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Parallel Motion(平行) [楽理]

 扨て今回は「平行」を楽理的側面から語る事になりますが、平行が意味するものは、2つまたはそれ以上のの異なる音度がそれらの音程を保って後続に連なる物を指す言葉である事を忘れてはいけません。


 オクターヴ(完全八度)という音程が更に細かく協和的な音程を割譲し合う時に二つの「完全音程」が生じます。それらが完全五度と完全四度です。

 しかしそれらの完全五度&完全四度の誕生とやらは、単一のオクターヴである完全八度音程を割譲するという事で1200セントという音程を702:498で割譲し合ったのではなく、元来は2オクターヴという相貌があり、主音からオクターヴ上とオクターヴ下というオクターヴ相があった中で、主音から702セント上、702セント下という風にして上屬音と下属音が生じたのが正当な順序であります。

 それらを1オクターヴという単一オクターヴ相に「転回」する事で、結果的に上屬音と下属音は1200を702:498で割譲し合う様に見えているだけの事で、実際には2オクターヴという相貌から端を発して、絶対完全協和音程というオクターヴがその下位の「完全協和音程」という完全五度と完全四度で分け合っているという風に見る事が出来る物だという事を最低限理解しておく必要があるのです。


 そこで「平行」という2つ以上の音程で生ずるシーンを、今回はトライアド(3和音)で示す事にしますが、所謂全音階(ダイアトニック)のシーンでも「平行」というシーンは存在する物ですが、そんな見事な平行に遭遇する事が少ないのは、西洋音楽での和声の取扱い方は連続8度や連続5度を回避して音楽を構築している訳であり、幾つかの3和音が基本形のままに連結(進行)している例が少ないのはそうした連続8度・連続5度を回避する事に依拠する物であります。


 連続8度・連続5度を考慮せずに長音階・短音階の全音階組織(ダイアトニック・コード)を見てみるとしましょう。その際、主音から上下に完全五度音程として上屬音・下属音がある様にして、それらの音を根音に持つ組織を俯瞰してみると次の図のようになります。

Parallel5th.jpg


 上段は長音階の主要三和音、下段は短音階の主要三和音(※属和音は導音欲求を与えていないエオリア調)と見る事ができまして、これらを左から右に「進行」させる様に見れば、完全五度のパラレル・モーションという平行の姿として和音が存在しているという風に見る事ができます。和音機能を赤文字で与えているのは、これらを4度下方進行として見立てた場合、サブドミナント→トニック→ドミナントという風に少々素直ではない進行と言う風になります。




 それらの進行を「素直」に整列するとなると次の様な譜例になり、結果的に左から右に和音を進行させるように見ると完全四度平行の状況が生まれ、和音機能的にはD→T→Sという風に理に適った物になっているという訳です。

Parallel4th-3078e.jpg


 では何故「理に適っている」のか!? という事をあらためて語りますが、それは先行和音の根音を後続和音の上音(※倍音とも言う)に取込み乍ら進行するからであります。Gメジャーという属和音は後続和音Cメジャーの上音として取り込まれ、Cメジャーの根音は後続和音Fメジャーの上音に取り込まれるという、こうしたスムーズな連結が終止感の上では素直な進行となる訳です。


 とはいえ、これらの譜例は和音は基本形のまま進行している状況になるのですから常に連続5度を生んでいる状況で、和声学的には避ける必要のある物なのですが、平行という物は抑も全音階の和音機能が潜在的に持っている事なのです。とはいえそれを進行という風に見ると「完全五度&四度」の平行でしか無い訳です。


 平行和音としての妙味は少なくとも前述の「完全五度&四度」以外の音程で連結すると、違った特色が生まれるという意味をも含んだ言葉なのであります。

 そうした側面を鑑みれば、全音階の仕来りの中で完全五度&四度以外の音程に依って平行進行が表れる事は、長音階&短音階の体系では現れない事になります。強いて言うならば短音階に導音欲求が現れ、Ⅵ(※短調のⅥ度=フラット・サブメディアント)→V→ピカルディ終止となれば和音体系的には別の平行を生む状況になるとも謂えますが、先述した様に通常和声学では連続8度・5度を避ける為、この様な場合でも平行は避ける為、平行和音の多くは2度・3度・6度辺りで見る事が多くなる訳です。


