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皆既月食の夜に [楽理]

 寒さも冬らしくなってきたと言われておりますが、アデリー・ペンギン獣人である左近治はようやく活性を取り戻しつつあるようでして覚醒されてきたようです(笑)。嘗ては、はっぴいえんどの1stアルバム収録で大瀧詠一作曲の「12月の雨の日」という曲名を思い浮かべながら、「12月ってそういえば雨の日って少なくて雪になっちまうモンだけど・・・」と疑問を抱いていたモンでして、要は12月でも雪にならない雨の日ってぇのは珍しかったのが昔の気候だったワケですな。totaleclipse.jpg

 それが今では頻繁に雨が降るようになったモンでして、昔は山中湖だってスケートリンクがあったくらいなのに(笑)。まあそういう自然の移り変わりを実感しながら皆既月食を観るコトができたワケでした。真っ赤なお月さんですね。ちなみに安物コンデジで天頂付近の月を捕らえただけなんで、手ブレはひどいわ(露出長め&低感度マニュアル設定)で火星のように映っているのはご愛嬌です(笑)。

 半年もしない内に今度は金環食があるワケですが、天文ガイドの最新号の表紙、良かったですねー(笑)。扨て、ハナシを戻して前回の続きへと参りましょうか。


 これまで何度も語っているかと思いますが、マイナー・メジャー9thというコードの構成は5th音を基軸とすると、上下に等しくシンメトリック(=対称性)な構造としての鏡像形を確認することができますね。


FmM9_symmetric.jpg 今回用意した図では「FmM9」というコードを用意しましたが、そのコードの5th音であるC音を基準に見ると、上下に等しい音程幅で隔たれているというのがお判りだと思います。マイナー・メジャー9thばかりでなく、シンメトリックな構造からフレージングしたり和声的彩りを演出する例を取り上げていた左近治ですが、エリザベス・シェパード然り、スタンリー・カウエル然り、これまで語っている通りです。しかも楽曲そのものがとても美しいのが両者に共通している所でございます。

 無論、耳(脳)が習熟していない人にしてみれば不協和の度が強いだけの音でしかないでしょうが、耳が習熟していない者にはそれ相応の音楽が用意されているワケですから、こういう世界に無理矢理足突っ込む必要はありません。無理して背伸びして難しい音を聴いてもすぐには身に付かないのは自明ですからね。楽理的側面で小難しいコトを会得してもその教養が牽引力となって耳を鍛えてくれるワケでもないのが現実社会の厳しい側面でありましょう(笑)。


 しかし音楽的教養が耳を鍛えてくれる「遠因」にはなるかもしれません。果てしなく遠いモノかもしれません。自身が備えてしまっている「短絡的な」調的重心への偏重をアライメントするには時間も経験も必要なワケですな。耳コピも容易い系の音楽をずーっと長年やっていても耳がいつの間にか鍛えられることはないかもしれません。


 扨て、チック・コリア・エレクトリック・バンドの1stアルバム収録の「King Cockroach」について私が述べていたのは過去にも語っている通り、CDタイムで言う所の5分06秒のFm9の部分での隣接し合う五度の調域でのフラ付きによるフレージング、その後の5分10秒部分のFmM7/Gというマイナー・メジャー9thの九度音をベース(=セカンド・ベース)にするという、実に心憎い和声の演出が堪らないワケでございます(笑)。










 短三和音に付加する七度音が短七/長七問わずして、通常はマイナー・コードでのセカンド・ベース(=九度音をベース音にする)というのは、m3rd音と短二度を形成してしまうため不協和の度が強まるワケですが、だからといって禁忌ではなく有名どころでも使っている例はある、というコトを坂本龍一を例に挙げながら語ったコトもあります。今回はマイナー・コードを母体にする、しかもマイナー・メジャー7thの体で九度音をベースにするという音をチック・コリアは活用しているワケですな。ソコでちょっと次の図を確認してみてほしいと思います。


 図のように「FmM9」と記してある図には、真ん中の「C音」を基準に見ていただくと、両端に向かって各構成音の音程の隔たりがあらためて確認できるかと思います。C音を基準に鏡像音程となっているワケでして、各構成音の音程幅の数字は半音のステップ数を表しております。


 通常のFmM9としての体はF音をルートにするワケですから先の図を右肩上がりのようにしてもらえば「傾き」が生ずるワケですが、九度音をベースにした場合傾きが逆になるので、先の図では右に傾くようになる、とお考えください。

 FmM9というコードにおいてルートと九度音の主従関係をひっくり返すという取り扱いだと思ってもらえれば判りやすいでしょうか。基準となるC音を除いて、G音はAb音に対しての「半音」という音程で強度を強め、亦同様にF音とE音による半音がさらに強度を強め合っているという、その和声はまるで、焼き入れされた合金かのような構造だと思っていただきたいんですな。


