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左見右見して横断歩道を渡りませう [クダ巻き]

 音楽の構造を紐解こうとすると、それまでの過程において色んな横顔を知るコトが出来るから興味深い所です。どんなにシンプルな構成の曲であろうと練りに練った大作であろうと、音楽的な構造を読み取るための、それを紐解くツールはそう多くはありませんし共通する所から解を得ているワケであります。

 長い距離を歩かざるを得なくとも最初の一歩の積み重ねがゴールに繋がるワケであります。くつろぎの場所に辿り着くには苦労が伴うという寓意かもしれません。 宇宙について知りたいことがあったとしましょうか。軈て、それについて色々知ると興味深い事実を沢山知ることができました。扨て、折角宇宙のコトを知るコトが出来るというチャンスにおいて、そんなプロセスなどどうでもよく、答だけを性急に知ろうとする子どもが居たとしましょうか。そこに知識人が現れ答を端的に懇切丁寧にあらゆる語句を並べて説いたとしましょう。果たしてその性急に答を要求した子どもは理解できているでしょうか!?おそらく出来ていないと思うんですよ、どんなに懇切丁寧に説明しようとも。

 言葉にしたって慣用句や諺の類にだって置き換えられる事ではありますが、言葉の本当の意味を知らずになんとなく使っている事がある。その真意をあらためて知る必要性が生じている時というのは時分の殻を破る時でもあり愚かな壁をひとつ越える時でもあろうと思うんです。そんな動機がクイズ番組でもイイんですよ。本当の意味を知った時にようやくその言葉の「重み」に気付くワケです。

 音楽というのも同じでして、微分音を巧みに使うことを排除すれば皆、オクターヴが十二音に分割された音律を数オクターヴの範囲で使っているんですよ。名うての作曲家と同じ音律を使っているにも拘らず、その辺の愚かな連中の音と来たらトンデモない音を出すワケですわ(笑)。同じ音を使うにも拘らずココまで酷いモノか、と(笑)。人生、覚えるコト一杯あるだろうに。上り坂が辛いから下り坂下らせろ!とまで言いかねなかったりするワケですが、本当に急峻な坂など下りの方が大変ですわ(笑)、それこそ先の五木寛之著の「下山の思想」ではないですけどね。


 音楽も似た側面がありましてですね、楽理など皮相的に言葉程度しか知らずに与太話程度で盛り上がっていた方がよっぽど面白い事もあるでしょう。でも、流石に与太話程度にしか収まるコトの出来ない連中が雁首揃えているだけの話題ですから、そんな烏合の衆から解を導くコトは到底難しいモノでありましょう。結局、都合良く&難しいプロセスを端折ってトリビア程度の知識に収まる程度で知ることが出来ればイイや、程度でしか大概の人間は知ろうとしないモノなんですわ。音楽に限ったハナシではなく。

 下らないプロセスの方を好む人もいるかもしれませんが、何時の時代でも「真相」という真の姿が重宝されるワケですね。楽理の背景を知るにあたって、その真相を追求する。こうした方面への興味と欲望を易々と端折ろうとする輩が本当に理解できるワケがないのであります。音楽に限らずこの手の人は色んな備えはするんですよ。先の震災を例に挙げるならば災害の備えをして非常食やら色々と用意してはいても役に立てるコトができずに、缶切りの使い方は知らないとか乾電池の種類を知らないとか、または帰宅したくてタクシー代はあってもタクシーが捕まらず歩く体力が無かったりとか、いざ歩いてみたら道知らないとか。何て言うんですかね、今の社会は確かに高度な情報化社会ではあるんですが生活力を奪われてしまっているように思えて仕方ないんですわ。それは音楽においても同様で、音楽において高次な方面の身の置き方というものが画一的で応用も利かないというか。自らのパワーが凄く少なく、先人の語法にベッタリともたれかかるだけの手法っていうんですか、そういうのが多いんですよ。

 で、五木寛之著の「下山の思想」。コレ、私はツイッターでつぶやいていたのでそちらをご覧になっていた方ならどういう動機で私が読んだかはお判りになるとは思うんですが、今回語るのは私の動機についてではなくてですね、皮相的な理解しか出来ない輩というのはこういう書物において実に判りやすいタイトルとそれに伴う冒頭の言い回しからしか抜粋してくることしかできないワケですよ。つまり本の核心すら理解することはしないし、先の著書がそれこそ登山の指南書だのと思い込む愚かな連中だっているワケですな(笑)。

 「下山の思想」を読んでいると最後まで下山とは何ぞや!?なんて結び付けてはおりません。山に出掛けていたはずなのに、いつの間にか自分の歩き慣れた街角を歩いているようなタイムスリップ感すらあったりするワケですが、そこには突拍子もないシーンの変更があるワケではなく寧ろ歩き慣れた街へ回帰してきた「寛ぎ」を満喫させてくれる世界への誘いと変化するんですね、見事にグラデーションのように。

