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ドミナントの稀釈化とは [楽理]

 フォントのインストールの都合で、この期に及んでも尚Mac OS 9.2.2を使う事は稀にあります(笑)。なにせ音楽用途でFinaleとQuark XPressとIllustratorは無くてはならない存在だったので、それが今も使おうと思えば使えるのがあらためてMacの素晴らしさなのでありましょう。
QX311j.png


 とはいえ数年ぶりに内蔵バッテリーが心配で通電させたのが発端で、ついでにQuark XPress 3.11Jを起動させたんですが、いやぁ〜懐かしいッス(笑)。EPS変換で使う程度ならまだまだ充分使えますわ。今回の画像もFinale 2003、Quark XPress 3.11Jという組み合わせから作成しましたからね(笑)。そんなワケでハナシを本題に戻して語って行こうと思います。


 厳格なまでの機能和声という世界観もあるんですが、実は世俗的な音など受け入れなくとも半音階的な音をバンバン使いだした調性崩壊の幕開けと云われる時のクラシック音楽。実は今日用いられているドミナント7thというコードの体も様々な場所で「変化」させて使われて来たという背景を知っておく必要がありますが、ドミナントがトニックに解決する姿というのは、いわば「調性」を直視しているという風に言い換えることもできるワケですが、音の入り口も出口もわっかりやすい音楽ってぇのは私はどうも昔から苦手でして(笑)、どちらかというと調性を直視させてくれないというか、横顔ばかり見せたり、はにかんでいるかのようにすら映る「朧げな」調性の方が私は好きだったりします。


 人生も半世紀ほど経験していると自分と近しい人間を亡くしてしまう事も少なくなく、同世代はおろか自分よりも下の人達も存在していたりするものです。そうした現実に直面する時全てではないのですが、あまりに唐突過ぎて涙を流すことすらも忘れてしまう様な状況に置かれる事がありまして、嘗ては口の悪い輩からは血も涙も無いかのような声も届いた事があったモノです。そうした非日常から解放されて概ね初七日辺り位になってくると忘れていた涙は突如、深墨の部屋を解錠して哭泣に追い込むワケですが、ふとそういう悲しみの淵に追いやられているにも拘らず頭の中ではリストの愛の夢第3番が流れて来たりするモノなんですよ。

 その曲想はご存知とは思いますが、調性を直視せずに「嘯く」かのように顔を背けるように躊躇うような情緒が現れて来ます。流した涙を見せたくないとばかりにすら思えてしまうワケですが、あまりに良い曲の響きのそれに副交感神経は完全に打ちのめされてしまい、漆黒の深い哭泣の海に放たれてしまうような感覚すら抱いた事があったモノです。


 曲が持つ「調性」とやらを直視するコトというのは、私の経験に置き換えるならば正直な所音楽に対して未成熟な時期がそうだったと断言できるワケですが、人によっては常にぶら下がり所を求めて直視したいでしょうし、調性の希薄な曲を好む事ばかりを是とする人ばかりではないのは判りますが、楽曲を器楽的に習得して行くという行動は、言葉が拙い子供達が軈て「文学」を習得するような物に似ていると私は感じておりまして、いつまでも単一な調性ばかりを直視するような音楽は飽きてしまう、というのが正直な感想なワケです。未熟だったからこそ習得して行くひとつひとつ全てが興味深かったりするモノですが、だからといって今更チャーチ・モードを習得したコトの喜びをブログで披露しようなどとは微塵も思っておりません(笑)。表現したいのはその遥か先のハイパーな世界観ですからね。


 扨て、これまで幾度か語って来ておりますが、ドミナント7thという四声体のコードの構造は新旧問わずそのままに、その体を用いても調性が希薄な状況、或いは四度進行をしない状況というものがあるというコトを述べて来ているワケですが、まあ非チャーチ・モードでダイアトニック・コードを形成すれば見慣れぬコードに遭遇する事が当然となってくるので、そうした和声との進行を「強いられる」特殊なモード支配下においての和声の振る舞いというのは旧来のモノとは違った振る舞いになることもしばしば遭遇するコトになるという意味だったワケです。しかしながら、先のジェントル・ジャイアント(=以下GG)の「Design」で例に挙げた中で、確かにドミナント7thという和声の体は希薄化しているワケでもありますが、総じてドミナント7thというコードの性格そのものが希薄になっているというワケでもなく、例えば「In my day〜」の所ではドミナントの稀釈化を見出す事ができると述べていたコトを少し語ってみましょうか。
Design_InMyDay.png


 一連の「A7 (on G) -> G#m6 -> D#dim△7」

 2つ目のコードの6th音をルートに見立ててみた場合はFm7(b5)、次のディミニッシュト・メジャー7thを生じているのは以前にも語った様に仮想的に三度下に音を見出すコトができて、その場合「B7(#9)」を見付けるコトもできます。仮にコード進行がこうであったとしてもA7の七度ベースの体からの一連の進行というのはいずれにしても脈絡が希薄な進行となっているのは一目瞭然だと思います。しかし、この脈絡の希薄さを演出しているのはコード進行として現れているだけではなく、各コードのそれに調性が逡巡している様が次の例からお判りになるかと思います。


 まず「G#m6」というコード。これは調域としては嬰種調号として5つの調号であるロ長調での平行短調側のG#ドリアンを示唆する場合、基の調号からは隣接した調域となっているコトが判ります。脈絡は希薄ではない呼び込みなのであります。さらに「D#dim△7」の3度下にさらに和声を追究するように累積させると、譜例にも薄く表示しておりますが仮想的に見ることのできるB(=H音)を見出すコトができて、B7(#9)の体を見出すことが可能となります。こうして仮想的に導いたオルタード・テンションの体として見た場合その和音で生じているM3rd=D#と#9th=C##=Dというふたつの音は、E音を主音とした方面から見ると短七と長七として表れていて、旋法的に逡巡し乍らどちらも一緒に使った、という風に見ることも可能です。


