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微分音社会への基礎的理解 [楽理]

 扨て、これ迄私のブログでは幾度か微分音について語って来ておりますが、今一度、微分音を使うための社会的な「秩序」のような物をあらためて理解するための話題として語って行く事に。


 最近ツイッター上を鳥瞰していると、微分音の社会的枠組みと純正律から見た時の平均律枠組みが微分音的に僅かにズレているという事を混同してしまっている人を多く見かけることもあってあらtめて語るワケですが、そもそもセント表記も1オクターヴをバッチリ1200分割している訳ではなく(笑)、1200に限りなく近い近似値を用いた「尺度」に過ぎません(笑)。

 但し、オクターヴを均斉化するという事で解り易く見渡せることが出来るため共通理解として用いているワケです。そこで今度はそうした尺度から見ると、単純な整数比で表すことの出来る純正律での完全音程や協和音程等を見てみると、単純な整数比が先の尺度からズレを生じて表されます。完全五度と完全四度は12平均律でこそ700/500セントで持ち合うワケですが、純正律だとほんの少し違う事が解ります。

 すると、平均律の尺度こそが「ブレて」見えてしまうようにあたかも投影されてしまう為、どうも純正律という淀みのない真正な音程が、自身の聴取能力の脆弱な所を補強してくれるかのような絶対的地位を感じてしまうためか、妙に純正律側の方に肩入れしてしまう理解を伴う人が多いのではないかと思うことしきりなワケです。


 平均律がそうした尺度から僅かにズレていようが、平均律の空間でも調的な社会は繰り広げることが出来るワケでありまして、平均律が淀みのない音程を失ったとはいいつつも、「絶對完全音程」の淀みすらも棄ててしまったワケでもありません(笑)。平均律の最大のメリットは、不協和音の地位としての不協和の度を弱め、半音階への行き来をスムーズにしたという事が大きな功績なワケですが、前述の通り、半音階を用いることなく調的社会も繰り広げる事ができるわけですね。


 淀みの無い真正な純正律というのは、それこそ調性音楽のための仕来りでもある訳でして、転調することすらも咎められるかのような仕来りに於て純正律というのは強い輝きを増すとは思いますが、半音階を隈無くまんべんなく使うような人達が備えている聴取能力と比較すると、ベッタベタのベタな音に聴こえてしまうのも事実(笑)。或る意味では純正律に遠ざかっている縁遠さがプレミアム感を演出してしまうのか、音が持つ魅力とは無関係な方のプレミアム感とやらを音はどうでもよくして取扱っているように感じるワケですな(笑)。


 まあ、「ど」がつく程「ピュア」な人の感性とやらを蹂躙するような事まではいたしませんが、純正律やピタゴリアンやら中全律やら、平均律とは異なる体系の音律というのは調性音楽の為に配慮された仕来りであるので、それを平均化された社会と混同するのも無理があるってぇモンです(笑)。その「ムリ」という根拠は一體!?


 抑も、調性音楽に有利に働いてしまう音程を備えている處が平均律と違う部分であり、純正律に於ては全音音程とて大全音と小全音という違いを生じてしまっている訳です。こうした「ズレ」は横の線として認識される「旋律」として現れるところに於てある音形で生ずる音程には有利に働いたり不利に働いたりする可能性が生じます。つまり、依怙贔屓を生じてしまっているワケですね(笑)。依怙贔屓が生じているとなると、作者の糸が歪曲されてしまうワケです。この歪曲を許さないように「均して」行き乍ら、他の音程のうなりやらにも配慮したりして色々な音律が生じていたというあります。

 一方、そうした依怙贔屓は音楽シーンに於て「視覚的」にも現れることがあります。きちんとした器楽的能力を備えている人であれば、音を感じるばかりでなく眼からも情報を得ます。大半は譜読みの為と、指揮棒によるリズム感を得る場合です。

 例えば譜面の場合、現在では五線譜が圧倒的に共通理解として整備されていますが、この五線譜とて視覚的には実際には幹音(=ピアノで謂う臨時記号を伴わない白鍵)に最も優位に働いていて、派生音という臨時記号や、調号に依る音の變化というのは我々がそうした事へ順応しているだけの事で、視覚的な優位性というのはどうしても幹音が有利な訳です。


 聴覚的な方面と視覚的な方面の「依怙贔屓」、これを消失させる為に等価に取扱おうとする事が半音階主義なのであります。徒にセリーで書いたりするだけが半音階を用いる音楽ではないという訳でありますな。

 特定の調に深く依存せずに移ろうかのように曲を叙情的に書く作曲家など珍しくはありません。但し微分音というのはピアノ主体の音楽では大概排除されてしまうモノなので、弦楽器の奏者の方が微分音というものを敏感に感じているでありましょう。曲中で音律を度々返ることも珍しくはなく、ピアノが居ればピアノに配慮するという訳で、ピアノというのは實は音域が広い普遍的な楽器であるかもしれませんが、實はもっとも融通の利きにくい楽器のひとつであるとも謂えるでしょう。交響曲だと音律の縺れ具合などはそうそう出て来る訳ではないので、室内楽の愉しみというのはそうした音律面での深みを堪能出来るところにもある訳でして、挙って交響曲ばかり礼賛する向きは私は本当は嫌いな部分です(笑)。


