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To Be Announced ジェントル・ジャイアントのライヴ盤『Live at the Bicentennial』 [アルバム紹介]

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 扨々、GG公式サイトに依れば、ジェントル・ジャイアントの新たなライヴ盤として『Live at the Bicentennial 1776─1976』(=200年祭)というタイトルで2014年11月にリリース予定との事で、是亦ファンとしては非常に興味深いアルバムとなりそうなので注目する事に。


 アルバム・ジャケットはGGのメイン・キャラクターであるものの、F・J・ハイドンを模したものであるというのは推察に容易いモノでありまして、なるほど、1776年という年はどんなメモリアル・イヤーだったか!?という事を探ってみても、著名な大家の生年や没年でもありませんし、ある意味では1976年という年こそがGGの節目であった年であり、そこから2世紀前を遡った時代からの影響も間違い無くRAM卒のケリー・ミネアーは受けているであろう、そんな所に引っ掛けたタイトルなのかもしれないと私は推察するのであります。

 ケリー・ミネアーが対位法を得意としているのは今更言う迄もありませんが、GGの曲なども西洋音楽的な側面から能々聴いてみると、フガート形式やら弦楽三重奏・弦楽四重奏などからのアプローチに依ってロックに昇華させているというのは推察に容易い所でありましょう。


 対位法という、調性を逸脱していく様式とやらをざっくり語れば、ある形式に則った物を厳格にフーガという事もあれば、単に対位法的手法のそれをフーガと呼んだりする事もあります。過去に私は後者の意味合いでGGの曲のひとつである「Design」をそうして語っていましたが、あくまでも対位法的手法の意味で捉えた意味合いでフーガという風に呼んだ事もありましたが、例えばアルバム『Free Hand』収録の対位法的アプローチの名曲のひとつ「Talybont」は、フーガを小ぢんまりとさせた様な小曲ですが、一般的にこうした対位法を用いた小曲は「フガート」形式と呼ばれたりもします。

 とはいえ、プログレ界隈に西洋音楽好きな方は居ても、ロックにスタンスの重きを置いた方が大多数だと思われるので、私が敢えて西洋音楽界隈の事を当てつけがましく述べようとするのは避けたいとは思うのですが、西洋音楽史方面に全く無智であるという事も実は避けて欲しいと思う事も少なからずあるため、今回はざっくりと西洋音楽方面のネタを絡めて語っていこうかな、と思います。先のGGのアルバム『Live at the Bicentennial』というタイトルからどういう事を読み取るか!?という事を踏まえて。


 取り敢えずはハイドンを中心にざっくりと語ってみようとは思いますが、GGのアルバムタイトルに附与する1776年という時期に配慮した時代背景を語るとなると音楽史的にはウイーン古典楽派というハイドン、W・A・モーツァルト、ベートーヴェンの名を挙げない訳にはいかないでしょう。勿論C・P・E・バッハの影響を大いに受けた上でという点を加味しなくてはなりません。因みにC・P・E・バッハはソナタ形式を確立した人でもあります(それ以前にもソナタ形式はありましたが)。そうした厳格なる様式美の背景が在った社会に於いて厳格に自身の糧としつつ、1780年代付近は初期の古典主義時代でもあり、1810年頃が古典主義の最盛期という風になる訳です。

 そんなハイドンを取り上げるに際して特徴めいた部分を語るとすれば、パトロンにエステルハージ公を持ち、同時に数十年もエステルハージ宮廷楽団をハイドン自身が自由に使える事であったという所でありましょう。作曲家が楽団を持つという異例とも言えるこうした恵まれた状況にあったというのは非常に稀であり瞠目すべき例でもあります。

 作曲家の収入源としては楽譜を売るという事も一つの手段であり、自筆譜もあれば、本人監修など無い楽譜も存在していた18世紀という時代に於いて最も多くの楽譜を出版したのがハイドンであるという所は知っておかなくてはならない史実にある一つの側面であると云えるでしょう。およそ600曲の作品が100数十社の出版者から刊行されていたという事も驚きです。ハイドンはパリで楽譜を出版(シュヴァルディエール)したのが最初だったと謂われこの時にハイドン作品に於いて有名な「ホーボーケン番号」(="Hob."と略記される)が「1番」として付く訳ですが、この楽譜に「第5・6番」として刷られているのは実はハイドンの物ではなくC・J・トエスキの作品であるというのも興味深いものです。