 但し、ここで仮想的にB7(#9)を導いたとしてもホの調域からの属和音の体として使ってしまうと結果的に旧来のドミナントの解決の動きを醸すコトになるので、あくまでも嬰ヘの調域でのメロディック・マイナー・モードでのIVという使い方をするか、または他のモードを想起した上での扱い方をするかという可能性がありますが、旧来の振る舞いはなるべく避けた方が功を奏すると思います。そういう意味で混乱しないようにご理解願えればな、と。

 
 ダイアトニック・コードを形成するにあたって特殊な和声の構造になってしまったというシーンも考えられますが、属七という体を「変化和音」として用いていたのは19世紀でも珍しい事ではなく、それに関してヒンデミットは実に端的に自著の「和声学」の第13章において述べております。そうした変化和音で繰り広げられる和声の進行においての平行五度がなぜ平行五度として知覚されないというのも自明なんですが、属七の体の応用を巧みに表しているのはヒンデミットの和声学は勿論、レンドヴァイの「バルトークの作曲技法」を挙げる事ができると思います。
 
 で、なんでまたこのような話題を引き合いに出すのか!?と疑問を抱く人も居ると思います。そうなんです。特に疑問を抱きやすい人の多くは所謂ポピュラー音楽界隈のみの音楽理論にとどまってしまっている方が殆どで、その枠組みの「しきたり」というのは、調性がクッキリ&ハッキリとした明確な所への牽引力が大前提となっているのでありまして、調性が希薄な方面での、例えばメロディック・マイナー・モードでのダイアトニック・コードで色々と語ってくれているような理論書というのは途端に遭遇する機会が激減すると思うんですよ。で、そうした一般的なしきたりとやらに「毒されて」しまっている以上、そうした方面からの咀嚼が必要でありまして、敢えて引き合いに出さざるを得ないワケです。つまるところ、調性が希薄な世界は何を語ろうとしているのか!?というコトを読み解くために、です。
EmajorRegion.png

 
 以前にも五度圏の図を使ってみたように、一般的に「調性」というのはチャーチ・モードに収まる七音の音階(=ヘプタトニック)から形成されておりまして、歴史を遡ればオクターヴが完全五度/完全四度に分割され、亦ある音に対して五度で共鳴する音に着目することになります。C音があればF音は完全五度でC音と共鳴し合い、C音も亦完全五度でG音と共鳴し合います。オクターヴで見るとこれらのF音とG音は共鳴的に分割し合う音なわけですね。結果的に「ドレミファソラシド」は全てが五度の共鳴体の「成れの果て」だと言いました。故に、五度圏で示すと七音が収まる音は「ベッタリ」と隣接し合うようになるワケです。赤色で示した領域を見ればEメジャーの調域がお判りになるかと思います。

 調性外の音で、例えばそれが自然に経過的に現れるのによく使われるのは隣接し合う調域、つまり今回の譜例で言えば赤色の両端に接している調域外の音「Bb、D」というのが「スンナリ」使えるタイプの音であると言えます。EメジャーでありながらD音を使えばEミクソリディアンに寄り添おうとする情感に辿り着きますし、Bb音を得ようとする場合はいわゆる「ブルーノート」という対蹠点の音であり、EメジャーがEリディアンに「嘯く」ように使うコトも可能な音でもあります。


NGAMCircle5.png
 扨て、次に見られる五度圏の図は深い赤紫の色の音は「Eメジャー7th」を形成する音です。淡いピンクの方の音は脈絡が薄そうな音の方角ですが、さらにピンクの色を「仮想的に」導くとしたらG音の部分が対称的であり、もしここでG音を付加すればこれはレンドヴァイ著にあるバルトークの「ドゥアモルの和声」として機能する用法であり、フーゴー・リーマンの対位的手法のひとつでもある六極応答でもありまして、これらふたつの技法はいずれも同義であります。バルトークの場合は垂直レベルでの和声的導入が顕著で、リーマンのそれは対位的であるということの違いです。


 こうしてふたつの五度圏の図を見ましたが、仮にEメジャーの調域において和音が「E△7」というのを生じていた時、和声外の音というのは調域から見て判るように赤紫で示していない音で生じている領域の音というコトを示しております。F#とC#辺りの音を使い乍ら別のコードへ進行させるとしたら調域内でコトが運びやすいので自然でもあるんですが、今回のドゥアモルの和声の体をなんとなく見せるかのようなそれは調域内から対極の方へわざと逃げるようにして使おうとしているという風にも判断できると思います。


 対蹠点の音というのはすごく縁遠く映るかもしれませんが、対極にある側の隣接し合う五度の音(今回の場合E音を中心としてA音とB音)という完全五度累乗型の「等音程」というのは等音程を得ることでの等音程に対して等しく対蹠点を向く(Bb音)には意外とスンナリと使えてしまう世界であり(隣接し合う調域の音)、こういうコトを踏まえると今回のF#とC#という五度のデッドスポットを巧く活用してBかG#の音を利用した等音程を用いることで更に対極のC音を導くと、結果的に六極応答への世界へ近しく足を運ぶことになると言いたいワケですな。

 ドゥアモルの和声というのは解体すればオーギュメンテッドな構造を導くことが可能ですし、ドゥアモルの和声として持ち合う時のオーギュメンテッドと、また別の方角から生じるオーギュメンテッドな関係というのは以前にもやった様に、それらのオーギュメンテッド構造の「ズレ」を巧みに利用することで調的な「揺さぶり」を演出することも可能なワケです。