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冬至もそろそろ [アルバム紹介]

 冬至ってこたぁ一番夜が長いワケでして、先も左近治はtwitterでつぶやいておりましたね。WolframAlphaで日の出を検索させてたアレ。


 普段英語なんて使い慣れないモンだから「at Tokyo」と言っても拾ってきてくれるSiriの思慮深い優しさに感動している左近治であります(笑)。そうか。私のような愚か者にも納得してもらえるように設計してナンボなんですな、としきりに感動していたら神様からのプレゼントなのか、路上を走るトヨタ2000GTに遭遇したってワケですわ。

 16進でもアラサーという左近治がこれまで路上を走るトヨタ2000GTを見掛けたのは、先日も合わせて3例目ですわ。展示してたり停まっているのを入れればもっと多くの目撃例になりますけどね。嘗ては東名町田インター付近の某カーショップでも展示されていたのが、そうですねー確かAE86がデビューした年辺りのコトでしたでありましょうか。

 AE86ってぇのは国産車においてドアミラーが解禁となった初めての車種でありまして、それから時を経て86という車がデビュー予定とのコト。四半世紀あるいは30年以上経過した車ってぇいうのは現物にお目にかかることも少なくなるため、昔はあれほど茶系の色が多かった昭和40年代後半~昭和50年台前半を取り戻すかのように、白やシルバーだらけの右に倣え状態だった日本に一石を投じたのがやはり外国車だったワケですな。

 2代目セリカのXXなんてシトロエン風で不人気だったモンですが、クーペは結構好きな左近治でありまして、あのリアのフォルムは今現在のフーガのガッチリマッチョ&ムッチリ系にも通ずるモノを感じるモンです。XXのBピラーの室内側のベンチレートが好きだった左近治でしたわ。

 そんな茶系の色が日本で駆逐されていくようになり、初代カムリの2トーン、松坂慶子CMのサニー電撃ルプリ、2代目レパードのゴールドを最後に目にする機会が激減していったような記憶があります。やがては輪廻するのでありましょうが。


 でも、なぜかココん所つぶやきこそしておりませんでしたが旧車を見かける頻度は高かったモノでありまして、角目の117クーペ、ベレットGT、ホンダ1300GT、あやまんジャパンもといスカGジャパンとか、結構見かけていたモンです。沢田研ニのブルーバードの2ドアHTもつい最近見たモンです。

 車くらいではそうそうつぶやきはしませんが、さすがにディアゴスティーニのCMでトヨニ(=トヨタ2000GTの略称)やってる位ですので、実物見掛けた日にゃあつぶやかずには居られません(笑)。初代シルビアだったらもっとつぶやいていたかもしれませんが。

 2代目シルビアの、それこそベルトーネ・デザインすら思わせる当時の未来的なデザインとCMの男女混声の曲はいまだに視床深くにこびりつくほど記憶している左近治でありまして、ピニンファリナ、ベルトーネ、ジウジアーロというデザイナーに加え、工業デザインのシンボルでもあったポルシェやオリベッティはいまだにワクワク感を感じさせてくれるってぇモンです。
 ジョブズの自伝では不思議とオリベッティ・デザインについては出てきませんでしたが、PowerBookやDuoが出た頃までは少なからずああいうデザインからヒントを得ていたAppleだったでありましょう。工業デザインってぇのはそれこそ古いモノからも学べるコトって多いのではないかなーと思うことしきりです。
 今だってボルボのガラスハッチだけがリフトするのも新鮮さがありますが、日産チェリーや山口百恵のターセル&コルサ時代とかスバルのレオーネなんて当時のハッチバックなんてみんなそんな感じだった時代を思い出してほしいと思わんばかり(笑)。


 古いモノから学んでほしいのは音楽も一緒なんですが、古いモノというよりも、和声的な感覚において自身の初心に戻るという姿勢を忘れていただきたくはないというのが正直なトコロであります。

