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ビトナリテさん [楽理]

 扨て、前回の続きとなりますが本題に入る前にひとつ念を押しておきたい事は、単一の調性に固執した機能から見れば忌避しかねない音であっても、実際は音楽的には礼儀作法もあったモンではないし半ば「お行儀の悪い」扱いを受けるのがロックというジャンルだったりします(笑)。そんな彼らを私はやいのやいのと論って罵るワケではありません。寧ろ、好例だからこそロックの方面の音楽において語っておきたい例があるんですなー。


dizzymizzlizzy.jpg 嘗て北欧系のバンドで、そうですねー、ポケベルが女子高生の間で全盛期くらいの時期のコトでしたか。そんな北欧系の若手バンドがひょっこりデビューしたんですな。そのバンドがディジー・ミズ・リジィでして、昨年再結成したということも記憶に新しいトコロです。
 私自身ケークリにおいて彼らのデビュー・アルバムを華々しく飾る1曲目「ボーダーライン」(正確には短いSE系インタールードがあるので2曲目ですが)を作ったモノでして、私が彼らに対して肩入れするのは、結構響きに高次なセンスを感じるからなんですね。荒削りなセンスなんですが、しかしソレが良いんです。

 彼らのボーダーラインにおけるAメロ(サビのコア・メロディじゃないです)は、七度に覚醒している(短七度)音運びでありまして、ロックな人なら「ブルーノート」として片付けちゃうb5th音も生じて非常に官能的なワケですが、実は彼らの音楽はこうしたb5th音を生じるのは別に偶然の産物でも「ブルーノート止まり」というモノでもなく、バイトーナルという感覚で対蹠点を見付け出して来ているのであろう、だけれども、その欲求に本人はおそらくバイトーナル由来というコトは気付いてはいないという感覚が実に素朴且つ、バランスが取れていてカッコイイんです。

 Love Is A Loser's Game / Dizzy Mizz Lizzy

 この曲なんかも、「このメロディに対してこういうベース配置させる!?」みたいに奇を衒うかのような興味深いアレンジをしておりますが、バイトーナルな世界を演出させようとしているワケでもないのにそっちの感性が訥々と湧き出て来るのが非常に良く理解できるんですな。無論、バリバリのバイトーナルなリアレンジを施せば更に多様に演出は可能ですが、原曲のシンプルさと別の極性を向きかねないので仰々しくバイトーナルを演出してしまうと折角のオリジナルの良さを欠いてしまいかねない。しかし、バイトーナルな耳をお持ちの方であらば「おそらくこうする」というバイトーナルな方角が見えて来て、そこがチラチラと彼らは見せて来るんですね。それがイイんですよ(笑)。

 同年代であればエクストリームだってバイトーナルなセンスは備えているのにそういう風には楽曲を構築しない。バイトーナルな音ではないけれど二度音程に収斂させるやり方で「彩る」のがKornの連中でしょうか。それを彼らが判っているor判っていないはどうでもよいのです。作品が良ければ。


 音楽という取り決めっていうのは厳格なモノでして、トコトン異端でロックな兄ちゃんとて楽式を習得するためにはイイ子ちゃんになってたりするモノです(笑)。音楽の様式というのは時に悪ガキ達をも跪かせる所がスゴイ所でありますし、ましてや古典的な初歩的な理論からマスターしなければならないとなれば、ハナからその辺捨て去っていたような人間からすれば魔法の杖を手に入れたかの様にもたれかかってしまうのが関の山です。女の一人やふたりを知った程度だった嘗てのチェリー・ボーイが肩で風切って歩いているようなモンですわ(笑)。歌舞伎町や西川口やら初音町辺りでオトコにしてもらった程度で自信付けてしまうようではダメダメです。


 まあ、そんなワケで本題に入って行きますが、要は、単一の調性から鎮座する「Dm7」というコードからハミ出る「あたかも」メジャー3rd音というのは、別の方角の調性から見たダイアトニックな音だという風に考えると実にシンプルに理解できるんですが、但し、異なる調性が併存するようなフレージングなど通常扱わないでしょうから、そういう方面からをも耳馴染ませる必要があるかと思うんですな。


 そんな、異なる調性の併存ではない状況でなくとも、例えば、あるモチーフを1フレットずつ上昇させていって首尾よくダイアトニックな音に収まるようにする位のアプローチなんて、多くのロックなお兄ちゃんやオジサンまでも感極まってフツーにやったりするでしょう。それが仮に「Dm7」というコードを背景に、スタート時のモチーフと運指が全く同一でフレットが上がって行くだけという状況。次に1フレット上げたモチーフは明らかに「アウトサイド」ではありましょうが、それすらも許容できぬ程、ロックな世界においてもアウトサイドな音に対しては排他的でありましょうか!?


