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Limbo / YMO 楽曲解説 [YMO関連]

 今回はYellow Magic Orchestra(以下YMO)の初期オリジナル・スタジオ・アルバムとしては最終アルバムとなる『Service』収録の「Limbo」の譜例動画をYouTubeにアップした事もあり、楽曲解説をする事に。
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 本曲は作詞に高橋幸宏、細野晴臣、ピーター・バラカン作曲に高橋幸宏、細野晴臣が関わっており、イントロ部分のキーボード・パートは特に目まぐるしい程のパラディドル・フレーズが複雑に絡み合うリフを形成しているため採譜は非常に骨の折れる作業でありました。

 また、こうしたパラディドル・フレーズが施されている事に依りバンド・アンサンブル即ち器楽的素養という楽器のテクニカルな部分が押し出される事で、プレイ面に耳が惹きつけられそうになる効果を生む事となっているのが特徴的であろうかと思います。

 皮肉にもバンド・アンサンブルという側面を強調しているという所が、YMOというバンドの標榜する世界観の構築法が飽和していた事の表れでもあったのではなかろうかとも思えます。

 シンセサイザーという発音原理を当時の電子回路技術を鑑みれば物理的な筐体の大型化は避けられず、況してや発音数の制限がある中で「ハーモニー」を構築するという事は至難の業であった事でありましょう。とはいえ物理的な大型化はバンド隊形としての視覚的なイメージに於て見る人を圧倒させるという副産物があったのも事実。

 そこで黙々と演奏という「作業」が繰り広げられるシーンというのは機械の出す従前の事物をイメージし難い音世界が聽覚に、音世界の構築の為には潤沢なハーモニーが要求される事でハードウェアは物理的スペースを必要とする視覚的な側面からも圧倒して来るという事を意味するという訳です。

 こうしたバンドの視覚的な圧倒感という物はソフト・マシーンなどがヒントとなっているのだと思われますが、YMOと並行して活動をしていた格闘技セッションやKYLYNのアンサンブルを思えば、ウェザー・リポート、801、ブラッフォードなど大いにヒントになっていたのかもしれませんし、ハーモニーを稼ぎに来るタイプのバンド・アンサンブルは概してジャズ・ロックやクロスオーバー寄りになるのは自明の理であったのかもしれません。

 そうした偶然の産物ともいえる圧倒感に加え、バンドのコンセプトに立脚する音楽には聴き手と奏者の間には隔絶された空間があり、奏者は聴き手に呼応するまでもなく屈伏を黙認する聴き手は黙々と匿名的に演奏を繰り広げるという状況が奇異であり、冷徹な為事のそれは格好良く映えた物です。

 またバンド・コンセプトが包含していた科学という、目には見えぬ形而上学的な力で聴き手を圧倒・屈伏させる状況を形成する事は容易であった事でしょうし、それを巧みに利用して聴衆の未体験の心理を増幅させる事に寄与していたのは言うまでもないでしょう。

 嘗てヘンリー・アダムスが1900年のパリ万博の時にはエネルギー論を語るに際して《その神は電力である》と言い、1929年にユージン・オニールは《電力が今や神なのだ──永遠の生命の偉大な母、 電力、そして発動機は、地上における神の似姿なのである 》(『電気技術時代の音楽』p.29〜31 プリーベルク著 音楽之友社)と言ったというのですから電力が如何にして神格化される程の物であったかを裏付ける言葉である事を21世紀の現今社会に於てもあらためて認識させられる物です。

 神格化される電力はおろか物理学の最先端に居る研究者が時偶、研究を優先するがあまりに科学の「強い力」の前には殆〔ほとほと〕無力な人間側の倫理など瑣末事と無視してしまう悲哀な側面も絡んでいるのも皮肉な物です。2011年の3・11以降、福島第一原発事故にてあからさまな「原子力ムラ」の邁進に、坂本龍一が皮肉った《たかが電気》発言は物議を醸した事も記憶に新しい事でありましょう。

