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キングパワー (4:最終解決) [楽理]

 懐かしのテレビCMのひとつに挙げられる東芝乾電池『キングパワー』。私が本CMを最後に観たのは1977年(昭和52年)の事ですから、本ブログ記事投稿時の2019年10月と比較すれば42年前の事となる訳です。プロ野球日本シリーズにてヤクルト・スワローズの大杉選手の疑惑のホームランが出た年でもあり、「最初のパンダは黒かった♪」というCMソングがヒットしていた頃でもあったという時代。「この時代を最後に」先のCMを観た覚えが無いというのですからこりゃまた相当古い記憶を辿る必要がある物でして、あらためて隔世の感を覚えるところであります。


 扨て、私のブログ記事「キングパワー」シリーズも今回で4回目を迎える事となった訳ですが、己のかすかな記憶だけを頼りにこれまで散々臆断を語ってしまっていた事をあらためてお詫び申し上げます。というのも、この度漸く私はYouTubeでキングパワーのCMを見つける事が出来(リンク先のYouTube動画1:59秒〜)、そのCM曲の正体をあらためて確認したのでありますが、長七度忒いの長三和音が併存するポリコードの類とは少々異なるという事が判明したので、これを期に詳らかに語っておこうと思った訳です。

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 当初は《上に「A△」下に「B♭△」》としていたのは誤りであり、特に「B♭音」は私の記憶が変質して類推してしまっていただけの付与に過ぎないというのが判りました。但し、「マイナーのペレアス」とも呼ぶべき状況であるというのは確かであります。その場合、コード表記で表すとなると「Dm△9(♯11)」という風に表す事となり、同様にしてポリコードで表記すると長七度忒いの短三和音同士に依るポリコードとなる「C♯m/Dm」という和声的状況がキングパワーの正体だったという訳であります。そういう訳で私は今回やっつけで譜例動画の方もあらためて制作したので、非常に尺の短いCM曲であるとはいえ楽曲を語る際には次の譜例動画を観ながらの確認とさせていただくのでご容赦ください。




 先に紹介させていただいた元の動画では、キングパワーのCMが録られたのは1974年1月との事です。乾電池のオス(プラス)部分に絶縁体のシールが貼られていたのを外していたのは確かに記憶にあるものです。1974年と言いますと、いくら私がクロスオーバーを聴き始める様になっていたとはいえブレッカー・ブラザーズの1stが丁度この辺りで、巷では武田鉄矢の『母に捧げるバラード』がヒットしていた頃と重なるのですが、かなり古い記憶を辿らざるを得ない私からすると「キングパワーのCMって、そんな頃からやってたんだっけ!?」などとついつい半信半疑になりそうになるも、己の記憶は澆いクセして映像の記録と共に当時の時代を明記していただいている動画を懐疑的になっているという訳では決してありません。余談ではありますが、1974年という年は、その春にテレ東でアニメ『ダメおやじ』の放送が始まったという年でもありました。



 己の記憶が変質するほど懐かしい記憶を辿る。私の場合音感に関しては匂いを記憶する位に強固にこびりつくので、よほどの事が無いと変質しない自負があったりした物でしたが、記憶が曖昧なソースに関しては結構独自に解釈してしまっているなあとあらためて痛感させられました。当時の我が家のテレビなど四つ足テレビでしたからね(笑)。本CMを最後に観た1977年という年も、私の記憶が正しければ音声多重放送もまだ始まっていなかったという時代ですからね。


 郷愁の念に駈られつつも本曲のコード部分を語って行く事に。本曲のキーはDマイナー(ニ短調)で、イントロはトニックから下方五度進行が実に顕著でありますが、ご覧の様に過程では要所要所で副次ドミナント(セカンダリー・ドミナント)化させ乍ら、「♭Ⅵ」を強調して来ます。

 短調に於ける「♭Ⅵ」のスケール・ディグリー名は「サブメディアント」と呼ばれ、長調に於いて「♭Ⅵ」が生ずる時は「フラット・サブメディアント」と呼ばれる事に関しては注意が必要な部分です。

 長調・短調の両調性の絶対的な音度としてはどちらも「♭Ⅵ」ではあるものの、短調の場合はそれが正位位置(せいいいち)である為「フラット」を冠する必要がなくなるからです。ですので、短調の正位位置では無い「♮Ⅵ」の場合を「シャープ・サブメディアント」と呼ぶのも同時にお判りいただける事でもありましょう。私のブログでは、読み手の方がこれらの「♭Ⅵ」を混同しない様に、短調に於ける「♭Ⅵ」はなるべく「短調サブメディアント」と強調して呼んでおります。

