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偽終止の一件 [楽理]

 扨て、先日Twitterの方でも偽終止に関する事で呟いていた矢先でもあり、あらためて今回述べておく必要があると思い、偽終止について語る事に。


 ブログの方でも少々呟いていた事ではあるんですが、間違いと「引っ掛け」はきちんと区別して展開しております。「引っ掛け」というのは、私がブログを立ち上げてから引き起こされている嫌がらせ対策に伴う物ですね(嗤笑)。


 扨て、偽終止に就いてとりあえず修正、といいますか正しく詳細に述べておく必要があると思った事をTwitterにて呟いていたのですが、先日、旧来まで藝大の和声教本として使われて来た島岡版の教本が今年度(2015年度)から変わるという事に端を発して、藝大和声では偽終止を是としない教え方の「唯一」と言える本という風に述べていた私でしたが、その後ふとした事でコルサコフ著の『和声法要義 第一巻』に目を通していたら、和声法要義の方でも偽終止(Ⅴ─Ⅳ進行)を是としてはいなかった点を見付けて修正ツイートをしていた矢先の事だったので、ブログの方でもあらためて語っておいた方が良いだろうと思いまして述べる事にした訳です。

 つまり、コルサコフ著『和声法要義 第一巻』23頁の第二章〝第Ⅳ階級対第Ⅴ階級の確定和弦の連結〟にて《第Ⅳ階級の確定和弦を第Ⅴ階級の確定和弦の前に置いて、其の反対Ⅴ─Ⅳを作らない》という風に偽終止を相容れていない教え方になっていた、という事をあらためて述べておかないといけません。

 勿論、藝大和声の方でも偶成和音の取扱いに於て視野に入る事でもありますが、偽終止という点の解釈は、シェーンベルクが自著『Harmonielehre(英訳:Theory of Harmony)』内のディセプティヴ・ケーデンス(Deceptive Cadence)で語っているそれとはやはり見方が大きく異なり且つ大胆に論及しております。つまりⅤ─ⅣはⅤ─Ⅵの置換(代理的)であるという点ですね。何もシェーンベルクは十二音技法を語っている訳ではないので、本書を知らない人からすればそれこそ「シェーンベルクから調性を学ぶのか!?」などと声を荒げるかねないかもしれませんが、それとて近視眼的なシェーンベルクに対する見方だと思います。

 『Theory of Harmony』は現在カリフォルニア大出版から上梓されており、同著136頁からが参考になる事でありましょう。実は本書の和訳版は完訳ではないですが過去に和訳されておりまして、それが山根銀二訳の『和聲學 第1巻』として「読者の為の飜訳」社から出ているものです。これは、先のカリフォルニア大出版のそれの125頁までの訳に相当する物で、初版は昭和4年という物です。上田昭訳の『和声法』は全く別本の『Structural Functions of Harmony』の訳本である事をあらためて明記しておきます。上田訳の方での相当する部分となると19頁辺りが参考になるかと思います(※この件に於いてはTwitterで呟いておりましたので参考まで)

 シェーンベルクとて嘗てはマーラーの門下にあり、その同時期やはりマーラーの門下にあったクラウス・プリングスハイムが日本で藝大の前身である東京音楽学校にて教鞭を執るのであります。プリングスハイムの半生を描写した著書は過去に加藤子明著『日本の幻想』早崎えりな著『ベルリン東京物語』がありますが、それらの著書内に書かれているのは、当時の日本の音楽界に於ては少なくとも聴衆がマーラーを受け容れる様な下地ではなかった事が書かれております。

 当時の西洋音楽愛好家が総じて半音階主義的な音楽を受け容れなかったという訳でもありませんでしょうが、少なくとも当時は広く浸透する程の受けの良さではなかった様です。器楽的素養のある人ならば別として、一般的には解釈には難しい事であろうとは現今社会に於てもそう思う所はあります。

 つまり、私が暗に述べたいのは、調的な情緒が忍ばされている曲想、つまりそれに体を凭れて聴く事が出来る様な自然な和声連結感と形容すれば宜しいでしょうか。そういう世界観がやはり受け容れられ易いというのは今でもそうだと思いますが、器楽的聴取能力の熟達度が増せば増す程、次が読める様な類の音楽よりも次が読めない様な響きを好む人は多くなると思います。

 つまり、弱進行やら偽終止にある変進行というのは和声連結としては不自然な類であり、次が読めないものでもあります。だからといって忌避する類の物では絶対に有り得ないとは思えないのでありますが、音楽的バランスを知らずに、学び取る側が多様性を失って真正な側ばかりを是としてしまうと得てして厳格なまでに真正な方ばかりを体得してしまう傾向があるものです。つまり、偏愛が生じかねない訳です。

 
 日本人なら誰もが自然に受け容れているであろう『君が代』。この「受け容れ」が意味するのは、社会・政治的思想が邪魔をしてしまい、眼前の音楽をも素直に受け容れない様な状況に在る人の事は述べておりません。私は保守的な立場では到底有り得ないとは思いますが、君が代の頌歌などごく自然に行えるものです。日の丸振り廻していようがそんな事は無関係です。政治的な香りがするだけで耳に届く音楽が変容してしまう様な業は体得しておりません(笑)。寧ろそんな状況でこそ平たく聴こうとしてしまいます(笑)。