 鏡像音程において上と下をスルッと変換してしまうような技法、チョット前にも取り扱ったコトありますが覚えていらっしゃいますでしょうか!?黛敏郎のNNNニュースのテーマですね。氏の冒頭のテーマにおけるベースの半音の動きというのは、実は上と下の音を入れ替えるかのような、まるで相転移させるかのように主従関係をひっくり返してしまうような、それを奇を衒うことなく音楽的に聴かせるとでもいいますか。そういう音なんですね。もっと例を言えば、鏡像音程の上端と下端には「のりしろ」があって、上と下で作られた音列の「帯」の両端を糊付けするかのように輪っかを作るように両端を「閉じる」ワケですわ。そうすることで調的な隷属関係はより希薄となり浮遊する、と。ソコが狙いなんでしょう。そうした音の集合体から判りやすい調へ解決するのが先の黛敏郎のNNNニュースのテーマなワケですね。


 チック・コリアも同様にそういった鏡像音程やらシンメトリカルな音列を好んで使う所がありますが、一番重要なのは「調域の見つめ方」に尽きるかと思うんですな。


 前回のドゥアモルの和声から生じた鏡像関係にて得られる9種類の方角というのは、シンメトリカルな構造に配置させると中心となる音はDm7から見て完全四度と対蹠点となる増四度/減五度の両者が生じるというのはお気付きだったと思いますが、完全四度先が見えているというコトは四度進行させていないのにケーデンスを生じるかのような「先取り」を内在しているコトにもなります。四度先の音が出現するのは、そもそも調的な彩りの中でメリハリを生じることなく、ただ単に都度生じる和声的な彩りを寵愛するからこそケーデンスそのものが希薄になるというコトを意味する動きとも言えるでしょう。
 但し、そんな奇異な世界観においてもコード進行というメリハリ感を得るように演出するには属和音の体が出現し得る場所での属和音そのものが有している等音程の場所こそが「他の」等音程を用いる場所でもあるワケで、そうした「目の異なるヤスリ」を用いた時に、従来のコード進行とは異なる振る舞いを生じるというワケです。こういう所に多くのヒントがあるワケですな。


※「属和音の出現し得る場所」とやらについて少々補足説明をしておくと次の通りです。仮にハ調の調域において、その調域内のダイアトニック・コードと「思しき」コード進行があったとします。 Am7 -> Dm7 -> Dm7 (on G) -> CM7 このコード進行に見られる3つ目のコードはonコードであり、IIm7/Vという形で属和音の体が暈されている技法のひとつです。しかし一方ではその場所を「属和音の出現し得る場所」として想起することが可能な場所でもあります。このコード進行においては属七の体を回避して使用した例のひとつであるものの、属七の体を忌憚無く用いながら本来のG7とは全く異なる使い方(もしくは想起)をするようなモノという例えで先の本文で述べているワケであります。コード進行を例に取れば先のonコードをG7と忌憚なく表記することに置換させつつ、単一の調域から見ればG7というコードでありながらも、一方の調域からは3rd音をオミットした「G音とD音」によるニ声と、もうひとつの調域からの「H音とF音を包含する別の和声の一部」として見立てて(仮想的であったとしても)、実像としてはG7として成立してはいてもそれは別の姿だとする見方を邁進させるという見方について本文では語っているワケです。


 勿論、属和音の体を解体することなく「別解釈」をする音楽家だっています。G7 (b9)というコードがあった時、G音をオミットして見た場合H、D、F、Asの減七の和音となる短三度の等音程を生じます。ここに他の等音程を当てることなく(例:長三度の等音程や二度・四度の等音程など)、別の解釈をして従来の方向には「未解決」のコード進行となって成立させる方法という意味です。


 近年、属和音の機能をわざと暈すような技法、例えばIV/Vの形やIIm7/Vという形が体系化されているように、属和音の振る舞いというのもシーンが変われば実は機能を弱めて成立させております。柔道着の色は白がマストだったのが今ではカラー柔道着も採用されるようになった、みたいなモンだと置き換えるのも良いかもしれません(笑)。少なくとも古い形式ばかりに固執することなく状況を踏まえながら新しい音の耳の向き方というのは、そういう所にも現れていると思うんですな。
 
 三度の音程を首尾よく半音階を成立させた属二十三の和音の中になぜ複数の属和音を求めることができないのか!?属和音とやらがそこまで強固ならばあらゆる音の結び付きの中からでも抜粋して来ることが可能なのではないのか!?とまあ、そこまで属和音の力が強固であるならばトーシロの耳であっても見付けて来ることが可能なくらい強固な振る舞いをする筈でしょうが、実際には違うんです(笑)。
 そういう例からも判るように、ただ単に我々は通常の音世界において、何処かに寄りかかりたい&凭れたい感覚を有していて、たまたまそれが属音と主音という関係なだけでありまして、そういう関係を構築することなく自身の立ち居振る舞いを強固にすることができる人であれば主音と属音の関係のようなモノは不要なんですな。こういう感覚を音の中に見付けることができなければ机上の空論でしかないのでありまして、いつしか耳が鍛えられる日が来るまでは決して理解することはできないと思うのでトコトン注意が必要です。