 アウトな音を許容出来るシーン、というものをそもそも「音楽的に」深く解釈しなくてはいけないんですよ。ごくごく平凡な耳であれば、先のようなモチーフですらも「ただ単に1フレットずつ上昇するだけやん」という、高次な耳を備えていなくともトーシロ目にも判るそんなアプローチを温かい目で見守るだけでなく、鋭い耳で楽理的に掘り下げなければならないワケですよ、ホントはね。アウトサイドな音を気軽に扱えるための心構えというのも必要だとは思います。10notes.jpg
 
 ミクロ的に考えればDm7上でF#音を生じてしまうのはバイトーナルな世界に耳慣らされた人でも何の脈絡なければ「無学な音」として受け止められてしまうでしょう。ただ、そのF#音はDm7から見つめればこそM3rd音ではありますが、曲はDm7をダイアトニック・コードとする「調性」の範囲内で別のコードからF#音を見つめる事もあります。Dm7の時だけ極力アボイドとして回避する、百歩譲って経過的に使う程度がフツーの対処法でありましょうが、そこをそうせずに「使う」のが今回のアプローチだというワケです。では早速Dm7上から3つのAugmented Major 7thのブロークン・フレーズを書き出してみましょう。



 譜例では「A#音」から「G#音」までを書き出しており、それぞれ共通する音もあるのでそれらを割愛して並べてみると10音を生ずることができました。ドミナント7th上でもないのに10音を導くのはかなり突飛だな、と思います。
 扨て、今私は重要な「ヒント」を言葉にしました。それは何か!?本を読むにしても実は何気なく語っている所に重要なヒントがあったりします。特に咀嚼された表現に伴う良著は、その見事なまでの流麗な文章に重要なキーワードすら等閑にしてしまいかねない所があったりしますが、そういう悪癖を身に付けてしまわないよう敢えて今私が試しているのでありますが、どうでしょう。お気付きになりましたか!?


 過去に私が声高に述べていた事は、左近治はツーファイヴ進行が嫌い(笑)。特にドミナント7thが好きではないというコトですね(笑)。そういう左近治を「前提」にして考えると、ドミナント7th上でオルタード・テンションも視野に入れると、長七とナチュラル11th音を忌避する事で12音の内の10音をアヴェイラブル・ノートとして「遊ぶ」ことが可能となりますが、どうでしょう!?先の例の用に、基のコードはドミナント7thではなくマイナー7thコードです。そこから10音を求めている以上、もはやドミナント7thと同等のアウトな音を呼び込んでいる事が判ります。
 但し、その10音を導いた中でM3rd音と等しい音は、通常はとても取り扱いの難しい音なワケですね。この辺が玉に瑕かもしれませんが(笑)。


Bitonal_from_3augs.jpg 扨て、こうして10音を導いた音列を「バイトーナル」な視点で見てみるコトにします。見方としては1つではなく幾通りもあります。私自身がバイトーナルな方角から見立てた場合は次のような「可能性」を秘めたモノとして2つの調域を想起します。例えば・・・

 譜例からも判るように「A#、C、D、E」という音列と「H、C#、D#」という音列に加え、「F#、G、G#」という半音の音程は「オプション」として取り敢えず放っておきます(笑)。一番最初の音列「A#、C、D、E」はそれぞれが全音音程の異名同音ですが、A#とCが減三度という風にしているのは意図してわざと「三度」という扱いにしているワケです。つまり、A#とCの間には音がある、というコトを示唆するワケですね。コレがまず重要なひとつのポイントです。

 A#をBbと想起するのも別に構いません。全音音程が3つ続くモチーフはリディアン系をすぐに示唆します。一方でもうひとつの全音音程が2つの体の「H、C#、D#」の音列はそれそのものがアイオニアン、もしくはH音を属音とするミクソリディアンやら、いずれにせよ想起し得るモードは多岐に渡りますが、多岐に渡るというコトこそが「フラつき」を演出するワケです。BbLydian.jpg


 なにゆえバイトーナルを想起する必要があるのか!?というと、こうすることで音列そのものに情緒が希薄な(半音階に近い)音並びとして使うよりも、異なる調性が絡み合っている世界観として演出する方がその先の可能性がとても拡大するからであります。無論、複数の調性が併存しようとも、最終的に導く最小形として形としては調的な情緒を持つヘプタトニック(この場合はチャーチ・モード)なワケですから、メシアン曰く、やはり最も素朴で最小形の形として集約する形としての長三和音や長音階の形の姿というのは、絡み合ったとしてもその体を包含しているという所に私は同調したいワケですね。
 非チャーチ・モードのヘプタトニックを想起すれば、更に音的な世界観は止まり木を探しに逡巡するかのような音世界になっていくのでありましょう。

