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英国音楽とは!? [楽理]

 プログレというジャンルに限って音楽を語っても、英国は中心に来るのでありますが、これは英国社会が政府から民衆にまで音楽という「芸術」を行き亘らせると同時に並々ならぬ愛情の念を注いでいるが故の事でもありますが、英国国民が総じて「芸術的」な観点で都度その時代の音楽を捉えているかというとそれは違うと言えるでしょう。


 英国では、尠くともその時代に於ける社会性によって人々の心の受け止め方がとても大きく左右するもので、人々の多くの心に寛ぎやゆとりを受け止める寛容的な要素を備えられる時代であれば、芸術的に音楽を嗜み且つ磊落に物想いに耽るように受け止めるのでありますが、こと社会に動乱が生じるとカウンター・カルチャー(=反体制)の勢力が『壓』を求めます。壓、つまり圧力ですね。攻撃的な音の壓を伴うロックは疎かパンクス・ムーヴメント、或いは酒宴・薬宴由来のミニマル的均質性に伴う音の「壓」など、こうした方面に形容されるように、社会性を反映して音に成るというのが英国社会の興味深い事実なのでありますが、プログレというジャンルは近代方面の音楽にとても影響されつつも、実は英国内に於て民衆がウォルトンやブリテンやらに傾倒する下地が具わっているのかというとそれも亦ノーと言えるでありましょう。

 今でこそ「年次定例行事」とも云えるプロムスはクラシック音楽と民衆との架け橋となっている壮大なイベントでありますが、西洋音楽史に於て英国というのは結構取り残されている様な處があり、地盤を強固にする為に注力する事で王立音楽院が生まれ、その後半世紀以上経過した後貴族達に寄付を募り出来上がったのが王立音楽大学という歴史があります。とはいえ、音楽の下地はというと西洋音楽史における英国の位置付けは他の国と比較すれば足元にも及ばない様な状況であった事は間違いないでありましょう。


 宗教の分派に依って生ずるピューリタンの戒律は、簡単に云えば「勤労する為に働く」。この勤労という戒律こそがその後の「良い死に方」の為にある教えのようなモノですが、単に奴隷の様に働かされただけでは誰もそんな處に価値を見出さないでありましょう。そこで生ずるのが人々の欲求の先に値するもの、それが「物欲」やら「性欲」という仏教で云うなら「煩悩」でありまして、性においては厳しい戒律はあるものの、純粋な愛に對しては戒律を司祭が妨げご加護を免罪符にして民衆の心を救うのと同時に、民衆の心を紡ぐ為に与えられる物が、「慾」への対価として報酬が与えられ、勤労の果てに対価を得て、民衆はその慾の先にある価値を手に入れる事で金を払う様になる。これがピューリタンの思想と資本主義が組合わさった事に起る民衆社会の心の蠢きの興りだったワケですね。

 その後産業革命が興り、資本主義社会は更に勢力を強め自分達の立ち居振る舞いを強固に且つ肯定的に捉えて行くのですが、ひとたび眼をやれば民衆と貴族というヒエラルキーは大きな乖離を生じたまま社会が形成されているという事実。こうして国レベルにまで発展する工業化は軍隊の隆盛に繋がるもので、軍隊を律する、民衆の心を律するという處に音楽が必要であるのでありまして、音楽の基盤を強固にしようとするのはこういう處に端を発しているのであります。音楽というのは不思議なモノで、聴き手自身の過去の経験にスッと投影する様に入り込む性質があるので、時には宗教的・政治的なメッセージすらも忍ばせることも可能なのです。ある音を使えば必ずしもそういうメッセージに置き換わるという言葉の持つ「平仄」というのは音そのものに一致する筈はないのに、音楽というのはそれを結び付けるかのような不思議さがあるのです。

 こうした体制に反抗する風潮が生まれると、そこの今度は異なる音楽が生まれて来たというのが英国での音楽の歴史だとザックリ語ることが出来るワケですが、プログレというのはロックを基盤としてはいるでしょうが、比重が最も重きを置かれているのはロックの音ではなく、近代方面の西洋音楽であると言って間違いないでしょう。クラシック音楽らしさを微塵も感じさせないような、音であってしても、です。