 平行を保つ事は、和音構成的に見れば同種の和音の体を保ったまま連結するという状況ですから、ダイアトニック・コードの主要三和音が潜在的に平行を持っているという所は今一度肝に銘じて欲しい所です。その潜在的な姿でも「S→T→D」という風に進行させた場合は、自然な進行感に背いている状況である為、パラレル・モーションという醍醐味は寧ろ此方の方がより強く演出されるという事の裏返しでもある訳です。


 ここで6thコードの限定進行音やらも含めて、変進行という側面を考える事にします。

 6thコードの6度音というのは抑もⅣ→Ⅰという変進行の整合性を取る為にラモーが定義した事であり、それは6度音が限定進行音(順次上行)する為の物として生じている所に端を発している物ですが、現今社会それも現在のジャズ/ポピュラー音楽界隈で6thコードがサブドミナント上だけで表れるというのも稀な事ではありましょう。


 とはいえ稀な例だから遵守しなくても良いという事ではなく、6thコードという和音は5th音に対して2度音程である不協和音程の音を附与するという欲求が生じており、そこに不協和な硬さを求めるが故に生じさせる音である筈ですから、現今社会でも6th音を限定進行音という事を遵守する必要がある一方、附加6の和音がトニックで生じているならばトニックはどの和音へ進んでも良いという事を知るならば、6度音が限定進行となっている例として目撃しないシーンのひとつとして捉える事もあるでしょうし、以前にも取り上げたビートルズの「Michelle」とて和音表記上では短和音の半音クリシェの類はFm→FmM7→Fm7→Fm6という風に簡便的に表記される物のその進行の実際は Fm→A♭aug/F→Fm7→A♭△(♭5)/F という風な「 T → D/T → T → D/T 」という進行が実際なのですから、簡便的&便宜的に表記されていたFm6の後続和音に限定進行の音が現れない事を一義的に捉えてやいのやいの言っても始まらないのです。

 また、私が過去に(数年前に)例示している6thコードの中にも、それらの中には後続和音に限定進行させていない物もあるでしょうが、それらは何度もこれまで申している様に、私に対してネット上の嫌がらせをする輩に態と右往左往させる狙いがある事と、その手の奴らの焦燥感を煽る事で、正答を述べるにはこの先相当時間を費やす事は目に見えている事を、詳らかな説明の前に正答を軽々しく語ってしまうとそれこそ剽窃や嫌がらせを助長させるので、私はその手の輩の「恥的好奇心」を蹂躙して語っている所がある為、その辺を論ってやいのやいの語られるのは愚の骨頂でもあるので、逆にこちらがそうした行為を嗤笑しているという側面はお判り下さいね(笑)。莫迦共は目先の答えを欲する事に焦り、順序を知ろうとする事が欠如しているので、そういう事を易々と語ったりしない訳です。此方に金が払われているのなら兎も角(笑)。


 嘗て何かの雑誌(おそらくキーボード・マガジンがサンレコ)の誌上に於いて山下達郎のコード譜の写真があった物です。そのコードは「Ⅱ on Ⅴ」を「Ⅳ6 on Ⅴ」と表記している物でした。


 換言すれば「Dm7 (on G)」と表記する物を「F6/G」と表記しているという意味でもあります。この書き方を断片的に見れば和音の史実としては理に適っている事ではあります。進行が機能和声的な物ではないですけどね。


 F6に二度ベース(=2ndベース)としてG音が附与されている所が新しい解釈ですし、それがもし二度上行で平行和音として「F6/G → G6/A」と進行すれば、これらの構成音はハ長調/イ短調の調域の音組織を使ってはいるものの、機能和声的に考えれば「背いた」進行である事は明白で、その背き方は平行和音としての妙味に取り込まれており、平行和音としての色彩感が漲る進行になる事は明白なのです。

