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複音程の行方 [楽理]

 ジャズは、都度現れる和音の響きに硬さを求める為、その和音がトライアドという状況は非情に少なく、実際には四声体以上の和音を多く取扱います。四声体を超えた五声体となれば、三度堆積構造の和音の場合なら九度音を用いる「九の和音」の到来を待つ事となります。前回私が述べていた、ジャズのコードは基底和音にも硬さを求めるので7度音を附與するというのはそういう意味です。


 但し、基底和音の在り方としてはどんな時にも常にトライアドという物ばかりではありませんが、殆どのケースで基底和音はトライアドの姿であるという理解を前提にしておけば矛盾が生ずる事はないでしょう。少なくともストラヴィンスキーの『春の祭典』を除けば(笑)。


 九の和音が登場する様になったシーンを以前にも語った様に、その五声体は5度音を共有する様にして上と下に別々の和音を見つける事ができます。仮にハ調域に於て「G9 または G7(9)」というコード・ネームを見つけたら、下(=基底和音)にGメジャー・トライアド(=ト・ロ・ニ)と、上にDマイナー・トライアド(=ニ・ヘ・イ)を見つける事ができ、これはG7という「Vの和音」というよりも「II / V」としても看做せる為、和音進行(II - V)が稀釈化した和音の重畳という末の姿であるとも云えます。

 つまり、和音の重畳化に伴い、和音進行が稀釈化する或は分数コード(ポリ・コード化)が顕著になって来る様になったという訳です。


 九の和音が「ツー・ファイヴ」をも拏攫した様に見做すのがバップの醍醐味であったとも謂えるでしょう。これをヒントに、九の和音でなかろうともその和音を「仮想的に」ツー・ファイヴ進行と見做す事で、当初の和音では見做す事のできなかった進行を仮想的に充てる事で、自身が使う音脈をオルタレーションを以てして更に変化を付けていったのがジャズだったというのも以前から語っている通りです。

 だからといってバップ・イディオム(仮想的にツーファイヴに解体)に躍起になっていると、そこに想起される和音進行はどんどん細分化していく事になりますし、そこに詰め込むフレージングもおそらく容易ではなくなります。また、バップ・イディオムに耳が慣れて来ると、その「勾配」の掛った香り付けに陳腐さが伴う様にも感じて来るのです。「またこれかよ!」という、聴き馴れたフレージングの勾配が聴く前から判る様にもなって来るのです。

 「勾配」がかかるという言葉が意味するのは、動的な和音進行感を生ずるという意味です。私の以前の記事にて、マイク・マイニエリがアリスタ・オールスターズの「Rocks」に於てFm9コード一発の状況に於て四度進行を匂わせる部分を語った事がありました。つまり、マイニエリ自身はバップの手法もモードの手法のひとつ投影法も併存していた、という事を爰にあらためて理解されたい訳ですね。


 ジャズ・イディオムをこれから学ぼうとする者からすれば、その陳腐さを感じ取る様になるには相当な経験と月日が必要ですが、バップ・イディオムの持つ「陳腐」な感じはそう遠くない内に経験する事でありましょう。アンサンブル中にコード進行の無い場面でも奏者が「仮想的に」ツーファイヴを想起してフレージングに転がり勾配を付けている部分など、こういう事から理解していくと途端に理解が進む筈です。

 とはいえ、バップ・イディオムすらも手慣れた扱いをする様になったからといって、その陳腐さを誰もが忌避する様になるとは私は決して云っている訳ではないので、その辺は誤解されぬ様お願いします。ポピュラー音楽などまさに「陳腐」ではあるものの、別にその音楽に飽きが生じて来てジャズやクラシックに喜び勇んで飛び込んで来る様な方の方が限りなく少ないのが実際なので、謂わんとする事はお判りかと思います(笑)。つまり、私の言葉尻を掻い摘んで、思弁的にジャズを知った気になってしまい、よもやジャズをも罵る様な愚かな者にはなって欲しくないという意味を込めております。

 少なくともバップに飽きが来る程聴き込む様になる為には、血と汗が滲む様な器楽的な経験を伴ってジャズを奏する事が出来るかのような音楽的な素養を身に付ける位である筈だと言う事でもあるのです。ですからその辺の一般的な人が1日16時間位ジャズを楽理的に聴き込んでいなければ、飽きるという様な事はそうそう無いと思うので御安心を!



