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今井美樹「ポールポジション」にバップ・フレーズ解体の試み [楽理]

Ivory_MikiIMAI.jpg 扨て今回は、嘗てJ-POPと謂われる前の時代に松任谷由実をもアルバム売上げを凌駕する勢いで売れた程であった今井美樹のアルバム『Ivory』に収録されている「ポールポジション」を題材に取り上げる事にします。


 この曲の素晴しさは、Aメロに於ける曲の調性の移ろいにあると謂えるでしょう。キーはニ長調(=D)ですが、なんと言っても驚きなのはⅠ△9→Ⅶ7(!)→IIIm7と進行する部分であり、IIIm7の前段ではⅦ度上の和音が副次ドミナント7th化しているので原調の余薫を漂わせる必要は無いのです(原調に一旦戻るかのように進行するにも拘らず)。

 Ⅶ度上の和音が副次ドミナント化すると「♯Ⅱ」「♯Ⅳ」という風にして上主音と下属音がそれぞれ半音上方変位させられる事となる訳です。

 こうした経過的なオルタレーションを調的な近親関係で見れば「♯Ⅳ」だけで済ませば唐突感は少なくなるのでありますが、そこで上主音までも半音高めて「♯Ⅱ」を導入している感覚が絶妙と言えるでしょう。

 しかも原調でのⅢ度から生ずる短九度は下属音を包含してしまうフリジアンの特性音となり和声的にはアヴォイドです。ところがこのⅢ度の和音の直後に原調に戻った感を備え乍らも見事に背いてメロディーは [gis] (=G♯)へ進むのです。こうした所が凄いのです。

 その和音はC♯7(on E♯)なのですが、曲冒頭のAメロでは和音は仰々しく充てておらず、曲終盤のギターソロではD♭△9(on F)という風に変化させています。

 それにしてもこのC♯7(on E♯)というのは、Aメロ冒頭部に生ずるⅦ7である「C#7」とも明らかに違う振る舞いでして、それがEm9に進行する訳ですから和音進行的に確認すると進行という脈絡は稀薄なのですが、メロディの強力な線で引っ張っており、そこに白昼夢を見るかの様な移ろいがあり、パッと元の姿(Em9)であるⅡm9としての姿に変えるという物です。兎にも角にもこの鮮やかなコントラストはJ-POP史上に残るというか、後世に伝えたい独得の個性を持った和音進行に依って作られた曲であるという事を先ず念頭に置いていただく必要があるでしょう。

2018年12月26日追記  本曲ポール・ポジションのAメロでのコード進行の「凄さ」という事を詳らかに語っておいた方が判然とすると思いあらためて語る事にします。YouTubeにて譜例動画をアップしたのでありますが、譜例中最上段声部の左端に数字が振ってあるのは原曲のイントロから数えた小節番号ですので、これに準じて小節数をカウントし乍ら説明する事にします。



 本曲17小節目からAメロが開始され、「D△9」というトニック・メジャーから始まります。「凄い」と評したのは18小節目で生ずる「C♯7」のコードが生ずる所にあります。

 コード表記だけを見れば♮Ⅶ度上にて生じた副次ドミナント和音であり何の変哲も無いかもしれませんが、そのシンプルなコード表記が故に重要な「変化音」の存在を蔑ろにしてしまいかねないので注意を払う必要があるのです。

 譜例動画で当該箇所の18小節目を確認していただければ、それがKey=D(ニ長調)の「♮Ⅶ7」というスケール・ディグリーを緑色で表示しつつ注釈で「tritone substitution of Ⅳ7」としているのを確認できるかと思います。つまり、このコードは、Key=DのⅣ度上にて生ずる副次ドミナント=「G7」の三全音代理なのだという解釈を付しているのであります。Key=Dの本来の下属和音は「G△7」なのですから、そのコードの七度音が半音下方オルタレーションして「G7」となる訳ですが、三全音代理を採るので「C♯7」を生ずるという解釈に至っている訳です。

 三全音代理とする根拠は次の通りです。

・鍵盤パートの大譜表高音部は17〜19小節間を敢えて加線の必要の無いハ音記号にしておりますが、そこでの高音部の上声(トップ・ノート)を見ていただきましょう。17小節目から白玉で [e - eis] と先ずは2小節分増一度進行しているのがお判りいただけるでしょう。この線を「より強化」するのであれば [e - eis - fis - g] とやるか若しくは [e - eis - fis - gis] と誇張を続けていくのが望ましい線運びでありましょうが、19・20小節目のコードも実際には先行2小節の共通音を採って和声的に三度下方代理を採っての装飾であるので [e - eis - e - eis] の循環を採っても差し支えはないとは思います。

 唯、本来ならばノン・ダイアトニックとして [eis] を生じたのであれば、この誇張を後続に続けていくのが「より強い」線運びとなるのは確かです。処が本曲は [e - eis] の後に [gis] という風に [eis] から減三度進行させる事でジャズ風の跳躍がより際立つのであります。同時に19小節目での「F♯m11」での左手は [e] を奏している事で、これをオクターヴ重複としては実際には弾かれてはおらずとも、和声的な意味では転回位置にて還元されており「補充」されている状態とも見なす事で、高音部にも [e] の陰が存在するので、[e - eis] の後には循環的に再び [e] が補完された様にもなるので体を保つ事にもなる訳です。