 電力が無くては基本的な生活すらままならない程ではありますが、だからといって人命よりも先に電力が優先されるべきではないでしょう。

 どれほどの科学の力を持ってしても個人の命を再生・回復させる事は不可能であり、命が電力に取って代わる筈もなかろうという坂本龍一の発言の意図は倫理観を有する人であれば容易に理解に及ぶ事であるのですが、神的な力の近傍に居る研究者やそれを礼賛する人々からすれば面白くない訳ですね。

 なにより坂本龍一という発言力のある者からのそうした耳に痛い声は正否など無関係に藁人形論法で潰しにかかるのが次善の策とばかりに、人命など瑣末事と捉える者はあちこちで詭弁を弄して坂本龍一の発言を叩きまくった物でありました。

《シンセの権化と呼ぶに相応しいバンドで培って来た音楽家のフリした左翼が曷を言うか!》 

という辛辣な声もありましたが、それ以前に坂本龍一という人間は電力で駆動する機械が無ければ何も出来ない人間なのではなく寧ろ電力など無くとも音楽を演奏し後に遺せる術を隈なく知り尽くしているという事だけは忘れてはいけないのであり、その術を知る坂本龍一に対して先の様な罵詈雑言はまるで効果のないボヤキに過ぎない事も最先端にいる研究者達が知らない訳がありません。

 連中が企図していたのは、坂本龍一に対して数多の罵詈雑言が矢継ぎ早に本人に向く事で収拾がつかなくなる事を狙っての事であるのは明白な事でありました。

 例えば1億2000万人の中から1000人しか生き残る事のできないカタストロフに直面した時、1000人の内の何人が電力やガスなどの従前の科学を大いに利用したインフラを元に戻す術を知っている事でしょうか!? 確率論から言えばまずそうした人材は残存しておらず凡庸もしくはそれよりも劣る単に生命力と運だけが強い人間が多く生き延びている事は間違いないでしょう。

 生き残る彼らがどれほど過去の記憶を手繰り寄せてもインフラを復元どころか産出する事は難しく、その中から後世にどれだけの「智慧」が遺されていくのか!? ということを思うと空恐ろしくすらあり、人類はカタストロフに何度も遭遇し、培って来たそれまでの智慧を無駄にされ、現今の人類が漸く手にしているのが現在の文明である訳です。

 電力が無くとも音楽を後世に残す術を知っているという事を無視する人々は、あらゆる分野の智慧に甘受しつつも遺す・伝える術を知らないのです。自身の生き方を阻害する事だけに文句を言うだけの「喧し屋」に過ぎないのですが、こうした喧し屋がネット殊にSNSを利用しているという現今社会が何と愚かしい事か。

 電力という風にインフラとして培って来た科学技術は勿論、科学技術によって作られた楽器・電子機器・パソコンなどをあらためて振り返ると、それらを一気に失った時に従前と同じ事を創出する事を可能とする人こそが電気技術うんぬんに声を挙げる資格がある人なのであって、文明の利器に頼っただけでそんな利便性の高い社会基盤の上で手前勝手な表現が許容されるという事ではないのです、決して。

 バンド・コンセプトという骨子が科学的方面に備わる「未知」「未体験」のアプローチで音楽に於ける具象化という事に立脚していたので、そうした強固な基盤の上で活動する事は容易であったかもしれません。

 唯、「未知」が単に「無知」だった聴衆を育んでしまうと、途端に「旧知」という陳腐化への世界へと印象が変化してしまうのもまた事実。

「黄色い魔法」の仕掛け──多くは彼らの使うハードウェア──は謎が解ければ形而上学的に増幅されていた効力は弱まります。そういう意味でも常に新しい事への挑戦という探究は骨が折れる作業であった事は間違いないでしょう。

 機械が持っている形而上学的な力とやらも一度そうした魅力的なハードウェアを使いこなしていけば自ずと判りますが、人間の欲求を満たす程ではなく必ず未熟な機能面に遭遇するので、人間の要求に応えてくれるハードウェアに遭遇するというのは無理難題であるのは必然だった事でしょう。

 皮肉な事にYMOは、音楽という智慧を電力という科学文明を使う事なく後世に遺すという術で活動するという状況とは対極に位置していた事は炳らかであります。

 この点に最も挑戦していたのは奇しくも西洋音楽の薫陶を受け智慧を後世に遺す術を最も熟知していたであろう坂本龍一でありますが、彼もまたその新しさを求め乍ら音楽という智慧を生む労劬を最も実感していたのではなかろうかとも思います。