 短調であるならばサブメディアントと呼んだだけで「♭Ⅵ」を指すので態々強調する必要は無い筈ですが、日本国内のジャズ/ポピュラー音楽界隈に蔓延ってしまっている誤解のそれの多くの場合は、著者および指導者の主導的な語句導引によって決められてしまう所があるので(※学会などの場で共通認識として醸成させようとしない)、承服しかねる状況に遭遇する事も少なくありません。そうした状況を作り上げてしまう要因としてアーティストのビジネス的成功の権威力・発言力が基となってしまう事が往々にしてある為ですが、言い換えれば学歴を必要としない下剋上が起きるに相応しい土壌でもあると言えるのかもしれません。とはいえインターネットが整備された現在に於て多くの情報を目にする機会が増えている状況下を無視したまま、共通認識を勘案せずに臆断を辷り込ませるかのような指導は最早正当性を欠いているとも言えるでしょう。

 斯様な件も踏まえたうえで本曲の「♭Ⅵ」は本テーマ部でも重要な取り扱いとなるので念頭に置いてもらいますが、イントロが最も目立っている所は「シャープ・ナインス」が顕著な「A7(♯9、♭13)」の所であろうかと思います。ドミナント・コード上で生ずる「♯9th」音は実質的には同主調の側の同度の和音を複調的に導引してきた音脈である為、実際には「♭10th」が精確な表現ではあります。とはいえ、同主調との複調として取り扱うよりも、調性を一元的に捉えつつオルタード・テンションのひとつとして加えた方が取り扱い的にも簡便性が増す為、この手のコード表記で付与されるオルタード・テンションは「♯9th」であるので、A音から見た9度相当=B音の半音上方変位=♯9th=B♯となるので、楽譜上では「C♯とC♮」として併存しない様にして「C♯とB♯」として書かれているのであります。瑣末事に思えるかもしれませんが、非常に重要な事でもある為避けては通れぬ部分です。


 茲から本テーマを語る事になります。本テーマは基本的には2コード・パターンでありますが、後続の「B♭7」での7th音のオルタレーション化で生じたスケール・ディグリーで見た時の「♭Ⅴ」が「♮Ⅴ」に戻る時に経過和音として「B♭△7(♯11)」が1拍置かれる事になるものの、実質的には「Im→♭Ⅵ7」の2コード・パターンと言えるでしょう。但し、原調の「Ⅴ度」が半音変位させられる時というのは、原調の強い残り香があってこそ原調の姿かたちを投影し乍ら変位した音の世界観を聴く事が出来る物ですが、原調の調性を司る「Ⅰ or Ⅴ」が叛かれる時というのは実質的には「転調」です。

 それを転調としては扱わず、あくまでも原調から見た上でのノン・ダイアトニックとして見立てた方が楽だとする解釈をする所もありましょう。その場合の根拠となるのはブルーノートの存在です。ブルーノートというのは長音程および完全音程の7・5・3度が本来ならば微小音程的なイントネーションで下方に変じられる事でありますが、その変位が12等分平均律に捉われ且つ均される事で「半音下方変位」というオルタレーションになった訳でありまして、ブルーノート出現をも視野に入れた場合、ノンダイアトニック・コードとして出現する可能性として「♭Ⅶ」「♭Ⅴ」「♭Ⅲ」が生ずる可能を視野に入れる事は確かに可能です。今回の場合短調を基にした調性である為、ブルーノートとして態々「♭Ⅶ・♭Ⅲ」を視野に入れる必要はなく、ブルーノートが是認される状況というのは自ずと「♭Ⅴ」を生む可能性に限定される事になります。

 扨て、ブルーノート出現の可能性を視野に入れた作曲法を前提にした所で、原調の「Ⅴ度」が「♭Ⅴ」とまで変位される状況に於て原調を墨守するという見立ては正直なところ単なる強弁に過ぎません。Dマイナー・キーで「B♭7」を生じました。そのコード構成音である7th音=A♭音が原調の「Ⅴ」から「♭Ⅴ」と成しているという訳です。