 例えば最近の左近治の楽理的側面の話題はとかく先鋭的な方向性ばかりで小難しいったらありゃしない、と思わせてしまっているかもしれません。そういう世界の面白さを伝えようとしているのでそれは致し方ないのでありますが、嘗ては単一的な調性から端を発してセカンダリー・ドミナントやらという方角を会得していったように、あらためてそっちの方の世界も葬り去ることなく大事に扱っていただきたいと思わんばかりであります。
 冬至が近付くとついついクリスマスを想起してしまうモンでして、左近治の好きな3大クリスマス・ソングは

The Christmas Song
Christmas Time Is Here
Jingle Bell Rock

BobbyHelms.jpg に尽きるワケでありまして(笑)、特にボビー・ヘルムスのジングル・ベル・ロックはいかんせん色んなバージョンが真砂の数のように存在しているモノでして、本人もノド擦り切れるまで歌わされていた専属契約交わしてたんだろーなー、とついつい目頭熱くして聴いてしまうモンなんですが(笑)、まあボビー・ヘルムスにおいてはそんな多くのバージョンが存在していることもあり、色んなタイトル引っ提げてリリースされてはまーたタイトル変えて売り出されるわで、とにかく大変なんですわ。ジングル・ベル・ロック追うだけでも(笑)。

 それほど多いバージョンの中でも私が好きなジングル・ベル・ロックのバージョンがコレでして、アフィリエイトなんてせせこましいコトはしておりませんのでリンク先を辿っていただければお判りになるかと思います。


 こうしたオールディーズの暖かい風合いで心地良くなると、ヴィンス・グアラルディのクリスマス・タイム・イズ・ヒアのヴォイシングに病み付きになるワケですわ(笑)。実はこの曲、スティーヴ・ヴァイもカヴァーしてるんですな。ロック畑のヴァイとて過去のブログ記事をお読みになっていただければお判りになると思うんですが、この人のオーギュメンテッドな響きの咀嚼も若かりし日から見事なモンでして、色眼鏡で見ることなく聴いてほしいと思います。

 そこで「The」という冠詞を付けてまでのクリスマス・ソングと言えばコレですな。もう言葉は要りません。こういうメロディありきに、その旋律に対してのハーモニー付けという妙味が実によく判る好例でもあるんですが、旋律において「予期せぬ半音の導入」が幾つも用意されています。
 即ちそれは、意図しない他の調性を感じ得るメロディの動きそのものなんですな。その「意図しない」外部からの旋律に対して気の利いたコードを付けるとこんなに多様に響くのだ、というお手本ですな。お子さんが幼い内からでもこうした名曲に触れさせてあげてほしいと思わんばかりです。

 こうした「意図しない音」というのは概ね隣接しあう調域を利用していたりするモノなんですが、ごくごく簡単な四度/五度以外の動きもするようになりまして、調的な移ろいというのはもっとダイナミックになってくるのがその後のポピュラー・ミュージックの手法にもある通りです。そういう意味でも代表的なのはクリスマス・ソングではありませんが、デヴィッド・フォスター作曲の「After The Love Has Gone」(旧タイトル「After The Love Is Gone」:EW&F アルバム「黙示録」収録)なんて好例だと思うワケですな。

 そんな予期せぬ導音(半音)の導入というのは、旋律ありきのメロディへのコード付けであろうが対位的なアプローチからであろうが主旋律を大事に扱っているが故のことから生まれるモノなのでありますな。交響曲のような大曲であろうともひとつのモチーフから端を発するように発展させていることを思えば、耳に心地良く響く音のそれが「和声」であろうとも、その和声構造そのものは多くがコードネームで表されるように体系化されているコトからもお判りであるように、誰が使っても同じ音にはなります。

 コードそのものへの欲望の高まりっていうのはそれほど重要なコトではないんですよ。複雑なバイトーナルな世界であろうと単一的な世界であろうとも無関係に。これまでかなり耳に厳しい音を例に挙げて、その厳しさの美しさを追求しようとも、和声的に見ればどれも取り扱いがひとつに収まることは可能です。もっと重視してほしいのは、どういう旋律において和声を得るのか!?というコトでありまして、コードの音だけに酔いしれることがないように楽節を構築していきたいモンです。