 自縄自縛に陥る事のない様に、新しさと舊來体系の異化という双方の側面を同居させるという姿を、皮相的な側からはやいのやいのと言う連中はそうした新しさばかりを捉まえて揚げ足を取っていたというのが《たかが電気》発言を論っていた連中だという訳です。


 扨て、魅力的な最先端ハードウェアを用いれば誰もがYMOに匹敵・凌駕する音世界を構築できるというのは皮相的な計算でしかありません。

 YMOが初期の活動直後に音楽的アプローチを「オーケストラ」的な対位法的アンサンブルから軸足を変えてポピュラーなスタイルに移し、ポップな音楽的語法の方で勝負を仕掛けて来る事で奇しくもYMOは機械を使い乍らもアプローチは人間的に寄り添って来たというのが先述の「皮肉」である訳です。そうした皮肉が実を結ぶ先にはアプローチの枯渇が待ち構えていたというのが、彼らの「散開」という終焉を見る事が最大の「皮肉」であろうかと思います。

 おそらく坂本龍一にはアイデアが溢れていた事でしょう。その横溢する力をYMOというブランドで存分に発揮させるという細野晴臣のプロデュースが功を奏したという訳です。

 然し坂本のアイデアは従前のポピュラー音楽体系を遥かに凌駕した非十二等分平均律(12EDO)でのアプローチなどは、自身のソロ・アルバム『B-2 UNIT』収録の「participation mysiteque」や後年のソロ・アルバム『esperanto』で結実しておりますが、茲まで計算された非12EDOの世界観のイメージをYMOでは出していなかったのではなく細野晴臣の方から拒絶されたのではなかろうかというのが私の推測であります。

 ポピュラー音楽という軌条に乗ってYMOという活動を円滑に進める事は非常に容易であったであろうし合理的な策であったろうと思いますが、彼等はその道を選ばず「迂回」しました。

 YMOというブランド化が成功し音楽界のみならずファッション界にも影響を及ぼし富士カセットでの「磁性紀」という曲は、それまでの対位法的オーケストレーションを「モノディー」として形を遺して(※「磁性紀」の主旋律の実際は2声でハーモナイズされておりますが元は単旋律からの着想でそこからベースのないアンサンブルを補足する為に2声でハーモナイズさせているのは明白でありましょう)、ベースすら排除した旋律でそれまでの路線を踏襲するのかという大方の予想を裏切って『BGM』をリリースしたのですから、彼らの戦略としては正しき選択だったのでありましょうが、その後の散開を暗示する迷走の始まりでもあったのではなかろうかと思います。

 迷走とは雖も路頭に迷う事はなく、信念を貫いて結果的には迂回して大衆迎合路線で勝負をかけて解散の道を辿るという所が正確でありましょう。バンド・アンサンブルを強調したアレンジを『浮気なぼくら』以降で見せる様になったのは、80年代前半に見られるポピュラー音楽のシンプルなリフ形成の多さに辟易し、あらためてバンド・アンサンブルを強調して来たのではなかろうかと思います。

 然し乍らそうしたバンド・アンサンブルに回帰した来た時にはアプローチ不足と思しき側面が窺える点がある事も事実。テープ・コンプレッション、ゲート・リバーブ、ベース・アンプを用いてキック音やスネア音を共鳴させるジョン・ボーナムのドラム・モニター音カブリのアプローチがブレイク・ビーツに貢献しているにも拘らず、それを全面に押し出さない事が大衆へのアプローチとして弱かったというのが残念であったという所。

 音響エンジニア的発想で音響面からのアプローチを具備した音のコラージュ的思想=サンプリングは、単なるサンプリングだけではなく「音像設計」というアプローチが備わる事で「形而上学的」な世界観を拡大させて成功させたのがZTTレーベルのトレヴァー・ホーンに代表される音像構築の世界観でありました。