 19小節目に進む直前の18小節目。茲の♮Ⅶの凄さは他にもあり、同時に平行短調=Bm(ロ短調)に「転義」しているという解釈にもなるのです。

 転義というのは、転調という大袈裟な様式を伴わせずに共通音を利用して他調へ解釈を変えるという様な多義的な状況を含む時に用いるのが相応しい言葉でありますが、詳しくは松本民之助著『作曲技法』を読まれれば参考になる事でありましょう。

 扨て、なぜ18小節目はロ短調という平行短調にも同時に目を向ける事が可能なのか!? という事を論ずる事にしましょう。

 当該小節のコード「C♯7」を「G7」の三全音代理と解釈したので本来の元の副次和音(Ⅳ度上のドミナント7thコード)の第3音= [h] は上行導音を採ろうとする物である筈ですから、その三全音代理の「C♯7」の第3音= [eis] は下行導音を採ろうとする斥力を伴う物です。

 線的誇張としては [e - eis] から更に上方に短二度進行や増一度進行を繰り返して行っても良いのですが、原調の「余醺」と同時に生じた「♮Ⅶ度」上の副次和音は、斥力の方を強めようとするのがより「調的」である訳です。ですので [e - eis] の後には循環的な繰り返しのフレーズの欲求が起こっても差し支えはない訳です。

 その斥力の源である「C♯7」は「B♯なにがし」のコードに進行するのが自然なのでありましょうが、茲で下方五度進行つまり「F♯なにがし」に進行する処が非凡なのであります。スケール・ディグリーで言えば「♭Ⅱ7」が「Ⅰ」に行かずに「♭Ⅴ」に帰着するのと同等という事であります。しかも「♭Ⅴ」はdur=長和音であるのが正当な手順ですが、そこで更に同主調の音脈(凖固有和音/同位和音)という謂わばモーダル・インターチェンジを採って同主調短調の音脈に帰着しているのであり、そうして「F♯m11」に進んでいるのであります。

 とはいえこの「F♯m11」は、その和音が内含する長九度音= [gis] が示している様に、決してKey=DでのⅢ度上で生ずるマイナー・コードではない訳です。短九度という西洋音楽界隈では「中音の九度」であれば原調を維持しているのでありましょうが、実際には違うという訳です。これはあらためて後述します。

 そもそも平行短調のⅡ度(=平行長調の♮Ⅶ度)というのは、それを根音に和声を積むと減和音を基にするダイアトニック・コードを生ずる物です。基が減和音という「変化和音」という事を好い事に、この変化和音を「普遍和音」の方の姿へ戻そうとする「歪曲」的な解釈は後期ロマン派以降での短調の多義的な振る舞いの中で重用され、特にそれは「ジプシー調」を生ずる事にも貢献したのでありました(ルイ/トゥイレ共著『和声学』*山根銀二・渡鏡子共訳を参照)

 短調というのは厳密に増二度進行を忌避している物ではありません。ですので時代を重ねれば西洋音楽界隈に於ても軈てはジプシー調をも生じた訳でありますが、短調のⅡ度上の和音を減三和音の根音と第3音を短三度音程ではなく長三度に戻す事を先ずは考えてみましょう。なぜ第3音と第5音も一緒に戻さないのかというと、音組織として2音変化させるよりも1音を変化させる方が最小限であるからです。

 減三和音の根音と第3音を長三度に変化させれば「硬減三和音」(長三度+減五度)が「最小限」の変化の姿として生ずるのです。こうした最小限の情緒の変化がジプシー調を引っ張って来るのは次の譜例を確認していただければお判りいただける事でしょう(譜例ではBハンガリアン・マイナーと呼んでおります)。

Pole-PositionVII7-b1.jpg
 扨て、Bハンガリアン・マイナーのⅡ度上にて四和音である副七を生じさせると、自動的に副次ドミナントの変化和音=ドミナント7thコードの第5音が半音下がった音をダイアトニック・コードとするのでありますが、「ポールポジション」での当該箇所はC♯をルートとする硬減七ではなく「C♯7」であるのですから「C♯7(♭5)」を生ずるモードを想起しても無意味な事となります。原調=ニ長調(あるいは平行短調のロ短調)から生ずる変化としてはBハンガリアン・マイナーを選択する方が変化音が少なく唐突でなくなるにも関わらず、実際は異なる訳です。音組織の面から鑑みても「ポールポジション」のⅦ度上の和音の出現はそれほど「唐突」でもあるのです。

 但し、唐突でなければ好いという物でもないのが音楽の実際でもあります。音組織の変化を最小限で留めたいのであるのならば、次のF♯ナポリタン・マイナーの第4音をモードから生じたC♯音をルートとする四和音のダイアトニック・コードを生じさせてもやはり同様に硬減七を生ずるだけで [gis] は生じないので「ポールポジション」のそれを満たす事にはなりませんが、音組織の面から言えばこちらが最小限の変化で済む訳ですが、「ナポリタン・マイナー」をそう頻繁に見かける事が少ないのが実際でしょうから、この情緒を利用するのは却って縁遠い状況と謂えるでしょう。

