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音に苦しみ、そしてAt Ease! (no parade rest) [楽理]

 ひとたび器楽的習熟能力(演奏方面の)を高めようとすると、物事を何も知らない子供が少々難儀する物事を教わっている時のにも置換出来る様な苦難を味わうモノであります。耳に届く、磊落に嗜む事の出来る様な音を器楽的に未熟な者が楽器を奏でようとも快楽に値する音を奏でるにはほど遠く、そうした音を追究していると「音楽とは《音が苦》なのか!?」と思い改める必要があるのではないかという位苦労を伴い乍ら技術を習得し、演奏という方面の腕を鍛えつつ耳も軈て磨かれる様になるのでありますが、聴覚や器楽的な音の「配列」というのは一定の情報の仕来りに於いては何らかの情報が有るとばかりに脳神経は「食いついて」くれるものです。


 MIDI。つい先日はローランド創業者の梯氏が旧シーケンシャル・サーキットのデイヴ・スミス氏と共にアカデミー賞を受賞したのは記憶に新しい所ですが、そのMIDIメッセージの「発音」という僅かなメッセージ「ひとつ」を見ても、メッセージ的には「ひとつ」ではなく最小単位は少なくとも3バイトという情報がワンセットとなっているモノでもありまして、実は我々の音の聴き方というモノも、脳神経の側からしてみたら成る可く少ない労力で済む音を選別してメッセージの差異を選別して操っているワケでありますね。大雑把に言えば「音階」という風にオクターヴをザックリ割っているのも、脳にしてみたら知覚が楽でもありまして、協和音程は倍音列に現れる低次な倍音が長三和音の組成と同様なので耳にも脳にも楽に聴く事のできる「音」なワケでして、少ない労力で音を知覚するという行動の現実です。

 ただ、音に対して能力が集積されている人は、こうした楽ばかりを好むばかりでなく、脳神経が集積された世界での「快楽」があるワケで、スポーツを好む人が肉体の疲労と引き換えに肉体の鍛錬を志向するのと同様に、楽音に於いても一般的な人達からすれば疲弊してしまいそうな音にも何らかの脈絡と快楽を追究する様になるワケですな。

 「よくもまあマラソンなんて走れるよなー」と思う様な事も音への知覚として置き換えると、こういう風にも喩える事が可能なのであります。意地悪な言い方をすれば、協和音程ばかりにいつまでもぶら下がったラクな聴き方をしている輩に耳や脳が集積されるワケが無いとも言えます(笑)。運動もしない奴が健康で居られるワケが無い、と言われている様な物です(笑)。


 数ヶ月前にツイッターのTL上に某音楽系サイトのつい注目してしまったリツイートが飛んで来たのでありますが、それが確率論で作曲させるという、12平均律という音群と符割を確率として作曲してしまおうとする唾棄すべき類の物(笑)。

 この手の「狙い」というのは、音の数は決まりきった空間(可聴周波数帯域も含めて)なので、そうした狭い空間の中でのやり取りは「飽和」を招くだけに過ぎず、世に出ている曲らもそうした確率から生じた一部の例に過ぎない、という愚かな見立てですね(笑)。

 計算そのものは間違ってはいないけれども、音楽というのは少なくともセリーを作ろうとしているのでなければ完全五度の共鳴に群がるのでありまして、ここの群という物に収斂する様にして音が群がるんですね。完全五度を純正律のまま11回繰り返して戻った時にはシントニック・コンマを得てしまいますが、それすら突き抜けて31オクターヴ進んじゃうとシントニック・コンマも打ち消してしまうというジレンマも(笑)。ましてや12音は使い果たしているのだから半音階は得ているのに、これらの何処に調的な偏重というパラメータを与えて作曲しようとしているのだろうか!?というそもそもパラメータの与え方というのが義務教育の数学レベルに収まってしまうのが実に勿体無い始末なんですねー。

 ホワイト・ノイズから20~20000Hzを抜粋して、その中から少なくとも64次程までの整数次の倍音のみを抽出してくる回数と、完全五度音程がほどよく6回の重畳で抜粋される確率を12種類選別し乍ら主音と下属音と属音の行き交いとそれらに群がる上音の行き交いを全てパラメータとして与えない限りは先ずは自動作曲レベルという風に呼ぶにはほど遠いですし、そもそもホワイトノイズをどのように量子化すればイイのか!?という所に行き着いてしまいますから、少なくとも1プランクタイム長迄机上の理論として算出しなくてはいけなくなると思うのですな(笑)。まあ乗ずる数が40を超えれば31オクターヴという果てしない数すらも近しく思えてしまうモノですが、以前にも少し語っているように、ペンタトニック(=五音音階)で作られている希代の名曲というのは数多いのに、たった5音という確率論上での音すらも抜粋して来れない自動作曲の馬鹿げた論法にいちいち付き合ってられるか!というのが私の率直な感想でして、ペンタトニックすらも抜粋して来れぬ自動作曲とやらの何処に壮大な魅力があるのかと勘違いも甚だしいワケであります(笑)。


