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マイケル・フランクスに見る「ペレアスの和声」徹底考察 [楽理]

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マイケル・フランクスの新譜「Time Together」の件は追々語りますので、とりあえずケークリにおいてリリースしている曲があるんで、それについて語っておこうかなと思います。と言いますのも、チョッピリ変わったコードを用いたリフにしているんで、その辺を語っておいた方がタイムリーだろうな、と。とはいえタイムリーになるように計算づくでブログと連携させているだけなんですけどね(笑)。


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コード譜の方をご覧いただければすぐにお判りだと思うんですが、いわゆるペレアスの和声から始まっているんですな。テンポはゆっくり目(というよりハーフタイムのビートですが)なので、コードの情感を捉えやすいのではないかなと思います。

よく皮相的な連中というのは、コードだけのサウンドを作曲にあるまじき行為かのように否定してしまって、メロディという楽節から作曲してナンボ!みたいに盲目的に信奉してしまう輩がおりますが、仮にコードだけのシンプルなリズムであってそれが白玉であろうとも、それは極力シンプルな型としての楽節ですわ。

大したメロディとやらも書く前にパート毎のリフ形成するんだって立派な楽節の構築であり「作曲」ですわ。白玉コードだってごくごくシンプルな音形としてのメロディであるワケですわ。型とやらに乏しいモノではあるものの。故にそういった楽節を熟成させるには、色んなリズムや音高の振れ幅を持たせることによってメリハリを付けるようになるワケですわ。皮相的な連中とやらはこういう所も細かく分析できていないクセに、白か黒か!?みたいに二極分化させてしまうようなスイッチ脳になっちゃうのが多いんですが、こーゆーのに惑わされるコトないワケです。物怖じして楽節とやらをそこだけに留まらないように熟成さえさせればイイんですから。

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扨て、今回のパターンはペレアスの和声から開始して入るモノの、先日にも少し語ったウェザー・リポートのアルバム「ブラック・マーケット」収録のウェイン・ショーター作曲による「Three Clowns」に用いられている一寸変わったコードを用いているコトにお気付きになっていただけるかと思うんですが如何でありましょう!?


本当は左近治とてこうした皮相的な扱いで曲ネタ作るべきではないとは重々承知ですよ(笑)。こんなして披露しているモノよりもショーター御大の「Three Clowns」の方をじっくりと嗜んでいただく事の方が遥かに重要ですし耳の肥やしにもなります(笑)。ただ、このような和声に馴染むコトによって上声部と下声部はどういう動きをしているものなのか、という事を今一度確認していただくことで、異名同音が表れながらそれらの長短をもメリハリを付けている所に着目していただけると、ハイパーな世界において調的な世界が見えて来るかと思います。


もっと咀嚼した表現ならば、例えばDbメジャーとC#マイナーによるメリハリってこってすわ。


更には上声部がオーギュメンテッド・メジャー7thの2ndベースが表れ、次はGハーフ・ディミニッシュ(=Gm7-5)という表記でも良さそうなモノを、わざわざ上声部に「Gディミニッシュ」にして下が単音の「F」という風にしているワケですな。まあ「Gm7 (b5) / F」でもイイんですよ。

でも、ハーフ・ディミニッシュの7thベースってあまりお目にかかったコトはないかな、と思います。少なくともポピュラーな世界ではあんまり見かけないですね。ところがディミニッシュ・トライアドに対して多様な低音を置く手法は、実はクラシック界隈の方が柔軟だったりします。だからといってハイパーな世界のような情感ではないんですが(笑)。


こうした、執拗なまでの上声部と下声部に見立てる方法なんですが、ベース弾き以外の人にしてみたらすごく扱いにくい世界観かもしれませんが、今一度考えてみてください。ジャズの4ビートに乗せたウォーキング・ベースのラインのそれというのは、コード・トーンばかりなぞっているようなライン弾いてたら即刻背後から斧で斬られます(笑)。なにゆえ「ああいう逸脱した」ラインを乗せられるのか?という事を他の楽器の人はもっと注目してほしい所ではあります。ジャズの世界において最も対位的な手法に近い行動を行っているのは実はウッド・ベースのウォーキングだったりしますので。

但し、ウォーキング・ベースのラインのそれを総じて「対位的手法」と理解してしまうのは早計でありまして、あくまでもジャズの世界にあってはウォーキング・ベースの「ライン取り」という見立ては、ソロ・パートが別のモードを想起してみたり、フラつくようにアウトしているそれとは全く異なるアウトの仕方をするワケです。F1のレースにおいてひとり戦車動かしてキビキビ動いているようなモンでして、時にはコースなど無関係にアウトすることもあるでしょう(笑)。他のパートのそれは概ねコース上に乗っかったコース取りをするのでありますが。まあそんなモンだと思っていただければイメージしやすいでしょうか。