Pole-PositionVII7-b2.jpg
 それならば、C♯・E♯・G♯・B(H)を有する事が最低条件である訳ですから、これらを満たすモードを先ず列挙する必要があります。そのモードから生ずるC♯音をルートとするモードはC♯フリジアン・ドミナント。つまり、F♯ハーモニック・マイナー完全五度下とも知られる、F♯ハーモニック・マイナーは5度下方にある音ですよ、という訳です。

 但しC♯音をⅡ度として見るモード想起が必要な為、B音をフィナリスとするモードはF♯ハーモニック・マイナー四度下とも謂えるF♯ハーモニック・マイナー・モードでの第4音のモード・スケールを想起する必要があり、そのモードのⅡ度の実際はF♯ハーモニック・マイナー完全五度下(=C♯フリジアン・ドミナント)のモードから生ずる和音となるのです。こうして「C♯7」を生じさせる事ができます。同時にこのモードは非常に使いやすいので、原調の音組織から2音が変化させられる状況であっても局所的にこのモードに転じても唐突感は少ないと謂えるのは、この音組織自体が「線」として強力な情緒を持っているからであります。

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 同様にして「C♯7」を生ずるモードをもうひとつ紹介すると、それがF♯ハーモニック・メジャーの第5音のモードであり、F♯ハーモニック・メジャーの第6音をルートとするダイアトニック・コードがそれを満たす訳です。とはいえ「C♯7」の和音外音であるが故についつい見過ごされがちな特性音が [ais] =A♯音の存在。これが矢張り唐突感を生じてしまうのは、Key=Dでの属音。すなわち原調の重要な余薫となるA音の存在がなくなりA♯音に変じてしまう所です。

Pole-PositionVII7-b4.jpg
 これらの諸点を鑑みれば「ポールポジション」で生ずる「C♯7」ではF♯ハーモニック・マイナー・モードを想起する事が好ましい事がお判りでしょうが、YouTube譜例動画の註釈にて [h: ii7] と表しているのは、ロ音を主音とする短調を起点とするⅡ度の和音として解釈しているので、F♯ハーモニック・マイナーの第4音のモードを「短旋法のひとつ」として括って解釈した上で [h: ii7] と表記しているのです。厳密な意味でのロ短調ではないので、その辺りは注意が必要となります。

 19小節目では「F♯m11」を生じます。9・11th音をとりあえず措いて考えれば「F♯m7」な訳ですから、原調=Key=DのⅢ度上の和音と見紛う感じにもなります。とはいえ長音階のⅢ度上の和音というのは九度音は自動的に短九度となるので、アヴォイドではありますが、西洋音楽では先述の様に「中音の九度」という用法がありますし、マーク・レヴィン著『ザ・ジャズ・セオリー』では「Ⅴ7/Ⅲ」という解釈に依る「フリジアン・コード」として紹介される例もあります。

 こうした例を踏まえると長音階のⅢ度上の九の和音も然程忌避する物でもないとは謂えるでしょうが、中音の九度はあくまでも短九度である訳で、懸案のコチラのコードは純然たる「F♯m11」である訳です。その上であらためて注意を払っていただきたいのは、このコードを「トニック・マイナー」として捉えていただきたいので、茲は決して「F♯m11」上の [gis・h] をオミットして弾いたとしても原調のⅢ度とは解釈して欲しくはない重要なKey=F♯マイナーへの転義を孕んでいるという解釈が重要な解釈であるのです。

 つまり先行和音「C♯7」は臆する事なく下方五度進行を採っているのですが、C♯から見た「F♯」は属音の位置なのですが、ドミナント・マイナーとして導音無しのエオリア調=Bナチュラル・マイナーのⅤ度として解釈されつつ、その和音は同時に転義して共通和音である嬰ヘ短調の主和音「F♯m」へ帰着しているという訳です。

 20小節目では再度「C♯7」が現れるのですが、先行の「F♯m11」の属音であると同時にKey=DのⅣ度上の副次ドミナント=G7の三全音代理=C♯7として「ひとまわり」して帰着しているのであります。

 21小節目では弱進行ではありますが、原調の音組織であるカウンター・パラレル(=上方三度)の方へ進行するというのが心憎い所です。

 原調のニ長調から見れば本来Ⅶ度の四和音は「Bm7(♭5)」となります。これは減和音を母体とする物ですが、基底部(=トライアド部)に普遍和音(※長三和音 or 短三和音の何れか)を持たないので、和音諸機能(トニック、ドミナント、サブドミナント)は本来は持ち合わせてはいません。長調ならば属和音の属音省略としてのドミナント機能として役割を果たしますが、実質的には音楽的方便にすぎません。

 なぜなら、調性音楽に於ける和音諸機能は「長三和音」に強固な機能が宿ります。副次的な意味にて短三和音にも機能が与えられますが、短調に於ける和音諸機能は三度上方の代理和音が本機能という状況なのです。

 翻って短音階のⅡ度上の和音というのは平行長調のⅦ度と同等ではありますが、その減和音を導出するに辺り上下それぞれの「代理的位置」を確認する事にしましょう。

 下方三度に生ずる代理的関係の和音を「パラレル・コード」と呼びます。つまり、下方三度に減和音が生ずるのは上方三度にある短調のⅣmであるものの、Ⅳmの本機能はその又上方三度のⅥ△にあり、下方三度は普遍和音ではない為和音機能を有さず措定される事になります。

