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属二十三の和音にゾックゾク♪ [楽理]

扨て、前回は3つの増三和音を組み合わせたハイブリッドな和声を取り扱ったワケですが、半音階という12個の音に近付くように音が集積していく世界において「和声的な響き」というものをどれだけ演出できるのか!?というコトが最重要なコトだったワケです。


先の3つの増三和音はDaugとCaugそして「便宜的な」Aaug。前回も声高に語ったと思いますがAaugはC#augともFaugとも構成音を同じくするので、見方によってはDaug、C#aug、Caugというそれぞれ半音ずつ集積された増三和音の体とも呼べるワケですが、「全音違いに配置されるハイブリッドな増三和音」に対して協和的な音程差として表すことが対位的な手法として重要なので敢えて半音に集積させないという所が大事だったワケですね。


無論それは対位的な見方による都合であって、音自体の集積具合は変わりません。そんな音が9つも犇めき合っている状態をどのようにハーモニックに響かせるか!?という所が重要でありまして、半音が犇めき合っているからといって半音同士を連ねてクラスター状態にすればそれまた愚の骨頂なワケですわ(笑)。


先の全音違いの増三和音とペレアスを繰り返すフレーズは、3つの増三和音から組み合わされた音列(メシアンのMTL#3のモードorチェレプニンのモード)から生ずるモノとなっていますが、九声の総和音としては響かせてはおりません(笑)。ま、しかしながら結果的に半音同士でひしめき合う増三和音をできるだけ歌心あるハーモニーに仕立て上げようとしている狙いはお判りになっていただきたいな、と(笑)。


で、敢えてその3つの増三和音を半音同士の犇めき合いとして見た場合、D音を最低音として見立てた場合、Caugが短七として現れ(この時点で全音違いの増三和音)、さらにD音から長七度の位置に相当する増三和音が出現するという、いわば属二十三の和音の時にもやったように、属二十三の和音というのはそれ自体に3つの属七の体を包含しているというコトですね。この音程関係と一致するのであります。


Dom23rd_Part2.jpg例えば以前と同じように属二十三の和音の譜例を用意しますが今回は前回のと少し違います。とりあえず確認していただきたいのはG音を根音としているので、G7という体はまず1つ目として挙げることができます。2つ目の属七の体は7th音をルートとする低次な所で発生します。F7となりますので、これはG7と比較すると音を持ち合うようになっておりますが全音違いとして生じていることが判ります。3つ目の属七は15th音をルートとするGb7という体で、これはG音と長七度(=半音違い)として生じていることが判ります。


先の3つの増三和音もこうした短七・長七に相当する音程に出現するのを倣ったモノであります。


属二十三の和音という見立てを可能とした上でさらに拡張的に考えると、23度音をルートとした時の「Ab7のミラー・コード」は下方に鏡像音程で積み上げることとなりますので、それは譜例横に青い矢印で示しているようにお判りになると思うんですが(小さい数字は各音程の半音ステップ数)、元々のG7という属七は半音下のGb7という体の牽引力も包含しつつ、上方からはミラー・コードのカタチとして対称性のある鏡像音程で下方への牽引力と釣り合うかのように「半音上」の属七の体を鏡像形として持っている、という所も今回あらためて語っておきたい重要な点であります。


単純にチャーチ・モードを当て嵌めて考えた場合、G7から見たエオリアンの音程関係は全音上に生じているワケですが、Ab7の鏡像形から見たエオリアンの位置はGb(=F#)の位置にも現れることとなり、元々存在するGb7と全音違いのモードを持ち合うようにも考えることができます。

さらにAb7のミラー・モードのアイオニアンは自ずとEbとなりましてこれは中心軸システムとも合致するワケですが、ここを勿論短調のIIIbとして見立てることも可能です。

鏡像形としてでは実像側の、例えばG7側のアイオニアンは勿論Cの位置でありますが、これを平行短調側のIIIbとして見立てることも可能でして、そうすると先のEbと結果的に「半音違いの増三和音」を生むことも可能となります。(※Caug=Eaug=G#aug)