 先の大震災ってぇのは山への備えがある人無い人無関係に山の頂きに連れて行かれたようなモンなんですよ。山の経験がある人ですら突然山へ放り込まれたらこりゃ大変ですわ。降りるのが楽だと思い込んでいる人もいるかもしれませんが山の事故の大半は下山中に起こるモンです。

 五木寛之という人生の経験を重ねた耆宿が行った著書での「技法」は、急峻な山並みを平地への皆の足元まで斜面を均してくれた、というコトなんですよ。遠方に見える山の頂きから自分の足元まで墨出し職人のように糸を張った線こそが最も緩やかな斜面である筈なのですな。ごくごく一般的な人達にも山を歩いて来たかのような苦労を感じさせないほどやさしくスロープを作ってくれるような、そしてふと気が付くと自分の知る街並を歩かせてくれているという温もりを感じるワケですな。人間誰もが明日死ぬかもしれないのに明日に光を感じて今日一日の疲れを癒し、黄昏に暮れ泥む一番星を見て夜を過ごす。これを落日とか斜陽とか言い表せるだろうか、ってコトですな。現実を実感することと、備えなくとも生き抜く営みの方面の豊かさ。これをまざまざと感じ取れる五木寛之の温かい「輻射」を感じ取るコトができる良著だったワケですよ。

 
 扨て、音楽においても楽理面を知る、器楽的に高次な技術を習得するというのは登山の様に辛苦を伴うモノであります。昔ならソコソコの金大枚はたいても手に入れることのできない楽器に垂涎のまなざしを向けてみたりしたモノです。極論してしまいましょうか。四半世紀程前にシンクラヴィアが普及率90%を超えるくらい各家庭に普及していたとしたら、皆大層なミュージシャンばかり生まれたのだろうか!?というコトを考えてみましょう。おそらくそんなコトはないでしょう。同じ土俵であるならばより優劣の差が歴然とするモノです。シンクラヴィアが与えられなくとも、です(笑)。


 優劣という物差しで出来上がった編み目をかいくぐるように生まれて来る作品というのは何時の時代でも出て来るモノです。型破りでもあるかもしれませんが、中には天才肌のような作品があるかもしれません。その天才のひとりになろうと誰もがそのポジションを目指して本道から外れようとして習得しなければならないモノすら拒むようになってしまう。やがてそういう反体制的な潮流は見事に一本の大きな流れへとまとまってしまい地の果てまで流れ着いてしまうのがオチなんですよ。排水溝に渦巻く浴槽の残り湯の様に(笑)。利口なヤツが湯垢のようにこびりついているワケですわ(笑)。


 音楽においても、音階の種類とかその辺だけに頓着していると、学ぶべき物すら見失ってしまいかねないというコトを言いたいワケですな。何が何でも音階の種類を覚えたいという人なら止めはしませんが、何百種類の音階覚えた所で数だけ覚えればボキャブラリーが増えるワケでもないので学ぶべき事は他にもあるのだという意味なワケであります。それこそ音楽の核心を知るにしてもハナから見落すようでは先が思いやられるワケです。


 嘗て私が若い時分にバンド演奏をやろうとする際、一番手っ取り早くみんなで覚えて演奏するコトのできる曲がスモコン(=Smoke on the Water)だったんですな。今はどうだか知りませんが(笑)。

 そのスモコンひとつ取ってみたって、ギターのパワー・コードという「空虚五度」(笑)が織り成すリフのそれには音の対蹠点とやらが見えてきます。ベースは執拗にそのリフん時ぁルートと五度弾いてるだけですわ(笑)。そのベースの五度への動きがあるからギターの対蹠点を鳴らす#11th音という側面を見せてくれるワケですわ。ロックという音楽ジャンルにおいてバイトーナルな世界をチラ見するコトができるという例はまさに、饒舌に楽理を語るコトはできなくともそんな感性を持っているからこそポツリポツリと語るコトができるといわんばかりの、以前私がDizzy Mizz Lizzyで表現した、バイトーナルな世界の姿を訥々と表すとはこうした所にもヒントがあったりするんですね。
 スモコンなんて正直な所、ある程度楽器を弾きこなせるようになると、小馬鹿にしてしまう位黒歴史かのようなこっ恥ずかしい経験として闇に葬り去ろうとするモンでしょうが、そんなスモコンとて楽理的にきちんと分析すると興味深い事が判るってぇモンなんですよ。


 ロックとカテゴライズされる音楽が総じてバイトーナルな世界を有しているワケではありませんので、その辺手前勝手な解釈かまして自分の好きなバンドをヨイショしたりしないように正しくご理解いただきたいワケですが、和声感タップリというようなアンサンブルを構築しているワケではなく、シンプルなリフで構成されているのがロックの根幹でしょうから、そんなシンプルなリフの上に少しずつ他の声部が乗っかって来ると、時には対位的な側面に遭遇したり、その対位的な側面とやらが見事に複調になっているケースなんて結構あったりするんですな。但し、作った側がそうしたバイトーナルな方面を意識しているかというと亦別のハナシになると思います。とはいえ、そういう世界を好むからこそ作られたワケでしょうし、無意識ながらもロックな「自由」という枠組みで出来上がった世界観とバイトーナルな方向が訥々とつぶやかれるように散見されるのは、シンプルなリフが絡み合う構造だからこそ生じる偶然の産物のひとつであるのかもしれません。

