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分水嶺傍らの水畔にて [楽理]

 微分音への意識の高まりというのは何故起るのか!?という疑問は、和声の発展そのものを見れば自ずと理解できる處であります。


 「和声」という言葉をあらためて認識する為に敢えて此処で念を押しておきたい事がありますが、私は「和音」と「和声」という言葉をブログ上で使い分けております。因みに、和声というのは和音同士の連結に依って生ずる全体の世界を形容する語句です。これは私個人の見解ではなく大前提の理解として必要な解釈です。

 和音の体系は、それこそポピュラー音楽界隈ではコード・ネームという風に括られているが故にあまりに普遍的で理解に肖ることすらも忘却の彼方となってしまっている人もいるかもしれませんが、ポピュラー&ジャズ界隈でのコード・ネームは「和声」を表わしている訳ではありません。それはどういう事かというと、次の様に例を挙げれば理解し易いかと思います。

 例えばCm7というコード・ネームが与えてあるとしましょうか。構成音は「C、E♭、G、B♭」。そこで主旋律が9thの音を長い音価で奏していた場合を考えてみましょうか。ポピュラー&ジャズ界隈の「和音」の表し方は、あくまでも和音を呈示すればイイのでこれは「Cm7」という風に表わすのですが、和声的には「Cm9」という事を意味します。お判りでしょうか。

 私のブログでは終始一貫してあらゆる音楽でも「和声的」に述べていて、和声として司る全体像をコード・ネームにしたりしているのでその辺りの混同をされぬ様にお願いしたいと思います。新たなブログ読者もいらっしゃる様なので、その辺りに揚げ足を取られても困るのですが、このように敢えて語らなくともお判りかと思いますが、私は和声全体を語るので、その辺りの解釈と、他の仕来りとを混同せぬ様にあらためて理解して欲しい處ではあります。

 私が和声全体の世界を語るのは、コード・ネームというのは簡略化された譜面とコード・ネームがあって初めて和声観を一望する事ができるのですが、譜例も無いまま文章でコード・ネームの側だけを語ってしまうと、漏れた音を説明しない限りは表れてこないので、それを回避する為に私は和声を一望する方を態々語っているのでありますね。左近治のコード表記は他のそれとはクセがあって、コード・ネームに付加する必要の無い音までも一緒くたに語っているのではないか!?とやいのやいの云われても、そうした思慮の浅い人達にあらためて懇切丁寧に説明するのも徒労に終るとは思いますが一応あらためてこうして語っておきますね(笑)。

 それに加えて、コード表記というのを有り難がっていようとも、孰れ微分音を語る時が来ると、微分音をコード表記する体系というのはそれこそ未だに未整備であるため、結果的に五線譜でこうした体系を語る必要性を生じてしまうのであります。本当は五線譜というのもどんなに調号という共通理解があっても幹音という、本来変化記号で表わす必要の無いピアノで云えば白鍵に相当する音がもっとも識別上の優位性があるのは間違いの無い体系でありまして、12半音をA・B・C・D・E・F・Gという7つのアルファベットで区切って、都合良く派生音の為の変化記号を与えるのは、半音階を等しく扱おうとするのならそれも亦優位性が解放されていない体系なのでありますね。但し、その解放性の無さを示されても、既知の体系では最も取扱い易い現今の共通理解の記譜法を好意的に受け入れているが故に、多少の無理を生じてもそれを克服する様に我々は音楽を学んでいるのであります。

 ところが、微分音という世界を視野に入れると、既知の記譜法すら足枷に思うことは多々生じます。四分音を表わすとそれは24等分平均律という事になるので、既知の体系での7つの音名に対して一所懸命見馴れぬ特殊な変化記号を与えてまで表わそうとしてしまうのが大概の体系なのであります。

 
 例えばF音よりも50セント低く、E音よりも50セント高い音はどちらも同じで単なる異名同音にしか過ぎません。ところが、幹音での元々半音が生じている音《E、FやH(=英名B)、C》付近で一例として、3四分音(=150セント)の上げ下げを行おうとすると例を挙げると、hよりも150セント高い音はC音よりも1四分音高い音で示す事も出来るしD♭音よりも1四分音低い音で示す事も出来るのですが、楽譜上に於てこのように少なくとも3種の「異名同音」の選択肢があるという事は、譜面の視覚的な意味に於ても、たかだか一つの音を示すのに次の例の様に3種類の選択肢が与えられてしまい面倒なシーンに遭遇するのであります。
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 A音からの横の流れの旋律で先の3種の異名同音に跳躍させて五線譜に示そうとすると、A音からB#音より1四分音高い記譜を元とした場合、C音よりも1四分音高い音に跳躍する場合に加えてD♭よりも1四分音低い音として記譜すると視覚的にやたらと跳躍してしまうようにもなります。こうした視覚的な違いが時にはスムーズに、時には跳躍しているかのように記されてしまっては、結果的に同じ音を示そうとしているだけなのに、視覚的に優位度のムラが発生してしまう事にもなるのですね。