 原調の「Ⅴ」が叛かれた状況では、原調の強い残り香が元の調性としての威力を発揮させようとしているだけにすぎず、死んでしまった親の威光を莫迦な子供がその権威に固執しているだけの状況に等しい物であり、それが原調の姿かたちを大きく崩す事なく「♭Ⅴ」として粉飾された響きが原調の移り変わりから然程おかしくない様に耳する事ができるだけの事に過ぎず、実際には局所的に生じた部分転調に過ぎない訳です。

 無論、セカンダリー・ドミナント・コードとして生ずる可能性のある副次ドミナントは「♭Ⅵ7」のみならず、半音階的に他にも11種類の音度で生ずる可能性はあります。とはいえ、原調の調性を司る主音 or 属音を叛かれる事になる半音変位では実質的には転調と解釈する必要があるという訳です。「Ⅰ度」が叛かれる副次ドミナントというのは実際には「♭Ⅱ7」です。皮肉にも「Ⅴ7」の三全音代理(=トライトーン・サブスティテューション」なのですが、これとて実質的には「♭Ⅱ7」は「♭Ⅴ」に下方五度進行をする為にあるコードを、偶々三全音が共通する状況である為「♭Ⅱ7→Ⅰ」という「音楽的強弁」として用いるひとつの例に過ぎず、これが「音楽的方便」として是認されているからといって、「♭Ⅵ7」でオルタレーションされるその和音構成音の7th音=「♭Ⅴ」の音も「音楽的方便」なのだと同一視してしまってはいけないのです。これは音楽の体系として必要な「音楽的方便」なのではなく、単に自説の実を上げたいばかりに音楽を形容する際に用いる言語的な側面での「強弁」に過ぎないのです。


 調性を司るのは少なくとも主音と属音です。それらに僅かながら導音が貢献します。この導音はムシカ・フィクタとして可動的変化で生ずる上行・下行導音をも視野に入れた物ではなく、♮Ⅶとして生ずる限定的なスケール・ディグリー名としての「導音」の事であります。


 調性的に捉える状況を冷静に考えてみましょう。唐突に「Ⅰ度」が叛かれた響きとして「♭Ⅱ7」をハナから聴かせられる状況に於て、そのコードの7th音である「♭Ⅰ」を主音の半音低い音だと聴き手に認識させるのは相当に六ヶ敷い事であろうかと思います。トニックから始まる音楽でないとしても、和声的にドミナント7thコードを初っ端から提示すればそれが「Ⅴ7」として認識させる事は可能なのでありますから、その直後に和音を装飾的にスルリと「♭Ⅱ7」に変じてみれば、いくら「Ⅰ」が「♭Ⅰ」として叛かれようとも、最初の提示として「Ⅴ」をきちんと取り扱ったからこそ、そうした「Ⅴ7→♭Ⅱ7→Ⅰ」という状況を作る事が可能とも言えるでしょう。

 次のインコグニートのアルバム『Positivity』収録の「Talkin' Loud」のイントロ冒頭の「Ⅴ7(♯9)→♭Ⅱ7(♯11、13)」での「♭Ⅱ7」の七度音が「♭Ⅰ」と嘯くにしても、最初に「Ⅴ7」が明瞭にドミナント・コードとして提示したからこそ、調的な意味での「Ⅴ度の位置は茲ですよ!」とばかりに灯台のライトが見える様になっている訳であり、その直後で「Ⅰ」が嘯かれようとも、スケール・ディグリーのⅠとⅤが嘯かれてしまって調性が茫洋とする訳ではなく、主音=Ⅰの提示が無くともⅤが活かされていた事で調性感は認識可能なのです。況してや本曲イントロでの「♭Ⅱ7(♯11、13)」をナポリの6などと強弁しようものなら、この和音の後続はニ短調のドミナントへ行こうとしているのか!? と問えばそれが全く異なるという事は明白でありましょう。なにせトニック・マイナーに解決しようとしているのですから(笑)。




 ※余談ではありますが、前掲の「Positivity」に於ける当該箇所「♭Ⅱ7(♯11、13)」でのベースのランディー・ホープ・テイラーの奏する [as](=A♭)音がバックのブラス&ホーン・セクションとのピッチと比して1スキスマ(≒2セント)ほど高い為、顕著にA♭音のロングトーンの「うなり」がお判りいただけるかと思います。私の推測ではあるもののこれはおそらく、ランディー・ホープ・テイラーが調弦の際にクロマティック ・チューナーを使わずに調弦してしまった為に、A弦をチューンした後に異なる倍音組成であるにも拘らず隣接弦同士のを3倍音と4倍音とで互いのハーモニクスを合わせてしまった事が要因となった典型的な狂ったピッチのうなりであります。