 その後のプロパガンダやアート・オブ・ノイズの成功を見れば、「汚した音」やセンター定位のモノラル音の配置というのは細野晴臣や坂本龍一も実現させていたにも拘らず、音楽的アプローチを迂回させてしまったが為にトレヴァー・ホーンほど周知・魅了させる訳でもなかったというのは勿体無いアプローチだったと思わんばかり。

 こうしたアプローチ不足に伴う「迂回」が一番のバンド・アンサンブル回帰への皮肉となってしまったのは彼らの迷走を反映する物ではなかったろうかと思います。その匙加減が狂ってしまいアプローチ不足と相反する横溢するアイデアは、そのバランス具合をバンド内で統御出来なくなっていた事が反映した事で中庸の判断となってしまっていたのではなかろうかと思います。細野晴臣のプロデュースではなくYMOプロデュースと変化していた事が皮肉な結果を生んだのでありましょう。

 奇しくも高橋幸宏が「Limbo」のイントロのAテーマ直前のフィルインで「汚した音」でのブレイクビーツを聞かせているものの、直前の数ヶ月前にリリースされたYESの「Owner of A Lonely Heart」でのブレイクビーツをまざまざと見せつけられた大衆の耳を驚かせる程の効果は無かった事でありましょう。






 扨て、茲で漸く譜例動画解説とさせていただきますが、先述の「バンド・アンサンブル」という点を明らかにして行こうと思います。



 私見ではありますが、私は本曲「Limbo」というのはブラッド・スウェット&ティアーズ(以下BS&T)の2ndアルバムの『Blood, Sweat & Tears』収録の「God Bless The Child」と「Spinning Wheel」を念頭に置いたイメージでバンド・アンサンブルたるリフを形成して制作していったのではなかろうかと思われる点がコード進行に見受けられます。






 例えば「God Bless The Child」のAテーマ部分冒頭のコード進行は「G7(11、13) -> B♭△7(on C)」という部分が非常に特徴的に響く物でありますが、このコード進行の先行和音「G7(11、13)」は長属十三の和音の9thオミットという型になっている物であり、この属十三の和音は後年、分数コードが持て囃される様になると「♭Ⅶ△/Ⅰ△」のポリコードや「♭Ⅶ△7(on Ⅰ)」および「♭Ⅶ△/Ⅰ」という2度ベースの型へと変化して行く物であり、この2度ベースの型というのが「Limbo」の冒頭「B♭/C」に合致するのであります。

 無論「Limbo」は「God Bless The Child」を完全な形で踏襲するオマージュではないので後続のコードは違うものの、Aテーマ部となると今度は「Spinning Wheel」のAテーマ部のコード進行と同様の型が見られるので、これらを推察すると制作過程でBS&Tから引用する狙いがあったのではなかろうかと推察するのであります。BS&Tの製作年を勘案すればバンド・アンサンブルに回帰する「原点」を述懐する様にして作り上げたのではなかろうかと推察する訳です。

 確かに、「Limbo」の楽曲冒頭2小節とその後の3〜6小節での「B♭/C」での各鍵盤パートのリフを見れば属十三和音型のフレーズで攻めているのは明らかであり、特にエレピ・パートのパラディドル・フレーズを伴わせた音程跳躍の甚だしいフレーズは、シンセの機械的なアルペジオを用いたシークエンスではとても得られない「人間的」な、ファンキーなクラビネット・フレーズに能くあるフレーズを用いている訳です。

 楽曲冒頭のイントロ2小節を除けば、とりわけ本曲は直後の3〜10小節目のイントロの各パートのリフの夥しいほどのフレーズの添加が凝縮されており、採譜も混迷を極めたものです。

 シンセ・ショート・ディケイ・パッド1のパートは、その名の通りADSRのエンベロープのディケイ・タイムを短くした三角波系統のオシレータに依るプロフェット5の音を使えば良いかと思います。

 茲にエレクトリック・オルガン、ややディケイ・タイムの長めのシンセ・パッドと低域側にも跳躍して聞かせるテナー・パッドの音に、エレピが加わるという構成に分けており、これらはパンニングこそされてはいるものの非常に聴き取りが難しい物でした。