 当時の出版社にはこうした事など珍しくなく、その所為で時を隔てて歴史検証の調査を悩ませる事などもある訳ですが、作品番号というのは実は出版者の都合で附与されているに過ぎないという事が判ります。とはいえハイドンも作品番号と併記した標題を付与した作品もありますが、これについては少しだけ後述することに。

 まあ、18世紀の楽譜刊行というのは印刷楽譜とはいえ活字は数千部を刷る事もままならぬ程の耐久性で、カリグラフィの技術の高い書写譜の重宝されていたのも事実。出版者の書写担当者が楽譜を作製する事に依って場合に依っては書写の意図が反影されて海賊版が生まれてしまうという事例も珍しくない時代でもあった訳ですね。


 そういう事例をGGに置き換えて鑑みると、GGというバンドもオフィシャル・リリースはさほど多くないにも拘らず、希代のライヴの名演がオフィシャル・リリースよりも遥かに多い数で海賊版などが発売されておりました。こうした状況を、二世紀以上前の西洋音楽界隈の楽譜出版やらに置き換えているという訳でありましょう。なにせ『チェロ協奏曲ハ長調』というハイドンの作品は20世紀半ばも過ぎた1961年に発見されるのであります。1976年から僅か15年前の時にハイドンの作品が2世紀程を隔てて発見されるのでありますね。

 ロックの創世と共に歩んだプログレシッヴ・ロック界は、西洋音楽を打破しようとするのではなく好意的に捉えているのが顕著であるというスタイルなのでして、ロックの変遷とは異なる西洋音楽との結び付きには決して無視してはいけない部分を備えているのがプログレ界隈の深部であるとも云えるのでありまして、私はどうしてもハイドン界隈の事を語らずにはおれなかった、という訳です(笑)。

 なぜハイドンなのか!?それはハイドンが1790年代にロンドンに渡る事に端を発する訳でして、英国とは非常に密接な結びつきがあるからです。オックスフォード大から名誉博士号の称号を授与された事もある程で、その祝賀演奏会にて「交響曲作品第92番ト長調」を選んで演奏してから「オックスフォード交響曲」と標題が付けられる様になったというのも有名な話の一つです。

 アルタリア社やらブライトコプフ・ウント・ヘルテル社やら、楽譜出版社と契約をして楽譜を刊行していたハイドンではありますが、ヨーロッパ各国の出版社を転々とする理由には、楽譜の品質やら自筆譜も含む報酬など色んな要因があるといえるでしょう(1768年には自宅が火事で焼かれ、多くの楽譜が消失したとも謂れる)。印刷楽譜の品質は特に各国各地域に於いてバラバラだった事もあり、こうした作品流布に於ける苦悩とやらが、GGの作品流布とやらにも同様に私は投影してしまう訳であります。


 扨て、GGの活動期に於ける1975─76年というのは、オフィシャル・ライヴ・アルバム『Playing The Fool』にもある通り、非常に活発に欧米諸国を歴訪していた時でして、録音機の一般的普及も相俟ってブートレグ(海賊盤)も爆発的に増える時期と重なる時期であります。

 GGの先の『Live at the Bicentennial 1776-1976』のアルバムは、公式サイトのレスリー・ミネアー(アルバム『Three Friends』収録「Schooldays」にてバック・コーラスで参加して居られるミネアー夫人)の談がありますが、つまり嘗てはブートレグ音源を経てオフィシャル・リリースされていた『Interview in Concert』の音源とは別のラジオ放送局からのマスター・テープからマスタリングされている様なのであります。

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 『Interview in Concert』で注目すべき点は「Interview」のライヴ用エンディングの部分がかなりキマっていたり、アルバム「Interview」からの物が多い乍らも実に拘った選曲となっているのが興味深い点です。尚、曲目ではExcerpts from Octopus内での一連のアコースティック・ギターに依るメドレー中に「Dog's Life」という非常に珍しい記載があるものの、未だに私は「Dog's Life」のどの部分を断片的に使用しているのかが判らないのが残念なのであります(笑)。
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 そんな訳で今回は、GGの1975-76年の活動期を正確に伝えたいという気持ちもあって、レコード盤の『Playing The Fool』を原寸大でスキャンした画像を用意しました。これにて彼等の活動が能く判るかと思います。CDだと認識しづらいんですよね、コレは。
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 という訳で、ハイドンの時代の楽譜出版・作品流布に伴う苦悩などが、GGのアルバムの流布、加えてケリー・ミネアーの音楽的背景やハイドンと英国との関係などが容易に推察に及ぶ事を、プログレに耽溺する者は看過してはならない西洋音楽史を挙げてみた訳でした。