 しかし、それでも我々は既知の五線譜での枠組みの中で表現しようとするきらいがあって、微分音社会も幹音からの派生音として変化記号を与えるように「とりあえず」記譜するのであります。

 勿論、セリーを提唱したシェーンベルクは、楽譜の上でもそうした幹音への優位性が働かない様にエクィトーンという記譜法を用いたりして四分音を表わしたりもしましたし、現代音楽作曲家達はクラヴァール・スクリボやらエクィトーンやら、ニュウム(ネウマ譜)などの古楽からの記譜法を竝立させたりと挑戦していたのでもあります。これは、視覚的にも調性という事を念じさせない為の配慮から、調的な優位性が割愛される古楽方面からのアイデアを活かしたりする事もあった譯です。

 
 次に示した譜例の音符は、青色で示した音は通常の幹音と嬰変の変化記号に依る派生音であり、それ以外は八分音を示しています。7八分音に相当する部分に、幹音から175セント高い表記として用いた変化記号と、隣接する順次的に高い次の幹音から25セント低めた音としての変化記号を用いてい区別している記号があるのはお気付きでしょうか!?A♭より3八分音高&A音より1八分音低いその表記は、他の八分音のそれと異なりますので能く確かめてみて下さい。

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 過去に私のブログにてアロイス・ハーバの使用する十二分音の記譜例を載せた事がありましたが、高く変化させる記譜よりも低い記譜例が途中の6音で終らせているのは私が記譜を省いたのではなく、等分平均律で生ずる各音を対等に扱うと、異名同音が無意味になるからハーバ自身はあの様に載せているワケですね。


 ペンデレツキの「ヒロシマの犠牲者へ」にて用いられているトーン・クラスターは、2オクターヴと1半音(2500セント)に跨がる音域に、四分音によるトーン・クラスターを用いる事によって、52音で塗り潰されるように12等分平均律の半音よりも凝聚した表現となっています。曲中ではグリッサンドによるトーン・クラスターの連続的推移が或るため、鍵盤楽器でトーン・クラスターの音域を上下に推移させるそれよりもずっと多様であります。

 クジラの声のやり取りというのは人間の様に音階の様にして音を階段状にせずに、リニアに音程を変えてコミュニケーションを取っている様ですが、クジラの側からしてみれば、ある特定の音や音域が水波に依って阻害されて届かなくなってしまうのでは困るので、特定の音高が犠牲にならないようにリニアな音程変化を付けているのだと思われます。


 人間の場合、段階的に音を区切る方が情報伝達がスムーズなのでありますが、明確な言葉ではない喜怒哀楽の表現には階段状の音程よりもリニアに推移する音程の變化が見られるように、喚起を促すにはやはりそれがもっと関心を深めるという事を無意識にも理解しているからであると思います。ギターのチョーキングひとつ取っても、その変化具合に奏者特有の個性があったりするもので、その変化具合から誰彼のチョーキングだと一聽して聴き分ける事も可能であるほど、実は音程の連続的な変化にも人間は敏感なのでありますが、通常のコミュニケーションでは階段状に区切った音の方が都合が宜しいのでありましょう。


 このようにして微分音社会の一部をざっとあらためて語ったワケですが、聴き取る側がその音社会を克服できない限りは音痴な音にしか聴こえないだろうと思います。

 私が自分の人生に於て微分音というものを強固に感じざるを得なかった曲は、ジャコ・パストリアスの1stソロ・アルバム収録の「トレイシーの肖像」中に出て来る第11次倍音由来のハーモニクス音に依る音でありましょう。しかし、未だ嘗て「トレイシーの肖像」の記譜に於いて微分音(=四分音)として記載されているのを私は見た事はありません。私自身、耳が今ほど習熟していなかった当時は、この音は12平均律の音律に対して、あと1四分音程の跳躍を頭の中でイメージしてデフォルメさせて聴いてしまっていた處がありましたが、微分音というものにいつしか馴染んだ私は、一番最初に「トレイシーの肖像」を聴いて得た違和感が全く無くなり、寧ろ当時とは全く異なる感覚で微分音混じりの和声観として聴く事が出来るように変化しております。


 他にも四分音を強調する楽曲の好例(クラシック音楽界隈を除く)は、以前にも取り上げたMassacre(マサカー)の「Killing Time」です。私のブログでは過去にもブーレーズの「Doubles」を例に出しているので、一応クラシック方面も過去に述べているので興味のある方はブログ内検索をかけていただければ直ぐにお判りでありましょう。


 プログレ方面で他に顕著なのは、イタリアのハットフィールド&ザ・ノースとの異名をとるレコメン系バンドPicchio dal Pozzo(ピッキオ・ダル・ポッツォ以下PdP)の同名アルバム収録のアルバム冒頭の組曲「Seppia」が好例でありますが、おそらくフレットレス・ベースに依る短二度を用いている音でありましょうが、この短二度というのは実は普通のモノでは無かったりするので、興味のある方は耳にされてみてはいかがでしょうか。まあ、プログレ好きな人でもこの曲に微分音が用いられていると認識されている人はごくごく限られた人達の間での認識だと思うのですが、まあ、次のような譜例の様になっているワケですね。