 エレピのパートは今回、注釈にもある通り付点四分音符で左右にトレモロ・パンナーとしてLFOを矩形波に設定した上で急峻なステレオ・トレモロを利かせています。

 また、3〜6小節間での「B♭/C」に於ける注意点として挙げておきたいのがまず、ショート・ディケイ・パッド1パートでの5小節目2拍目弱勢に現れる半拍3連は、他のパートとの16分音符とは異なったメトリック構造なので一瞬だけポリメトリック構造が現れる状況となるので、他のパートの16分のリズムに埋没しない様に聴かせるのが重要であろうかと思われます。

 同区間に於けるオルガン・パートでの6小節目3拍目は、両手で近傍の鍵盤をヴォイシングを稼いでいて忙しいかと思いますが、これは2段のキーボードを想定しているので斯様なまでの忌憚の無い両手の忙しいヴォイシングを充てているという訳です。

 3小節目3・4拍目でのシンセ・パッドも、[d] 音の同度進行が煩わしい運指となるかもしれませんが、運指というよりは寧ろ手首のスナップを要求されるのであり、[d] が親指のまま3度上方の [f] が中指という風に解釈していただければ良いかと思います。

 同様に、手首のスナップを要求される同度進行がエレピ・パートにも見られ、それが6小節目4拍目に於ける [g] の同度進行です。運指としては、直前の6小節目4拍目拍頭での右手パートでの下から [d・f・a・c] は親指・人差し指・薬指・小指という風に打鍵され、直後の [g] は中指で、そのまま手首のスナップを利かせて中指のまま同度進行するという訳です。

 コード表記としては「B♭/C」であるのに、何故にエレピ・パートはB♭△の更にアッパー部を稼ぎ、更には和音外音である [g] をも茲まで重用するのかという事が大いなるヒントがあります。

 本曲は確かに細野・高橋色が強いのですが、前述のエレピ・パート部分のそれは確実に坂本龍一の解釈に伴う特徴的なフレージングと言えるのではなかろうかと私は推察します。坂本龍一はおそらく「B♭/C」を「C13」という属十三和音としてコードを捉えている為、[g] をも忌憚無く取扱うという訳です。こうした解釈は過去にもKYLYNの「I’ll Be There」のブリッジや多くの場面で見受けられる解釈でありますが、私が最も酷似すると思ったのは山下達郎が提供したオムニバス・アルバム『Pacific』収録の「Kiska」でのポリムーグと思しき坂本の16分音符でのバッキングのリフであります。



 分数コードなど、坂本龍一の解釈のそれは過去にも触れた事があるのでブログ検索をかけていただければお判りになると思うので興味のある方はそちらを参考にしていただきたいのですが、この属十三和音解釈は、後のイントロ最後の和音外音についてもご理解いただける「不思議な音」の秘密となるので念頭に置いていただきたいと思います

 そうしてイントロ7〜10小節区間の説明となりますが、茲からコード・チェンジとなるので「Dm7(11)」へと変わります。シンセ・ブラス1のパートが [e] 音を明示的にしておりますのでコード表記としては「Dm11」でも良いのですが、どちらにしても11th音としての [g] は、各パートでのリフ形成にて非常に大きなウェイトを占めている音であるものの、和声的な意味でシンセ・ブラスと同等の音価で形成している物ではないので「Dm9(11)」とする方がより正確な状況かもしれません。9th音としての [e] はさり気なく使っていただければ良いかと思います。

 そうして10小節目3拍目に重要な音が生じます。同箇所でのテノール・パッドを見ていただければお判りですが、弱勢で [h] が奏されます。つまりB♮音であります。然し乍ら同箇所のエレピを見ていただくと [b] 即ちB♭音が奏されております。

 コード表記は「Dm7(11)」にあるにも関わらず、♮13thおよび♭13thという音が同時に鳴らされているという訳です。これはどういう訳なのか!? これこそが先述の「属十三和音」の大いなる謎の回答であるのです。

 そもそも「属十三和音」というのは全音階(=ダイアトニック)に見れば、属音をルートとする全音階の総合なのです。即ちそのルートをⅤ度とみなせば下から [5・7・2・4・6・1・3] という全音階の音度を積み上げているという構造なのであります。この属十三和音を「転回」した場合、それは属音以外の音をルートに採っただけの姿でしかありません。