 此処で微分音というものを今一度見てみることにしますが、微分音というのは、「横の線」では最も表し易いもので、例えば上行形に於て「もっと引っ張ってやろう」という風に力を貯えてシャープ気味に唱ったり、或は気だるい感じで下行形の弛緩の引力を頼りにくだけて凭れ掛かるようにフラット気味に唱ったりとか、概して微分音というのは横の線の導出は難しいことではないのでありますが、こうした微分音を音響的色彩として「縦の線」つまり、和音亦は和声的に演出する方がとても難しいコトであり、こうした方面での音社会の仕組みというのはなかなか耳にすることも稀な例ではないかと思います。微分音と通常の音律が併存していると考えた方が解り易いですが、孰れにせよ微分音側の方は既知のコードネームなどで表記するかのようにコードサフィックスとして読んだりすることが出来ないのが弱点でもあります(笑)。


 とはいえ、微分音という音が調的社会と併存して多様な色彩を生んでいたにしても、それらを一つの和声として表現できる体系を今は未だ知らないという状況であります。とはいえ微分音が調的社会と併存しようとも、微分音という音の持つ牽引力というのは、横の線から容易く生じるものの、音の体系としてその後和声的に変化していく為の牽引力の源泉は、音律が均一に等分されているからこそのモノなのです。

 例えばラーガやアラビックな音というのは、横の線で微分音を多用していますが、その音階は既に、特定の旋法に強い牽引力が与えられるかのように優位性が音階に与えれていて、これはドレミファソラシドという「優位性」がロクリアンの様にシドレミファソラシなど旋法的優位性が横の線として牽引力が希薄になるのと対称的なモノでありまして、横の力をグイグイ出すために微分音を最大限に利用している「線の力」を利用しているワケですね。実際にトルコ音楽のマカームでは音律こそ全音を九分割してはいるものの1/9ステップの音を微細に使うのではなく、4:5か5:4を上行下行で使い分けたりしていたりするワケですね。

 微分音表記というのは一定した確固たるルールが存在しないものではありますが、概ね四分音程度なら共通理解が備わっていることと、トルコのマカームでは教育で用いられているところから西洋音樂に均されない感覚が未だに存在するのでもあり、或る意味ではハンガリアン・マイナー・スケールの持つ情緒というのは、短音階という「横の線」に對して更に強い情緒を与える為に、ラーガやマカームの様な『色付け」が微分音的ではなく、半音階的に変化しているように近い使われ方で、旋法的な偏重的重みを増して使っているのでありましょう。この「偏重的重み」とやらが、「横の線」に對して更に強いスパイスを与える動機の意味だと思ってもらえば良いでしょう。


 微分音表記を知るために私が一番最初に手に取った本は小泉文夫の『民族音楽研究ノート』でありました。アルファベットの「q」の様な微分音記号が独特で、その表記に驚き乍ら年を重ねて行くと小泉文夫やら先にも触れた青島広志の著書で触れられている部分音記号は、今日の周知の体系の物とは亦少し違う表記で興味深いモノがあります。

 何れにせよ、横の線に情緒に重みを出すためのものが、軈ては縦の線としての垂直的な和声的方面にも感覚が註力されるようになった時、調性を強く示唆過ぎてしまうと微分音側の音ズレた音ににしか認知されかねないので、そのバランスが必要であり、結果的にバランスというのはトリート=すなわち均等化されている事が重要で、音階上で全音の幅が異なっているような体系での微分音の共存というのはまさに微分音側がズレているだけの音として認知されかねないモノなのであります。横の線ならばまだしも、和声が共存していてそこに落とされる微分音というのは、周囲がよっぽどガッチリ均斉化されていないとズレた音にしかなりかねないワケです。


 一方、単純な整数比をさらに微分化するという手法もあったりします。例えば純正律に於てある音から2オクターヴ+長三度の音程比は1:5の振動比でありますが、純正律のそれは、平均律の長三度の音よりも僅かに低いです。その純正律の仕来りのままで半音階を俯瞰すると、1:5の振動比の中には28音を数えることが出来るワケですが、シュトックハウゼンはこの1:5の振動数を25等分する仕来りを使った做品があります。

 純正律での1:5の振動比を25等分した場合、1ステップは平均律の半音よりも僅かに高い凡そ111.45セントという風になります。シュトックハウゼンは、この25音を5つずつの組に分けたり、また一音、二音飛ばしやらで和音を堆積させたり等を試みたりという風にしています。
Stockhausen.jpg

 譜例ではシュトックハウゼンが用いている表記とは異なりますが、微分音がこのように分布しているという事だけはお判りになるかと思います。平均律の半音よりも大きい「過大半音」が齎すもの、こうした体系も亦実に興味を惹くものがありますね。