 私とて、自身が何処かに備えてしまっている調的な牽引力に頼らずにフレーズを導き出そうと中立的な思いから、それこそセリーを学んだり、前後の脈絡(フレーズ)のレトログレイド(鏡像)やら数声部に重ねた音群に整数を与えて、それらがいくつかの一塊で魔方陣を形成するようにし乍ら時間軸とは無関係な方向にも等しくなる様に音を配置させたりするという研究をした事もありましたが、オクターヴも無視しているというのがこの手のナンチャッテ自動作曲のパラメータの与え方の酷い所でありまして、同じ音であろうとオクターヴの上下で調的な情緒が加わる事はいくらでもあるのです。


 日本語の「音形」として美しい様というのは「五七五」調に表れる様に、こうした「音形」に対して階名がどのように割り振られるか!?という所に着目するだけでも音楽は面白くなるのですが、例えば「五七五」の「五」に対してペンタトニックの各音を1音ずつ当て嵌めたとして(C、D、E、G、Aと上行形で弾いてみる)それをまず一組として作った後に、今度は先の1組目と全く同一の音なのですが、最後の5つ目の音だけがオクターヴ下にして弾くと、次に繋がる脈絡が見えて来ます(この時点では《次》はまだ出現しておらず漠然としているものの、《次》への暗喩が間違い無く生じます)。


 こうしたオクターヴ違いだけでも曲想というのはとても変わりゆくのに、確率論から見たら先の5音はオクターヴ上げ下げ関係無しに同等に扱ってしまうという馬鹿げた行為になってしっているというワケですね。数の魅力や音の限られた空間を知りもしねえクセして知ったつもりで扱ってんじゃねえ!とばかりに唾棄したくなってしまっていたのが先の某音楽サイトで繰り広げられていた馬鹿げた理論なんですよ。

 考えても見て下さい。今はサンプリング用のメモリすら安価なので50音どころか半濁音や濁音やら全ての日本語を発音出来る様に人の声をサンプリングさせても充分なほどメモリ空間は与えられております。ところが言葉のイントネーションの与え方はまだまだ難しいので、そうした音高方面の上げ下げは無視して単純に50音をランダムに喋らせるように喋らせた所で、最愛のパートナーの言葉を凌駕するプロポーズの言葉やらを発してくれる確率とやらは果たしてどんなモンでしょうかね!?と逆に言ってやりたいモノなんですな。


 つまり、言葉も音楽も限られた数でしかないのにそれを組み合わせて何故心奪われる様な作品や言葉に遭遇するのだろうか!?という事への魅力に第一に気付かなくてはならず、プロポーズのメッセージにしたって、言葉の在り方とやらを愛しているワケではなく、その人本人を愛しているが故の事なのですが、愛した人から「気の利いた」言葉あれば、それが無いよりかは更に嬉しいからであり、結局は欲望が齎すモノなんですね。どれだけ侮蔑された言葉を言われても貴方を愛しています!という自虐的な方はとても稀有な存在でありましょう(笑)。でも、言葉が最終形ではないのは事実です。弁が立つ者からすればそれを耳に慣れてしまうパートナーも居る物で、言う前に気付いてくれる事がそれが無いよりも嬉しい事だからそちらを好むようになり、さらにそこにプレゼントまで付いて来たら倍満クラス。夜の営みも飽きが来ないとなれば数え役満クラスでしょうな(笑)。此処迄せっせと気が利く男、おそらくどこかの風俗嬢に肩入れした何処かの世間知らずな男位なモノでしょう(笑)。

 人間そのものを見抜いて愛したり憎んだりするのであれば、その眼力だけで言葉は要らずに人々を見抜こうとするのが最終形態であっていいのでしょうか?そこで見抜いた末の人を本当の愛と呼んで良いとは到底思えません(笑)。つまり、音楽もそれと同様なんですね。「音高」そのものは幾多の音楽ジャンルであろうと同じ所使っているワケですから、配信音楽の最終形態は楽譜でイイのか!?というとそれは有り得ないと思うんですな(笑)。読譜のみで楽曲をイメージできる人の方が少数なのですからそれが普及するとは思えないですし、仮にそれで或る程度満足できたとしても、「このパートは○○が弾いたらイイだろうなー」とか色んなイメージが膨らむモノで、結果的に楽譜が最終形態には成り得ないワケです。