 A弦の4倍音をE弦の3倍音で合わせてしまうと、E弦の4倍音はA弦の3倍音とドンピシャとなっているのでA弦の純正完全十二度=3倍音は平均律基準で約2セント上ずる事になり、この上ずった音を基準にした弦に対してE弦をジャストで合わせればE弦も釣られて約2セント上ずる事になるのでE弦上で弾かれる開放弦とフレット押弦の音は全て上ずる事となります。この様な事からロングトーンに於てピッチの揺らぎとしてのうなりが際立つのであります。異なる弦の間で奇数次倍音と2^(n+1)倍の倍音とを合わせようとするのでうなりが生ずるのは自明の理であります。

 とはいえ、ランディー・ホープ・テイラーのこうしたピッチの不完全さに目を瞑っていられる理由は、彼自身のグルーヴの良さに尽きると思います(彼の名誉の為にも附言しておきますが、ランディー・ホープ・テイラーは他の曲でも調弦のピッチが悪いという事は決してありません)。グルーヴの良さからすれば瑣末事であるという事でしょう。だからと言ってその辺の凡庸な連中がこうした調弦を真似てしまい、その粗末な調弦をも凌駕せぬ演奏を繰り広げる輩が隣接弦同士での3&4倍音を合わせるハーモニクス・チューニングを是認する事を強弁する事は罷りならんと思います。


 つまり重要な事は、主音 or 属音の提示があってこその和声的な装飾が活きるのでありまして、属音の提示は主和音の5th音がほぼ自動的にやってくれるとは雖も、「調性」を墨守しようとする見方をしているにも関わらず「Ⅴ」が「♭Ⅴ」として変位してしまっている状況にて原調を基に考えるのは莫迦げているだろうという意味なのです。


 ブルーノート発生に伴うオルタレーションが視野に入る時や、調性を勘案する際にⅠ・Ⅴ度の重要性を読み取れぬ様な愚か者が小山大宣著『ジャズ・セオリー・ワークショップ』(武蔵野音楽学院)の初級、中・上級編を読んでもその真意を今こうして私が書いた様な事など読み取れずに皮相的理解に及んでしまっている者が、「♭Ⅵ7」を生じても原調を墨守して「調性」を想起しようとしているに過ぎないのです。無論、『ジャズ・セオリー・ワークショップ』にも舌足らずになっている感は否めません。同書の初級編p.60には既に「♭Ⅵ7」の取り扱いについて触れております。但し、「♭Ⅵ7」として解釈したその部分転調的コードの機能を「サブドミナント・マイナー」の機能として充てているのは説明が不足しており、愚か者を増やす事しか貢献しない事でありましょう。

 そもそも「サブドミナント」というのは、機能和声的な尺度から見れば「プレドミナント」つまりドミナントに行く為の先行機能として取り扱うだけで好いのにも拘らず、それを他調にある調域のドミナント7thコードをサブドミナント的に見る事がまずおかしいのです。

 無論、メロディック・マイナー・モード上で生ずるⅣ度上の和音はドミナント7thコードを生ずるも、そのⅣ度上の「ドミナント・コード」は下方五度進行や三全音代理にて半音下方に行く事すらも閉塞している状況となるコードを全音階的に生ずる物です。これを「Ⅳ度」の位置としての和音として見立てる事はあっても、これは決してプレドミナントではない事は確かです。機能和声的にも「サブドミナント」という機能は与えられておらず、実質的にはサブドミナントとして知られている「機能」の実際は「プレドミナント」である事が正しいのです。

 プレドミナントを生じない時に初めてそれを「サブドミナント」と名乗る事が出来る訳ですが、こういう状況は「偽終止的進行」を自ずと選択している事になる為に機能和声的状況とは意を異にする状況となります。非機能としての状況に於て「サブドミナント」となるというのも皮肉な物ですが、調性機能の正当な解釈がこうなので仕方がない所です。

