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中心音 [楽理]

今年も後6週間ほどとなってしまい、1年とは本当に早いモノだと実感している左近治です。本音を言えば楽理的なお堅いハナシは抜きにして、肩の力を抜いてプログレやらジャズ方面のコトやら器楽的な方面において語って行きたいワケなんですが、どうしても避けては通れぬ難局をくぐり抜けないと稜線には出ない登山ルートを通ってしまっているので暫くは楽理的側面の話題が続くとは思うのでその辺はご容赦願いたいと思わんばかりです(笑)。


扨て、先のコンポジットなヘプタトニック(=人工的な七音音階)は、見ように依ってはH音とDes音の間をCというクサビを打って半音に砕いたモノで、半音に分割する以前の姿はDes、Es、F、G、A、Hという全音音階(=ホールトーン・スケール)であるようにも見ることが出来るのであります。


基本的に「半音階的情緒」というモノは、ヘプタトニックという情緒の中でも世俗的、例えばジプシー的な変化を伴った音列、或いは和声的&旋律的短音階を頼りに得られるモノでもありますが、本来の半音階的情緒というものは、属音や主音の周辺に「調的ぶら下がり」などを求めるような音とは全く異なる「中立的な」音の振る舞いこそが半音階的情緒なのでありまして、半音階的な情緒への近しい情緒というのは「シンメトリック」な状況を作るとそこに近付くことが容易になります。


レンドヴァイの著書「バルトークの作曲技法」は数学的な不可思議な側面で楽節のバランス等を観察している所もありますが、最も注目すべき点は「中心軸システム」であるというのはかねてから声高に語っている左近治でありますが、その著書の78頁の第5項についてはあらためて目の玉ひん向いてお読みいただきたいんですな。

余りに端的な表現のため殆どの人は深く考えるコトなく読み飛ばしてしまいかねない所でして、良著とは得てしてこういう所があったりするものです。まあ私が噛み砕いて別の表現をすれば、半音階というのは通常の「全音階」的情緒から得られるような共鳴性を持たないので音列から見ると自ずとシンメトリックな構造になるのは「中心音」というものの存在によって生み出されていると語られているワケですな。


あるフレーズの特定の音に対して共鳴的な方角とは別に音列レベルから見たシンメトリックな構造を生み出すとすれば、オクターヴを等しく分割する対蹠点となる音程の存在だったり、結果的にシンメトリックに応答する鏡像関係や等音程が導かれるのは半音階の宿命とも言えるでしょう。


世俗的、例えばジプシー系の音階などはヘプタトニック・スケールであっても対蹠点を持つ音階ではありますが、対蹠点をより深く使って行くと結果的に当初描いていた調的な重心とは別の方角にも音楽的な情緒は深みを増していくモノでもありまして、左近治がなにゆえジプシー系音階という拡張されたヘプタトニックの姿を例に挙げながらこうして語っているのかという順序をあらためて理解していただけると助かるんですな、コレが(笑)。


何らかの調的な情緒を得る「歌心」みたいなモノが通常の世界観だとすると、半音階的情緒は基音ではなく中心音が在って鏡像形を生むというコトを余りに端的にレンドヴァイによる「バルトークの作曲技法」でも78頁にて語っていると思いますが、よくあるヘプタトニックの世界とは異なる音並びのそれが異端であっても、なにゆえそこにシンメトリックな構造を生むのか!?という所に興味を抱いていただければ幸いなのでありますが、半音音程がいくつも羅列しようとも、それは単一の調的な世界だけではなく複数の調的な作用から齎された産物であるかもしれない、という所から左近治は話を進めているのであります。


四半世紀前くらいですとヘプタトニックは「セプタトニック」とも呼ばれていて、統一した呼称はなかったモノです。今ではどちらかというとヘプタトニックという呼び方の方が受け入れやすいという配慮から私自身「ヘプタトニック」で統一するようにしておりますが、私は「セプタトニック」という呼称でも身に付けた世代であったがために、当初はブログ記事内でも統一しておらず混乱させてしまったのではないかと思いますが、現在は「ヘプタトニック」で統一しております(笑)。