 そんなシーンから生み出される数々の名作というものはありまして、おそらくは多くの人々は楽理的な裏付けは知らないものの、そうしたシーンに出現する他のシーンでは聴く事のできない世界観を感じ取っている「それそのもの」が、古典的な音楽観に則って杓子定規に作られているような物とは異なる作風として捉えているのではないかと思うワケですな。楽理的な裏付けなんぞ後から知ることができればイイのであり、自分自身がそうした作風を受け付ける or 受け付けないという二者択一を、さも口に入れて味わっても尚味覚音痴なような音楽的感性であってはマズいのであります。そこまで間抜けな感性を有しているのであれば、服毒しても毒にも勝るのかもしれませんが(笑)、得てして皮相的に楽理を知ってしまうとそっちの蘊蓄を語りたいがために、折角の直感的な感性すら捩じ曲げてまで反対のポジションの意見をしてみたりだとか、ついつい人と違うコトを言ってみてしまったとか、そういう姿勢を取ったりするモノなんですよ(笑)。

 勿論、裏付けに乏しい中で自分の二者択一が当てずっぽうなワケですから時にはそのポジションで首尾よく収まるコトだってあるかもしれません。そんな当てずっぽうが二度三度うまいコト重なったりすると、その立ち居振る舞いに酔ってしまうワケですな。で、根拠の無い浅薄な知識がなぜか強固な裏付けとなってしまって怖い物知らずのように全知全能のように振る舞ってしまいかねなかったりするワケです。そんな根拠の無い人間が太刀打ち出来ない位赤っ恥をかいてしまったりして自分のお山の大将となれる場所という止まり木を探しに姿を消すようになるワケですな。

 姿を消す時に、それまで好きな筈だった音楽の趣味というのも概ね希薄になったりするモノでありましょう。でも、折角の音楽の深部を知るコトになるのであれば薄っぺらい知識で恥かくよりかはもう少し深く裏付けを知った上で音楽を好きであり続けていたいというのが健全な姿でありまして、てめえが恥かいたからって音楽のせいにして音楽好きをやめてしまうなど言語道断で、そんなの拠り所が間違っているワケですよ。拠り所が間違っているからこそ手前勝手なプライドを間違った知識や理解の上に構築してしまう。そもそもそんなプライドによって欲求の度合いが変わるというコト自体本質を見ていない証なんですな。音楽をなぜ求めるのか!?という欲求に素直になって楽理面に真摯に向き合う。こういう姿勢の在り方というのは何も音楽だけに言えるコトではないと思うんですが、感性に関わって来る所があったりするのでなんとなく素人が語れてしまうのも手伝ってついついアホなコト抜かしちゃったりするんですわ(笑)。


 読書と音楽の聴き方というのは似ている所があると思うんですよ。備えているボキャブラリーと経験によって理解度が左右される。絵本で精一杯の年代に六法全書読ませても、分厚さに喜ぶ程度で中身などまず理解できないでありましょう(笑)。小学生の低学年ですら何の根拠もなく教鞭を執る教師を小馬鹿にするコトだって珍しくないのが現実です。自分のボキャブラリーを超えた音楽と遭遇した時小馬鹿にするような行動こそが音楽へ理解を深められない証とも言えるワケですが、いつしかそんな愚行を重ねた人間も小難しい音楽に興味を示すチャンスが訪れるかもしれません。そういう時に真摯に向かっていて気付くコトでありましょう。


「遅かりし」と。


 高次なハーモニーを見付けても大方先人は使っていたりするモンです。使っていないモノを探求するのも良いかもしれませんが、使われているからダメだとか使われていないから良いとかそういう二者択一ではなく、ハーモニーに対してきちんとした聞き分けの出来るボキャブラリー位は持たないとダメだよね、ってハナシをしているワケですな。色んな知識を得るのにその由来がクイズ番組や漫画からばかりであったとしたらそれは得られるボキャブラリーは偏ったモノとなるでしょう。音に対しては偏見なく聞き分けるコトが重要で、誰々が唄っているから良いor悪いとか、そういう好き嫌いに結びつきかねなかったりもするワケです。

 ローカライズされた方法論において音楽的な話題を鏤めることなどいくらでも出来るワケですが、そうした方法論というモノに溶け込ますと受け手は気付いていない事が殆どなので結果的に後から気付かせるコトに注力させなくてはならずに二度手間になったりもするんですな。気付かせる事がまず重要なワケですからね。そんな日常からボキャブラリーに富んだ真の語法を見付けなくてはならないというワケです。目利き(耳)ができる位にならないとダメってこってすな。