 熟考された言葉は思慮深く気の利いた言葉と形容できる事もあるでしょう。しかし当てずっぽうに50音から選別して来た語句の並びがそれらを上回るほど心に響く言葉に変わる確率というのは相当低いと思うワケですなー。そこまで容易く言葉が生み出されるなら皆考えるのやめちゃいますって!(笑)。


 つまり、音楽にも同様の事が言えるワケで、いくら産業が衰退しているからと言ってそれは制作側の人間がなかなか恩恵を受けずに、制作とは別の音楽産業に携わる事で利益を上げていた所が衰退しているというハナシでありまして、そんな側面ばかりをクローズアップして落ち目の音楽という風に烙印を付けて制作側も一様にダメ出しをしてしまう様な判断は早計であります。音楽産業に携わる事で飯を食うサラリーマンの方々よりもひもじい生活を強いられている音楽家は少なくはないと思うのでありますが、まともな広告はおろかネットやSNSツールですらもまともに宣伝やらレコメンデーションの活用ができていないレコード会社の各社が繰り広げるライナーノーツや宣伝そのものにどれほどの説得力が有ろう事か!?という事がリスナー側にも見透かされてしまっている事が音楽を更に卑下されてしまっている最大の原因でありましょう。嘘っぽく似非っぽい宣伝とやらに辟易しているから素人の口コミの方が信憑性が高くなるという矛盾の牽引力が、何の罪も無い良質の音楽の方の足すら引っ張ってしまっている悪循環なんですね。


 ヘタな鉄砲数撃ちゃ当たるというプロモーションをしてきたのはまさにランダムに生成される言葉と音楽に相応しかったのではないかと思えるのですが、ランダムに生成しようとも「余計な」パラメータを与えてしまうためか難しい事まで視野に入れてしまってペンタトニックの情緒すらやり過ごしてしまい、ペンタトニックの情緒すらまともに生成できないのが現実。策に溺れてしまっているのは否めないでしょう。

 音楽を皮相的にしか捉えていない層が、楽音という物を容易く確率に依って弾き出される物だと捉えてしまうのは情報過多と音楽的にはそれほど大差のない酷似するようなメロディや音形を何となく見出している事に端を発しているかもしれません(笑)。ただ、そうした近視眼的発想に態々防遏する為に難しく武装化してしまう必要も無く(笑)、近視眼的な考えの連中は聴き手ばかりではなく提供の側にも存在するので、彼奴等の音楽の姿勢そのものがそもそも問われなくてはいけないのでありますが、自分自身を態々批判の対象にする様な事はしない為悪態をついて本質から逃げている事実を、我々は今このように不思議なシーンが投影されている事実を目の当たりにしているのでありますね。



 ところでペンタトニックという五音音階は、バルトークに依る研究に加えその後のチェレプニンの研究にも言われている事なのですが、ペンタトニックそのものというのは「あれほど」情緒深い音並びであるにも関わらず、「調性」という物はペンタトニックは有していないというのがペンタトニック対しての結論なのですね。すなわち、ペンタトニックという5つの音で成立している楽曲というのは大抵調号も与えられて、調性を確定すべく背景の和音を与えられて初めて調性を獲得しているのでありますが、音並びの単体そのものに情緒深さはあっても調性は確定していないという所が何とも興味深いではありませんか。言い換えるならモード・チェンジするかのように近似的なペンタトニックを使い分ける事に依って、色んな調性をハシゴするかのように進んで行く事も可能とも言えるのです。

 クラシック音楽を例にするならば、嘗ては30年以上前のホンダのプレリュード(リトラクタブル・ライトのやつね)のテレビCMラヴェルのボレロという曲に於いては、あらためてそれがモード・チェンジを繰り広げるという最たる作品として認識できるワケでありますが、ペンタトニックの場合は音並びももっとシンプルなワケですから、「近似的」な音並びを利用し乍ら、他に「化ける」という事も可能としているワケですな。勿論、単声部だけならこうした自由は利きますが、実際には主旋律プラス背景にあるコードが追従して、初めて近似的な別の世界に化ける事なのでこの辺りは少々厄介かもしれませんが、以前にも語った様に渡辺香津美のアルバム「Mobo」収録の「All Beets Are Coming」でのギター・ソロの「近似的な」世界へ移ろわせるペンタトニックの使い分けはとても参考になる事でありましょう。



