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ドリアン6th──ジャズ/ブルースの6度 [楽理]

 更にもう一言附言しておくと、例えばドリアンの第6音は旋法の特性音であり乍らもアヴォイド・ノートとして取扱われるのは、そのスケール音を和声的に用いた時に、不協和の原点である三全音の包含となってしまうからでありますね。


 これは基底の和音と短二度を形成していないのにアヴォイドと扱われている側面があるのは「古い慣習」での例であり、新しい慣習では短三和音を基底に持つ長六度または長十三度音の附与をアヴォイドとしない所もあるのです。

 それは慣習が「新・旧」であるという事に学び手が服従するのも結構ですが、体系に服従する前に知っておく側面があるのです。

 それは、「旧」で遵守すべくアヴォイドの仕来りは、カデンツを重視するという言わば機能和声方面を重視する進行感を演出する際でのアヴォイドの取扱いです。他方、「新」の方でのアヴォイドの仕来りというのはアヴォイドではない、という理解ですからマイナー・コード上では自ずと附加6度またはマイナー13thとして用いられる様になる訳ですが、これらのコードに於いて特に後者のマイナー13thという副十三の和音に於ては機能和声の仕来りとは異なる旋法和声での仕来りに準ずるという側面がある訳です。

 これらの使い分けに依って初めて両者の「両義性」を読み取る訳であって、マイナー・コード上でのアヴォイドは決して一義的ではないし、それと同様にドリアン・モードで生じたドリアンの特性音である第6音が和声的に6thまたは13thとして用いられるシーンがあるとすれば、それが機能和声的に用いられてしまえば変な取扱いでありますが、コード進行が機能和声的ではない旋法和声または弱進行であるならばそれで充分なのであります。


副十三の和音

 無論、非機能和声的な心得として重要な事は、背景の和声においてアヴェイラブル・ノートとして示唆される音は、特に副十三の和音となるマイナー・コードは自ずと三全音を包含しているので、これらをさりげなく使わないと属七系統の和音から発展される和音を単に転回させている和音の響きと変わりなくなるという、機能的和声の世界観に連れて行かれる(=それだけ重力が強い)事になるので、結果的に避けるのであるならアヴォイドであるという風に片付けているだけの事で、これらの両義性をきちんと理解しておかなくてはなりません。

 また、こうした方法論は器楽的な心得と共に、こうして文字にしている事を直ぐに体現可能な状態である人が初めて理解可能な事なのであって、和音体得もままならぬ単に理論習得ばかりを急いてしまって、私のこの言葉を読めばジャズ的な語法や和音の体得も読み終わった時には会得していると錯誤してしまう様ではどんな音楽理論を読んでも肥やしになる事はありません。

 ドラえもんの暗記パンが現実の物になっているならまだしも、音楽的な響きを脳裡で暗誦・視唱できるならまだしも、そうした人ではない人が文字を読んだだけで体得できるかの様に思ってしまっている人は残念乍ら未来永劫体得する事はできない事でしょう。

 芥川也寸志の時代であればアヴォイド・ノートは属七の包含を暗々裡に意味する事なのです。正直な所、シリンガー/スロニムスキーの体系=即ちバークリー・メソッドのコード体系もこの時代と同時代の理解なのであります。その上で、「不協和」という物を突き詰めて来て「短二度」という強烈な不協和が聳える様になった訳です。

 とはいえ短二度が長七度に転回したからといって同様の不協和というのは、主音と短二度を形成した時に初めて強烈になるのであって、長七度音程は、それが根音との間で形成されている過程に於て長七度を長三度下方で下支えしている五度音もあれば、長七度を完全五度下方で支えている三度音もある訳です。「下支え」というのはこういう事の意味なのです。つまり、複音程である「短九度」というのも、知らず識らずの内に他の音程の介在が「下支え」という風に成立する脈絡を持っている訳です。「複音程」というのが是亦大事な訳です。


 協和が協和感を、不協和が不協和感を弱める

 そこで今度は「協和」について附言しておくと、かのレオンハルト・オイラーは、音程比 [2:3] と [1:3] では、後者の音程比の方が隣接していない音程比なのにも拘らず、こちらの方がうなりが少なく明澄感が高いと証明した訳です。
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 これは科学的論考の発達に依って齎された、協和の世界に於けるオクターヴ同一の崩壊でもある訳です。[2:3]=完全五度、[1:3]=完全十二度(完全八度+完全五度)の両者は単音程か複音程かの違いであるものの、「完全音程」である根幹をも揺るがしかねないこうした自然摂理の矛盾を説いて見せた訳です。無論、これに音楽が直ぐに従順になる筈はなく、これは瑣末な例外として取扱って舊來の体系を育み、機能和声の世界観を崩壊させずに守りつつ、他方で調性は崩壊し乍ら音楽は欺く響きへと発展したのですから、音楽の方法論として実際には多義的な訳です。

