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オクターヴの同一性が創る陥穽 [楽理]

 扨て前回の続きとなるワケですが、ベルクのヴァイオリン協奏曲で提示される基礎音列は半音階を俯瞰したモノが偶々唄心を備えた様にも映ずる事が可能な配列な為、他ジャンルに於て半音階を一望する為にも大きなヒントと成り得るであろうという事から取り上げた例であり、他方、CM7という「よく見る」和音を再設計して五度累積体系として(それが半音階から4音の抜萃)一望する事でコチラも別の側面から半音階を見渡そうとする配慮から出した例であったのです。


 「両者の何処に共通性があるのか!?」という事を読み取れない人が居るかもしれません。ベルクの基礎音列というのは長短三度の累積から端を発して(1~8番目)、残りの4音に全音音階という半音階の「紋様」が描かれているシステムなのです。

 半音階というものを短二度ずつ上行/下行という順次進行で見れば、これも目の細かい「紋様」で表わされる事に気付く筈です。とはいえ半音階という「音階の体」とやらは1オクターヴ内に転回してしまえば一緒でありますが、半音階を総合するという12音で形成された綜和音を得ようと迄考えを及ぼした場合、完全四度を11回累積させた和音や短二度ずつ順に上に並べたトーン・クラスターによる綜和音は、最低音が共通なら同じ和音として聴こえるでしょうか!?答はノーです。

 和音の性格というのは、全音階システムの時から全音階の総合=綜和音を形成した時にも、そうした転回して和音の同一性が欠如するという方向の性格が見えて来るものです。

 例えば全音階システム(つまり調的な社会)のハ長調に於いて、下属音をルートとして七声の和音を「ファ ラ ド ミ ソ シ レ」と堆積させていった場合、この場合はトニック、ドミナント、サブドミナント総てを包括しているにも拘らず、下属音としての性格が消えない体である、全音階システムに於て綜和音を忌憚無く取扱える唯一のシーンでもありますが(それ以外のシーンでの全音階システムでの綜和音は別の意図が生ずるという意味で、決して使ってはいけないという意味ではありません)、例えば「ド ミ ソ シ レ ファ ラ」とやってしまえば、糞も味噌も一緒と言われかねませんし(笑)、属音を根音にして「ソ シ レ ファ ラ ド ミ」とやっても、糞も味噌も一緒状態と響いてしまうのです(笑)。

 じゃあ、フランツ・リストの「S.55 不毛のオッサ(枯れたる骨)」で生ずるメディアント(長音階のIII度音)を根音にした時の全音階の綜和音「ミ ソ シ レ ファ ラ ド ミ」(英名:Phrygian Total)はどないやねん!?というと、是も亦別の意図がある和音の総合なので、構成音は糞も味噌も一緒と同じですが、やはり違うんですね。

 つまり、構成音は総じて同じなのに、味噌も糞も一緒と言われる事もあれば、そうと言われない用法もあるという譯ですね(笑)。つまり、構成音は同じなのに和音の性格が変るというのは、全音階システムに於ても綜和音としての体で初めてその「性格」とやらを認識する事が可能となるワケです。


 全音階システムは7音で一旦完結するワケですから、これ以上の和音の重畳は望めません。しかし半音階システムとなれば話は別です。半音階という仕来りにおいてベルクが容易した基礎音列という「紋様」は、偶々唄心あるような音程の周期性を持つ紋様で形成されている為に判り易い例となるワケですが、半音階を綜和音として鳴らした場合、どのように音符を鏤めようが一つの和音として括られる音として響いてしまうでしょうか!?答はノーです。構成音を同じくしても全く異なるのであります。ですから、半音のトーン・クラスターと、完全四度累積で半音階を得た和音は同じ響きなのか!?というと、違う、というのが答なのでありますね。半音階が総て同じ性格を見せるならば、基礎音列など与えようが与えまいが関係無く音楽は同じ正確に収斂してしまいますが実際は違います。

