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ドレミの断片 [楽理]

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 扨て今回は、早速次の様な譜例をご確認していただく事としましょうか。Cアイオニアンの上行形であるなら階名は「ドレミファソラシド」であってイイ筈なのに、なぜか「ドシラソファミレド」と階名が書かれていて、幼児にすら嘲笑されかねない様な譜例になっちゃっているかもしれませんが、其処に今回は重要視していただきたい面があるのです。


 音高はそのままに階名だけを逆行しているように映すと、トニックとサブドミナントとドミナントの機能も逆行するように投影されるのでありますが、「だから何がしたいねん!?」と思われるでしょうが、背景にアンサンブルが与えられずに今回のような「C、D、E、F、G、A、B、C」という上行形があった場合、それを示した階名通りに認識するにはどういう風に調を想起する事が必要なのか!?という事に主眼を置いたモノなのです。


 つまり、階名が振ってある各音に対して目まぐるしい転調を行っていたと仮定すると、D音をレとせず「シ」と聴かせるにはどういった調域からの「シ」の音なのか!?という事を理解していただきたいワケです。無論、背景にレだろうがシだろうが、それを示唆してくれる音は全く存在せずに想起するのはそれも亦大変な事ではあるんですが、「ドレミファソラシド」という音並びそのものが非常に強大な牽引力を持ってしまっているために、今回の例のような調域を示してもそれが「ドシラソファミレド」という目まぐるしい転調として聴こえるには相当突飛なアンサンブルになるのは想像するに容易いワケですが、そんな「目まぐるしさ」こそが、多調的空間を呼び込む足掛かりの助力ともなるワケで不思議な所です。
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 単一の調性内であってもツーファイヴを延々繰り返して調域をフルに使うのと同様に、そうした目まぐるしい転調の仕来りに慣れて来たら、今回の例のような突飛な調の呼び込みを思い出して欲しいんですな。そうする事で、突飛な調域にも応答しやすくなる耳が備わって来るかと思います。

 そうして出来た「呼び込み」を明示的に示したものが次の様な譜例になるワケですね。


 今一度確認すると、ドの音がハ長調としているのですが、それ以外は五度方向の嬰種調号に3つ側と四度方向の変種調号3つ側までの、共に等しい領域の揺さぶりで調域が存在している事がお判りになるかと思います。


 仮にアナタがE音出現時に、本来ハ長調でのE音の属性はドミナント属ですが、先の譜例の様に逆行する調域の嘯きによって「トニック」を示しているので、ト調域での「トニック」の和音を背景に鳴らす事が可能である、と言いたいのです。プライマリーな調性をハ長調とした場合、同じ調性内の音であるE音を使っているにも関わらず、バイトーナルな視点ではト長調域からのE音を選んで来た、という観点を必要としてほしい、という事です。


 ここでの例は偶々ハ長調とト長調のそれぞれにトニックが応答し合っておりますが、別々の調域のトニック、サブドミナント、ドミナントを必ず一致させる必要はありません。なぜかと言いますと、「静かな湖畔の森の陰から♪」みたいに輪唱を思い出していただくと判ると思いますが、先行句と追行句では、トニックが鳴っている位置でもドミナントがまだ残っていたりするような事があるように、必ず別々の調域が合致している必要はない、という事です。


 すると、よく使われる所の分数コードで私がセカンド・ベースと呼んでいるハ長調域でのF△/Gというのはサブドミナントonドミナントであるのですが、バイトーナルな観点からすると必ずしもそうではないという事が起こり得るハイブリッド・コードが生ずる、というワケです。別の調域のトニックon元の調域のトニック、というのが先の説明だったワケですね。他にもそうした呼び込みがあって、9thベースとなる、例えばG△/F△という六声の和声の場合だと平行短調=Amにおける偽終止として使えるワケですが、これをバイトーナルな視点に拡大解釈することも可能だということです。