 サブドミナント和音の重要な所は、そこに和音構成音を重畳しく積んだ時に主音も属音を俯瞰する様にして積む事ができるからであります。主音は完全五度上にあり、属音は長九度上に存在する訳であります。主音上の和音で下属音を見るとアヴォイドとして聴こえ、属音上の和音で主音を見れば矢張りアヴォイドとして耳にしますが、サブドミナント上での主音と属音は馴染む物です。この「馴染み」がその後はジョージ・ラッセルがリディアン・クロマティック ・コンセプトの強弁として取り扱ってしまうのが厄介な過ちであるのですが、そもそもの「サブドミナント」という機能としての在り方というのは有って無い様な物に過ぎないのです。これが機能和声的な「プレドミナント」としての役割です。

 念のために附言しておきますが、ナポリの六度の増六度の和音の取り扱いも「プレドミナント」ですからね。つまりそのそれはドミナントに進む為の物なので、「♭Ⅱ7→Ⅰ」を適用できない見方なのです。ナポリの六をプレドミナントとして見ていない人は危険極まりない理解に及んでいるので注意が必要です。


 加えて、調性機能としてのトニック、ドミナント、サブドミナントというのは、その機能が宿っている主体は長和音にこそ宿っているのでありまして、短和音が持つ機能というのは実際には短和音の三度上方にある長和音の機能を間借りしているだけに過ぎないのが実際なのです。例えばイ短調のAmはハ長調のCの機能=トニックを借りており、結果的に平行長調の副三和音(※ハ長調ならばAm、Dm、Em)が平行短調の主要三和音であり、それぞれの短和音の三度上方にある長和音を借用しているに過ぎないのです。


 小山大宣は「♭Ⅵ7」のそれを「♭Ⅵ△7」の7th音がオルタレーションしたという立場を採っておりますが、「♭Ⅵ△7」というのは確かに長和音であるも、ノンダイアトニック・コードであるに過ぎません。但し、「♭Ⅵ△7」というのはサブドミナント・マイナー「Fm」の主体的代理であるのは同主調という音脈から勘案してもそれは正しい物ですが、藝大(島岡)和声から入っている様な人だと長調フラット・サブメディアントをトニックとして見立ててしまう人も居るので注意がこれまた必要です。とはいえ藝大和声は古典的機能和声の多くの応用例までの範例としてしているので、和音の代理機能しかり減七の取り扱いも古いのでジャズ/ポピュラー方面に援用すると矛盾が生ずるのでやめておいた方が良いでしょう。トニック・マイナーをドリアンで嘯く社会に於て藝大和声を援用しようとする事自体トチ狂っているのでありますが(笑)。


 減七の取り扱いが古いとしたのも、皮相浅薄な連中が「減七」として取り扱っているその実態が「マイナー6th(♭5th)」の可能性が往往にしてあるという事です。つまり、その「あたかも減七」が喚起してモードはルーマニアン・メジャーやリディアン・ドミナント7thの2度音が半音下がったという類のモードを歓喜している筈であろう所を、凡庸な理解に収まる連中が「減七」として取り扱うと途端にハーモニック・マイナーという凡庸な社会感にすり替わるというアレですね(笑)。つい最近も高中正義のブルー・ラグーン関連の記事で取り上げましたが、そういう解釈とて藝大和声では無理難題です。藝大和声ではパラレル・コードやカウンター・パラレル・コードはもちろん、ヴァリアント和音などについても解釈が古いので適用できません。体系としては機能和声をみっちりと遣って呉れるので有難いのですが、機能和声を直視したい人はそちらをじっくりと遣って下さい。


 これらの状況をあらためて踏まえた上で『ジャズ・セオリー・ワークショップ』が示すべきは、その「♭Ⅵ7」というのが他調由来のモードとしての「Ⅳ」に置換して想起しうる事の可能性である事です。この見方を拒んでしまった場合、「♭Ⅴ」を導出する事となるブルーノートの発生の前提としてのそれを、同主調の音脈と結びつけているのですから、主音を同じくする長調と短調同士ばかりで照らし合わせるだけでなく、主音の音高が異度となる調域同士で対照させ合っても構わない筈です。主音が異度と成してしまう事で齟齬が生ずるとすれば、それは主音同士を同じ音で見れなくする事ができなくなるだけの簡便さを欠いただけの事にすぎぬ為、同主調も他調の拝借に過ぎない事を忘却の彼方に葬り去ってしまっている事になってしまうからです。