 扨て和音進行が稀釈化した世界では、結果的に、和音進行が調性社会で遵守していた「機能和声」的な在り方として縛られる必要はありません。繰り返しますが「和音進行が稀釈化した世界」での事です。

 遵守していれば調性感が必ず強く香りを放つ訳ですから、和音の重畳が結果的に進行感を薄めていき、自身の機能を稀釈化していったのは自業自得でもなんでもありません。硬質な和音の響きの上に「意図しない」和音外音(ここで、モード・チェンジも示唆する)が奏される。これがジャズの最たる物だった訳です。


 「調性感が必ず強く香りを放つ」という事の実感を、どういう風に感じれば良いのか!?と悩む人もいるかもしれません。曲は全く違いますが『君が代』に和声を付けてみて下さい。エッケルトでもユニゾンで逃げた部分に貴方はどのように和声を付けるでしょうか!?恐らくそこに「どストライク」な和音を、仮にそれが四声体であっても既知の機能的な和声を附するのはあまりに「ベタ」に感じてしまい、附与する和音そのものを「硬い」和音、つまり五声体以上の九の和音やらを選択してしまいがちなほどに和音を塗り潰そうとしたりするだろうかと思います。

 つまり、重畳しい和音をそこに落とした時、仮にその九の和音を配したとしたら、その九の和音は「1・3・5度」と「5・7・9度」という和音構成音から成る和音同士で進行を生んだ響きとして聴こえるでしょうか!?絶対にそんな風には聞こえません。つまり、基底和音を探れないほど「稀釈化」しようとするから、オーセンティックな和音ではベタすぎるのです。つまり、日本的な旋律は常に、気候的な表現で表せば、「お天気雨」「曇りの日の地面の陰」こうした、具有性を伴っているが故に「ここはドミナント!」「ここはトニック!」という響きにならない事を日本人は器楽的な心得などなくとも体得してしまうのは言語に特性があるからだと私は思っています。


 扨て、『君が代』は、その主旋律こそが真のオーセンティックな姿でありまして、これこそが「旋法的」な姿です。

 『君が代』に和声感を映じようとすると、単一の調性感ではどうもベタすぎる(エッケルトですらそれを実感したであろう)。これを実感する事が、分数コードやポリ・コードと同じ様な状況だと思えば良いのです。オカズを食べた時に白飯も欲しくなる感覚、それがポリ・コード的と思って欲しいのです。ベッタベタな調性感のある西洋音楽は出されるのは「一品」だと思えばいいでしょう(その西洋音楽とて一品ではなくなりますが)。


 ジャズと君が代にどんな関係があるのか!?と思う人もいるかもしれませんが、その後ジャズが体現するモード・ジャズにおいて、和音進行に束縛されてしまう事からの忌避と、「モーダル」な響きの獲得。部分部分がどうしても調的勾配を付けてしまうバップ・イディオムが「ベタ」とされてしまう壁をジャズは知る事になるんですね。ただし、ジャズは総じてモードである可し!とは言いませんよ(笑)。然し乍ら、日本語ウィキペディアのモード・ジャズのそれは非常に胡散臭いもので、モード・ジャズをリディアン・クロマティック・コンセプトのジョージ・ラッセルの名を出して語っている点は詭弁を弄するにも程がありますな。こういう風にいけしゃあしゃあと詭弁を弄したり、ジャズ・イディオムすら判ってもいない癖してアマゾンの読者レビューで毒づいたりする馬鹿が後を絶たない現今社会が実に嘆かわしい所であります。この手の愚かなレビューに同等の似非ジャズ屋、Twitter上にも実に多いんですわ。何故でしょうね!?。彼等から楽理的な部分、何を学ぶ事が出来たでありましょうか。

 音楽の陳腐化が似非な人間を生む事は往々にしてあります。但しそれは小学生にまでジャズ・イディオムが浸透して小学生にまでジャズ的なフレーズが陳腐化してしまっているという事では決してありません。ジャズどころか普く存在する多くの音楽ですら正当に人々に浸透していないのが現実でありますが、大抵の一般的な音楽への理解など皮相的理解にとどまっているものでして、その後に続くのが、多少なりとも器楽的な心得があって皮相的な理解だけで皮相的な楽理的側面を語る事ができてしまう土壌に生きる者。特に、この多少器楽的な心得が有り乍ら楽理的な面で皮相的理解に留まっている連中が一番厄介であるのも確かです。こうした人々が妨げにしてしまっているのです。