 そもそもペンタトニックというのは、或る調的な世界から当てずっぽうに5音を抜粋して来たものを総じてペンタトニックと呼ぶのではなく、完全五度音程が4回累乗した体に収まる物として体系化できるモノでして、それら通常はペンタトニック・スケール組成として、その完全五度累積に倣った体系として共通する主音「5種類」に体系化されるワケで、それをチェレプニンが語っている事なのであります。それら5種類に分類されたペンタトニックの共通点というのは、何度も言う様ですが同じ主音を持つペンタトニックは5種類存在して、それらの各音階を構成する音列は全て完全五度累乗型として組成されている事という意味ですね。


 というワケで、C音を根音とする5種類のペンタトニックは次の通りになるというワケですね。
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 それぞれの5つの音形は五度圏の抜粋の様に五度圏の120°に収まる完全五度を累積させた形に収まるワケです。そして、これら5つのペンタトニックの音形全てを合成した物がチェレプニン・スケールへの近似的な素材として用いられるモノでありまして(完全五度累乗型の5種類のペンタトニックを合成した時点では未だチェレプニン音階ではない)、それは以前にも語った事でありますが、良い機会なのでこの際詳しく語る事にします。
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 いずれは先のペンタトニックの合成はチェレプニンの足掛かりとなるのですが、それ以前に重要な事はチェレプニン音階が構成される以前に、先のペンタトニックの合成は増三和音の体を「芯」としてオクターヴ内に据わって存在するのですが、この増三和音の各構成音の半音上下に音が引き連れて来られた物がチェレプニン音階の姿である、というのもかなり以前に述べた事ですが、コレはとても重要な知識なのであらためて強調しておくこととします。

 
 ここで図が必要となるのでfig.1を確認していただくと、この「五度圏」の8時の位置に相当するA♭から時計回りに4時方向までのEまでの「範囲」が、完全五度累積で生じているペンタトニックを5種類配置して行って合成したチェレプニンへの素材となる音列を生みまして、その音列は本来なら先述の様に8時から4時迄を時計回りに一様に分布するワケですが、チェレプニン音階というのは五度圏の図で言う所の10時の2時の位置に相当するB♭とDが、それぞれ5時と7時のC#とBに置換される事で本来の体のチェレプニン・スケールを生むワケです。
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 それについては濱瀬元彦著のブルーノートと調性にも詳しいのでありますが、形式的にはD音がB音に置換され、B♭音がC#音へそれぞれ短三度シフトする様に置換されているのですが、見方を返れば先の図から確認すれば対峙するかのように見立てるとBb音はB音へ、D音はC#音へ半音ずつ犇めき合う様に収斂するかの様に置換されているのであります。

 それを濱瀬氏の解説やらをも踏まえてあらためてfig.2を見乍ら説明すると、当初の8時~4時の完全五度累積の体から得られる近シンメトリカル構造とも言える対称形の「断片」というのは、薄いピンクで表した音程範囲での短三度+短二度(C - Eb、E)という体と、濃いピンクで示している音程範囲での短三度+短二度(E - G、A♭)という音形が視野に入ります(※ここでは無関係ですが、この時点で既にC、E、A♭という増三和音の音形である《芯》は出来上がっております)。
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 基の時点で先の増三和音の体である《芯》が出来上がっているので、オクターヴを割譲している手前、増三和音の各音を示す「触手」に隣接する様に半音上下に音が隣接する方が、先の薄いピンクと濃いピンクでの夫々の音形は「短三度+短二度」という厄介(=不揃い)な音程よりも「半+全+半」という対称形の構造を得る為、結果的にその「重力」(=増三和音の夫々の触手にぶら下がる様に隣接)に頼ると、先のfig.1の例用に、完全五度累積型で生じた音から「変化」が起こってチェレプニン音階が組成される、というワケです。

 これを過去に語らなかった理由は、チェレプニン音階については濱瀬元彦著のブルーノートと調性に詳しいので態々語る必要も無いだろうという思いに加え、私が繰り広げる楽理的な順序を踏まえた上で漸く今回語る事になっているという理由からでありますが、正直な所ここまで時間が費やされてしまったのは計算外でした(笑)。


 つまり、fig.2を見れば態と音程範囲を示していない白ヌキのA♭からCまでの音程位置も同様に先の様な「半+全+半」を得る事でチェレプニン音階を組成しているという意味ですのでその辺りも一応端折らずに語っておきます(笑)。
 
