですが、約言すれば次の様に語る事ができます。

 拍子とは2拍子体系か3拍子体系に括られます。3拍子というのはテンポを速めると3つのパルスが一組の連なりに聞こえる様になり、その1組を複数欲する様になります。此所での欲求は人間が常に拍を「1・1・1・1……」と算えるよりも、少なくとも「1・2・1・2・1・2……」という風に採る方が簡便的であるからに外ありません。つまり、3拍子はテンポを速めると1拍3連を伴わせた2拍子構造に聞こえるという風に変化するというのがリズムの基本的な楽典であります。しかし、連符表記という物は初期の段階では一般的ではなく、それらは概ね6/8・9/8・12/8拍子(これらは夫々順に2・3・4拍子体系)という風に体系化していた訳です。ですから6/8拍子は、パルスそのものは6拍子であろうともこれは「2拍子体系」の物である事を示すのです。


 西洋音楽の記譜をめぐって理解する上で重要な事は、例えば混合拍子において「分母の異なる」拍子である変拍子を用いる事があった場合、それを次の譜例ex.4の様に例示してみますが、ex.4原型は1小節毎に3/4拍子と6/8拍子が順に変るという慣例的な表記です。しかし当時の実際の演奏解釈の例を見れば瞭然ですが、6/8拍子の小節は実際には現今の記譜解釈に依る1拍3連と同様の歴時で演奏される事を意味するのです。
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 それはex.5に見られる拍子変更に於いても同様で、4/4拍子から12/8拍子へ変更される時に「L'istesso tempo」と注釈が振られるのは「1拍の長さが同じ」という事を意味しているのですが、現今社会に於て、この「1拍の長さ」という事を理解するのが肝となるのでこの辺りをもう少し詳述する事にしましょう。「L'istesso tempo」に音符の歴時の注釈を振った事で判り易いと思いますが、「先行小節の四分音符の歴時=後続小節の付点四分音符の歴時」という事を意味している物で、旧くはこうした解釈から立脚していた物だったのです。
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 何故そうした解釈だったのかというと、6/8拍子というのは八分音符のパルスが6つある6拍子ではあるものの、これは結果的には「2拍子」に括られるリズム体系でありまして、3/4拍子のテンポを速めると3音の連なりが一組と聞こえる事でそのひと纏まりを1拍子と採る様に解釈すると、これは結果的に3/8拍子という解釈になる訳です。そのまとまりが連なる事で6/8拍子を形成してしまう訳で、仮に基の3/4拍子が3小節単位の拍節構造を持つ楽曲でしたら、この曲のテンポを速めれば9/8拍子として聞く事も可能でありましょうが、概して3/4拍子のテンポを速めると6/8拍子系統になるというのは先述の通りこうした所以であります。

 加えて、旧くの記譜体系というのは、先の譜例ex.4の様に見られる拍子構造が3/4と6/8を交互に入れ替えようとも、「小節」から捉えてみれば3/4拍子は小節を3分割しているに過ぎず、他方6/8拍子は小節を2分割している構造として、小節体系を保つ事に主眼を置いている為に、小節を3分割しようが2分割しようが「拍」は同じ歴時だと見なされる訳です。即ち、ex.5が意味する物は、後続の12/8拍子の各連桁(8分音符3つ)は先行小節の1拍と同じ歴時となる(同じ物理的時間)という風に理解される物なのであります。

 現今の記譜法は注釈が与えられない限りは「音符の歴時」こそが主体にあるため、それこそプログレ界隈にあるあらゆる拍子が混淆とする変拍子の楽曲に於ては、こうした古典由来の解釈とは異なり、音符の歴時そのものが主体であり、西洋音楽とてこの様に変化して来ているのですが、このような記譜の不文律というのは大バッハ、CPEバッハの頃でもごく普通に存在し、連符の記譜がこうした側面を中和させてきた物でもあるでしょう。旧来の記譜法では、付点音符の解釈ですら記譜通りには行かない解釈もあったので、3連符由来のスウィング感を出しているのに付点音符で示されたりなども珍しくは無いのが実状だったのでありました。