 それは、楽理的な理解が皮相的であるため、教える側の主観を強く主張するのが彼等の最たる特徴だからです。その主観が誤解に基づいてしまうから厄介なのです。

 通学サボりながら有名大学入学!とか、ヘタしたら、最終手段は袖の下です、なんて教える様な人達である、という事をも意味しているのですね。判るかな、この喩え(笑)。学び取れれば何でもアリですかね!?学んでない人から学ぶので、永遠にお供し続けていないと朝令暮改に付いていけなくなる筈なのですが(笑)。

 和音の響きを体得するというのは一朝一夕では無理です。長七の音を「汚い」と思う様な人がその時点で九の和音やましてや11・13の和音やらオルタード・テンションやら体得できる訳がありません。しかし、それほど熟達に甘い人でも教わり方ひとつで和音の体得というのはスムーズに出来る物なのです。それが出来ない人は身近にそのような人に遭遇しておらず、音楽の聴き方も未熟であるからなのです。


 とはいえいくら音楽の聴き方に熟達していようとも、和音の響きとやらも是亦陳腐化させる物です。

 何と云っても殆どのケースでは基底和音を阻碍する事のない3度堆積型の和音を我々は有難く使って来た訳ですから。

 和音の種類は、初めて覚える方からすれば数多く映るかもしれませんが、実際にはその種類は少ないのです。和音の響きこそが曲を決定付けてしまう事も珍しくはないので、曲がオリジナルな楽想を強めていくには、和音同士の連結によって生ずる組み合わせでの「衒い」が印象づけの為の重要な道筋になる事も必然と言えるでしょう。


 そういう訳で、ジャズで用いる和音が重畳しくなった事により和声進行の「強い勾配」は稀釈化して調性感が稀薄になり、そこに生じる世界観では機能和声的な意味合いでは「非機能的」に近しくなります。

 但し「非機能的」な土地へ邁進しているのに、バップ・イディオムはまだみぬ「非機能的」土地に行くまで、その「動的」な進行を以てして和音を細分化していた、と考えると容易にビ・バップを見抜く事が可能です。


 たとえば、次の例の「Gドミナント・トータル」とした物は、G音を基底音として属七を包含させつつ、各3度堆積させた構成音は本位音度(9・11・13度)を付与し、それを15度音まで積み上げた物です。ここに生じている属和音の現今社会に於て最も不可思議な点は、本位11度音の存在である筈です。
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 その本位11度(=C音)は、基底和音G dur (=G△)を阻碍する音なので、ジャズでは総じて属七上の本位11度音はオルタレーションさせますが、転がり勾配が必要ではない時の和音表記として必要な時にはG7(11)とかF△/G△とか、このような表記を充てる事も比較的稀ではありますが特にレアなケースという訳でもありません。重要なのは、オルタレーションの#11thは転がり勾配の為でもあり、基底和音の響きを壊さない為の変化であるという理解です。


 つまり、基底和音の体を阻害させたなくないがあまりにドミナント7thコード上で生ずる11th音をオルタレーションさせるという事は次の様になる、という事です。つまりG7(9、#11、13)という構成音になります。これは、基底和音に配慮したからが故の事で、動的進行を考慮した物でもあるからですね。
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 扨て、此処で前回例に挙げたex.1つまり、長・短双方の調性による主要和音群の図を確認することにしながら、このG7(9、#11、13)を見て行く事にしましょう。属和音に対して13度音が割り振られているという事は、その時点で「総和音」を意味します。つまり、その総和音は「或るヘプタトニックの音組織」を示唆している事の裏返しでもあるのです。つまり、「G7(9、#11、13)」という構成音は、某かのヘプタトニックの音組織な訳です。つまり、Dメロディック・マイナーとも見れば良い訳です。
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 然し乍ら、ドミナント7thコード上にて#11th音が生じていようとも、そこに必ず9&13度音が本位音度であるばかりではなく、9&13度音もオルタレーションしている事が多いのがオルタード・テンションの実際でありましょう。それはなぜか!?

 9度と13度音のオルタレーションの世界は「短音程」からの抜萃です。つまり同主調短調組織からの拝借から得られる音脈なので、9度と13度音がオルタレーションしている方が調性感としてはスムーズに溶け込む社会なのです。ですから#11th音が有り乍ら9&13度音が本位音度である世界はメロディック・マイナーという少々難儀する世界観である為、多数の耳の熟達度が避けかねない音脈であるのも亦事実なのです。

 G7(9、#11、13)という和音一発の状況があるとしましょう。ここでA7→D△7→G7と「ツーファイヴ解体」して進行させればこれも立派なバップ・イディオムである筈なのに、このケースだと G7を着地点として響かせるのは、通常の世界観での中心音の振る舞いを取扱って来た人には難儀する語法となるのです。ですからA7ではe音を抜き、D△7上ではa音を抜き、G7上ではd音という各和音上で5th音をオミットすると、メロディック・マイナー・モード組織では情緒を得られ易くなる、と数年前から言っていた事なのであります。


 G7(9、#11、13)という和音は、その基底和音の響きを阻害させない為の配慮だったのに、バップ・イディオムでもって転がり勾配を付けようとすると途端に難儀する。それはなぜか!?

