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Selfish Gene - ウォルター・ベッカー Circus Money Analysis [スティーリー・ダン]

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いわゆる「D一発」系ではあるものの、上モノのリフは2声で動いてDリディアン7thを示唆する増4度増5度の音が含まれていますね。

その2声は

(F#、A) -> (G#、B) -> (A、C)

このように動いている訳ですが、3つ目の時にはベッカーもA音弾いているんで実はここでA6にコードトーン的には推移します。ただ、ベッカーのボーカルが入ってくるとベッカーはココで7th音(G音)を歌うのでコード解釈としてはA7(13)が適当となります。

ただ、「いちいちアンサンブルに惑わされずに簡略化したコード表記でイイんだよ!」という声も上がりそうです。実際にはその方がスンナリと演奏しやすいシーンもありますし、多くのコード表記とはそういうものでありますが、よく見受けることのできるコードを表記して真砂の数ほどもある音楽と同じような解釈で弾くと面食らうのがベッカーやSDの音楽なので、楽理面においては注意深く検討する必要があると思います。

なにせこの曲のボーカルが入ってくるド頭の音はベッカーは13th音で歌ってきますしね。単純に「D一発」系と解釈するだけではこの曲の深みを味わうことはできないでしょう。

その後ギターのアルペジオのブリッジでは

BbM7 --> Bb7 (on Ab) --> Gm7 --> Ddim (on F) --> Bb7

Ddim (on F) --> Bb7の部分はBb7 (on F) --> Bb7と表記してもいいとは思いますが、ま、こうしてもうテーマに戻る、と。

この曲に限らず、アルバム全体におけるベッカーのハーフ・ミュート(おそらくピック弾き)、しかも音が「立ちやすい」サドウスキーを巧みに使って、この方の音選びは時折ベーシストがやらなそうな音を歌心巧みに使うことがあるので耳研ぎ澄ませて聴かないと、勝手に「一発系だろ」と見過ごしてしまうような危険性を伴うので、じっくり聴かないといけません(笑)。前作の「11の心象」でも見事に見過ごしてしまったりしたこともありましたからね。

「Medical Science」のベースの動きを聴けば「なんでソコ行くの?」というような不思議な響き満載ですからね(笑)。

まあ、この曲の「毒」は他にもありまして、大サビでのブリッジのコードワーク(ホーンが出てくる所)。

「Century’s End」にも似たブリッジがありますね。コーラス陣が「my skyline down〜♪」と歌い上げた所です。

ここのコーラスラインも執拗なまでに「ウラ」を刻んでいてリズム的にも非常に心地良いですね。

ここはBbmM9 (on Db) --> GbM7(13) --> Fm7 --> C7aug(#11) --> C7(#11)

1つ目のコードはDbM7(+5、13)と表記すると、増5度と13th音を明確に使い分けなくてはなりませんが、こんな表記じゃ判りづらいでしょ!?(笑)。私の場合ならコレでもイイのですが。Dbリディアン・オーギュメンテッド・スケールを自ずと示唆するとなればお判りでしょう。

で、最後のC7alt系の2つのコードの最初は♭13thじゃなくて増5度にして、次で5thに戻ってくれ!って使い方ですな。ここではCスーパー・ロクリアンから入って来てくれるんで、児童でも判り易い提示となっております。
大学受験前に必死に覚えた「出る単」。多くの人は経験があるでしょう。で、その後覚えたそれらの単語、今どれだけ役立っているでしょうか?

スケールなど「体系的」に覚えている人というのは、スーパー・ロクリアンを知ってはいても使いこなすことが出来ず、ただ単に知識を持て余しているだけに過ぎないという人が実に多いのが音楽の世界。特に高校卒業して音楽学校行き始めて培ったのは自意識だけ、という人に顕著に見られるタイプですね。

メロディック・マイナーをダイアトニック・スケールとした場合、そのモードスケールの第○音から始めようとも、全音音程が5つも含むスケールを使いこなすのが難しいため、使いこなせない人が多いんですね(それ以前にメロディック・マイナー・トーナリティーの世界観を耳が受け付けない習熟度の浅さが問題ですが)。

だから、左近治は以前にも言いました。「5度抜け」と。

メロディック・マイナー・モードであらば、どの音から始めようともまず5th音抜いて弾いてみろ、ってこってすな。
だから、ベッカー先生は世の烏合の衆に目がけてスーパー・ロクリアンの5度抜きして弾いてくれているんですね(笑)。判り易く提示するさりげない優しさでありましょう。子供に耳栓&シャンプーハットでアタマ洗ってあげるような優しさを垣間みることのできるワンシーンです(笑)。

とはいえ元のリフを思い出していただければ「D一発」系の少々ブルージィーでロックっぽいアプローチで構築されていたワケですね。

ここまでひねくれて作れ、とは言いませんが、叙情性と和声感を得るために少々使いこなしにくい音並びを使って、こういう音が構築された、というのがロック界での良い例としての「偶然の産物」。

ただ、多くの人というのはペンタトニックだのマイナーとメジャーくらいの区別はつくくらいに毛が生えた人というのは、自身の拙い能力を存分に発揮して、使い慣れない音を勝手に自分の使い易い音に変化させてしまう傾向が非常に強いんですな。つまり、音への追究度はおざなりに、手先や拙い知識によって本来在るべき音を「均して」しまうんですな。悪しき例です。

例えばジミー・ペイジ。出てくる音は右手と左手のタイミングは不揃いで、どちらかというとヘタウマっぽいプレイをします(笑)。だけれどもペイジ先生というのは音に大しては鋭敏で、こういう音をきちんと使ってくれます。使い慣れない音だからといって勝手に変化させる事なく、耳で追ってくれます(それ以前に楽理的な知識は十分備えているとは思いますが)。

まあ、言いたい事は、ロックに理論など関係ねえ!と反骨心ムキ出しで、センスだけで勝負しようとする気概は誰もが備えているモンなんですが、「じゃあ、なんでペンタトニックとかメジャーとかマイナーの区別付けるような知識があるの?」という矛盾した狭い了見を持っている人が多いのが実情。

本当にセンスに溢れる人であれば、使い慣れない音だからといって勝手に使い慣れた音に置き換えたりはしないんですね。理論も何も必要としないのならチューニングすら覚える必要ないだろ、と私は思うんですけどね(笑)。オリジナルな微分音の世界で勝負してみろ、と。悲しいかなSDファンの中にもこういう人達が増大しているのが現実なんですな。また、この手の人達のフレコミに左右されてしまえばそれらにも劣るという(笑)。

とはいえ左近治とて理論面など全く知らずに音楽に触れている時期は四半世紀以上も遡れば有ったモノでした。ただ、左近治の場合は自分の好む楽曲の特徴的な音を見過ごすことはできなかったので有りますが、山登りとは違って探究心のそれというのは「途中で引き返す勇気」など全く要らないもので、どんなに辛く険しかろうが登れ!というのが音楽の探究心だと思います。それは技術面においても然り。技術的な面となると過剰な練習が災いして体が傷むこともありますが、そういうことに直面して一休みせざるを得ない状況はあるものの、音楽の「知」の部分で挫折する必要はないんですな。

ベッカーのこういうアプローチから色んなものを学び取れるようになれば少なくとも音楽への造詣は深まるのではないでしょうか。