 例えば属十三和音の第1転回形は実質 [7・2・4・6・1・3・5] となる訳で、第2転回形でも同様に [2・4・6・1・3・5・7] となるに過ぎません。正統な(西洋音楽由来の)転回解釈を採る場合、転回先に移置させる音は元の最高音とは1オクターヴ以上空ける必要がありますが、ジャズ・ヴォイシングの場合オクターヴの相貌を縮めて密集させた解釈に収斂させる(=セクショナル・ハーモニー)ので転回先の音を態々オクターヴ超を空ける必要はありません。

 この様に属十三和音の転回は実質、属音以外の音を根音とする総和音(=音階の総合となる和音)となるので、「副十三和音」の状況に等しくなるという訳です。それが十三の和音であろうが七の和音であろうがトライアドであろうが、属音以外の音をルートに持つ和音は副和音に括られる物です。

 その上で、「元の」属十三和音とやらが増九度=♯9th音を持つコードだったとしましょう。この場合想定されるのは「G7(♯9、11、13)」という状況です。

 それが、[d] 音をルートとする副十三和音だと解釈した場合、「Dm7(11)」上で忌憚無く、ドミナント7thコードでしか使用できなかったオルタード・テンションを副和音でも繰り広げているだけの事でしかないので、先のプレイ(Dm何某のコード上でB♭・B♮音の同居)は、ベース音が下部付加音として [d] を採った時の「G7(♯9、11、13)」という状況と何ら変わりない事になります。

 こうした想起を可能にする理由は、Dm何某というコード上で♮13th(=♮6th)をフレージングする事で、内含する [f・h] という三全音が結果的に「G7」を喚起するので、副和音であろうとも忌憚無く使うという事なのです。無論、それはハーモニーの結果としてDm何某よりも「G7(♯9、11、13)/ D」という状況に近しくなります。

 とはいえ、ベースやコード表記がどうあれ、Dm上で♮6thを明示させるという事は、実質的には後続へドミナントへ進まないとしてもドミナントの薫りを誘引させたフレージングに変わりはないのであるので、副和音であろうとも属和音側のテンションを「思い切って」使うフレージングとして交雑させているという訳です。

 奇しくも「Spinning Wheel」中盤のトランペット・ソロが開始されるコードは、テーマ部の「Em7」とは異なりドミナント7th化させた上で「E7(♯9)」としてアプローチされますが、直後の上拍でのピアノは更に「Em69」をぶつけて来るので、実質的に [fis・fisis・gis] という風に「♮9・♯9・M3」という音が混在する事になります。



 テーマ部では「Em7」であったのでコードとしての主体となる姿が「E7何某」に変容したと想起するのはもしかすると彼らの解釈にまで行き着いていない未熟な想起であるかもしれないのです。

 そこで更に解釈を深めて別の見立てを立てるとしましょう。「Em69」をDメジャー(ニ長調)のⅡ度上の和音として想起しつつ、「E7(♯9)」をAマイナー(イ短調)またはAメジャー(イ長調)の属和音だと見立てると仮定した場合、それぞれは別の調域から拔萃してきた複調に基づくコードなのであり、「E7(♯9)」の調域をイ短調 or イ長調のいずれかに限定せずとも「E7(♯9)」の第3音= [gis] の音というのは、もうひとつの調域であるニ長調での三全音に相当する音であるので、クロマティシズムに基づく、半音階を好意的に呼び込む起因材料として音をぶつけているのだとも考える事が出来る訳です。

 それらの調域を維持させたまま抜粋して来るコードを変えるだけで、抜粋したコードがその調域での「副和音」であるならば、副和音が予期せぬテンションを引き連れて来る事も意味するのであります。

 ひとつの調域から別の調域を見渡した時に基とする調での主音から「三全音」という増四度/減五度の位置に音が存在するという事はBS&T特有の稀有なアプローチであるので、それに類するアプローチを副和音という見立ての上で予期せぬテンションを忍ばせているのが「Limbo」であるとも解釈が可能なのであります。

 何れにしても、通常の音楽理論の領域では埒外とする物であるのでピンと来ない方もおられるかもしれませんが、BS&Tの高次なアプローチの実際と「Limbo」の実際には共通点が見受けられるという事を声高に述べたいのであります。

