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今年の夏も亦、海技研の一般公開が [楽理]

 2013年7月20日に一般公開が予定されている海技研の催し物。今回は初公開となる大きなプールの施設も公開されるとの事です。こうした施設への見学というのは子供たちにとっての夏休みの自由課題のテーマ以外にも、個人的な趣味の知的好奇心を大いにくすぐってくれるモノであるが故に歓迎されるモノでもありますね。


 人間は何も知らず母体から誕生して来たのでありまして、最初は誰もが無学であり、自身が楽な事に感情が趣くだけの代謝を行う肉の塊です(笑)。実に我儘な肉の塊でありまして、コイツを心地良くさせてくれるモノや敵意が見えない物に心地良さを貰おうと身を委ね生きていくという、トンデモな我儘野郎だったのが人間皆総じてこういう姿だったのでありますね。

 知らない内に言葉は覚えているけれども、とりあえず喋れる様になったとはいえ数を数えるにも難儀する、勉強などしたくはないし楽な方の道を選んで行きたいと思いつつも、なかなか逆らうことも出来ずに義務教育課程に身を置くという子供達という人生をも先人や大人たちも同様に歩んできたのでありますね。

 知的好奇心というのはとても重要な事であり、そうした発起となる萌芽というものを子供自身は独り占めしたくなるものでもあります。要は、自分自身が知的好奇心の最前線で邁進できる興奮をいつまでも味わっていたいから、あらゆる所からかき集めて来たいワケですね。こうした欲求の高まりの起こる時の集中力こそが重要な事でありまして、海技研に行って水波を見て覚える程度の事ばかりではなく、物体の「振動」というコトに考えが及べば、東日本大震災という経験も味わった世代があらためて水波に興味を覚えることもこれからの生活に於いて必要な知識のひとつかもしれませんし、物体の振動は地震も然り、音波にも投影できるものなので、知的好奇心を高めて欲しいと思わんばかりです。


 ただ、子供といえども自分自身の欲求ばかりで日常を営むことに無理が生じて来るもので、同世代の周囲の人間やらとのコミュニケーションから培われる「共同作業」や「協調性」によって、自身の邁進力の源泉が我儘であったとなると、協調性を伴うことで邁進力や自分の欲求を妨げられてしまうとばかりに誤解してしまって、自我が強すぎるとココばかりを保身に註力してしまう事となり、協調性への拒否やらに置換されてしまうことも屡々です。

 言い換えれば、この時点で協調性を必要とされることで「空気を読む」というコトを強要されつつある事でもあるのですが、空気を読む、というコトで自身の欲求の源泉が萎えてしまうような人には真の邁進力に値するチカラは有していなかったんですよ、コレが。それを自身で認めたくないので、自身のラクである方を選択しただけに過ぎず、経験不足が当然である子供がラクである方向というのは「惰性」でしかないのですね。


 つまり、子供自身も自分自身を顧みる事ができる状況に達しているならば、自分の欲求を恰も妨げられてしまいそうな他方からの新たな「圧力」を拒むのではなく、自身の邁進力がモノホンであるならばそれを容易く跳ね飛ばすコトが出来るであろうし、新たな「妨害」を恐れるなというコトをあらためて私は言いたいのでありますね。


 例えば、地震について興味を抱いていた子が居たとします。第三者から見たらその興味のパワーはそれほど強いモノではないのだけれども、その子本人にとっては欲求を独り占めしたいというチカラだけは漲っている様が見て取れるという、そういうお子さんというのは概ね何所にでも居る平均的な子だったりします。

 地震は義務教育課程の理科で習う事でもあるので、何れはP波やS波を誰もが等しく覚えることになります。小学生の内からP波とS波を知っていればクラス内や周囲の子供達の間では、その知識の持つ権威力と答えの鋭さから得られる邁進力によって自身の欲求は満たされつつ集団の間ではある程度邁進力を備えてそれを振りかざすことも出来るでありましょうが、これに本当の知力を試される時、専門家から、


「本当はL波もあるんだよ」


というコトを指摘された時、L波の知識や存在自体を全く会得していなかったモノからすれば青天の霹靂の様に自身の欲求の邁進力となっていたパワーの源泉が一気に萎えてしまいかねないほど、元の知識というのが脆弱だったことを思い知ることになり、こうした経験で一気に興味を失ってしまう子供が少なくありません。

 しかし、こうした「萎え」が起きてしまうのは、その源泉とやらが結果的に皮相浅薄で近視眼的な体得でしかなかったことに起因しているのに、殆どの人は自分を責めることができずに一気に自分の主張の推進力を失わされる事に等しいので、プライドを引き裂かれたかのように怒りをぶつけて来るような行動を取ることも珍しくはありません。


 こうした知識の源泉と興味への知的好奇心の在り方、それと自身の邁進力の本質性というのものを、地震ではなく「音楽」に置き換えてみると、私のブログで語っている所の音楽的な事への欲求と結び付けることができませんか?