 また、長調のⅦ度上を三度上方に見る長音階のⅤ度は言うまでもなくドミナント機能ではありますが、上方三度を見ると普遍和音ではないので和音機能は持たない事になります。Ⅴ度の下方三度はⅢmという短三和音を生ずるので和音機能はドミナントとトニックを両義的に持つ事になります。

 長調での主要三和音の代理機能は三度下方にあり、短調での主要三和音の代理機能は三度上方にある訳です。長調/短調それぞれの逆行する代理(長調での三度上方と短調での三度下方)位置を「対和音=ゲーゲンクラング」と呼ぶのでありまして、つまり「減和音」を生ずる状況というのは長調でのⅤ度の三度上方であり且つ短調でのⅡ度の三度下方という物であり、このゲーゲンクラングは機能的に「閉塞」している状況に過ぎないという解釈を理解するのが重要なのであります。

 いずれにしても普遍和音が生じない減和音には調的な和音機能は無いので(※不協和音なので、後続の安定的な協和音へ進行させればドミナント「的」役割は生ずるが)、ゲーゲンクラングというのをあらためて念頭に置いてほしいのでありますが、アルフレッド・デイ(Alfred Day)は短調のⅡ度上の四和音を「Ⅳm6」およびⅤ度の属十一とも見做す理論(リンク先PDFの90ページ)を打ち立てているのであり、「C♯7」に内含する [eis・gis・h] という減三和音を更に「曲解」(=G♯m6を呼び込む為に)するとなると、かなり縁遠い事になるものの、曲終盤のアプローチに於ては一理ある手段でもあるかもしれません。

 いずれにしても21小節目で生ずる「Em7」というのは、先行和音「C♯7」のヴァリアント・コード(主音を共有する基底部の和音の長・短を置換する)を想起すると「C♯m7」という嬰ヘ短調(=F♯m)調域でのドミナント・マイナーが見えて来るのでありまして、これのカウンター・パラレル・コードとして「Em7」を呼び込み乍ら、調域はスルリとニ長調(Key=D)のⅡ度へ転義させているという所は絶妙なほどにさりげなく素晴らしいと思います。

 22小節目も「Em7(on A)」は「Ⅱm7(on Ⅴ)」であり調域を維持しつつ、23小節目でトニック・メジャーである「D△9」へ帰着。直後、フラット・メディアント(=♭Ⅲ)であるセスクイトーン(=1全音半)進行となるパラレル・モーションでF△7へ進行します。

 瞠目すべきは、D△9上にて歌われた [fis] 音がそのままF△7へ掛留し、F△7上では完全に倚音となっているのですが、F△7上では実質それが「短九度」の倚音を纏った倚和音としてのハーモニーが自然に生じており、[fis] が事実上「F△7」では [ges] になっているのも興味深いハーモニーであります。

 嘗てリー・リトナーの「Ipanema Sol」という曲の「B△7」上で [c] を生じている例を取り上げ、メジャー7thコード上の短九度として紹介した事もありましたが、転回位置に還元すると、根音・長七度・短九度はダブル・クロマティックという連続した短二度を形成するにも拘らず、よもやポップス界隈にてこうした和声の新たなる進化に伴う変遷を30年以上も前の時代に見出す事が出来るのですから音楽とは実に興味深い物であります。



 これらの縷述した部分が「凄さ」を表しているのであり、私が何もこうまで言わずとも、各人分析してもらえれば、斯様な事実が転がっているのだからお判りいただけるであろうと思い矗々(ついつい)記事にするのを疎かにしてしまったので、一部の方からすれば本意を酌み取る事が出来ずに忸怩たる思いをさせてしまっていたかもしれません。私としては単に、ある程度の音楽的素養があれば斯様な楽理的背景は読み取っていただけるであろうという事から生じた「サボリ」であったのであり、その辺りはご容赦下さい。




 今回私の挙げるコード進行というのは、過去に今井美樹の当該曲が掲載されたピアノ・スコアやらの類は存在こそ知ってはいるものの、私はそれを全く見た事がありませんので、それらと比較して私の語っている所と差異が有るかもしれませんが、理解に一義的にならずに私の取り上げる方に倣って理解してもらう為に話を進めていくのでご容赦を。

 という訳で先ずはAメロ冒頭のコード進行を列挙すれば次の様になるという訳です。

D△9→C#7→F#m7→C♯7(on E♯)※曲終盤はD♭△9(on F)→Em9

 という風になるのです。最も注目し得る和音「D♭△9(on F)」というのは異名同音のC#音由来、すなわち冒頭にもⅦ度がセカンダリー・ドミナント化したそれと似た物ではないのか!? と思われるかもしれませんが全くの別物であるのは明白です。ですから音度的にはⅠ がオルタレーションしたかの様に書かざるを得ない訳です。

 ⅠがオルタレーションするにしてもD♭△9を構成する音群 [des・f・as・h・es] を見ると、f音もニ長調からみた同位和音(主音をコモン・トーンとする同種短調にある和音)由来となる物として見る事も可能ではありますが、そうなるとC#m系統のコードの第3音が導音欲求(e -> eis)を起した異名同音からの脈絡とも見る事もできますが、嬰ヘ短調の脈ではなく変ト長調の脈として見る方が最も適切であろうと思われるのですが、原調(ニ長調)から比較すると遠隔的な脈絡である事には間違いありません。しかも五度を累乗した長三度上の調性のエンハーモニックの調性ですので。ハ長調に置き換えるならば一旦Ⅲ度に着地したと思いきや♭Ⅰ△(Ⅶ△の異名同音)に進行するという様な物ですからその唐突な程の進行感はお判りいただけるかと思います。