 十二音技法にはオクターヴは同様に扱いますが、例えばヨナ抜き音階にて上行形で「ラ ド レ ミ ソ~♪」と弾いた後に、
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今度は「ラ ド レ ミ ソ(←オクターヴ低い方のソ)」と続けて弾くと、
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次に別の情緒を産み出そうとします。渡邊香津美が嘗てリットー・ミュージックの教則ビデオでも語っていましたが、その次には「ミ ソ ラ ド レ」と続けたくなり、
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更にその次は「レ ド ラ ソ ラ~♪」という風に終止したくなる筈です。
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 これらの情緒が生まれるキッカケは、一番最初の節の「ソ」の音のオクターヴ違いに依って、ここまで違う脈を産もうとするのです。オクターヴ違いのパラメータというのは、実は和声的な括りでは転回可能ではあっても、実際にはオクターヴで産まれる情緒というのはこうして理解できる筈です。つまり、セリエルってすげーなー、などと思ってもオクターヴというパラメータを同一視しないヒンデミットの立場のアナウンスを耳にすれば途端に調的社会というモノも腑に落ちるのです。

 然も、先の例はヨナ抜き音階である為、本当は調性は確定していません。バルトークがペンタトニックに調性は無いとする由来や、ペンタトニックという五音音階は完全五度音程の順次累乗で生ずる音階の組合わせというのも私の過去のブログ内検索をかけていただければあらためてお判りになると思うので興味のある方はそちらも読んでみてください。
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 先のわらべ歌風の線はラで終止しましたが、イ短調としても良いですが本来の意味で調の確定迄は到っていないのが本当の答です。調性というのは第4音と第7音があって初めて姿を表わし、トニック、サブドミナント、ドミナントの3種を経由して初めて調性が確定するシステムだという事を知らない人も多過ぎるのも問題なのですが、オクターヴを同一視する處が本当は陥穽に嵌る場合もあるのです。


 半音階での世界、亦は尠くとも全音階での綜和音の世界では、オクターヴ内の転回という和音の見渡しは無効化される様になります。調性感の稀釈化に伴って和音が絶対的な音高の位置で色彩を変化させると思ってもらえばよろしいのですが、もっと判り易く喩えるならば、オクターヴというのは駒に巻き付ける紐の回数の様なモノです。仮に駒に7回ヒモを巻き付けたとすると、7周分はオクターヴとして見做す事は可能でありますが、実際には各オクターヴの紐の長さは異なります。その異なり具合とやらを認識するような物だと思ってもらえればイイかと思います。

 前回のブログ記事の様にCM7という和音というのは、偶々首尾よく四聲体の「CM7」という風に半音階から抜萃されて来た体だと思えば、それらの4つの音はC音ばかりに和音の振る舞いとして重きを与えることなく4つの音を見渡してもイイ筈だ、という前提で、その体に不等五度という「紋様」を与えているのです。


 しかし、この「紋様」とやらにあまりピンと来ない人がいるかもしれません。この紋様とやらを今度は「シンメトリカル(=対称的)」に発展させれば、半音階を、他の多様な紋様に仕上げるという作業があらためて判るかと思います。それが次の譜例の様になります。
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 譜例では、あまり多くの加線を与えたくなく、五度の勾配を視覚的に明示したかったのでハ音記号を用いておりますが、青印の音符が示す音は、前回の記事同様CM7の構成音であり、ロ音を最下音にして表わしているものです。それらの(青印の音)音のそれぞれの音程関係も前回と同様です。

 譜例上部の方では、不等五度の与え方が下から上に「A:B:C:C:B:A」という規則性を保った音程関係で配置される対称形でありまして、譜例下部の方は「A:B:C:A:B:C」という音程幅の規則性を保ったモノという事が判ります。

 不等五度に「紋様」を対称性も与えているのが今回の例であります。対称性を根拠にCM7を構成する4つの音以外に、更にそれぞれ3つの音を得ているのが判るかと思います。すると、両者で得られる音というのは、通常のモード・スケールの想起や、調性を意識した時のCM7という和音からの脈絡では得られない様な相当縁遠い音を呼び込む事が判ります。

 つまり、こうした半音階からの紋様という「デザイン」がベルクの基礎音列は偶々唄心を備えた技法であるとも言えます。半音階に唄心を兼ね揃えているという言葉に注目してもらいたいんですけどね(笑)。