コード・チェンジが目まぐるしく発生しようとも、それらのコードの脈絡に沿いながら時には小さく、時には大きなタイム感で「旋法」を想起するワケですわ。こうしたケースでの「想起」というのは複雑です。左近治は敢えてクラシック界隈の方の曲を持って来てあらためて分析してみたりとか、ジャズの実践とかを語っていきながら音楽の魅力を語るコトができればイイかなーと思っているワケであります。


今回はウォーキング・ベースについて語っているワケでもありませんし、ディミニッシュ・コードに対するベースの置き方やらディミニッシュ・コードにおける「テンション」とやらを語っているワケではありませんので、それらにまで飛躍した話題にせずとも、少なくともウォーキング・ベースを除けばその手の事は端折っても問題ないと思っているので敢えて話題を脱線させないのでありますが(笑)、まあいずれ語ることがあるかもしれません(笑)。

少なくとも今回例に出しているのはあくまでも「ペレアスの和声」のおさらいと実践というのも兼ねており、さらにはオーギュメンテッド・メジャー7thの2ndベースという分数コードの形は、結果的にオーギュメンテッドであっても「導音」という楔を自在に旋法的に当て嵌めていけば、いずれはそこにはディミニッシュという構造を持つ音も視野に入るワケでして、ペレアスの和声の上声部と下声部双方を垂直的に見れば、減三和音をも包含するような構造になっているのは過去にも語った通りです。

短三度の重畳はいずれは減三・減七の分散フレーズを導くのですが、たったひとつの短三度音程から完全四度累積=二度和音の形を呼び込むという事も過去に語った通りです。その二度は「長二度」がいずれは「短二度」へと収斂していくように高次の倍音を頼りに「半音階」という制作の色彩を強めていくのであります。属二十三の和音という形がいずれは半音違いの属和音を包含するという事を、他のプロセスを用いて「半音違い」という形式が成立する牽引力をもっと強めてみよう、というのが左近治の見立てだったワケであります。


私がこのように声高に述べるコトで、少なくとも高次な音楽の和声的根拠となる背景を「凝視」して吟味することが可能ですし、ペレアスの和声とやらは非常に取り扱いやすい題材でもあったワケでして、あらためてこうして語っているのであります。

但し、誤解して欲しくないのはペレアスの和声という、2つのメジャー・トライアドが短二度/長七度のインターバルを保ったハイブリッドな和声でありますが、これは究極の姿ではありません(笑)。やたらと肩入れするかのように取り扱えば、さぞかし偏狭的な愛情すら滲み出ているかのように捉えられてしまうかもしれませんが、コレを究極形とは思って欲しくはないんですな。無論、一般的な認知で収まるトコロの音楽理論界隈であればペレアスの和声ですらも取り扱うコトはないでしょう。

その辺のなんたるやを語らず譜面だけでひっそりと例を出しているのがデイヴ・スチュワート著のリットーさんから出ている著書くらいのモンでしょう。ある意味においては、非チャーチ・モードの世界における音並びから生じる音世界というのは、その時点で生じる「モード」を構成する総和音に収斂していく姿が見て取れるんですな。

例えばですね、Cメジャー・スケール(=Cアイオニアン)を引き合いに出して「ドレミファソラシ」の音全部使ってハイブリッドな和声を「無理矢理」構成したとします(笑)。正直な話、これが生じてイイのはサブドミナントの所だけで、トニックにおいて「総和音」なんて言い出した日にゃあミソもクソも一緒の世界と同意になっちゃいます(笑)。そりゃそうでしょう。調的な音全て使ったんですから、その「総和音」とやらはトニックもサブドミナントもドミナントも同時に鳴らすようなモンでして、自分の出産祝いと葬式と結婚式を同時にやるようなモンですわ(笑)。

フツーの音世界ってぇのは、さしずめトニックは自分の家なんですな。サブドミナントは外へ出かけたくなるキモチ、ドミナントは外出先から家へ帰りたくなるキモチだと思えばイイでしょう。


チャーチ・モードってぇのはこうしたキモチを明確に表現するワケですが、一寸だけ他調を拝借した程度の様式を覚えるだけで彩りは増すんですな、とりあえず(笑)。竹下通りしか知らなかったのがキラー通りまで足伸ばした程度で知った気になるような感じと言いますか、まあ12のキーを巧みに使ってツーファイヴ繰り返すのも、自分の手足と目を使って色んな街を練り歩いているようなモンですわ。しかし、多くの場所を知ろうとも、手段が「何処其処行ってからそれを基準に歩き回る」程度の手段でしか動き回る術を持たないというのは、チャーチ・モード圏内に収まる術でしかオプションを持たないコトと等しいワケですわ。