 君が代で顕著なのは「巌となりて 苔のむすまで」の連結部が偽終止となる和声進行の部分です。

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 こうした実例に依る「自然さ」に対して何を想うか!? それは各人色々な思いがあるでしょうが、少なくとも社会的・政治的思想を払拭して音楽を聴く事が出来る人であるならば、先の状況など、はらわたが煮えくり返る程の気持ちを踏みにじられた様な不自然さを催す物だとは到底思えないのでありますね(笑)。

 処で、先の偽終止は2度下行に該当する変進行(Ⅴ→Ⅳ)であるという点もあらためて明記しておきます。


 扨て、こうした変進行や偽終止になぜ着目しているか!? というと、属和音の行き先が解決(五度下進行)になっていない所に最大限注目する必要があるからです。

 通常、和音進行というのは

先行する和音の根音を→後続和音の上方に取り込む

 という事で「進行感」を得るのです。つまり、ハ長調域にてG7→Cという時でもその「取り込み」が行われる訳ですが、先の2度下行の変進行および偽終止では取込みが無い為、機能和声的(古典的和声)「不自然」という感じになるだけの事なのです。


 つまり、その後属和音の使い方が多様化していくと、属和音の和音構成音を「曲解・歪曲」して異名同音を得てG dur→H dur(英名:G7→B△)へ進行したり、或いは属和音に多くのオルタード・テンションを附与させて、進行的にではなく「色彩的」、つまりまるで和声的には進行感とは無関係に点描の様に色彩が鏤められる様な使い方など、「多義性」を持つ様になる訳でして、こうした色彩感の為に和音のテンション・ノートつまり複音程にある音度を巧みに利用される様に開拓されていった訳です。

 処がジャズの方がモード・ジャズ社会になると、和音の音脈として使える音はマトリックス状に存在するのですが、既知の和音体系として無雑作には使えない様な、誰もが共有し得る体系には使えず、和音に拘泥するタイプのハーモニーを形成しにくい状況をも生んだとも言えるでしょう。もちろんそのモード内で得られる音脈に於ては、既知の進行感が演出される様な響きを避ければ充分なのですが、和音の響きを好むプレイヤーも多かった訳です。

 こうした所からジャズはバップ期かモードか、という風に二極分化するかのように体系が分化する様になりますが、旧来の和音を利用しても進行感が稀薄であればモード社会は形成し得るのも是亦メリットなのでありますが、多くの人からすれば和音にぶら下がる体系の方がやりやすい訳です。

 こうした流れの中でいつしかジャズの和声的な追究は、特定アーティストの特色の様な側面になってしまい、個性化になっていき、稀薄な和声感とてあまり追究される事なく嘗ての牽引力のまま現今社会にまでどうにか生き長らえている様な状況であるとも謂えます。


 そこには、特定の和音に対して一義的にモード(調所属)を捉えようとしてしまうジャズの悪癖を払拭できないからであるのが大きな理由であり、先の私が例に挙げた様なピンク・パンサーのテーマでの「余薫」を利用出来るシーンをも一義的にモードを捉えてしまうと、余薫として使える音脈を無視する事になる訳ですね。そのような「はみ出した」音脈をきちんと把握しつつ、複調を操る感覚を持たないと、いつまで経っても卑近なプレイに終始してしまう事は間違いないでしょう。そうした「はみ出した」音脈は、やはり対位法や複調の世界観に多くのヒントがあるのです。

 短調の世界でドリアンを充てているのが複調というのはあまりにも馬鹿気た複調感でありまして、この程度で複調を取扱っていると豪語するジャズ奏者が居るとすれば仕事を無くして終うレベルかもしれません(笑)。もっと多様な複調の世界というのは別の方角にあります。ですから私は以前にもチック・コリアのアプローチやらパーシケッティの投影法を例に出している訳です。

 そうした所から昇華できなければ、結局は旧来の仕来りを遵守する程度の事しか出来ないのではないかと思います。勿論ジャズだけではなくポピュラー音楽に於いてもこういう可能性はあるのですが、まあ卑近な方を選んで行ってしまうのが関の山でしょう。そういう意味で冒険的なのはゲーム音楽やらなのかもしれませんが、ゲームという操作体系とゲームのルールがある限り、ゲーム音楽はゲームの魅力があって初めて活かされる物であることには間違いの無い処で、ゲーム音楽の為に新たな音楽を模索して、その音楽をゲーム界が採用してくれる様になる、という制作過程に入るのは難しいと思えます。

 新奇性ばかりを追究しても無駄ですし、新たな響きの体得の為に美しく響かせる形と「唄心」がある筈で、新しい世界での唄心ですから体得には相当難しいのは確かでありましょう。


 余談ですが、先日のピンク・パンサーのテーマに使ったコード譜は直しておきました(笑)。