細かい歯を持つノコギリを作ろうとした時、刃のひとつひとつを細かく作って行くよりも、ふたつのノコギリを重ねて、互い違いに歯が現れるようにすれば細かな歯が得られるのと同様に、闇雲に半音階を一挙に得ようとするのではなく、複調的なアプローチから半音階を得るという方が実はとてもシンプルな発想なのだというコトを気付いてもらいたいワケでして、複数の調が重なり合おうとも、シンプルな因数分解のような発想で、想起し得る「幾つかの」調、或いはシンプルなペンタトニックの組み合わせや等音程(短二度、減七、増三、完全四度)としてシンプルに分類させて考えるコトで、扱いをシンプルにするというメリットを生むというコトを声高に言いたいワケですな。


人は皆、声を発する時も音を聴く時も共鳴性を利用しているワケでして、共鳴的な音は誰しもが備えている感覚なのであります。共鳴性からほど遠くなってくる音に耳が「慣れてくる」のは、経験に他ならず、また、不協和の度が強い音に対しても何らかの「メッセージ」として脈絡を求める耳として捉えることで、やがてはそれがボキャブラリーとなってくるのであります。ただ単に「汚い音」と知覚している段階ではそれをボキャブラリーに転位させるコトは不可能でありましょう。

「あの時聴いた忌避すべき強い不協和の音」が忘れ難い経験だったためか、いつまで経ってもそれを疼痛や苦労かのような感覚かのように覚えてしまうモノだから身に付かないワケですな(笑)。音への知覚で生じた報酬系としての「快楽」と相反するモノは「苦痛」ではありませんよ、決して(笑)。神経レベルで言えばただの1ビットな情報ですので不協和な音への知覚に対して習熟度の浅い人は、神経ネットワークが構築されていないだけです。不協和な音が苦しみやら痛みに変換されているとしたら、それは神経科に診てもらう必要があるほど別のファクターで異常を発していると思われます(笑)。


共鳴的な音は協和的な音に対して感度が高まるのは当然の事で、我々が音を知覚する器官とて共鳴性を利用しているのでありますが、打てば響くとばかりにそんな音ばかり拾っているとやがては脳は飽きて来てフィルタリングするんでしょうな(笑)。結果的に難しい響きを欲するようになる、と。共鳴性の高い協和的な音というのはそれこそ調的なぶら下がりのために必要な「アンカー」を海底に放ちますが、半音階または半音階に近いシンメトリックな類の音列というのは共鳴性よりも「対蹠点」となる音程が含まれるようになります。これこそが前述の「中心音」なワケですね。Ddorian.jpg


一般的なチャーチ・モード内での音のやり取りにおいて「シンメトリック」な構造を確認することができるのは「ドリアン」の音列です。上から数えても下から数えても同じ音程で構成されております。しかし「中心音」という所で折れ曲がってくれるワケではなく、対蹠点となる音は生じておりません。仮にDドリアンにおいて対蹠点を生ずるのであればGis or As音が適切なのでありますが、そこに音は生ずることはありません。

亦同様にチャーチ・モード内の世界においてシンメトリックな世界の「一部」を見せてくれるであろうという姿は他に、ロクリアンで生ずるディミニッシュ・トライアドを生じている姿です。しかしこれはあくまでも「一部」であります。


扨て、それら2つの姿は「短調」という世界の中で水を得た魚のように高次な扱いに彩りを添えるかのように輝きを放つようになります。例えば平行短調におけるIII度の扱いはA moll(=イ短調)を例とするとCaugが現れるワケで、自ずと「Gis音」を生ずるため、結果的に先のドリアン上において中心音となる対蹠点を得る事と等しくなり、長調の七度上(ロクリアン)で見られたディミニッシュ・トライアドという短三度音程同士の等和音の一部はGis音という音を得ることで、短三度音程をオクターヴで4つ持ち合う「減七」のブロークン・フレーズという等音程として姿を現すようになります。


短調というものはわざわざ属七の和音を与えずとも、旋法的な方面での音価の与え方によっては充分「短調」という姿を維持することができて、属七の体を与えずともエオリアンの姿で充分な事もありますが、短調の世界というものがそもそも長調とは違ってオプション的活用例が多い事を考えれば一目瞭然でありまして、こうした多様な世界の演出というのはやはり「半音階的情緒」を用いているということをあらためて確認出来るシーンだというコトが理解できると思います。


ヘプタトニックを飛び越え半音階の世界へ近付く、或いはその逆で半音階から音の数を減らしてヘプタトニックへ近付く時など双方にはそれぞれ巡り会う「情緒」がありまして、ヘプタトニックの中でドップリ収まる情緒だけではなく他の外因的要素を欲しているのでありましょう。次回はオーギュメンテッド・メジャー7th関連の例などを取り上げていくことにしましょうかね、と。