非チャーチ・モードの世界ってぇのは色んな交通手段やら、時には従来では考えが付かないような方角から音の世界を見るワケですな。耳が習熟しない限りは、周囲がどう諭そうとも無理な聴き方でもあるんですけどね(笑)。



でまあ、ペレアスの和声とやらを引き合いに出している以上は、もう少しキャッチーである程度聴きやすい所から題材にしないと興味を示すことが出来ないのではないか!?と思う所も確かにあります。もう少し優しい所から選曲してみっか!みたいな思いは、いくら底意地の悪い左近治でも抱いているワケですな。


まあ、そういう風に考えていたらタイムリーな新譜が手元に届いたワケですわ。マイケル・フランクスの新譜「Time Together」という、つい先日発売されたばかりのアルバムですわ。つーかスピノザが参加しているなら買わずにはいられないワケですな(笑)。


とはいえこのアルバムはのっけからチャック・ローブが参加する曲から始まって来るんですが、「チャック・ローブって、こんなドリュー・ジングのようなダブル・クロマティックの語法あったっけ?」と思わせるほど結構動きまくっているんですな。1曲目の「Now That the Summer's Here」とか2曲目の「One Day in St. Tropez」とかは聴衆に対する「ツカミ」としては充分なくらい、メロディック・マイナー・モードをさりげなく漂わせているのでありますが、楽理的側面を語る上でタイムリーなのが3曲目の「Summer in New York」なんですな。


で、ハッキリ言いましょう。このアルバムは「買い」ですし、「Summer in New York」はペレアスの和声を使っている曲だというコトを。だからといって初心者が聴くには厳しい音ではなく、寧ろかなり優しく&さりげなくメランコリックな世界観は今に始まったコトではないですが毒の鏤め方の巧さは絶妙なワケですわ(笑)。仮に自分自身のボキャブラリーに無いコードが現れたからといって、それをボサノヴァ系のコードだのと皮相的に扱うコトなくきちんと分析しないとアーティストに失礼ってぇモンです。

マイケル・フランクスというのは今作に限らず高次なハーモニーが鏤められていたりするものですが、高次な響きの中にあってさらなる厳しさを増したような響きが今作の1~3曲目にあるのですが、「Mice」以降4曲目以降は一般的にも極上のBGMにすることが出来るのではないかと思います。「Charlie Chan in Egypt」や「My Heart Said Wow」は、夏の夜の妖しさといいますか、いわゆる「Summertime」系のドップリと妖しさに浸る情緒がふんだんに用意されているといいますか、異国情緒溢れる感じが演出されているのではないかと思うんですな。「チュニジアの夜」とか、ディジー・ガレスピーが有しているような独特の情緒と言いますか。


BTW、ディジー・ガレスピーもバド・パウエルもこうした深い情緒は「旋法的に」扱っていた所があるワケですが、その想起するモードを入れ替えたりするのではなく、どちらかというと旋法の情緒を最大限に活用していた所があるんですが、こうした独特のモード・スケールが有している音を抜粋して「総和音」への方角へ使い方を変えていったのは、ハービー・ハンコックとウェイン・ショーターを筆頭に挙げることができると思うんです。因みにマイケル・フランクスの今作は「総和音」の世界の側が高次な世界を見せ、その後引き込んで行くワケですね。

ドラム・サウンドという側面からすれば「I'd Rather Be Happy Than Right」の音はウットリするほどのドラムの音ですし、「If I Could Make September Stay」や「Mice」は全く畑が違いますがトッド・ラングレンの初期作品特に「Runt」辺りの素樸さと優しさとキャッチーなメロディを想起し得る極上な曲ですな。この曲をトッド・ラングレン関連に形容したのは他よりもボサノヴァ風味が抑えられていて、そんな対比をまず語りたかったワケですな。


それでは「Summer in New York」について語って行きたいと思います。本作品は残念ながら国内盤は未発売でありまして、まぁいずれ発売されるのでありましょうが輸入盤は私の嫌いなデジパック仕様だし(笑)、歌詞も付いてねーっての(笑)。で、CDタイムとにらめっこしながら曲の細部を説明していこうと思うんですが、左近治のヘッポコ英語を披露せねばならないトコロもありまして、てめえのヘッポコさを露にしなければならない所についつい歯ぎしりをしてしまい、判りづらい説明に拍車をかけるコトになるかとは思うんですが、その辺りはご容赦願いたいな、と(笑)。


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早速、「Summer in New York」に用いられているペレアスの和声について語りますが、曲中最初に現れるのは1分23秒の所で「Walk through ナンチャラ」の「ナンチャラ」の所です(笑)。


