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NHK-FM AOR三昧リターンズを聴いて [AOR]

 「リターンズ」という事で今回2回目となるAOR特集という企画が亦放送される事になったワケです。前回は選曲バランスもさる事乍ら2回目はどういう「色付け」を変えて来るのであろうか!?という興味を抱き乍ら拝聴した次第であります。何はともあれ、関係諸氏の方々のパワー漲る思いと悦びが伝わって来る様でもあり、こうした「感動の息遣い」というのは、どんな音楽にも云えることですが、「此処で息を付く處だよ」という、誰もがシンパサイズされている「共通理解」が息遣いとして表れ、その挙動は背景の音楽の律動と噛み合い耽溺に浸る、という、音楽を聴く上でとても重要なプロセスをきちんと踏んでいるのでありまして、「聴き處」を優しく提供する金澤氏のさり気なさは流石だと思わせることしきりでございました。 色々な大御所とのインタビュー経験やらを鏤めるルーシーさんの言葉にもっとミーハーにグイグイ行って欲しかった面もありますが、そうしたミーハー的要素が加わると、もっと敷居が低くなった感じで聴取者は聴く事が出来るかもしれません。しかし金澤氏は結構音楽制作舞台裏や人脈をかなり真面目に語る人でもあり、あらためてその真面目さは程よい落ち着きもあり、AORを俯瞰した感じでえ良かったですね。ただ、掛けられる音楽の数々とは別に、トークで語られている重要人物等が掛かっていない事も多く、少々理解に浅い人は、トーク中に鏤められていた人脈相関関係など結構聴きそびれを生じて了っている人も多いのではないか!?と感じた處ですが、今回のAOR三昧ではトーク部分がかなり充実していた様に思い、結構重みがあったと私は感じております。

 加えて、金澤氏も石田純一氏にも言える事なのですが、シャッフル・ビートの良さという物をきちんとアピールしている所が實に心憎い選曲でありまして、實はシャッフルを毛嫌いする人達って多かったりします。近年の歌謡曲界隈でもシャッフルやバウンシー感を備えたヒット曲がどれだけあろうか!?と思い起こしてみると途端に言葉に詰まりそうになるのも、馴染みの薄さという處にシャッフル・ビートの疎遠さが伝わって来るのでありますが、シャッフルのカッコ良さという物をあらためて吟味してほしい事しきりで、そうした處を押し付けがましくなくレコメンドしている處が私は最も賞賛したい部分でありました。唯単にシャッフル・ビートを取り上げるのではなく、そのシャッフルのカッコ良さが似合う曲というのは是亦そうは多くないのも事実なので、「イイ處引っ張って来るなー」という實に腑に落ちる選曲であった事はあらためて強調したい部分であります。


 シャッフル・ビートというのは、そればかりではなく、バーナード・パーディーに代表される様な(SDの「Home At Last」にある様な)ハーフ・タイム・シャッフルというのも肝となる重要なビートだったりするのでありますが、このビートを取り込んだのがジェフ・ポーカロだったりもしたのでAOR方面のビートというと結構こうした特徴ある要素が楽曲の重要なファクターのひとつでもあったりするのであらためて語っておきたい部分でもあります。

 ジェフ・ポーカロという人は實はかなり「人間味」のあるビートを刻む人で、それこそ後年の杏里の「サーキット・オブ・レインボー」時代のジェフ・ポーカロとポール・ジャクソンJrに依るレコーディング・セッション時には、ポール・ジャクソンJrがポーカロのビートが余りにラフなので、もっとキッチリやってくれ!と懇願したという逸話もある位ですから(笑)、あまりに両極端でもあるのかもしれませんが、人間味のあるタイム感というのもあらためて興味深い事実があったりするものですね。


 先人達は色んな要素を楽曲に鏤めていた訳ですが、体系化してしまうと實は良くなくなってしまうのもAORばかりではなく音楽総じて言える悪しき側面なのですが、途中プログラムで取り上げられていた北欧系のAOR、私は結構辛辣な言葉でツイートしていたのも事実。別にレコメンドしている金澤氏の責任ではなく、作り手側が甘んじている部分を強烈に感じ取ってしまったので、その辺りを語っておきましょうか。


 北欧系AORの殆どは和声進行は結構絶妙な物が非常に多く、それこそが特長でもあるでしょう。私とてそれ自体は悪いモノとは言いません。しかし、こうした和声進行というのは従来とは異なる和音やモードの「均斉化」で生ずる既知の体系とは異なる要素のスパイスを使っているモノなので、日本人で言うならば冨田恵一が筆頭なのですが、この「均斉化」というのは、チャーチ・モードを使った体系ばかりではそうそうお目にかかる事は出来ません。ウォルター・ベッカー然り、エリザベス・シェパード然り、近年のAORやジャズ系やらは、音楽的な「均斉化」を鏤める事が重要なキーワードとなるのですが、この均斉化がどういう響きになるのか!?というのは、私のブログをお読みいただければ自ずとお判りでありましょうが、實はこの「均斉」という言葉は2~3ヶ月前に、私もツイッターでフォローさせていただいております現代音楽作曲家酒井健治氏が呟いていた言葉でして、この「均斉」という言葉は、通常ならば現在ならば「均整」と称されておかしくない言葉なのですが、それ相応の樂理を学んでいた人なら看過出来ない程の重要な語句のひとつだったりするキーワードだったりするのですね。バルトークやシェーンベルクやらヒンデミットやらラヴェルやらギデオン・クラインやらベルクやらメシアンやら黛敏郎やら、私がブログで取り上げて来たこれらの人達を話題にした記事では必ずこの「均斉」という言葉がヒントになります。然し乍ら、私のブログで「均斉」という言葉を用いたのは今回が初めての事でありまして、それにも私には意図あっての事でありました。