 加えて茲は非常に重要な解釈なのですが、この「D♭△9(on F)」は原調(ニ長調)の余薫も強く残っておりそれを「素材」としてハイパーなジャズ的解釈をすると、ces(h音の異名同音)音も使う事が可能です。D♭から見れば増6度由来の音なのですが、原調の余薫とその時点での局所的な和音構成音からは突飛な和音外音でしょうが、それを許容し得るアプローチが可能となる側面を見せてくれるという物なのです。


 D♭から見た時の長七度音と増六度の同居というのはピンと来ない人も多いかもしれないので、D♭△9というコードから一旦D♭音を省略して考えると判り易くなるので、先ずはD♭音を省略して仮の姿である「Fm7」を見てみる事にしましょう。

 先のD♭音を基準に長七度と増六度を同居させるという事は、Fm7という和音に「#11th」を附与するのと同じです。F音から見た時の完全五度音C音さえなければ「Fm7(♭5)」となるのですから、面食らうかもしれませんが、ハーフ・ディミニッシュは減五度であり、この場合は完全五度と増四度が同居するという和音になります。


 「そんなコード使った事無ぇよ!」

 とブチまける人も決して少なくはないでしょう。しかしマイナー・コード上の♯11thは旧くはアーサー・イーグルフィールド・ハルが自著『近代和聲の説明と應用』にも掲載されている物で、その理論書とて原版は既に100年以上経過した物なのですから、よもや日露戦争ほどの昔にあった事実に則してその後の時代変遷を勘案すれば先の和音は決して新奇性のある物では無いのです。


 亦、短和音をベースに#11度音が附与される和音については私の過去の記事でも再三再四述べておりますが、#11度音のみを附与するのはあまり望ましいものではありません。六和音由来にした方が良いという事なので、7度・9度音を包含した方がベターであるという事であります。

 またその際7度音は総じて短七度である必要もなく、長七度であっても構わないのですが、ハルはもっと大膽で、九度音も長九度のみならず短九度(!)をも挙げており、その上で例示はその限りではないと掲載しているのですから瞠目に価する物であります。私とてハルの体系をこのように俯瞰するかの様に語っているものの、音楽の100年というスパンは決して古く色褪せるという解釈には済まない程、大衆の耳が修練されていくというのは本当に大変な事なのだと、こういう事実からまざまざと思わされる物です。


 増11度音は原曲は使っておりませんが、余薫と共に和声的に発展させるアプローチが採れるのだという事を今回示すのであります。というのも、「ポールポジション」のその突飛な進行感(決して突飛には感じさせないメロディの「科」《しぐさ》をしゃなりしゃなりと感じさせる線のしなやかさと強さに少々突飛な和音すらも和らぐ)に、原曲の終盤のギター・ソロというのは異端な和音進行の前に尻込みしてしまっているかの様な、それでもアヴェイラブル・ノートを弾いて持ち堪えているだけで完全に閉塞感を伴わせてしまっているという風に私は捉えていて、そこにもう少し工夫があっても良い筈だという狙いもあって今回こうして述べる訳です。

 無論、そのギター・プレイも前後との繋がりをスムースに行うにも難儀するという側面があるのは理解できます。


 私の手許の資料では、「ポールポジション」のギタリストは誰かが判らないのですが、モードを一義的にしか捉えられていない事はプレイから明々白々であります。

 私はこの曲の初めて聴いた時から頭の中には後述の様な「バップ・フレーズ」にて解体したくなる衝動が随時起るもので、概ね次の様な感じの解釈のバップ・フレーズが次々に生ずる物です。



 抑もバップ・フレーズというのは、曲の実際に於いて和音進行がとても明確な曲よりも、その和音進行がある程度予測が可能な物に対して、更に「ゆさぶり」をかけるというのがバップ・フレーズの最大の醍醐味である訳です。その「ゆさぶり」という行為は、単に既知の体系にツーファイヴ進行へ解体すれば良いという物でもなく、この辺は近年では濱瀬元彦著『チャーリー・パーカーの技法』を読めばバップ・フレーズへの必要な解体とやらはお判りいただけるでしょうが、この辺りのバップ・フレーズ解体という事を述べた最初の書は私の知る限りではエドワード・リー著『ジャズ入門』(音楽之友社刊)でありました。ジャズ入門150頁を読んでお判りにならない方は『チャーリー・パーカーの技法』を読んでも何一つ理解できない事でしょう。


 私にとって嘗て重要だったのは、バップ・フレーズへの解体とやらをどの様な体系化で為されているものなのか!? という事を知る事でした。勿論バップ・フレーズがどういう「進行感」があるものなのかは音を聴けばすぐに判りますし、「あ、今のがバップ・フレーズだな」という風には直ぐに判るものの、そのメカニズム(アプローチ手法)は漠然としただけでしか無かった物です。そういう人は非常に多いのです。勿論孰れはそれを耳で知り、方法論を体得する様になるのですが、方法論を思弁的に覚えるだけでは身に付かないのです。何故なら13度音の体得がない限り身に付く事が無いからです。