 無論、厳格な音楽教育方面では機能和声という音楽の根幹たる部分を徹底して教育してから不協和の部分を覚えていくのである訳ですが、謬見に陥る人はこちらの機能和声的枠組みばかりを是認しようとしてしまいがちですし、音楽的素養は浅いのに不協和音の体得が先んじた人は、機能和声のそれが予見に従順すぎて忌避してしまうという側面から、両者は相容れない水と油の様な関係により音楽的信念の対立すら起こすのが現実ですが、両者に共通しているのは片方の側面ばかりを是認している偏見から生じた物であり、音楽的感性がどちらかに靡き過ぎて偏ってしまっているからなのですね。

 バランス良く配合されていれば好都合なのですが、主観を匙加減に依って薄められる様に思えてしまうのですから易々と受け止められないのでありましょう。この固執に「謬見」がまとわりつくのが実際なのです。実際には己の偏見との闘いなのです。偏見が失せて両義的に俯瞰できる様になった時が音楽的両義性の確立を得た時と言っても過言ではないでしょう。

 そこで再び「協和」について附言する事にしましょう。機能和声社会が構築してきた世界観では「自然摂理」に裏打ちされた組織で体系が整備されて来たという長い歴史を背景に持っている所があります。

 協和関係に於ても、単純な整数比が隣接し合う音程という所から立脚しているのでありまして、音程比〈1:2〉は絶対完全音程であり、〈2:3〉は完全五度音程であり、以降は〈3:4〉=完全四度、〈4:5〉=純正長三度……という風になっている訳です。自然倍音列における標榜と為すべき各倍音には完全四度や短三度は生じませんが、音程比となると完全四度は低次にも出て来ますし、長六度が短三度の転回音程として〈3:5〉に現われているのであります。


不協和音程への知覚

 このような所に我々が協和音程を聴取するにあたりに、それがあまりにむさ苦しい程に予見が可能である事を背いて正視しない様に音を捉える時、それを協和ではなく、音と音との音程を紡ぐ様にして [tone equal temperament]を生み出す傾向がある事をあらためて痛感させられるのです。
例えば十二等分平均律というのは「不等分」平均律全盛だった時代から更に「熟成」を重ねて来た訳ですが、全ての音程が「等音程」である所が「不協和の極致」とも謂える訳です。

 不協和に対して感覚が熟成されると、その音程幅を等しく積もうとする欲求を生ずるのは、器楽的習熟を高める程に実感する物です。極言すれば7TETと呼ばれる音律はオクターヴを7等分しているが故の事で、既知の12等分律での半音階には収まらない微小音程を伴う音律ではあるものの、その名が示すとおり [7 tone equal temperament]というのは2の7乗根cents equal temperamentである訳です。つまり各音程が等しいという等音程という事です。
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 茲に大変興味深い尚美学園大学の紀要論文を紹介したいと思いますが、これは7等分平均律がドリアンに近似するという論考でありまして、アフリカ民族の持つ音感がジャズのドリアンへの嘯きにも投影し得るという多くの示唆が書かれている物で、ジャズ界隈はこうした側面をも始原的部分を今一度拝戴して従来の和音体系を見直した上でのフィードバックと新たなる挑戦が求められているのではないかと私は思います。

 今となっては時既に遅しという部分も捨てきれないのでありますが、何れにしても、ジャズは体系に溺れた音が横行する様になってしまってからは衰退の道を辿っているのは明らかで、何百年も前の音楽を今猶奏し続けても誹りを受ける事の無い西洋音楽は、やはり凡ゆる音に意味がある訳で、ジャズのそれとて本来なら意味あるインプロヴィゼーションの塊であるのに、それを示す時に臆断と主観に依って塗り固められた言葉で言いくるめられているだけでは発展しようが無いのは至極当然とも謂える訳です。ですから、ジョージ・ラッセルの言葉に酔狂する輩は概して己が無知・無学である、或いは特定の部分に謬見を蔓延らせてしまっているが故に歪曲してしまう物なのであります。

(坪口昌恭尚美学園大学芸術情報学部音楽表現学科尚美学園大学芸術情報学部紀要 6, 71-87, 2004-12-31アフリカ音楽分析 : ジャズのルーツとしてのポリリズムと音律 (音楽表現学科特集号)http://ci.nii.ac.jp/naid/110006667538

 不協和音程に耳が肥えると、その音程関係の重畳に音脈を求める様に知覚が働くというのは先述した通り。約言すれば微かな音の違いに鋭敏になる訳です。我々が調弦したりする時など、その微かな音程の差を容易に知覚する事ができます。

 これは聴覚が正常であれば誰しも備えている感覚であり、これを備えているからこそ不協和な音に対しても鋭敏になる訳です。不協和音程の体得を苦手とするのは単に習熟が浅いだけの事であり、反復を重ねて行く事で不協和音程の体得は身に付く物ですし同様に協和音への知覚に決別するのではなく、協和音に対しても更に鋭敏になるという事を附言しておきましょう。


不協和社会の不思議な対称構造

 ドリアンという音列びは、その音程関係はフィナリスを中心にして上下に対称構造となっています。こうした対称性というのが不協和音程の等音程構造の対称性とも相性が能くなるのか、概して対称的な構造というのは不協和の世界に結び付くものです。