 バップ・イディオムというのは既定の和音から更に拡張的なフレーズを演出するために和音を細分化した想起をして、着地点に巧く着地する為に、その着地までの過程は「動的進行」を利用するのに、その動的進行を最大限利用しようとしている所に、最も中性的で静的ともいえるメロディック・マイナー・モードという音組織が入ってくると、動的な所から静的な進行をしようと矛盾してしまう訳で使いづらいのは当然なのです。ですからチャーリー・パーカーはメロディック・マイナーを使う事より本位11度つまりsus4を充てるという事を利用した訳です。

 此処で重要なのはG7というドミナント7thコードは本来ならばCに解決する為の和音ですが、本位11度音=sus4を容認するという事は、和音のそれはCへの先取りを包み込んでいる為の響きとなります。その和音は先取りしてしまうので「小火ける」でしょうが、そこに進行として和音を調的社会の範囲内で細分化して弾みをつけるのであります。これがチャーリー・パーカーであるという事を濱瀬元彦は自著『チャーリー・パーカーの技法』にて、更に判り易く且つ詳悉に述べている訳であります。


 次の例では、Gドミナント・トータルがどういう「動的進行の勾配」を生むのかお判りになる事でしょう。
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 つまり、このGドミナント・トータルは、基底和音の体の為に本位11度をオルタレーションさせない為の「オーセンティック」な姿です。ここでオーセンティックである事の必要性は、この音組織の中で「和音進行」という動的勾配を作る為の手段だからです。

 この図版に示しているように、Gドミナント・トータルはその和音構成音に対して垂直に、VI・II・Vの和音を包含しています。つまりこれだけでAm7→Dm7→G7と進行させるという風に「解体」することも可能ですし、総和音という状態をバップ・フレーズで「Am7→Dm7→G7」として活用する事もできますよ、という事を説いている訳です。

 元はGドミナント・トータルは決して進行していた訳ではないのは明白です。つまり、1〜15度音内ではこうした「四度進行」が見える訳です。Gを1とするなら「2→5→1」という進行が見え、G7という和音が単なるハ長調からの属和音という風にしてGを「V」と見れば、「6→2→5」が透けて見える訳です。

 これらを踏まえると、各四度進行間は和音の5度音を持ち合って勾配を付け合っているのです。判り易く言えばGドミナント・トータルはパンを作る前のパン生地。そのパン生地がひとまとまとまりになった所から小さくちぎったものが「和音」。和音を幾つかちぎると、このように四度進行を生み、四度進行間での各5度音が鎖を付け合っているという組織だという事がお判りになればいいのです。この「5度の鎖」が音組織=調的な香りづけの為の情緒を生む源なのです。

 こうした前提があれば、Gドミナント・トータルが包含しているAm7の5度音を「鎖」にして上方に「Em7」を想起する事も可能な訳です。こうした四度進行は「動的」な進行であり、その動的に調性社会を転がる様にして展開される様を「転がり勾配」と呼んでいる訳であります。


 Gドミナント・トータルの11th音がオルタレーション=#11th化されると、メロディック・マイナー音組織になってしまうんですね。メロディック・マイナーの組織が中性的ですから、四度進行間の五度の鎖が却ってその中性的社会では足枷になるんです。ですからメロディック・マイナー・モードを匂わす社会ではそれを稀釈化させないと、既知の体系に飲み込まれ易い情緒になってしまうのに、愚かな人達は単に「G7(9、#11、13)」という和音としてしか捉えていない様では、バップもモードも全く体現できない事を露呈してしまっているんですね。


 こういう事を全く理解できていない人が近視眼的にアマゾンのレビューで酷評していたり、Twitter上で詭弁を弄していたりする訳です。私に喧嘩ふっかけてきた様な連中の呟きだけでもどれほど朝令暮改を表しているか追って見るだけでも面白いかと思いますが、そんな連中から音楽的に得られる事は何も無いのは確実であるのは言う迄もありません。