 私は浅学菲才乍らも一定以上の知識を有しているとは思いますが、これを振りかざしているわけではありませんし、私の述べることに「権威」を感じたとしても、私が偉いのではなく、既知の体系と知識が偉大なことであるので私は何も偉いモノではないのです。音楽に興味を抱く者が私自身に競争性を伴わせて自身の欲求を奮い立たせても無駄で徒労に終わることでしかないのであります。


 音波も水波も物体の振動です。圧力が高ければ伝播速度も速くなります。深海と浅瀬では伝播速度も違うワケですね。音波とて、波と波との集合体で合って、打ち消された音が耳に届くことはありません。

 たった二音の音程で本来無い実音が結合音として現われることがありますが、五度よりも四度が曇って聴こえるという事をきちんと理解できるのがヒンデミットの著書なのでありますね。ここには差音はもとより、低い方に音が生じることでの物理的な空気量が低域では多いことで物理的に空気は重くなる、というコトも述べていることを忘れてはなりませんし、空気の振動が隣接する速い方へ巻き取られるかのように「ターン」を生ずるかのように語ったこともありましたね(半音のターン)。


 全音という音程幅とて、これよりも微分音的に僅かに高いものを「過大全音」、僅かに低いものを「過小全音」と語っているのもヒンデミットであり、奇しくも重増・重減音程よりも更に高い/低い音程幅を表す過重増/過重減やら過大重増/過小重減音程を取り扱うのは青島広志の究極の楽典だったりするように、知識の欠落が無いように今尚、通常の音程空間は勿論のこと、微分音も視野に入れつつも、それらの世界への共通認識が無ければ理解を共有することなど出来ないワケなので、こうした所をキッチリと取り上げ乍ら今後も語っていこうとするワケですが、自分の興味が第三者の「ごもっとも」な言葉に依って萎えさせられてしまうモノだとしたら、そんな欲求などタカが知れていたモノだったと自覚することも必要なのかもしれません。少なくとも音楽は絶対に獲得しなければならないというモノでもなかったりするのも事実である為。


 折角自分が一念発起してギターやらベースを始めてみたけれども、理論なんか覚えたくもねーのに横から理論知っているようなヤツからけしかけられたから弾くのやめちゃった!という類の人間も、結局は音楽という存在がその程度でしか無かったに過ぎず、この手の輩がただ単にデカイ声張り上げて「理論覚えて自分の生き様窮屈にしたくねえ」とのさばっている事と同じなんですね。言っている事は、何も知らずに生まれてきた子供が癇癪起こしているだけに過ぎないのであります。そんなに覚えることが嫌なら何で生まれてきたのだ?肉体ジャマならとっとと母親の産道戻って四次元ポケットよろしく舞い戻ればイイだろうに、と思うことしきり。


 第三者から、自身の欲求の源泉とやらを審判される様な時、それでも自身の自我を守りたいがために、知りたいという知的好奇心を歪曲してまで自我を守る者に、本当の音楽は学べるワケがないのです。ですから私のブログはアイロニカルなのですね。知的好奇心を歪曲されそうな言葉に食いついてしまう愚かな人間が音楽を学べないようにし乍ら本質な事をまぶしているからでありますね。自我に負けている人は絶対に理解に及ばないように仕組んであるのが私のブログなのであります。


 言葉など無尽蔵にある為、言葉をありとあらゆる方向へ付け加えていけば本質の事を殆ど語ることなく幾らでも言い表せると妄信している愚か者がおりますが、音を言葉に出来ない者であるならば幾ら言葉を並べても無理だという事が周知の事実となっている事には気付かない裸の王様になっていたりするという悲しき人間も居たりするものですから可哀想なモノです。波の揺さぶりの源泉を知らぬまま主観でありったけの言葉を用意するだけなら、子供の言い訳にも及ばないモノになるのですね。少なくとも幼児の疑問は本質を捉えていたりするものですが、子供の言い訳にも劣る含蓄の無い主観だけの、たんにボキャブラリーとやらをかき集めるだけの人間など、本質とは全く違う違う方面の言葉にいつしか酔いしれ、その言葉の重みを押し付けようとするのが常套句だったりするので気を付けましょう。