 先の論文も、アフリカ民族の鋭敏な耳が、7等分平均律の等音程への鋭敏な感覚のそれとドリアンの対称構造が夫々近傍値となっている様に捉える事も可能とするのは単なる偶然でもないと謂えるでしょう。何故なら、ドリアンという物は元々は短調がその姿であった訳ですから。

 ジャズ/ポピュラー音楽体系から音楽を学んだ人からすれば、それこそ短調は自然短音階こそが始原的な姿であると信じ込み、その後和声的短音階、旋律的短音階という風に変化したかのように謬見を伴わせますが、今から1000年も昔の時代はドリア調こそが短調であり、短調がまず自然短音階となったのは16世紀になってからです。

 終止はピカルディー終止。これは、「属音」の為の下行導音として六度が短六度であるべし、という風に変化したからが故の事なのですね。主音と属音の関係があらためて判りますが、主音と属音がこれだけ幅を利かせるという事が、「調性感覚の予見」との裏返しでもある訳です。つまり、主音と属音を暈す(=暈滃)所に不協和の世界が拡がるという事の裏返しでもある訳です。
 
 例に挙げた、舊來の世界を熟知するという事がスポイルされていると、ジャズ/ポピュラー界隈しか知らぬ謬見だらけの人間は「自然短音階・和声的短音階・旋律的短音階」の体系そのものには嘘は無い所を振りかざして、自然短音階こそがオーセンティックな姿だと強弁して已まない人が出て来る訳ですね。何の裏打ちも無いのですが短音階の体系自体には嘘は無いので、自然短音階の字義と出自の更に古い体系までは遡らずに強弁してしまう。すると、ここに憶説が入り込んでしまう様になりかねず、ジャズ/ポピュラーに起こり易い謬見というのは、横から容喙しようにもなかなか言い出せない様な地位にまで上り詰めた人の謬見や憶説に対して是正できなかった物が俗説として育ってしまうのも問題を抱えている一つの側面でもあります。

 こうした点をきちんと指摘しようとすると今度は「ジャズなんてえのは禁酒法時代ですらも法に逆らって華やかに成長を遂げた文化なのだからコチラが従順になるなんてぇイケ好かねぇ事してもあかんめぇ」などと居直ってしまって、己の音楽的な無学・浅学ぶりを開き直ってしまう輩も居る。これは単に、ジャズの不道徳な側面を論って己の不道徳ぶりを他者に強要している論理を欠いた姿であるだけの話なのですが、この居直りを「捉える側の好意」に依って「なあなあ」にしておくと、その強弁が事実として成立してしまうので強弁を揮う連中はこれに甘んじてしまう訳です。

 正当な知識を獲得する前に強弁してしまえば自身の「有り体」は一応その場凌ぎであるにせよ確保できる事に等しい訳ですから。但し、こういうのを長く続けていればいる程その時の振る舞いは時が経つ程に「恥」が大きく膨らんでしまい、結局は自身の首を絞める事になりかねないのが関の山でもあるのですけれどもね。概して己の不勉強さを指摘されて居直る連中というのは、それまで体得した体系を口実にして己を咎める事ができない方便として「そんな事云われてもこちとら毎日おマンマ食ってんだよ」などと居直るのですが、音楽よりも己の自尊心可愛さで保身の為の方便として居直るという事にに過ぎない姿に気付いていない訳です。

 ロックというのも体制や政治的な反抗というカウンター・カルチャーから生じている筈なのに、そこに政治的利用されてしまうとすると、金が欲しいアーティストは政治に屈伏する事に等しい訳ですね。聴衆の前では悪態を付いて粗暴に振るまい乍らクライアントやパトロンには媚び諂って四方八方に頭下げている様なロックな連中などどこが格好良いのでありましょうか!?(笑)

 音楽理論の体系を学ぶに際して特にジャズ/ポピュラー方面での体系にて整備されている和音種というのは、整然と体系化されているが故に、体得が難しいタイプの和音でも体系として容易にアクセスする事は可能です。勿論和音の「体得」の前に和音種として知っておくのは単なる「暗記」でしかないのですが、往々にしてジャズで用いられる和音というのは、単純な響きをも「暈滃」して不協和に響かせる事を是とする為、和音の響きの体得を難しくする物です。

 なにせその手の和音の響きというのは理論書や教本を読んだ程度で会得出来る物では到底ありませんし、譜例をふんだんに用意しようともそれを奏でて体得しようとする人すら多くないのが現状なのであります。ただでさえ実際に奏するという事を踏まえる人が少ない所に、ただでさえ響きが重畳しい和音を字面ばかり追ってしまって肝心の和音の体得のできない人が理論書の本文とは乖離する現実に翻弄されて迷妄に陥るからこそ「音楽理論は難しい」と決め込んでしまう人が少なくないのが実際です。

 ジャズ/ポピュラーで体系化されているコード表記のルールというのは、西洋音楽界隈にて事細かく分類されている類の和音種では省略されている物が多かったりもします。とはいえそれらの省かれている和音のタイプはオルタレーションに依って変化した和音ですから、和音の体系として組み入れずに体系が整備されたのが実状なのです。