 例えば次のex.6のコレッリの例を見れば、連符たる音形を下声部の4拍子が下支えするかの様に異なる拍子記号が上下に与えられてはいるものの、下声部の4/4拍子は本来はex.6の最下部に記した付点を附した表記として然るべき物であります。楽譜編集ソフトに於いてこうした例を「再現」するとなると、通常の編集とは異なる作業が禍いしたり、時には好奇心を高めてくれたりもする物ですが、記譜に於ける慣例と不文律という歴史を鑑みつつ、現今社会の記譜の在り方と、それらをどのように拝戴して己が用いるべきスタイルはどういう記譜に準拠した物であるのか、という事を明確に知っておく必要がありますし、こうした処に多義性を具備しておかないと、新旧異なる記譜スタイルに自身の無学さが打ち拉がれてしまうのは言う迄もありませんので細心の注意を払って音楽を理解せねばならないのであります。
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 現今の音楽社会に於いても、シャッフル表記を貫いて記譜すべきか、それとも12/8拍子体系で書くべきか否かという事で作者本人が葛藤するシーンは必ずある事でしょう。殊にジャズ方面の「ジャズ・ワルツ」と呼ばれるそれは、3拍子そのもののテンポが若干速い為、その3つの連なりが1つの拍子という拍節感を持っている事も珍しくありません。処がビル・エヴァンスなどはの3つ一組のパルスの連なりに対してヘミオラを施すように2連符や4連符を充てて奏する事もありますし、ジャズ・ワルツの場合はとても多様な拍節構造という物を見出す事が出来る物です。


 扨て、現在の記譜法は小節主体ではなく、音符主体であります。ですから分母の異なる拍子へ転じたとしても、音符の音価こそが物理的な時間が絶対的であるため、よほどの注釈や特定のスタイルを狙った物でない限りは、音符主体で読む事が適切な例でありましょうが、その対象がどういう物であるかという事は留意しておく必要があるかと思います。



 先の、旧来の分母が異なる拍子へ点ずる時の「L'istesso tempo」が指し示す、「先行小節の1拍=後続小節の1拍」という概念は、こうした言葉の注釈よりも、音符の歴時をイコールで示した方が更に判り易いという側面もあって、現在でもメトリック・モジュレーションの際には使われる事も多々有ります。

 例えば、嘗て私がジェントル・ジャイアント(以下GG)のアルバム『Three Friends』収録の「Schooldays」を語った時には「メトリック・モジュレーション」という名称そのものまでは明示せずに語っていた物でしたが、語る順序があっての事なので、過去の記事も新しい記事も同一視して欲しくはないので注意が必要なのですが、先の曲「Schooldays」の中盤では、先行するテンポ構造の8分音符5つ分のバルスが後続の非常にゆっくりとしたテンポに点ずる部分のその1拍が、等しい歴時となっている訳で、これはメトリック・モジュレーションとなるのです。テンポがゆっくりとなった時の1拍5連ひとつのパルスが、後続の元のテンポに戻る時の八分音符に等しくなる物なので、興味のある方は是非とも聴いてみると宜しいでしょう。

 亦、先日私がTwitterで呟いていた、8分音符のパルスに対しての2拍7連音符の拍節構造というのも、異なるパルス構造が「絡み合う」様にして時間を横切る事となるので、スピード感が増す様に聞こえる事もあろうかと思います。



 同様に、次のex.3の3声部の例を見れば更に瞭然ですが、拍頭を除けば各声部が同時に鳴る事は無く音符が犇めき合う様にして耳に届く事になる訳で、そのスピード感たるや錚々たる物となる事でしょう。
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 尚、余談ですが、先日私がTwitterにて呟いた内容に、GoogleのCMにて井上陽水の「夢の中へ」をカヴァーする曲のテンポと拍節感を耳にして私の脳裡には8分音符と2拍7連が交錯し合うというポリ・メトリック構造を映じたという物がありましたが、これもポリ・メトリックという異なる拍節構造を同時的に押し込めるという事を表わす典型的な例であります。
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 これらの様な衒いの要素をふんだんに含んだポリ・メトリックという技法には、演奏する人も聴く側も異なるビートを同時に把握していなければ、己が体現した事のない符割や拍節感を即断する事は難儀する事でありましょう。こうした拍節感の体得の重要性を語る事を目的としているのが今回の記事の主旨であるのは勿論、楽譜の歴史からすると、記譜における符割のそれと実際に奏する物とは異なる解釈をする必要があるという記譜が横行していた時代もあったりするのも是亦音楽の歴史なのであります。そうした「不文律」を踏まえつつ、共通理解に依ってやり過ごしてきた時代があった訳ですが、これは時代を経てしまうと当時の解釈が現代のそれとは乖離する事も起り得る訳であります。ですので、古い楽譜を見てそのまま現代の解釈で奏してしまう事はなるべく避けなければいけないのですが、一般的にはベートーヴェンの前後で記譜は大きく変わる物と謂われます。ベートーヴェン以後ならば概ね現今社会に近しくなって来るという訳であります。

