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ジョージ・デュークのソロ・アプローチに学ぶ [楽理]

 今回は、ジョージ・デュークのソロ・アルバム「Save The Country」収録の「アルカトラズ」は興味深いアプローチがあるのでそれを取り上げる事にしますが、この曲にはジェイ・グレイドンも参加していてエレクトリック・ギターを聴かせてくれるワケですが、曲中盤ではDマイナー一発系のギター・ソロが繰り広げられて来るのですが、ジェイ・グレイドンがギター・ソロ中に下行形のクロマチック・アプローチの音形を半音ずらし乍ら繰り返す所がありまして、このフレーズ後には呼応するかのように、ジョージ・デュークは本来はDマイナー・キーであるトニック・マイナーのアプローチに加えて、半音をぶつけて来るかのようなバイトーナルなアプローチを随所に見せてきます。
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 ジェイ・グレイドンのソロのフレーズが発端となってはおりますが、おそらく『半音違いの調域」を使う事は予定調和だったのではないかと私は睨んでいるのですが、クロマティック・フレーズそのものにはそれほど大きな意図は無いと思うのですが、それを「スイッチ」の様に使って曲にメリハリを与えている様にさせる狙いがあっての事だと思うワケです。


 そうしたスイッチが入ると、ジョージ・デュークはその後随所に調性外の音をDマイナー調に対してぶつけて来ます。トニック・マイナーであるDマイナーはDドリアンで対処している為、調域はハ長調の調域を使っている事に等しくなります。つまりDマイナーに対してDドリアンを充てている事となるのですが、ジョージ・デュークはDドリアンに対して調性外の音を随所にぶつけるワケですが、これが下声部Dドリアンに対して上声部にF#ミクソリディアンをぶつけて来るアプローチとして読み取ると、ジョージ・デュークのこの曲での執拗なまでの半音のぶつけ方が繙く様に理解する事ができます。


 通常、Dドリアンで対処しているのであればF#ミクソリディアンというのはその位置に現れず、ミクソリディアンはGミクソリディアンに位置するのが当然なのでありますが、F#ミクソリディアンを充てているという事は半音下の「調域」を充てているという事に等しくなります。

 半音下のアプローチと捉えるならばわざわざ先の様に考える事なく「DドリアンとC#ドリアンと考えれば良いのではないか!?」という疑問を抱く方が居るかと思いますが、この手の発想にしか及ばなければ、例えジョン・スコフィールドを分析しようとも同じ観点でしか分析できずに、結果的に基軸となる調性からの半音上下程度という風にしか音楽を見渡す事ができなくなるという落とし穴に嵌る事になるでしょう(笑)。それをさせない意味で、私は敢えて別の解釈で語っているワケです。しかもF#ミクソリディアンはKey=Bで生じるミクソリディアンではなく嬰ヘ長調の七度が半音下がったF#ミクソリディアンとして嘯いているという事を念頭に置いて考えて下さい。これについては追って説明する事になります。


 では、下にDドリアン&上にF#ミクソリディアンという状況を受け止めなければならない理由を述べていきますが、そもそもDマイナーをDドリアンとして嘯いている以上、調性を「しっかりと」感じさせる為にはドリアンとしての特性音として6度の音が変化する程度に留めておいた方が調性感の維持は期待できます。そこからさらに弄ったとするならばせいぜい♭5th = #4thの音を使う位ではないと調性感の維持という点では難しくなってくるでしょう。

 しかし調性感を聴き手に強くイメージさせたまま弾き手は強く調性外の音へ行きたいというアプローチを試みた場合、Dドリアンという世界に対してどのような調性外の音に行くのは自由ではありますが、ジョージ・デュークはF#ミクソリディアンを選択している、という事を先ずは理解して下さい。「見かけ上」はDドリアンとC#ドリアンの併存ではありますが。

 F#ミクソリディアンという世界観をDドリアン上で無理矢理にでも当て嵌めようとする場合、例えばfig.1の様にDドリアンのスケール・トニック=D音に対して愚直なまでにF#ミクソリディアンのスケール・トニック=F#音を同時に開始させて3度でハモらせようとしたとすると、元から存在するDマイナーの情緒に対してF#音というメジャー3rdの音と等しい音をいきなり使う事となるので、いくら調性外の音を使ったアプローチを採るにしても突拍子が有り過ぎて余りに酷い音に聴こえさせてしまう事にもなりかねません(笑)。
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 そうした突拍子も無い状況ではない様に「聴かせる」為には、元のDマイナー(=Dドリアンに置換)の情緒を維持し乍ら、アウトサイドな音を得る脈絡に作り方としては、fig.2の様に各モード・スケールの同度に対して脈絡を得るのではなく2度ずらしてDドリアンの主音はF#ミクソリディアンの第2音に、という風に夫々を二度違いで連結させる様に「脈絡」を得るものとして考えてみる事としましょう。
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 ここで云う「脈絡」とは、アナタが下声部(本来のDドリアン)でD音を弾いた時、その音に対して同じ調域のDドリアン内から他の音を選択するのではなく、調性外のF#ミクソリディアン側の音から音を呼び込む際、G#音を持って来るという意味です。愚直なまでにそれをキープするという事でもありませんが、D音を弾いて次にF#音を持って来るという愚かな行為よりは遥かにマシでありますし、Dドリアン内で生ずるF音を弾く時にF#ミクソリディアン側のB音を呼び込んで用いるのも、突拍子も無いという事は避けられます。