 また、皮肉な事に「♭Ⅵ」をトニックと捉えるそれというのは結果的には局所的に生じた転調と同様である以上は、奇しくも藝大和声の方が転調を仄めかす事になっているというのも奇なり。藝大和声であろうと小山大宣であろうと、原調の残り香が強い状況に於てある程度の「回り道」を容認しているに過ぎず、これは短調の世界で生ずる多くの「材料音」を巧妙に利用してきた西洋音楽の大家のそれと大差は無いのです。


 本来ならば機能和声社会に於て、短和音の本機能は三度上の長和音が持つ機能を借用するという原則ですらも島岡和声の場合は非常に古いので今回敢えてそれを援用する事までは致しませんが、皮肉な事にジャズ/ポピュラー音楽界隈は和音構成音を共有する事で機能を同一化しようとする音楽的方便も生まれました。

 本来、短調を基にした時のトニック・マイナーというのは機能和声的に押し並べて鑑みれば三度上方の長和音にある筈で、それと同様にディミニッシュ系統の和音というのは三度下方に類推しうる属和音の機能に肖るという「旧い類」の機能和声的な一元的な見方で集約されそうになりますが、プラガル(=偽終止的進行)つまりは終止を前提としない半音階的全音階の世界観を有する場合の和音機能というのは上にも下にも「等方」に和音構成音を共有(コモン・トーン)して機能を共有しようとするのが最大の特徴なので、機能和声社会のそれとは混同せぬ様にお願いしたい所なのであります。

 そうして次の例の様に、ドナルド・フェイゲンの「愛しのマキシン」のAメロ冒頭に現れるハーフ・ディミニッシュ「C♯m7(♭5)」は、その三度下方にあるドミナント和音の代理では決して無く、これはトニック・マイナーの三度下方として共通音(コモン・トーン)を利用して短調に於ける「♮Ⅵ」を導引する事で得られる用法であり、この「C♯m7(♭5)」はトニック・マイナーの「Em」の代理であり「A7」の代理では決してないのです。




 こうした「短調の音楽的方便」の例は西洋音楽にも見られるのであります。チャイコフスキーのピアノ協奏曲「変ロ短調」第1番作品23では、冒頭から短調を示唆するも直ぐに短調シャープ・サブメディアント=「♮Ⅵ」に進んでそのまま短調を明確化するのではなく平行長調へと移ります。これは平行短調の側の材料音を巧緻に用い乍ら平行長調の世界にてどっしりと「音楽的方便」にて納得させているという訳です。




 次のデヴィッド・サンボーンの曲はアルバム『夢魔』に収録の「Let's Just Say Goodbye」ですが、冒頭のコード進行である「Im7→♮Ⅵm7(♭5)→♭Ⅵ△7(♯11)→Ⅴ7(♯9)」に於けるシャープ・サブメディアント=「♮Ⅵ」も同様であり、これがもしも三度下方の「D7」の代理だと強弁するならば、その後続となる「G某し」あるいは「C♯某し」に進行しないのか!? という事になりかねません。このハーフ・ディミニッシュの代理は三度下方のドミナント・コードを見るのはあまりに莫迦げた想起となる訳です。それが仮に「D7」という「Ⅳ7」に代用できるというのであれば「Ⅳ7」の後続となってしまう「F△7(♯11)」への整合性が採れなくなり自己矛盾を晒してしまう事になってしまうからです。




 つまりは、機能和声社会での短和音の機能の在り方という事と、西洋音楽界がロマン派以降に「転調」を巧みに利用して半音階的全音階を駆使して十二音技法とは異なる意味での「無調」の世界まで辿り着いた社会の断片的シーンでもある「短調を駆使」した音楽的方便に発展したそれと、調性を「恣意的」に抜粋してみる「教育的主眼」という物を十把一絡げにして取り扱う事は無理難題でもあります。況してや先の「マキシン」や「Let's Just Say Goodbye」などは、偽終止的進行が過程に忍ばされている物です。調性は最終的には明示化されているものの、過程では巧妙に嘯いているという好例でもあります。こういう状況で恣意的に「機能和声」側からの解釈を発揮してはいけません。