 クラシック音楽(西洋音楽)の中心は一体何処の国なのか!?大バッハの影響力を考えるとドイツとも近視眼的には受け止められるでしょうが、史実的な方面から回答するとイタリアが中心であり、その様式やら形式とやらの美学の中心はイタリアであるというのが定説とする處であります。

 近代的和声の発展ではフランスも挙げる人はいるでしょうし、ロシア音楽の影響も忘れてはならないものの、少なくとも英国とフランスは各国の音楽の権威力の象徴という位置付けに対する負い目と反省から力を付ける必要があり、そこに資本的勢力が巧く噛み合い、軍隊の勢力を挙げることに貢献させるようにして音楽の隆盛を伴ったものなのであるわけで、こうした背景に伴って英国音楽は力を育んで来たという譯ですね。力を育むことによって、より強く西洋音楽の伝統をより重んじる事で「保守的」だったのも事実です。その後近現代に入ってブリテン、ウォルトン、ランバート、ティペット、フリッカー、サール、ベッドフォード等が擡頭して来るようになり現在に到るという譯です。


 ティペットと名を聞くと、英国ジャズ、ジャズロック、プログレ界隈ではキース・ティペットが居りますが前述の(マイケル)ティペットとは全く違います。余談ですが、マイケル・ティペットはRCM出身です。とはいえプログレ界隈で「ティペット」の名をよく耳にするのは、キング・クリムゾンへの参加があったからに外ならず、キース・ティペットの名前と共に故グレアム・コリアー、イアン・カー、フィル・リー、エルトン・ディーンという名前を見つけるのは難しい事ではないでしょう。ジュリー・ティペットはキース・ティペットの妻である事も同時に知っておくと良いかもしれませんが、正直、プログレに没頭するようになるような人であれば早期の段階で獲得するであろう人脈相関関係であるので態々私が取り上げる必要もないのですが、西洋音楽の史実的側面に際してついつい語ってしまいたくもなるワケですね(笑)。

 他方ベッドフォードの場合は、故ケヴィン・エアーズやマイク・オールドフィールド関連で必ずしや名前を見つけることが出来るであろう当人そのもので、現代音楽作曲家がプログレ界に立ち位置を見つけたという稀有な人であります。前述のグレアム・コリアーの名はベッドフォードよりも広く知られてはいないかもしれませんが、英国プログレ、ジャズロック界隈を俯瞰する際に不可避な重要人物であります。


 西洋音楽における英国の立ち位置というのが保守的であった處に端を発してストラヴィンスキー等のその後の活躍が高じて英国もそれ迄とは異なるベクトルで先述の様な前衛的な作曲家を輩出するのでありますが、少なくとも英国プログレッシヴ・ロックというのは近現代の西洋音楽をとてもリスペクトしているのでもありまして、Yesとて然りなのであります。90125イエスがそれまでのイエスと括りを別にされる處は、和声的重みが少なく技巧面と律動面ばかりに主眼を置いた、どちらかというとアメリカ受けしそうな音になっている差別感から生じているモノでありましょう(笑)。


 西洋音楽での和声的な世界の特徴というのは、複調・多調であり、「均斉化」も最たるモノであり、調性感も稀薄になり音響的色彩も交えてきます。一方で重畳しい音楽構築ばかりでなくミニマリズムというのもサティをはじめとして凡ゆる方面で注目されてきたのでありまして、シンプルなミニマルな動機の反復というのが日常の営みに密着したリズムやらを思わせる處があるため、これを心の拠り所とする技法があったり、あるいは「same old」的イメージを持たせて惰性感を伴わせたりして楽想に彩りの変化を与える訳でありますが、プログレという括りに入れるのは少々無理があるものの、ブライアン・イーノというのはやはりこうした世界観を、絵画や哲学やファッション性のある方面から「パターン」を読み取っているためか、生活空間に密着したような空気感を感じる音響的色彩やら、果てはシンプルな律動によって麻痺感を伴わせるかのようなヒントが随所にあったりもします。