 そうした平行和音「F6/G → G6/A」の6度音を見れば後続和音に限定進行音の音が無いのは明白です。つまり、限定進行音としての影響を強く受けているシーンでは調性感のある響きとしての世界観では遵守する必要は勿論ありますし、限定進行音としての例にあてはまらない例外というのは、調的な余薫に背いている時である事が是認される条件の一つであるとも謂えます。処が大概の物(6thコード)は概ね、調的余薫を強く映ずる様な進行で間違って使われる事が多いのです。「G6/A」というのはハ長調の音組織でありますが、この和音を「D/T」という風に使う人はどれだけ存在するでしょうか。しかも「F6/G」からの流れですからね。


 山下達郎の使用例をやいのやいの言う訳ではないのです。「Ⅱ on Ⅴ」とてハ長調域で見れば「Dm7(on G)」な訳ですが、史実的な流れで見れば「F6に二度ベースを附与する(九度が二度になる)」という考えの方が正当であります。「Ⅳ6/V」は、その後のモード(モーダル)な音楽観の振る舞いに依って、本来なら「サブドミナント→ドミナント」という進行を「S on D」という、進行感を稀釈化した流儀に押し込められた物と言えるでしょう。

 それが「押し込められた」理由は、ツーファイヴ感を稀釈化させたい、特にⅤからⅠへの卑近な響きを稀釈化したいが故に丸め込まれた物であり、これがモーダルな響きの体系の一つとして広く使われる様になったというのが和音体系の確かな例証でありましょう。


 つまり、トニック・サブドミナント・ドミナントというのは和音機能的には素っ裸状態であるのですが、和音が素っ裸である状態であるのを避ける傾向が強くなって来たというのが、その手の和音が使われ出したという訳です。そうすると、元々背いていた和音「表記」は本来そうした姿を見せていい筈ですが、この手の和音表記というのは概ね多数派が潮流を作って了うのが現実です。その潮流に誤謬を伴っていたとしても、です。


 一番肝に銘じておかなくてはならない事は、貴方の廻りに見る6thコード表記の例に限定進行音を遵守していない表記があったとしても、それを是認し得る楽理的素養を伴って理解しているか否かという事が問われる事に加え、そうした事実に遭遇しないとしても6thコードの6度音が限定進行音であるという事実は覆る事は無いという事を知っておく必要があるのです。それを是認したくない理由が私には到底理解できないのです(笑)。とはいえ、6thコードの表記は一時転調の様な状況が生じていれば必ずしも遵守しなくても良いという訳でもありません。限定進行音が導出する音脈というのはどんな調的背景にあるにせよ和音としては何処かに行こうとしているのですから、限定進行音が帰着した or しない という和音進行感を読み取って判断しなければならないという事をあらためて述べている訳なのです。顰に倣って6thコード表記は限定進行音という事を守っていれば通常は問題ないのです。そうする事で例外的使用は「なるほど、こうして使うと確かに背いた感覚がより一層強まるわ」という事を味わう事にもなるでしょう。


 ジャズ/ポピュラー界隈にて6thコードの限定進行音が遵守されていない例とて実際には一義的ではないのです。しかしその用法がきちんと解釈されておらず誤った表記として存在する事も少なくないのが現状でしょう。調的余薫を感じつつ意識的に表記法を留意していれば、例外的使用であるか否かという事は更に明白になるのです。その上でトニックで用いられていればトニックから後続和音は自由に進行できる訳ですし例外的使用を垣間みる事にもなるでしょうし、また、機能和声的に進行感を「背いた」物であるならばより一層限定進行音としての存在を軽んじる理由にはなるでしょう。然し乍ら、そうした例があるからといって、先述の様に6thコードの6度音が限定進行音であるという事実を曲げる事は出来ないのです。

 
 和音構成として3度累積の構造を選択しているのであれば、F6であろうとDm7であろうと、基底音の違いがそれらを差別化するだけで音の明澄感からすれば同義和音である訳です。では、両者にとってC音とD音の間に不協和を作る事がなぜ必要としたのか!? と問えば、その和音としての硬さを求めたからに過ぎないでしょう。その硬さから後続和音で限定進行音となる音が無い場合、硬さからの解放と進行感が稀薄になる為、進行感としては点描的な物となる筈です。その響きの世界観を無頓着にしておいてF6という表記だと整合性が取れないから「Dm7(on F)」として弾いてくれ、では愚の骨頂なのです。どうしても整合性の為にそれを表記せざるを得ないのであれば扨置き、物事を一義的に解釈すると、6thコードの後続和音に限定進行音が無い場合、6thコードの同義音程和音となるマイナー7thコードの3度ベースを表記せよ、という事を一義的にしか理解できないという訳です。無論私は過去にそういう説明をしてはおりますが、その時点で「偽終止」やらの体系については全く語っていない事であるので、物事には順序があって、過去の左近治のブログ記事と整合性が取れない、又は一義的に解釈できないと捉えられてしまう側面はありますが、継続して読まれない限り掻い摘んで解釈すると陥穽に嵌るという訳です。