 こうした例があるからと言って、ありとあらゆる副和音上で同一の調域の属和音のオルタード・テンションを拝借して来ようものなら、ベースだけが変わるだけのオルタード・テンションの嵐となるだけに過ぎないのですが、当該箇所でのB♮は譜例通りの符割とは異なり、直後の [c] への短前打音的に弾かれる方がより原曲のそれに似るかと思います。当該箇所の小節は直前の4小節とのリピートで示しておりますが。その辺りを注意深く聴いていただければ助かります。瑣末な例とは思うものの、[c] 音への上行導音的に入る装飾音に過ぎないという解釈でも勿論通じるとは思いますが。デモでは明示的に譜例通りの音価で弾かせているのでご注意ください。

 因みにエレクトリック・ピアノの音は低域がブーミーにならない様な音にする為、2極(-12dB/oct)のHPFを噛ませ180Hzからスロープが始まる様に設定します。私のデモではRMIのエレクトリック・ピアノをベースにトリガーでホワイトノイズが僅かに混ざる様にした上で演奏しないと低域が相当五月蝿い筈なのでご注意を。元々原曲でも僅かにしか聴こえません。

 またこのパートのみならず各鍵盤パートは、原曲よりもかなりミックス量を大きくして譜例動画を制作しております。とはいえ原曲とは全く異なる解釈の音が存在すれば、原曲を深く知る方からすれば強烈な違和を抱く事でありましょう。そうした違和を伴わぬ様には配慮して制作しておりますのでご容赦いただきたいと思います。

 因みに、Aテーマでのベース・パートの破線スラーの意味は、スラーの過程で漸次変化するピッチがフレットレスのそれだという、フレッテッドとは異なるポルタメント感を強調する為に用いております。

 
 扨て次は「Out of the flying pan〜」と歌われるAテーマの解説で、このAテーマの区間は11〜18小節の8小節となります。非常に忝いのでありますが15・17小節目のベース・パートの短前打音はFinaleでのスペーシング編集のミスを残したまま譜例動画化してしまった物であるのでご容赦下さい。特に17小節目の最初の短前打音など、先行小節に小節線を飛び越えてしまいよもや後打音の様にすら表されておりますが、これは私の不注意から来るミスなので11〜15小節区間の譜例を参考にしていただければ幸いです。ベース・パートはこの4小節のリピートでしかないので重ねてご注意下さい。

 このAテーマのコードは8小節間はずっと「Bm7(on E)」であります。解釈する人によってはこのコードを「D6/E」および「D6(on E)」とする方もおられる事でありましょう。然し乍ら6th音相当の [h] は左手のより低目で鳴らされている事により、上声部にある付加音という6thコードよりも同義音程和音としてのマイナー7thコードの方がベターな解釈であろうと判断したので「Bm7(on E)」と表記しております。

 このAテーマ8小節のラップは、Macのスピーチ機能を使った「Alex」の声を加工した物です。スピーチは外国人ばかりでなく日本人も用意されていたりするのですが、いずれのスピーチを用いようとも、音楽のリズムに則った拍節で上手い事喋ってくれる訳ではないので、拍節感をより一層ラップの様に仕上げる為の音価変更にはHit ’n’ MixのInfinityを用いて音価の変更をしております。

 その後にLogic Pro X内蔵のピッチシフトとZynaptiqのPITCHMAPをパラレル出力で通した音として音を加工し、原曲のラップというよりもYMOのアルバム『BGM』収録の「Camouflage」の様なSEの雰囲気として個人的には楽しんで加工を施しました。特に15・16小節目でのラップは「カムフラージュ」感をかなり意識しております(笑)。

 Aテーマの細野晴臣のベースのフレージングは、 [e] 音を明示するも決して [e] 音をルートとするコード上でのフレージングとは異なり、[a - a - h - h - cis - cis - d - d] というフレージングは、アッパーのBm7に阿りつつも、Bmの基底部の根音を含む和音構成音を弱勢に追い込む様にしてフレージングするのは遉のフレージングです。