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 因みにPdPは突如出現したのではなく、ニュー・トロルスに端を発しているのでもありまして、ニュー・トロルスは嘗て山田五郎氏がプログレ三昧でなかなか取り上げてくれずに話題に触れて呉れてはいたものの、せめて「太陽王」位は流してあげてほしい處でありますね。チョットはガツン!と云わせる類の音なので、是非取り上げてみて欲しいかと思いますが、今回私はプログレ三昧は不参加ですので、敢て大勢の聴取者に対してオススメという事でのアナウンスなので、プログレ三昧で取り上げられなかったら眼も呉れない様な扱いだけはしないで欲しいと思わんばかりです(笑)。
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 四分音はおろか八分音シフトされた短二度を生じたりしているので、非常に厄介なモノです。あてずっぽうにズラしているだけの音にしては律し過ぎておりますので、間違い無く四分音と八分音を使い分けている曲でありましょう。
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 調号を与えているのは、ト短調をベースにこうした短二度をぶつけている、という意志の表れであります(笑)。とはいえ、微分音が錯綜する音社会では、都度本位記号やらも与えつつ調号を無視した所謂「親切臨時記号」という表記の方がしっくり来る筈なので、敢てこのような仰々しい変化記号になっているのであります。一部の微分音表記はウィキペディア等で見られるそれと若干違うのもありますが(ウィキペディア日本語版の微分音記譜とて他国のそれとは微妙に違います)、微分音の表記についても過去に私が述べていたりするので、あらためてブログ内検索をかけていただければ自ずとご理解できるかと思います。


 私の耳(脳)の習熟はマサカーの「Killing Time」を初めて耳にする時位まではどうにか聴くに堪える様には習熟していたものの、その習熟を手助けしてくれたのが、「トレイシーの肖像」を耳にして間もない頃の学徒時代に小泉文夫の著書「民族音楽研究ノート」(青土社刊)にて微分音について知る事が出来たのが幸いであったのは間違いありません。


 先の小泉文夫の著書では、ペルシャ音楽での紹介にて1四分音低い記号に「p」の様な記号と、1四分音高い記号にシャープの水平2線が閉じた松葉の様な記号を用いているのが特徴的であります。私が微分音について最初に目にしたのがこの著書だったのですが、その後「p」の様な表記を用いているのはそうそう他で見る事はありませんでしたので貴重な情報のひとつでありました。余談ですが、青島広志著の「究極の楽典」内の微分音表記もこうした表記や今回の例とも異なる独得の記号由来で、是亦知的好奇心をくすぐるモノですので、興味のある方は著書を手に取って学んでいただきたいと思わんばかり。
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 微分音というのは、横の線を誇張したり弛緩したりする事で頻繁に表れたりするものです。特に室内楽に於ては古典調律を演奏中に使い分けたりもするので、平均律に慣れた耳には不思議な音にも感じる事もありますが、等分平均律に依る微分音社会が持つ音の世界観とは、また違った色彩があるので、こうした處の差異感を感じ取るのもオツなモノではないかと思って信じてやみません。おそらくは、今後200年位の間は四分音というか24等分平均律も視野に入った取扱いが増えて来るのではないかと思います。

 そうした微分音が社会に普及していくかどうかは別にしてもこの際なので17次~32次倍音がどういう風にズレているのか、次の様にまとめてみましたので、ズレ幅は全て複音程ではなく単音程へと転回させておりますのでご注意を。
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 単純に17~32次倍音を考えても16次から1オクターヴ上が32次倍音なのですから、1200セントの間に16の音が埋まるワケですが、等分に16個の倍音が配置されるワケではありませんし、それと同様に32~64次倍音というのは1オクターヴの間に32個の倍音が埋まるので、少なくとも四分音よりは狭い音で配置されていくのでありますね。

 倍音というのは高次になればなるほど犇き合うので、先のペンデレツキの作品の様に、四分音で埋め尽くされた墨痕淋漓としたトーン・クラスターというのも高次倍音列をヒントにすれば、犇き合うことが奇異なモノでもないのであります。とはいえ32次倍音辺りでも音域によっては可聴範囲を超えるので、高次倍音になればなるほど作用するのは低域の音となるワケですが、高次由来の音を脈絡に使うというのは間違った脈の見出し方ではありません。

 そういう前提で私の個人的な考えを付け加えると、四分音プラス六分音由来の音が併存する色彩を持つ社会は、高次倍音列に則していて、そうした由来をヒントに拡大されていく様になるのではないかと思っています。すると、視野に入るのはアロイス・ハーバの十二分音な譯でもありますね。半音が6等分されるかのように取扱うのではなく、小半音・大半音的な使い方で幅が広がるのではないかと思っております。こうして考えると、微分音のたった1音も表わす事のできない電話帳の様なコードネームの体系の本など如何に馬鹿馬鹿しいモノなのかあらためて判るかと思います(笑)。