 そうして13度音の体得の経験を積むと、繙く様にバップ・フレーズは判って来るものです。そうして80年半ばにエドワード・リー著『ジャズ入門』に出会った時は、私の判断は間違っていなかった物なのだと確信させられると共に、あれほど苦労した感じだったのに、これほど簡潔に述べられる物なのか……。という風にも感じさせられる物もあって、己のあまりに矮小な能力を実感させて呉れる物でもありました。

 
 そういう訳であらためてバップ的アプローチを「ポールポジション」のギター・ソロに導入するメリットとしては、ギタリストのアプローチが閉塞しているのもありますが、曲の進行感の閉塞に伴う所に従来のアプローチで進められないもどかしさから節廻しに迷ってしまっているというのが正直な所でしょう。とはいえその迷いが完全に迷ってしまった音を奏する訳にはいかないので、少ない音と長い音価でお茶を濁している訳です。


 「閉塞した進行」、そこには明確な五度下方進行などにある様な進行とは一線を劃す物で、バップ・フレーズというものは実は、こうした閉塞した進行において転がり勾配をも付けてしまう所に最大のメリットがある訳です。つまり、バップ・アプローチを体得していないと対処できない訳でして、単なる一義的なモード・スケールの嵌当では対処できない物で、きちんとジャズの体系を知らないと無理なのです。だからといって総じて音が「ジャズ的」になるという物でもないという事はきちんと述べておかなくてはなりません。バップ・フレーズに学ぶと雖もフレーズそのものがジャズになる訳ではない所に最大の魅力がある訳です。


 AというコードからBというコードに進む。この過程に於て卑近なフレージングしか導出できない事を回避する為に、Bに進む迄の間にしりとりをする様な物だと思えばバップ・フレーズ解体というのは判り易いでしょう。Bに進む迄にact - tab と語句を結んでBに行く、みたいに。つまり、転がり勾配と呼んでいる私のそれは「しりとり状態」だと思ってもらえれば良いのですが、五度下方進行を明確にフレージングしてしまうと、背景のコードがそのままであるのに自身だけが先走りしてしまっている感を出してしまいかねません。

 何故なら五度下方進行は時には導音欲求に依って生ずるノン・ダイアトニックな音が視野に入る事になり、本来なら和音進行をしていない所に新たな導音欲求を持った和音進行感を生ずるフレーズを埋めてしまうと自身だけが先走っているかの様な変なアプローチになりかねません。

 Dm7→Gという進行があった場合、自分だけがDm7というコード内で「A7→Dm7」をイメージしてしまうとA音由来の導音欲求はC#ですからDm7上でC#音が生じ(※投影法の断片が音脈として現れて来る)、それはそれでまた別のアプローチとしては良いでしょうが、時にはあざとく、時には卑近であるのです。

 また、Dm7内で「E7→A7→Dm7」とアプローチするとしたらG#音(D音からのブルー5度の異名同音)とD音から見た時のメロディック・マイナー的な音並びとの近似性があるC#音を生む、という事にもなりますが、バップ・フレーズ解体を知らない人からすればこうしたアプローチですらも新鮮でありましょう。また同一コード内を更に之等の様な五度下方進行にて細分化するそれを界隈では「ツーファイブ解体」とか「ツーファイブ細分化」とか言ったりしますが、ジャズ方面では「Ⅲ→Ⅵ→Ⅱ→Ⅴ→Ⅰ」だろうがその断片の五度下方進行だろうが、総じて「四度進行」とか、それらの断片全てを「ツーファイブ」と呼ぶ事すらもあります。例えば「Ⅵ→Ⅱ」という五度下方進行をも「ツーファイブ」と呼ぶ、兎にも角にも五度下方進行をツーファイブと呼ぶ事もあるので、その辺は察してあげて欲しいのですが、バップ・フレーズの初歩はまあ、こういう物から端を発している訳です。


 AというコードからBに進む過程でやるばかりでなく、ワン・コードの場合など後続の和音が無いわけですから、こうした時に「転がり勾配」を付ける事の方がバップ・フレーズ解体が最大限功を奏す一つの側面かと思います。


 必ずしもそれが「五度下方進行」でなくとも良いのですが、つまりは「Ⅱ→Ⅴ」ばかりでなく「♭Ⅱ→Ⅰ」というアプローチでも良いのです。これは背景に三全音を代理し合っているという裏コードを視野に入れているアプローチであるのは自明です。「♭Ⅱ→Ⅰ」を延々繰返していけば「♭Ⅱ→Ⅰ→Ⅶ→♭Ⅶ→Ⅵ……」という風にもなり得ますが、こうした時でも先の下方五度進行を総じて「ツーファイブ」と呼ぶ事もある様にこれらはダブル・クロマティック(トリプルだろうが)と呼ぶ訳です。単旋律でもダブル・クロマティックと呼ぶ事はありますが、これは和声的なダブル・クロマティックの連結例です。

 コード進行に於けるダブル・クロマティックで重要な事は「Ⅱ→♭Ⅱ→Ⅰ」というプロセス中の「♭Ⅱ」が実際には「Ⅴの代理」であるという事。


 簡単に纏めればバップ・フレーズ解体というのはこうした体系に括られている物なのです。それが最も功を奏するのは、元から「整備された」和音進行に於てあらためて「ゆさぶり」をかける事に主眼を置いているのですが、元からある和音進行そのものに進行感が稀薄な状況ほど功を奏すのです。