 シェーンベルクをはじめ、ベルクの十二音技法というのは正直な處古典的な面が残された技法が伴います。シェーンベルクはマーラーを信奉していた位ですし。十二音技法が先鋭化するのはヴェーベルンやシュトックハウゼンが有名どころとも言えるでしょう。


 ジャズに於て十二音技法を用いるというのは現実的ではありませんし、やろうとするならば疾っく(とっく)に導入されていた筈でしょう(笑)。ただ、インプロヴァイズをそこまで計算高く統率するとなるとインプロヴァイズの前に恣意的な心理を働かせているのと同様でありまして、これは実は、なるべく協和的な音程を悉く避けて基本音列を得ようとする十二音技法の「恣意的な心理」を働かせるというのも、本当はパラメータに表れない恣意的な動作であるのですね。等しく扱おうとするあまり、本来持っている調性の無い推進力をも他の方向に逸らしてしまうかのように。自身の作曲的心理が偏重的に成らぬ様に等質性を求めて十二音技法という基本音列を「ふりかけ」の様に使うのもアリかもしれませんし、唄心を伴わせて十二音技法と同様の設計も可能であるのなら、やたらと無調に拘ることなく自由に線を書いた方がよほど自然で自発的な行為だと思えるワケですね。何を作っても同じ様なクセが出てしまう人には、分散の為のパラメータのひとつなのかもしれませんが。


 技法はどうあれ、半音階を駆使したいという欲求の起りはジャズとて同様でありましょう。それがインプロヴィゼーションで、ましてや金を湯水の如く使うかのように珠玉のメロディとしてインプロヴァイジングが成立するならば、誰もが羨むリアルタイムの作曲でもありましょう。ジャズというのはインプロヴァイズという体の良い言い訳がありますが、体系に則った音を羅列する惰性も相当量あるのが現実です。そういう意味ではマイルス・デイヴィスは後年悉く音を排除して忌憚無く脈絡の遠いモードを想起してまで音を選ぶのは、まさにマイルスならではの立ち居振る舞いであるからに外なりません。周囲を睥睨しては調性を感ずる世界を弾かせ、その世界を水と形容するならば、マイルスの立ち位置は水に浮ぶ油の様に烈しい音を放ってくれるのであります。明るくなくても見える音のような世界観とも言えるでしょう。勿論アウトサイド感はとてつもなく強かったりしますが、そのアウト感は何をどのようして見つめればその脈を見付けられるのか、その真髄は多くの人は体系的にしか知らないのが現実ではないでしょうか。

 複調性を伴う、それには属七の体を壊して本位十一度を鳴らしてみる。すると、その本位11度に依ってハ長調の属和音を例に取れば、G△とF△を併存させた長三和音のポリ・コードとなり、これを同一調性由来の長和音としてだけの理解ではなく、他調由来の音に再設計してみたりとするだけで世界観は変ります。また、属和音が本来持っている調性内での導音が本位11度を呼び起させる事で、本来の調的牽引力は単なる和音の働きとして平衡化し、導音に枝葉を得ていた「等音程の抜萃」(=減三和音=減七の断片=等音程の断片)を、別の音程構造の等音程に「接ぎ木」をしたりする、と。これだけでも多様化してくるワケですが、特異なジャズメンの音となると途端にオリジナリティばかりを言い訳にして検証しないのがココ30~40年のジャズの実態なのでありますね。


 90年代の世のアナクロニカル・ブームに乗っかって、ジャズ界も複調感のある和音を出そうとしたりしていた様です。尠くともチック・コリアとて私が過去に例に挙げた通り「Prelude To The Rumble」の複調などは好例でありましょう。レイチェルZも均斉化和音をふんだんにデビュー・アルバムからまぶしていたりしていたモノでした。




 私の云う所の「均斉化」とは、この場合概ねメロディック・マイナー・モードで生ずる和音達の「紋様」と思っていただいて差し支えありません。ジャズに対して理解が進まない人、或いは体系化された知識が邪魔して深みを読み取れない者、私の云っている事を念頭に置いて今一度照らし合わせてみて欲しいと思います。スポイルしていた世界観が必ず見えるようになる筈です。