 そうすることによって長三和音のハイブリッドな構造を変化和音として発展させて増三和音や減三和音、或いは短三和音やらへの変化を伴わせることで多様な演出をすることが可能ともなる、と言いたいワケです。単一の調性だけにとどまらずもっと調性を拡大させてみろ、という事なんですね。こういう発展は松平頼則著の近代和声学311ページをよく読めばこのような解釈が可能であるのですが、恐らくこのように理解出来る人は少ないと思います。三度の和声の重畳だとそれがダイアトニックという構造で従来の「型」にハマりやすくなってしまうため、避けて通りたいルールの前に強大な牽引力に補足されてしまいかねないので四度和音でうそぶくようにすることで別の調域へも発展可能なようにしようと和声の重畳を試みているのが近代和声学で述べられている所ですが、このページを除けば近代和声学の場合は、多くの保守的で批判的なポジションにある連中を説得する為の検証を挙げつつの進め方なので(博引旁証)、シェーンベルクの和声法の解釈に伴って最も力が入っているのはこの辺りだと私は思いますが、それに対して決定的な回答が得られるのは近代和声学ではなくヒンデミットの和声学であったりメシアンのわが音楽語法だったりするんですな。これが不思議な所ですね。


 「ドレミの断片」という、聴き慣れた音形の強固なまでの牽引力に惑わされるコトなく音形に引っ張られて来る情緒に惑わされずに背景の真の姿を読み取るために、自身の備えている調的なマッチング能力は「まっさら」にしておく必要があるかと思います。背景にアンサンブルが無い事の方が実は難しいワケですね。絶対的な音高こそが「CDEFGABC」という音の並びでもそれを決して「ドレミファソラシド」とは捉えることがないように「嘯いてみる」という所から多調的な下地は備わって来ると思っていただければ良いかもしれません。


 固定ドの人ではない限り、音高はそのままに「CDEFGABC」という上行形を「ドシラソファミレド」と言葉だけ変えて唄う事は可能でありましょう。もっと言えば、ここで言うひとつの「階名」のそれぞれは十二通りの役割があるという事ですね。C音はハ長調の主音だけではなく変ニ長調の導音である事も考えられるように、という意味の各階名の「十二通り」という意味です。


 でもまあ、あらためて考えさせられる事というのは、長音階という音並びというのはその結び付きというものが、背景にアンサンブルなどない単なる旋法面で見ても強固だという事ですね。でも、先の例のように「階名」だけを嘯いて音高を歌い上げる事は容易な事なワケですから、「楽音」に付随する「言葉」というものは人間にとっては「言葉」の側がいつでも捨てる事のできる情報なのだという事が判ります。人間が楽音に対してそこまで重要なメッセージを必要とするのであるのなら、音律は平均律どころかもっと細分化したり、リニアなスウィープされた音を用いていたかもしれません。ただひとつ言えるのは、我々の耳は音楽的に未熟な時であっても少なくとも2音程度の音なら同じソースから発せられた音かそうではない別々の音から2つの音が重なっているのか、という事くらいは聴覚が既に認識していて、神経と脳は鍛えられているのだという事も研究で判っているワケですね。

 神経からすれば、音という外部からやってきた情報をなるべくシンプルな体系で処理できる事が望ましいので、低次の倍音列を探り当てて認識しているワケですね。神経伝達スピードから見ればその応答速度は、人間の可聴領域の最高部の周波数の1サイクルよりも遥かに速いモノでありますが、母音を強固に聴き取る能力として言語が発達している日本語の場合、楽音の認識において低域、特に基音の聴き取りが不得手とする人が多い事も知られておりまして、諸外国では逆にこうした一例が日本人への蔑視にも繋がっていることもあったりして、第二次大戦中の米軍の通信の暗号化などの研究が進んでいた頃、日本人への差別的な扱いはこうした所にも端を発して誤った理解があったとも言われております。

 いずれにしても低次の音からの足掛かりを頼りに言語を形成している社会における音楽の聴き取りというのも重要なファクターではあるものの、「音」そのものが伝える情報というのはそれそのものよりも前後の脈絡に強固な結びつきを感じるのでありましょう。いくら我々が聴覚器官という共鳴体に依る器官を備えてはいても、ある音が入って来て次の音が来る時に前の音がまだ頭の中で鳴り響いていたら邪魔で仕方がないでありましょう(笑)。固執して良い記憶と消失させる記憶。本当は後者の方が多いのだけれども、対位法音楽を聴いた場合人間が本来消失していいはずの記憶の揺り戻しがあるため、脳が逡巡してしまう。その逡巡した中に予期せぬ和音が生まれたりする。つまりは和声の発展というのはこうした「多様な」空間から発展しているのだという事をあらためて感じる事で、自身の音楽の聴き方の意識付けとして変化が起こる事で新たな「感覚」を獲得するのだと私は信じてやみません。