全音違いの増三和音は比較的呼び込みやすい世界なのでありますが、こうすることで半音違いの増三和音の体を呼び込むことができますし、何より、こうした世界観を考えた場合の半音上下から見た世界はどういう風に見えるのか!?というコトがあらためてお判りになるかと思います。アウトサイドなアプローチの見立てとしても重要な方角であろうと思います。


こうして属二十三の和音を今一度見てみると、長短の3度を巧みに使い分けて堆積させているコトが判りますが、増音程となるような長三度+長三度という累積は行わないのが特徴でありましょう。おそらく三度と三度の累積を完全五度以下の音程で済ませられるように配慮されているものであり、それらの音程が丁度中間で鏡像となるのも、属和音を包含しながらも半音階という世界において中立的な情緒を持たせようという配慮からこのような構成になっているのだと思われます。ただいたずらに3度の累積を調域外になるようにくぐり抜けて積み上げているのではないものだろうと思います。

※無粋ではありますがもう一点属二十三の和音について加筆しますと、属二十三の和音は、ただ単に半音階を生じさせたいが為かのように3度の累積になるようにノン・ダイアトニックの方へ潜り抜けるように積み上げているのではなく、上方に存在しうる自然倍音列に則した上での3度累積構造であるということも念頭に置かなくてはならない点です。倍音列の振る舞いを念頭に置くことで鏡像化という下方の牽引力も同様に視界に入ってくるのであります。

属和音を包含しようとも半音階に対して極力ニュートラルであろうという見立ては、シェーンベルクの和声法においても見られるように規則的な音程配列による和音の累積法がありますが、シェーンベルクの場合は属和音の構成を避けようとする狙いがあるため、四声体において「短+短+長」「長+長+短」「短+長+短』はあっても、「長+短+短」は自ずと属七の体を成すのでそれを意図的に避けているように成立させているようです。属和音の体を避けているというのはシェーンベルクの和声法および松平頼則の近代和声学の双方に付いても触れてはおりませんが、半音階を得ようとする項目において属和音を示唆する音並びを敢えて避けて記述されていることそのものが明白な答だということを読者は学び取らないとならない部分でして、名著における読者の選別というのは奇しくもこういう所にも現れるワケです(笑)。シェーンベルクの和声法よりも松平頼則の近代和声学の方が比較的目にしやすいでしょうから過去に私は近代和声学の311頁の重要性を語っていたのであります。このような世界に興味のある方ならこの頁だけでも目にするべきでしょう。


シェーンベルクのそれを以てすると属二十三の和音の立ち位置ってヤバくない!?と思うかもしれませんが、あくまでも四声体として「長+短+短」を避けているだけであって、属二十三の和音を3組の四声体と見る必要は無いのでありまして、三声体の組み合わせの重畳だと思えば矛盾も生じません。むしろ私が属音+ナンタラという、ナンタラが等音程である用法というのは、属音を除く他の3度の累乗された音に対して等音程、あるいは規則性配列を伴う考えを見越しているからでもあります。この根拠は過去にも語っております様に、ヒンデミットの和声学に詳しいので興味のある方はそちらもお読みになることをおすすめします。


いずれにしても机の上だけでこのような世界を語ってもチンプンカンプンでしょうから、少なくとも音を出しながら確認することが重要だと思います。音出さなくても言われて頭の中で音が鳴る方ならハナシが早いんですけどね。

でまあ、こういう調域を逸脱した世界観ってぇのは別に一本の道しか用意されていないモノではなく、色んな登山道があると思うんですわ。その山を登るにあたって結果的に同じところを通ったりするという共通点というものはあるとは思います。ただひとつ言えるのは、写真やカメラ越しに山を映すことで「行った気になれる」かのように、音楽も漠然と楽理を学べば、さもアウトサイドな方面を使いこなすかのように理解を高めたかのように錯覚に陥るモンなんですな。使いこなせることもなく知った気になっている、と。まずは使ってみて自分が欲する世界を得ようとしているのであればどんなに遠回りでも色んなコースを知ろうとするのではないかと思うんですが、時代を重ねれば重ねるほど、体系化という便利なカテゴライズはなんでもかんでもひとつに集約させちまおうとしてするのが悪しき点だと思うんですな。


そういう偏った理解を避けるためにもあらゆる方角から音楽を分析するというのはとても重要なことではないかと思わんばかり。