 ですから私は何度も念を押している様に、正当ばかりを急いて焦燥感に浸るだけの連中は知に辿り着く事が出来ないと語っているのはそういう事なのです。私が二枚舌を使い分けているのではないのです。音楽には一義的解釈と多義的解釈をする部分があり、それらを見抜かなくてはならないのです。

 ジャズ/ポピュラー界隈の連中が身の廻りの6thコードを照らし合わせた所で、限定進行音の現れなかったシーンというのは概して出版社の浅学な側面が禍いしているか、アーティスト側の無学さに起因するものか、それともそれらを聴取者側が聴いて進行感を機能和声的に「背いている」と判断し得る物として捉えた上で判別可能なのかどうかという聴き手の音楽的素養も必要となる上で本当に判断出来るのか!? という疑問に直面する事を先ずは真摯に捉えて欲しいのです。私が強弁している事でなく6thコードの6度音は限定進行音であるという事実は変らないのですから。本来ならこうした楽理的知識を獲得した事を是として喜ぶべきですが、それを相容れない様な嫌いがあったりするのは概ね音楽とは別の所の価値観や受け止め方が感情的に禍いする事で受け止められないのが常だったりします。

 つまり、感情で理解度が左右されて了う類の人が、音楽をきちんと判断できる訳も無いのです。だからこそ私は時には蹂躙するかの様に語る事もあるでしょうし、私の順序を読み取れない人は楽理的素養が薄いが故に次を予測できない訳です。勿論、私はその手の愚かな人達に手を差し延べている訳ではないので、寧ろ好都合となる訳ですね。そうした部分を勘案して頂き乍ら、左近治の過去の言っている事と整合性が取れてないではないか!? と決め付けるのは避けていただきたいと思います。私とてブログ開設当初からネットで嫌がらせを受けておりその対処を含めての事でもあるので、木を見て森を見ず、という様な状況にならぬようご容赦願いたい所です。でも、本当に音楽学びたいならネットに依存してちゃあダメですよ(笑)。

 
 6度音の取扱いを知るに当って、限定進行音だという事も覚える事が出来、それでいて平行が何たるや!? という事も知る事が出来、その上Ⅱ on Ⅴコードの用法も例示し乍ら調的余薫の振る舞いを感じ取る事が出来る筈なのに、そうした側面をスンナリ相容れないというのは、心の中に音楽を素直に受け止めたくはない自分可愛さの「甘え」があるが故に邪魔をさせているのではないかと思う事頻りです。感情次第で音楽の受け止めが変って了う程度の感情しか持たないのであれば、それは情緒不安定で精神に問題があるのではないかとも思います。音楽などたかだか数分の中に凡ゆるドラマが仕込まれている訳で、それを聴いた時に人間の感情は喜怒哀楽を容易く操作され、客観的に見ればたかだか数分に喜怒哀楽の起伏が激しい様を見れば、それこそ「精神おかしいんじゃないか!?」と思われてもおかしくはないのが音楽の醍醐味であり魅力でもあります。

 しかし、その音楽の深部をいざ楽理的に理解しようとすると今度は感情など不要一切不要であるにも拘らず、感情の源泉を追い求めたり、感情の源泉という姿を直視する事をしたくないとする「保護」という保守的な防禦精神が働いて了うかの孰れかに収まってしまう者は音楽の真の姿に向き合えず、感情の起伏を待たないと理解できなくなってしまうのです。これは或る意味、活字を嫌う人間がマンガの様な絵の描写を待たないと理解に及ばないというそれと酷似する物でもあります。


 感情に左右されず文章を読む事で真実に到達する事が出来るという訳です。それが出来ないという事は智識の獲得と理解は無いという事なのです。