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ここはハイブリッド・コードで表記すると「B△/C△」という形です。上声部にB、D#、F#というBメジャー・トライアドに加えて下声部がC、E、GというCメジャー・トライアドです。因みにマイケル・フランクスが唄うメロディはBから半音下のA#に下がるので、A#が現れるとハーモニーそのものはヘプタトニック(=7音音階)を示唆する総ての音のハーモニーとなりまして結果的に某ヘプタトニック・スケールの総和音とも呼べるワケですが、和声の体としてはCペレアスですので誤解のなきようご理解ください。因みにヘプタトニック・スケールとして「確定」されたスケールというのはEハンガリアン・マイナーというコトとなります。

今一度Cペレアスの体を譜例にしてみたのでご確認いただければ、と思うんですが、「Walk through ナンチャラ」と同じ部分が3分22秒に現れます(2度目のBパターン)。「See Shakespear in the park」と唄っていると思われます。それにしても、聴き取りやすいはずのマイケル・フランクスの英語の聞き取りが怪しいようじゃあ、英語スキルはage under 5位でしょうなー(笑)。

嘗て米国ビジネスマンと思しき方に数年前に道を尋ねられた時に少々話がはずんで色々と会話をした時に、ついでに訊いてみたんですよ。左近治の英語スキルを謙って(笑)、

「I am sorry about you, my English skill is age under 7, damn it.」とか言ってみたら、返って来た言葉が「そんな事ないよ。12歳くらいかな!?」。

いやぁ、喜んでいいやら悲しんでいいやら(笑)。でもTOEIC950でも向こうの中高生程度なのかもしれませんが、苦虫を噛み潰したように左近治が言葉に詰まっていると、「私はあなたが英語を喋るように日本語を扱えないから羨ましい」とフォローが入るんですな。その時思ったんですが、皮相的な英語の扱いよりも、こうした「フォロー」をさりげなく扱えるコトこそが重要なのだとあらためて実感しましたね。本来なら日本人はそういう精神をモットーに生きていたはずなのに、性急に英語スキルを得たいがために肝心な事を忘れてしまう、それを外国人によって知らされるという点も世の中の変化を感じ取った時でありました。


扨て、「Summer in New York」の特徴的な和声で語っておきたいのはもう1つありまして、それが3分3~4秒付近の所の和声です。コチラも同様に2度目のBパターンなので、1回目のBパターンの5小節目部分「From uptown~」と唄っている所とコードは変えて来ているんですね。

1度目の方は「Fm7(9,11)」なのでありますが、2度目は高次な使い方なので是非とも覚えていただきたいのであります。コード表記としては「B△7(+5)/F」なんですが、上声部は「BM7(+5)」というよりも「Eb△にb13thを足した」感覚として弾いていただきたいのであります。すると「Ebメジャー」側からの2ndベースとしての使い方として考えをまとめることができるんですが、実はそれだけの解釈をしては勿体ないことがありまして、その辺を語るコトにします。


つい先ほども「「Eb△にb13thを足した感覚」とか言っておりますが、捉え方としては上声部が「B△7(+5)」という形のままで考えていただいて結構です。ベースが対蹠点(=増四度/減五度の関係)にあること自体、つきつめればオルタード・テンションの体を求めたりすることも可能だとは思いますが、今回は「なぜベースが対蹠点に在るのか!?」という事を考えていきましょう。


増和音を扱うオプションとしてこれまで取り上げて来たのは、オーギュメンテッド・メジャー7thの2ndベースというのがありましたが、今回の例を無理矢理当て嵌めてみると、上声部が「B△7(+5)」であれば、二度ベースなワケですから「B△7(+5)/C#」という事を意味します。しかし、マイケル・フランクスの方では「B△7(+5)/F」なワケですので、その違いは何なのか!?という事を今から語るワケです。

結論としては、上声部のオーギュメンテッド・メジャー7thに対して低音が2ndベースを基準に「C# - F - A」という増音程フレーズの分散から生まれる過程で生じる「対蹠点」なのだという事を理解してもらいたいワケです。ベースがAに動けば7thベース、C#なら2ndベースですね。余談ですが、上声部にオーギュメンテッド・メジャー7thがあっての7thベースの時、半音音程が連続する音列を生むので、エニグマ・スケール(=謎の音階)を想起したり発展させることも可能です。

なにゆえコレを声高に語っているのか、と言いますと、この視点や当て嵌めというのはウォーキング・ベースのフレーズ作りとして非常に有用な”対位的手法”でもありまして、和声的にしか現れない特徴的な音でも、聴き方を変えるコトでこういうオプションがあるという事をどうしても伝えたかったワケですね。そういうワケで極上アルバムを吟味していただければな、と思います。