 イーノの技法は旧来西洋音楽のそれのアプローチと直接関与するモノではありませんが、プログレというのは西洋音楽に配慮した音作りや曲作りになっている事が多く、反体制的な音で生まれている音は他にもあるにせよ少ないものでありますし、そうした反体制的に生じたプログレ界隈の人達でも、音楽観は近現代の素養があったりするものであります。

 フレッド・フリスがヴァージンとの訣別の前から有る様に、社会的には反体制的(商業主義を拒む)であり乍らも音楽性は現代音楽の素養を感じさせる複調や微分音の技法を忍ばせているという事実。彼は銭ゲバ連中に反対していて西洋音楽を否定しているという譯ではないのでありますね。


 扨て、そこで「均斉化」という言葉ですが、これは近現代音楽の楽理的方面の世界で用いられる言葉の一つでありまして、概ね和音を構成する時の音程構造が「均斉化」されている時などに用いられたりもします。

 我々が通常強く意識することなく感じる事のできる「調性感」というのは實は「不均一」でいびつな世界なのでありますが、いびつであるが故に、転がせようとしても何処かに重心を据えようとしたりして、まるでラグビー・ボールが地に足を付けるのを待つかのように、いびつな型はどこかで安定を求めるモノです。ですから、調性社会というのはトニックやドミナントの様な雌雄関係かのような関係を見出す事もできますし、それがメリハリとなっているのでありますが、調性とやらをもし「均斉化」させるとどうなるのか!?というと、音律を均一に扱う事と等しくなるので、ひとつの調性を贔屓にするのではなく、多くの調性を使おうとするでしょうし、それをマクロ的に見ればあらゆる調性を一通り使う事と同様になるでしょうし、12平均律をきちんと12個行き亘らせて使ったのと同様です。


 調性だけを12個まんべんなく使っても、和音とやらの、それを構成している互いの音程比は「いびつ」なので、こうした處も均質に扱って来るようにもなる様を目撃するようになります。そうした和音の均斉化というのはオクターヴを等しい音程間隔で割譲し合っている和音によって構成されていたり、オクターヴを等しい音程間隔で分割しあう様になるのも均斉化なのであります。また、音程の構造が時間的に見ても縦の和音方面に見ても対称形を生じるような構造も是亦「均斉化」なのであります。


 こうした要素は、ワーグナー、マーラー、ドビュッシー、バルトーク、ストラヴィンスキーやら、或いはR・シュトラウス、ラヴェル、シェーンベルク、ヒンデミット、メシアンなど、各作曲家のポリシーは異なる處があっても、既知の旧体制での調性社会と比べれば明らかに飛躍した世界であることに疑いの余地はなく、こうした音に対してプログレ界隈の人物は多大なヒントを得て、咀嚼していて、出て来る音が少しだけロックを感じる程度であるのがプログレッシヴ・ロックのスタイルだと思って間違いないでしょう。

 但し、余りに近現代ばかりなのも音楽を難しくさせてしまうだけなので、時代を数世紀ほど遡ってジョスカン、デュファイ、オケゲム、マショー等の「素養」を随所に感じさせる線を鏤めたりもするのでありますが、いわゆるシンフォニック系と呼ばれるそれらの中でも「陳腐化」させてしまう類の人達は特に日本のプログレ系アーティストにはとても多いのですが、それらの共通すべきはルネサンス期やらへの理解が皮相的な事が多く、前述の言葉通り陳腐化させてしまっているのが多く、音を一所懸命夥しく鏤めて乍ら音はサチュレーションを利かせたオルガンとメロトロンに歪んだギターに音の「壓」を借りて繰り広げてしまうだけの、ダイアトニックにダイアトニックを重ねただけの「純・調性音楽」の出来上がりを有り難みを持って礼賛しようなどとは私の様な聴衆は到底及ばず、唾棄してしまうのでありますが、それが欧州のプログレ・バンドと日本の、特に関西方面での一時期の「なんちゃってプログレ」連中を多く排出(輩出ではありません)しまった感が否めず、日本でのプログレの受容を一旦地に堕とした戯け者が、プログレ三昧やらメディアの力を借りていけしゃあしゃあとノコノコしゃしゃり出て来る様な事があったら私はそれを許しません(笑)。とはいえ、そういう處を排除しつつ、色眼鏡で見られないような日本のプログレをきちんと扱っていたのが二回目のプログレ三昧だったワケだったのですね。