 つまり、fig.2の互いの脈絡を二度違いで「結ぶ」と、夫々のモードの特性音が「連結」し合っているという状況が見える事となります。


 DドリアンとF#ミクソリディアンの夫々の「主音」と「特性音」を敢えて省いて見ると、それぞれ連結した音は増四度で結ばれており、それぞれの特性音は「完全音程=完全四度/五度」で連結し合っており、主音同士は「減四度」で連結し合っているのです。長三度ではあるのですが減四度として考えると、三つ目の調域を当て嵌める事に応用が利くので敢えて「減四度」と語っておきます。今回の譜例からは主音同士は長三度ではありますが、その辺りも注意して下さい。


 
 扨てここで一休みしますが、この説明が回りくどい様に思えるでしょうか!?確かにDドリアンとC#ドリアンという半音違いの併存である事には間違いないのですが、そうした半音違いで見る事による落とし穴を回避したいからこそ私は説明しているのですが、この手の「半音違いの調域を用いる」という程度の理解ならジョン・スコフィールドのそれでもごく普通に片付けられて解釈されている事ですが、では何故それがアウトサイドの世界観としてキマるのか!?という事に理論的に説得力のある解説にどれだけの人が遭遇している事でありましょう!?おそらく私のブログを読むまでは、「それがジョンスコだから」という風にしかご理解されていないのではないか!?とまで私は言い切ってしまいます(笑)。


 では、落とし穴を回避する為の答を結論づけましょう。先のアプローチを「半音違い」として見てはいけない理由は、バイトーナル・アプローチの第一歩として、互いのモード・スケールの特性音を完全音程(=完全四度/完全五度)で連結させる事が重要だから、という事なのです。その「特性音」というのがどの調性から見ている物なのか!?という事も亦重要なのです。ですのでF#ミクソリディアンはBアイオニアンから生じたモノではなくF#メジャーの第七音が変化している姿として見立てる事が重要なので、嬰種調号は5つではなく6つで表されているワケですね。


 特性音が完全音程(一度と八度を除く)で連結し合っているという事は、これは対位法の初歩的な多旋法の応答と同様です。今回のこの例では下にDドリアンに対して上にF#ミクソリディアンを想定すると、あたかもDドリアンの半音下のC#ドリアンを併存させるかのように「半音下」を見出す事になりますが、仮にその見立てに倣う場合の「半音上」というのは、先の例で云えば上と下との調域が「倒置」されている状況を視野に入れるだけで済むだけの話で、ジョンスコが半音上と下のアプローチとやらがたかだか当てずっぽうな解釈にしかなっていない物が対位法的アプローチ由来という物がしっかり説明立てて解釈を進める事がジョン・スコフィールドではなくジョージ・デュークのこうしたアプローチから学び取る事ができるというのが私の意地悪な分析なんですね(笑)。


 でまあ、今回のfig.2の様に黄緑色で連結し合っている音の連結という脈絡を強固に使い乍らフレージングしていくと、今度はDドリアンに於いてF#ミクソリディアンをダダ弾きしてみた場合ではDドリアンから見た時のF#音がおかしく聴こえなくなってくるワケですね。黄緑色の連結の方から聴かせるのではなく、Dドリアンに対してのっけからF#音を弾き出したら、うどん食いに来たのに、うどん粉出されて来たのと変わらないアプローチなんですね(笑)。ところが使いこなせないのでヘラブナのエサにもならないように練り上げてしまうだけ(笑)。これだとジョンスコのアプローチを真似しているというのを免罪符にした馬鹿共のアプローチと何ら変わりないワケですな(笑)。


 初歩的な対位法や正格&変格旋法と違いをしっかり認識していれば、こういう方面のアプローチでも説明が付けられるのに、大概のポピュラー&ジャズの理解というのは何故か此処がスポイルされてしまっている事が非常に多いワケですが、理解に及ばないモノを聖域化して敢えてアーティスト側も明かしてこなかったというきらいは確かにあるでしょうが、分析する側がいつまでも習熟していないというのは困り者だと思います。


 正格旋法と変格旋法の違いは、基本となる正格の音列の五度音を終止音とすると旋法を「嘯く」旋律という使い方に端を発するワケですが(Cアイオニアンの五度音=G音を終止音とするにはハ長調の調域を維持し乍らG音を終止音として扱う事と同じ意味なので結果的にGミクソリディアンはト長調っぽさが有り乍ら音そのものはハ長調を使う)、対位法がもっと進化すると正格&変格で生ずる音程関係以外の近親調の関係も視野に入って来るようになり、多様な調性が交錯する様になる事が、結果的にはこうした元の調性に対して一見脈絡が希薄な調性外の方からの「調域」が絡み付く因果関係を見出す事が出来るワケです。


 互いの特性音同士を共鳴度の高い音程関係で結ぶのがミソで、例えば過去にミクソリディアン+エオリアンを混合させた音列を取り上げた事もありましたが、仮にAエオリアン+Aミクソリディアンと混合させたとするとそれはDドリアンの特性音とAミクソリディアンの特性音のそれぞれB音とG音を今度は完全音程ではなく「長三度」という共鳴的な音程関係で結んでいるのも今回の特性音同士の連結という風に考えられるのですが、この連結はわざと共鳴度の高い音程関係で結ぶというのがキモなのであります。