 また、「Let's Just Say Goodbye」に似る形のコード進行のタイプの応用に依るバリエーションの例が次の通りとなります。このコード進行は、トニック・マイナーに対してクリシェ・ラインとして「Am6」が生ずるものの、トニック・マイナーの3度下方となる短調シャープ・サブメディアント(=♮Ⅵ)を根音とする「F♯m7(♭5)」の同義音程和音として姿を変えて、その先のクリシェ・ラインを強化するというバリエーションになります。無論、トニック・マイナーから後続に「6th音」を生じつつもそれを短調シャープ・サブメディアントへ軸足を移す事に寄与しているのはベース音の [a - fis] という進行に他ありません。



 これらの件を踏まえた上であらためて「♭Ⅵ7」に内含される「♭Ⅴ」というのは、ブルー五度であるも原調を墨守して見てはならない物であるに過ぎず、ジャズ的発想を用いれば、新たなる調域の「Ⅳ7」=メロディック・マイナー・モードを視野に入れた方が良かろうという事なのです。更には、メロディック・マイナー・モードでの「Ⅳ度」をフィナリスとするモード・スケール=リディアン・ドミナント7thスケールの2度音を半音下方にオルタレーションすればルーマニアン・メジャー・スケールを得られる訳ですから、これらの可能性を視野に入れてアプローチを採る事がどれほど可能性を拡大するかは明々白々でありましょう。



 そういう訳で本題に戻るとしますが、「キングパワー」のCM曲は短調サブメディアント=「♭Ⅵ7」にてスケール・ディグリーで見る「♭Ⅴ」=ブルー五度を明確に押し出すのは、ブルージィーな和音として楽音に揺さぶりをかけて和声的に装飾をしようとしているのであります。無論、原調の残り香が強く薫るので、ある程度の粉飾を施しても原調を忘れる事なく、たとえ属音が叛かれようとも原調を忘れる事がないだけの事であり、実質的にはこの♭Ⅵは新たなる調の「Ⅳ」として見立てた方が本当は好ましい事なのです。揺さぶりをかけて転調が頻発しようとも結局は元のニ短調に戻って入れば良いのですから。ニ短調に於ける音楽として、それが卑近にならずになるべく和声的に粉飾しようとした結果としてこういうコード進行になっているのは、当時のCM音楽としても十分にモダンであったであろうと思います。

 そうして終止和音はマイナーのペレアスとも言うべき「Dm△9(♯11)」となり、即ちこれをポリコードで表記すればペレアスと称する理由が分かります。転回位置では半音忒いで構成される事となる長七度忒いのポリコード「C♯m/Dm」を響かせるのですから非常にモダンであります。

 マイナー・コードに三全音を有してしまうのはディミニッシュ系統以外にもA・イーグルフィールド・ハル著『近代和声の説明と応用』(改題前:『近代和声学の説明と応用』(小松清 訳)にて紹介されますが、その和音の特徴的且つ重要な点は、属音ではない、他の音が根音となる副和音、つまり副七・副九・副十一・副十三の和音に於ていずれもが三全音を有しようとも、属音を根音として聴かない三全音判官のそれは、属和音を背いた物であるのと同様なのです。

 また、このようなポリコードの使用に及び腰になられる方も少なくないかもしれませんが、リック・ビアト氏もごく普通に用いておりますし、ブログ内検索をかけていただければお判りかと思いますが、過去にはスタンリー・カウエルの「Juneteenth」の使用例を挙げた事もありますし、私自身の断片的なデモ曲でも取り上げた事があります。ビアトさんの最近の譜例動画でも扱っていた記憶があるのでご覧になられるのも良いかと思います。



 今回の譜例動画はSonata+Charlestonフォントを用いた物であり、四分休符がミヤマクワガタの様なシェイプなので私は結構好んで使用しております。符尾(旗)が今はFinaleに同梱されなくなったChaconneにも似た感じがあって、嘗ての国内教科書的な剡さがあってこちらも好ましい感じです。

 デモそのものはLogic Pro Xが殆どですが、シンセ・ブラスはArturiaのMatrix-12V、ベースはWavesのBass Fingersです。とはいえベース音源のそれは細かいパラメータを弄ってポジショニングなど全く無頓着に仕上げているだけのやっつけですのであまり参考にはならないかもしれません。エレピもLogic内蔵の「Vintage Electric Piano」の「Deluxe Classic」でして、Bus送りにHPFを噛ませたコーラスで、先日のNomad Factoryのフリーで頂戴したばかりの「Analog Chorus CH2S-3」を用いた位で特別な事は施しておりません。プレート・リバーブのプリ・ディレイが97ミリ秒位なモノでしょうか(笑)。