 他にも色んな可能性があります。取り敢えず「放っておいた」音列「F#、G、G#」は、コレ、Cを開始音とするジプシー系の音階も示唆しますし、赤色と黒色の調的関係をを「行ったり来たり」するためには、開始の音をA#ではなくBbとするコトで、「Bb、C、D、E」という黒色の音列と、放っておいた音の中から赤色の「F#、G#」をコンバインさせる、そうすると「Bbホールトーン」として見ることも可能となります。BbWholeTone.jpg

 とまあ、バイトーナルな視点で先ほどの音列を2組に分けて考えられる様に色分けしていたワケなんですが、赤色の方を更に拡大させるかのように、残しておいた「F#、G、G#」から巧いコト抜粋してF#とG#を貰ってきちゃいましょうか。

 D#とF#の間に音を敢えて入れていないのは赤色の自由度みたいに思ってもらえれば宜しいかな、と。赤色グループがヘプタトニックの体として導入すべき音は、黒色グループに存在する音よりも、例えばE音よりもE#音つまりF音の異名同音を用いたりするとより面白さが増しますが、黒色&赤色と相互に音を持ち合いながらそれらとは別の調域の音を加える時は1つまでとしておくことで、総じて音を羅列した時に11ノートの体を保った方が面白味を増します。HIonian_Hmixolydian.jpg

 加えて黒色グループのA#は、Cとの間にBの存在を示唆しているんですね。但しその音は赤色グループから音を使うためなんです。Bbとして成立させちゃうと赤色グループに入る入場券を貰えないと考えるともっと判りやすいでしょうか(笑)。あくまでA#と採るかBbと採るかは想起する本人次第なんですけど。二度ではなく三度として考えてやるコトで落とし穴の大きさを広げてやるんですわ(笑)。そこにパカァッ!とハマるように(笑)。

 Bbの体として考えた場合、放っておいていたF#、G、G#の赤黒関係なく抜粋してみてF#とG#を選択するとBbホールトーンを生むことにもなります。また、先の放っておいた音は丸枠で囲まれているように、今度はG音を黒を選択しながら、調域外のA音を加えた場合「C、D、E、F#、G、A、Bb」となり、Gメロディック・マイナーを生むことにも繋がります。


 でまあ、Gメロディック・マイナーも拡張的に想起可能な状態になっているとするとGの旋律的短音階とした場合、そのスケール・ディグリーで言う所の短調のIII度は自ずとBb音を主音とするBbM7(+5)を導きます。そうすることで、当初想起していたDm7からの「DM7(+5)、EbM7(+5)、AbM7(+5)」とは別方角に更にオーギュメンテッド・メジャー7thを導くことで「九度/七度方面にワープ」するかのように音を拡大することができるのです。
 
 とはいえ元々存在する3つのオーギュメンテッド・メジャー7thのそれぞれの長七の音を割愛して見ると、先ほどのGメロディック・マイナーから生じたBbaugとして見立てることになり、こうして見るとDaugとBbaugは等しい構成音なので(同様にF#augも等しい構成音ですが今回は出現してはいません)、その辺りは注意が必要です。但し長七の音は共有しているワケではないので結果的には長七を付加させるコトで「別の方角」を向くことが可能となるワケです。中心軸システムの様にオクターヴを短三度分割するのではなく長三度で分割して等しく持ち合うとする「等音程」のそれが、中心軸システムのそれとも別の方角を導く、というコトです。


3aug_triads.jpg 判りやすく3つの増三和音の構成音がそれぞれどのようになっているのか図にしてみました。五度圏ではなくクロマティックに載せています。Daug、Ebaug、Abaugのそれぞれの構成音が色分けされておりますが、色を省いている所が「隙間」です。つまり、長七の音を有していないオーギュメンテッド・トライアドの体としてみた場合、これらの「隙間」にも調域外として目を向けるための応用が隠されている、という風にご理解いただけると助かるんですな。
 
 
 先の例のように、ふたつ想起した調域外の音をひとつだけ加えるという作業、つまり11ノートとは九度/七度方面にスルリとワープするかのような別の調域からのイタズラなんですね(笑)。無論、音を欲張ることなく10ノートでふたつの調域で持ち合ったり、または加えてみたりというメリとハリを用いて彩ることも可能でしょう。

 
 過去にも語った様にホールトーンの一部の全音音程を半音に分割してコンポジットなヘプタトニックを得た場合どういう風に世界を拡大することができるか!?というコトについて語りましたが、これからも判るように11ノートに導く前にも最終的には色んなオプションが用意されているワケです。重要な事はバイトーナルな見立てによって見方をシンプルにする、というコトでしょうか。


 これらのようなオプション的な調的遊びは、ヒンデミット流に言えばルードゥル・トナリスとなるのでありましょうか。調的な彩りという世界を幾多にも多層化させることで楽音は面白味を増すというワケです。