 
 こうして本来のC or E or A♭チェレプニン・スケールを生むワケですね。しかもチェレプニン・スケールの醍醐味は、唯単に「徒に」合成されたワケではなく、音階として使う時の機能として、今度はトニック、ドミナント、サブドミナント的な機能が次の様に組成される、というのも非常に興味深い所であるというのも過去に述べた事であります。


 琉球音階というのはこうしたペンタトニックの類に分類されないのはテトラコルドから組成された完全五度に対して導音というクサビを打っている様に組成されているワケでして、原始的なオクターヴの割譲はCとGという完全五度とFとCという完全五度という2種類の完全五度(実際は二組の完全四度)が生まれ、二組の完全四度はそれぞれ更に細かい全音と半音の組み合わせに依って「砕かれて」いくのが音階の歴史なのでありまして、琉球音階は結果的に二組の完全四度が二組の完全五度として転回・分離して、その完全五度の体に導音が打たれて、FとCの完全五度の音形にはEという半音が打たれ、CとGの音形にはB音という半音が打たれる、という意味であります。

 ここでテトラコルドというオクターヴの割譲と音階の組成とやらをあらためて考えると、完全五度の共鳴とやらをテトラコルドの組成は完全に無視してF音の組成は全く忘却の彼方でC音から重畳する上方ばかりの完全五度累積ばかりに頭デッカチになってハ長調の重心はト長調にあるというトンデモ理論を繰り広げたのがジョージ・ラッセルですね。F音の組成は?オクターヴの割譲は?という原始的な方面に全く目を向けておらず、首尾よく「8つ目の階名」として与えられる筈だった役割の主音からの三全音の音(=F#)が持っている牽引力を頼りに導いて来る音を、その時のジャズ・シーンの現状と無理矢理整合性を取ろうとして近似的な(=近親調)を頼りに調性を拡大しようとしているだけで、最終的には異端な音階を生む事に貢献するだけのおかしな遠回り理論を繰り広げたのがリディアン・クロマティック・コンセプトだという事は先にも述べた通りですが、今一度テトラコルドというオクターヴの割譲の歴史を知っていただければリディアン・クロマティック・コンセプトが礼賛されてしまうのはおかしな事だなと私は思います。

 他方、ヘプタトニックというのは増二度音程が出現しない体系であれば「5つの全音+2つの半音」で組成される事なので、琉球音階というのは先のテトラコルドに対して半音音程が与えられているため、2つの半音音程を得ているためにヘプタトニックを視野に入れた場合はこの時点で「飽和」状態とも言えるのです。つまり「複調感」が与えられない限りは琉球音階の情緒の発展は、とりあえずは此処で一旦おしまいとなるのでありまして、ヘプタトニックからの断片として孤立化してしまっている様な体であるとも言えるのでありますなー。

 ついでですので琉球音階を好意的に「拡大解釈」すると、琉球音階に対して複調感とやらを視野に入れる事を前提にすれば、私はAの50セント高い音とE♭の50セント高い音の2つが「次に」生まれる音だと私は解釈しております。それは何故か!?

 先の五度圏を示す図を参考にしていただくと判りますが、CとGの完全五度の形は時計の文字盤に見立てると12時と1時というペアだという事が判ります。これに対して5時に相当する半音=B音が生まれているのですが、同様にFとCの完全五度の形は11時と12時として見立てる事ができ、先のペアからすると反時計回りにズレてシフトするかのように移動しているのが判ります。勿論その音形に付随するように半音が打たれる「E音」は4時の所に出現します。

 この「ペア同士」の反時計回りの移動を視野に入れると、次はおそらく10-11時の範囲、つまりB♭ - Fという音形に対してA音という導音の半音がクサビとして打たれるだろう、というのが私の推測なのですが、このままだと基から生じているB音に対してB♭とAが喧嘩する様になってしまうのです。これらが巧くとりまとめるようになる為に「平準化」されてA音より50セント高い音が生産され、元々生じているB音に対して1全音半=150セントの空間=増二度が生ずる因果関係を生むのではないかと推測しているのであります。同様にE♭よりも50セント高い音が生まれる可能性があると仮説を立てるのも同様の理由です。


 唯この琉球音階に対して複調感を与えて発展させた考えはあくまでも私の個人的な推察なのでどうでも良いことなので、チェレプニン音階の方にハナシを戻しますが、愈々此処で「調域の墨痕」という事を語る事にしますが、それは次回へ続く事とします(笑)。