 西洋音楽(クラシック音楽)に興味など全く抱かないプログレ・ファンも屹度多い事でありましょう。私も嘗ては理由もなくクラシック音楽を卑下していた處がありましたが、先の西洋音楽の史実的な部分は、教育に置き換えるならば義務教育課程で学ぶべき事ではある筈なので興味があったら今一度音楽や器楽の教科書に眼を通してもらいたいと思わんばかり。


 教科書にプログレ界隈が載るとしたら、恐らくはキース・エマーソン辺りになるのかもしれませんが、プログレなど全く扱われなくともおかしくはありません。しかし、調性社会から逸脱やら拡大していく音世界は、音の均斉化に近づくので、和音の構成音のシェイプが鏡像という均斉の取れたモノを見つけたり、旋律すらも均斉化されている動機を見つけたりすることも珍しくないでしょう。

 そういう方面でプログレ界では特にレコメン系やカンタベリー系などは高次な音を追究しておりますし、クラシック界隈での近現代の香りが巧みに活かされているのはエニドやらを挙げるのも良かろうかと思いますし、ジェントル・ジャイアントのケリー・ミネアーなどは孰れにも重なる部分を具えつつも、それらを軽く凌駕してしまいそうな程の圧倒的な音楽の造詣の深さが特に対位法及びフーガの形で能く現れたりするものです。

 エニドにしても過去のこれ迄のプログレ三昧では掛っていないので是非とも取り上げてもらいたい處ではありますが、或る意味では最もオーセンティックな音楽観のプログレなのかもしれません。もっと世俗感やら、それこそ古楽のエッセンスすら用いても遜色ないサード・イヤー・バンドとか、注目すべきブログレ音楽は他にも色々あるものです。カンタベリー系とて系統は4つに分類できてしまうでしょうし、仮にもうひとつ系統を加えるとしたらそれはジャズ・ロックとして独り歩きする5つ目の分類になるかもしれません。

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 そんな中にあってもレコメン系と呼ばれるのは異端でもあったりするのです。高次な處を忌憚無く発揮するのが特徴であるかもしれません。ヘンリー・カウの1stに於ても均斉的な和声を見つけることは可能ですが、室内楽の要素を取り入れ、素朴で気だるさを与えるかのような怠惰感をも見せつけつつも音はくたびれていないという対比が素晴らしかったりもします。


 先述にピューリタンの話題を出しましたが、ピューリタンよりも遥かに昔のロマネスク期辺りでは、それこそ英国の民族楽器のひとつでジミー・ペイジが敬愛する楽器のひとつハーディー・ガーディーも生まれていたかどうかというほど古い時代。英国では長音階ひとつとっても世俗的な旋律があり、旋律的長音階(ドレミファソラ♭シ♭ドという、長音階の第6・7音が半音低い)なども存在していたりもします。

 ただしこうした変種の音階というのは、教会旋法から発展して来たそれと異なる「クサい」音使いの体系なので西洋音楽では忌み嫌われ、その後こういう音階は廃れ乍ら他方ではジプシーの音階やらが出現して、調性も対位法の更なる発展に伴いあらゆる方向へ変化し乍ら曲想に彩りを添える様に変化する様になり、先の世界から1000年程経過した時に、「クサい」と呼ばれる音使いは再び脚光を浴びる様にもなるのでありますね。

 こうした西洋音楽の長大な「迂回」はその後大音楽家らに依って取り返すどころか更に発展するように構築されていく頃はワーグナーの到来でありましょう。その後150年ほど経過して現今の我々となっており、特にレコメン系というジャンルではそうした西洋音楽の時系列を当てこすりの様に見せることなく凡てを俯瞰するかのように取り入れていて、高次な音を繰り広げたりもします。

 まあ、次回はレコメン系を始め、プログレ界の高次な世界を例に挙げ乍ら語って行くこととしましょう。