 加えて、バップ・フレーズ解体のプロセス中に於ける架空のドミナント7th想起は本位11度音を想起した方が転がりがスムーズです。それが後述する事でお判りになると思いますので、先ずはサンプルと当該小節部分にてどのようにバップ・アプローチを採ったのかを示す事にしましょう。
 

 次の図は当該サンプルの4小節目(弱起部分は3小節目4拍目の最後の16分音符×3音)を示すものですが、弱起小節から4小節目拍頭のC音にかけて丸で囲っている訳は、この動機は非常に重要な音形である事を示唆しているのです。

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 今回声高に語りたい部分は背景のコードがD♭△9という長七度音を包含するタイプの和音としても、そこに増六度由来の音を交える事が可能なシーンとして語りたいのですが、長七度と増六度の同居という形で見ると判り辛い側面もある為、判り易く今回はD♭音をオミットしてF音から基準に見立ててみる事にします。そうすると、D♭音を基準に見立てた長七度&増六度というのは、F音から見た時の完全五度&増四度という風に見る事が出来る為比較的判り易くなるとという配慮に依る物です。

 D♭△9からD♭音をオミットするとFm7を想起する事が可能となります。つまり、この和音に「恰も」#11th音である「h音」を同居させる事が出来るという根拠は、短和音上にて異端とも謂える和音外音の導出(実際には長七を持つ長和音での和音外音の選択方法のひとつ)という物にあります。

 先述した様に、マイナー7thコード上にて#11th音を附与すると、基底和音の短三度上方に基底和音の7度音をコモン・トーンとし乍ら短和音を得る様になるのです。つまり「f・as・c」が基底和音で「es」がコモン・トーン(=共通音)。Fマイナー・トライアドの短三度上にマイナー・トライアド。つまり「A♭マイナー:as・ces・es」を得るという風になるのです。

 処がces音というのは実際にはハナからあったD♭音から見ると短7度音ですが、7度音は既に長七度として和音構成音としてC音が存在する為、このces音は「h音」という増六度という風に見るべき物となるのです。


 その「h音」を得るのは良いのですが、「きっかけ」を巧く作らないと単に音を外したミス・トーンの様に聴こえかねません。ですから最初の動機としての「C音」があるというのは非常に重要でして、これをオルタレーションさせるかの様に聴かせれば良いのです。

 扨て、肝心のバップ・アプローチですが、後続和音のEm9に行く迄のプロセスにて「A♭m→G△→G♭△」を想起します。この仮想的な和音想起はダブル・クロマティックにて連結させている物ですがそれぞれの和音は2拍目・3拍目・4拍目という風に充てており、それぞれに番号を振って図示しております。

 扨て、バップ・アプローチにてh音を明確に使う為には、そこから三全音の音程から入るのが、オルタレーションと転がり勾配という加速感を伴わせるに当って非常に良い入り方になるのです。ですから私は1拍目にてF音に下がって f - h という風に連結させるのです。すると拍頭のc音からのオルタレーションっぽく聴かせる事も可能な訳です。茲から本来の和音構成音という本来の薫りをまぶす為に、分散和音にて一旦明示させます。

 チャーリー・パーカーとかになると、D♭音から始めたとするとそれを15度音と見做して15・13・11・9・・・という風にも分散フレーズを充てるというのも濱瀬元彦著『チャーリー・パーカーの技法』にて詳らかに語られておりますが、基本的に、元の和音構成音から生ずる調的構造を崩さずに「回転」(=しりとり状態)を続けられるのであれば、どの音度からアプローチに入ろうと問題は無いのです。低次の音度からだと和音の強固な基底部分から始める事になるので卑近に聴こえる時もあろうかと思います。そういう意味では私はD♭音を基準にすればその分散はh音を除いて#6・5・3・2という風に分散和音のアプローチを採っているという風に見立てる事ができますが、F音から見ればそれは#4・3・1・7という風にしている、という事です。

 換言すればチャーリー・パーカーの場合は、1(15)・13・11・9・・・という風にもやるという事でありますが、基底音から遠い方から選んで転がるのがやはり先人の凄い所だな、と。つまり、細い紙切れの両端を15度音で繋げて「輪っか」を作る様な物です。その上で「しりとり」をする様な物なのです。

 私の場合はダブル・クロマティックの方を選択しているので、逸脱感は強いのです。ですから基底和音に近い音度からアプローチを採っている、という所も判断して貰えればな、と思います(笑)。

 扨て、2拍目でA♭マイナーの分散で下行しつつ3拍目に連結するのですが、3拍目拍頭のE音の導出は一体何なのか!? と瞠目する人が居ると思います。確かにそうでしょう。本来のD♭△9のコードから見たら何の脈絡もない「逸脱した音」でしかないのです。


 しかし私はダブル・クロマティックのアプローチのプロセス中の事なので、このE音というのはA♭マイナーから半音下がったG△の分散フレーズを充てる為にはどうしても必要な音なのです。

 「G△の分散和音ならばg・h・d で済むことやん」

と思われる人も多いかと思いますが、「G△も輪っか」にしないといけないので、そうなるとG△からリラティヴに下方3度である、つまり13度と同等の音脈を見る必要性があるのです。そうしないと巧く転がらないのですから。ですからこのE音は「輪っかの糊付け」の為にとても重要な音となるのです。で、もう一度h音からのアプローチで「h・g・d」という分散を充てているのです。