 つまり、仮に3拍目の拍頭で [h] から弾き始めてしまうと完全にアッパーのBm7に従属するフレーズになりかねず「on E」の感が全く無くなってしまうので、その辺りを配慮し乍らフレーズ形成をしているという訳です。


 そうして次は19小節目以降のBテーマ。と呼びたい所ですが、この「Out of the flying pan〜」から始まる4小節は「ブリッジ」として私は解釈します。つまり本曲はイントロ→Aテーマ→ブリッジ→Bテーマという構成として解釈するという訳です。こうした4小節程度の小さいブリッジを挟む曲は稀ではありますが存在しうる物です。私のブログでも過去にジョージ・ベンソンの「Use Me」を取り上げた事がありますが、あの曲も各テーマ毎に小さくブリッジを挟み込む様に形成されているので、興味のある方はブログ内検索をかけてみて下さい。



 扨て肝心のBテーマの4小節となる19〜22小節目の区間を語るとしますが、コードは2小節毎に繰り返されるツーファイブ形式です。Am7→D7→Gm7→C7という物ですが、この進行はBS&Tの「スピニング・ホイール」のAテーマのコード進行そのものであるのです(※Spinning Wheel Aテーマはブラス・セクションのテンションは割愛しますがという風に移高されるEm7→A7→Dm7→G7という各音程間は下行五度進行であるもツーファイヴの1組が順次長二度移高を繰り返すという形式)

 つまり、先述にもある様に私がBS&Tからの引用という風にしていたのは「God Bless The Child」含め「Spinning Wheel」からの引用もある為、細野&高橋の2人の間でBS&Tについて語られ、そこからアイデアが育まれて行ったのではなかろうかと推察するのです。器楽的素養のある方でBS&Tを知る方ならこの類似性がお判りになる事でしょう。無論、パクリという物とは全く異質の物なのでその辺りは皮相的且つネガティヴに捉えるまでもないかと思います。




 BS&Tの「Spinning Wheel」と言えば、日テレの「ウイークエンダー」や「ルックルックこんにちは」でも使用された程の楽曲冒頭の♯9thのSEは有名でありますが、このシャープナインスは少し特別で、ジミ・ヘンドリックスのパープル・ヘイズのそれとは少々異なり、本位十一度である♮11th音を内在する型の物で、コード表記的には「D7(♯9、11)」となりヴォイシングとしては下から [d・g・c・eis・fis・a] という風に奏されます。



 そうした特徴的なブラス・セクションのSEのヴォイシングに依るコードは本位十一度を纒って聴こえるのは [d] よりも完全四度高い所で [g] が鳴らされるからでありますが、低位にある事を好い事にこれを「D7(♯9)/G」と解釈すれば副十一の和音として和声的状況を俯瞰して見つめる事が可能になるかと思います。

 そうする事で、[g] を根音とする時の仮想的なコードの側から、平時では縁遠いテンションの存在が見えるかと思います。なにより [g] から見た [eis] は増六であり、[g] から見た [fis] は長七なのですから。

 加えて、見ようによっては「F♯dim△7/Gsus4」という風に [c] をコモン・トーン(=共通音)として歪曲して見る事も出来るので、こうした世界観を基準にした時の後続和音が「晏息」の為のコントラストとしての不協和なのだとすれば、その不協和の状態では非常にクロマティック な側面で見れば「自由な」状況でインプロヴァイズを繰り広げられるポリコードとも解釈しうる物だと思います。

 無論「Limbo」では高次なクロマティシズムの世界観を要求してはいないので、「Spinning Wheel」のSEまで引用する必要はなくとも、高次なクロマティシズムの示唆はキーボードのリフに仄かに鏤められたのではなかろうかとも思えるのです。

 それらを鑑みると、BS&Tの2ndアルバムに於ける本位十一度を其処彼処に散りばめる高度な和声的センスを引用しつつ副和音での和音外音や分数コードの取扱いを巧みに咀嚼して制作した結果として顕著な分数コードが現れる事になったのが「Limbo」なのではなかろうかと思うのです。コンピューターのシークエンス的ではなくバンド・アンサンブルの人間的なリフ形成で一旦の幕を閉じようとしたのが初期YMOの最終スタジオ・アルバム冒頭を飾る曲として世界観を構築したのでありましょう。

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