 そうした不文律は旧き音楽社会のみならず、現在でもシーンに依っては慣習的に横行していたります。ベートヴェン以前は疎か大バッハの時代でも音楽の歴史から見れば然程古い時代ではなく、普遍的に取扱っている事で、昔の不文律も今猶再現しているシーンなど珍しくありませんし、当時の音楽的解釈を深く洞察する事が不可避である以上は、不文律も相容れない様では己の主観に依って音楽解釈を大きく歪めてしまう可能性が高くなる訳ですから、顰に倣うのは至極当然とも謂えるでしょう。



 記譜法の歴史からすれば1000年も前に、音高は指定されようとも音価(歴時)の部分は記譜されずこちらは口承だった訳ですので、リズム面には某かの「慣例」が横行する様になったのは自然な流れであった事でしょう。それゆえに、現今社会における「数学的」な程に正確な音符の解釈は、場合によっては当時の演奏解釈を再現しない事となってしまい、これがジレンマとなる訳です。大バッハの頃ですら先述にあるリズム面の慣例となっていた不文律は存在し、C.P.E. バッハもそれを受け継ぐという不文律は往々にしてある物です。単に年月の隔たりで見れば太古の昔に思える時代のそれも音楽的な世界から鑑みれば大バッハの時代など然程遠い時代ではないにも拘らず(※実際には遠い昔の時代であるにせよ、大バッハの残した功績が時間を縮めてしまうという意味でもあります)、過去の慣例を現今社会特に音楽に於て同列視する事だけは避けねばならない事であります。

 何はともあれ、現今の音楽教育というのは、それが義務教育課程であれば猶の事、旧来の記譜の慣例を最初に学ぶ事はしない訳であります。専門教育の課程に於いて旧来の記譜や慣例を習得する訳でありまして、音楽を専門に習わなかった人からすれば、一般的に目に触れる物を是認し、目に触れない物を否認する傾向が強くなる為に、目につきにくい物ほど猜疑の目を向けられ易い物でもあるため人に拠っては肩身の狭い思いをする人もおられるかもしれません。が、しかし。音楽に於ける慣例や不文律の歴史というのは世俗音楽界隈にある連中こそ本来なら深く知る必要があると思え、己の狭量な知識がいつしか音楽観をも歪めてしまし、後に続く者に覆轍を踏ませる事が往々にして起こるのは今に始まった事ではありません。

 付点をわざと長く読んだり、逆付点の後続音は、その次の後続音まで律儀に目一杯の音価で繋がる事は稀なので休符を附したりなど、色んな演奏解釈があった中で、ノート・イネガルなどもそうした体系で生じていた訳であります。

 そうすると、一義的に読む事の出来ない楽譜から多くの揺さぶりをかけた解釈が必要になる事もある訳でして、こうした読譜と演奏の実際に於て読み手(奏者)はバリエーションが増える事を意味する訳です。そうした時を経れば音楽的な「糧」を得るのでありまして、単に楽譜を愚直な迄に紋切り型に読む事だけの人とは音楽的な意味でも大きな差があると言える訳です。こういう側面を理解した上で、楽譜に提示されるだけの紋切り型&一義的解釈で済ませるばかりではなく、楽譜の表記から深部を読み取ろうとする能力を身に付ける事も重要となる訳です。現今の楽譜の読み方ばかりに飲み込まれてしまうだけの読譜能力だけでは陥穽に陥る事も屢々である、という風に捉えて欲しいのです。



 扨て、漸く本題となる訳ですが、冒頭で例示する「Elastic Dummy」という曲を用いて私が今回表わしている部分で特に声高に語りたい部分というのが、YouTubeにアップした譜例の2小節目に記した、単声部で書いているにも拘らず上声部に5連符を用いて同一拍の下声部に4連符を充てている部分。これが、ポリ・メトリックたる大きな特長を挙げている部分なのですが、私の記譜のみならず本曲の演奏が、こうして記譜して然るべき非常に味わいのある演奏であるからこそこの様に取り上げているのであります。勿論今回は坂本龍一のみならず世俗音楽界隈の曲を紹介し乍ら、そうしたリズム面の重要性をあらためて触れようとしているのでありますが。(続)