 そして今度は4拍目。ここは確かに「G♭△」の分散で良いのですが、ここは次の後続和音の為にドミナント7thコードを仮想的に想起します。想起するのは「長属九である事・本位11度である事」が重要なのです。

 何故かと言うと、仮にG♭音を根音とするドミナント7thコードで「能くある」#11th音を見立てたとすると、この時点で、元のD♭△9とG♭7(#11)という和音は五度下方進行として、仮想的な転がりじゃなくて実際に転がってしまいかねない響きを導出しかねなくなってしまうのです。

 ですからG♭7上で本位11度を充てておけば、その和音想起は実際に和音が鳴っているのではない作用なのですから、分散を幾らあてても、本位11度音を想起しておけばその局所的なフレーズはモーダルな状態で居られるのです。余計な和声的勾配が掛からないで済む訳です。

 とはいえ、私は本位11度音を使う事なく、長属九の音脈を使っており、それでEm9に連結する、という訳です。


 Em9というのは根音をオミットすればG△7であり、先行する仮想的なそれがG♭だった事を思えば、それが半音上向した「解決」という風に映るであり、それが異端に感じるかもしれませんが、ドミナント7thコードが半音上向する進行は現今では珍しい事ではありません。半音下向は当然の如くありますが、実は上向も異端な方面ですが決して避けるべき様な物ではありません。

 因みに、先のG♭△の所である4拍目で短属九を見る事も決してお奨めしません。それは後続和音に対して卑近な音脈を持ち込んでしまうのです。今回の場合ならばアンティシペーションとして表れてしまうのですが、私はこうしたプロセスは理屈をこねくり廻して熟考した物ではなく、この手のバップ・フレーズは感覚的に体得していて、こういう場面の時はアンティシペーションを避けるという事が身に付いているので、短属九をこういう時に選ばない体になってしまっているのでご容赦を(笑)。こうしたバップ・イディオムを体得してくると、「余薫」の在り方とか、後続和音に対してどの様にして着地するのかがスムースなのか、という事が恐らく自身の耳の感覚に依って多くの着地の方法を体得する事でありましょう。


 ジャズをこっぴどくやった人ならバップ・イディオムも卑近に感じる程なのです。処が一義的なモード・スケールの充て方しか知らないと、水平な場所に勾配を作る事すらも出来なければ、上り勾配を登る事も出来なくなりかねないのです。

 音楽で謂う上り勾配とは「Ⅴ→Ⅳ」進行なんていうのは最たる物でしょう。目まぐるしい転調がお手のモノの筈のジャズなのに、上り勾配を対応できない、三度・六度進行にも対応できない(コルトレーン・チェンジ)じゃあお話になりません。コルトレーン・チェンジなんて聴こえの良い語句を使っておりますが、ベートーヴェンやシューマンの信奉者からすればお笑い種ですぞ(笑)。そりゃあ、アチラさんの方々はインプロヴィゼーションではない事がジャズにとって助けになる部分かもしれません。


 亦、今回のバップ・アプローチに於て私が想起している仮想的な和音の進行の過程に於て、其処でドミナント7thを仮想的に見たとしてもその和音上でオルタード・スケールを充てるとかコンディミを充てるとか、その手の卑近なアプローチなど一切採っていないという事が重要であり、その上でD♭△からは脈絡すら稀薄な音使いであるのにきちんと転がっている、というそれを理解する事が重要です。

 私の音選びの良し悪しなどはどうでもいい事でしてD♭△9というコードに対して一義的なモード・スケール嵌当では決して得られる事の出来ない音脈を探求する方面を理解しなくてはならず、そこに必要な理解としてバップ・アプローチという事になるのです。処がこれを知らない人があまりにも多く、モード・スケールを一義的に又は近似的な音並びばかりを呼び込んで、しまいにはリディアン・クロマティック・コンセプト礼賛してしまうという、誰もそんなの誉めてくれないモンだから遂にはWikipediaでモード・ジャズの項目で勝手にモード・ジャズにジョージ・ラッセル紛れ込ませた莫迦が生産される様な世の中になってしまったという訳です。哀切の極みでもあります(嗤笑)。


 今回重要な事はバップ・アプローチもさる事乍ら、メジャー7thコード上で生ずる増六度音を併存可能な状況のそれを、包含する短和音組織からの増11度音の併存として見立てて短和音由来の複調構造を想起しつつ、その複調側の世界観からのバップ・フレーズを組み立てるアプローチという事です。

 その特徴的な音への足掛かりとやらを喩えるならば、自転車のペダルを漕ぐ際、片足を漕ぎきってから他方の足を次に踏み切る為に漕ぎきるための「三全音」だと思ってもらえれば判りやすいかもしれません。

 私が能く言う「協和音程を砕く」という言葉が意味するのは、協和音程に対して半音のオルタレーションや不協和音程のクサビを入れて解体するという意味です。協和音程というのはその時点で安定しているのですが、動的ではなく「静的」なのです。そこに転がり勾配を付けるには協和音程にオルタレーション(半音変位)または他の不協和音程に依って砕くことで別の音脈を設ける事で「動的」になるのです。そのように考えてもらえれば理解しやすいかと思います。