 均斉化というのは、音の横の線やら拍動にも在る譯ですが、私が聲高に述べている部分は和声的な方面での事であります。シンメトリカルな構造や等分割という處がテーマになりますが、一般的に最も馴染み深い均斉の世界は三全音の事ですね。三全音が和音の中にどの様に包含されるかでも和音の性格は異なりますし、均斉化がさらに細分化するのも至極当然の事でありまして、三全音が4分割する事もポピュラー系音楽を除けば今では珍しいモノではありませんし、三全音を5分割して1ユニットを使うのではなく5分割の2or3ユニットを使う方法だの、三全音絡みでも他にも色んな手法がありますし、オクターヴが均等に分かれていったとなると半音階やら全音音階も然り。メロディック・マイナー・スケールは2つの半音を除けばヘプタトニック列の中で最も全音音程を聯続させる音階で、これを全音音階の断片+他調由来の断片としたりする事も語って来たように、「均斉」とやらが先鋭化すると、和声的な性格はクラシック音楽界隈で言う所の近現代方面の色彩に近付いてきたりするモノなんですな。最近の目新しいジャズやらクロスオーバーやらAOR方面が模索している處は結局こういう處なのですが、均斉化社会ばかり聴かせていると耳に難しい音ばかりになってしまうので、「元に戻る」調性の根幹とやらを朧げ乍らにも聴き手に意識させる必要があるワケですが、ベッタベタにトライアドで終止して解決するかのような聴かせ方をしろ、という事を言っているのではなく(笑)、結局その根幹の姿を意識させる必要が有り乍ら和声的に工夫を凝らし続けると、そのエッセンスを執拗に使う事になり、根幹にガッツリ戻るワケでもないのに結局嘯いていると、ヤラせもしない「cockteaser」と似た意味になってしまいまして(笑)、これを私は「当てこすり」と呟いていたワケですな。

 作り手が和声に酔い過ぎて、総じてギターのリフ(線の力)が弱い。それが先の北欧系AORに共通して言える事だったのですが、気の利いたインタープレイが希薄でリフが弱いんですね。とはいえパッと聴くには十二分な程の説得力をも備えていますが、ジェフ・ミロノフのような嘗てのサイド・ギターやリズム・ギターと呼ばれた人達が持っていた音楽的ボキャブラリーを備えたリフ作りには及ばず、和声的に誰もが頓着し過ぎていて、バタークリームたっぷりのケーキを糖尿煩うまで喰わせられるかのような感じにも覚えた譯なのでありますね。

 ですが、私がこうした辛辣なコメントをしていたからといって、和声的な側面の解析も出来ない輩が尻馬に乗っかるかの様にして「先のAORはダメ!」だのと近視眼的に陥る様では眼も当てられません(笑)。体系を批判したいのであればその体系を繙いて批判をすべきで、真に捉える事ができないままに単なる好き嫌いを起こして了うかの様な判断をする様なら、どんな和声を響かせようが理解に及ぶ譯がありません。私の聴き方を一般的な聴衆と同様に捉えてもいけない事ですし(笑)、私と同様の和声感覚が在る人ならいわんとする事はお判りだろうという事を述べている譯です。故に私は、和声的な目くらましに誤摩化される事無く色んな線を追った上での感想なワケです。仰々しく和声に凝り過ぎると、途端に奏者のマージンを奪うモノなんですよ。コード・チェンジが目まぐるしいSD(=スティーリー・ダン)の曲の大半には既知の体系が通用しないからこそ普段とは打って変わって萎縮してしまうような参加プレイヤーが多いのもそういう理由からですね。そういう音楽がある事を嫌悪しろ、と言っているのではありません。

 既知の体系とやらは本当は異なるジャンルにあるのですが、それを知らずに居ては駄目だという事ですね。誰もが、それこそ均斉化という語法の体系を用いれば名做が出来るのか!?というと、それは違うというのはお判りでありましょう。しかし北欧AORが駄作なのではないのです。勿論熟慮された和聲感覚も備えた極上音楽ではありますが、そればかりに耳が註力されて他に目配せ出来なくなるような酔い方をしてはならない、という事を言っているのです。

 そういう意味できちんと繙くと、線の弱さはまだまだ見付ける事ができ、これは制作者の責任である譯でレコメンドしたりそれを聴いて正当に評価した人が悪いのでもありません。気付くべき處はきちんと気付く事が重要なのでありまして、いつまでも先入観で酔いしれるな、と言っているのが私の今回のコメントです。

 でも、先入観如何に依って耳に飛び込む音の理解が歪曲してしまう様な聴き方をしてしまっていたら、それこそどんな音楽を聴いても徒労に終わるので註意すべく点は此処の處ですかね(笑)。