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ジェフ・ベックの「El Becko」がハーフ・ディミニッシュではない理由 [楽理]

 今回はジェフ・ベックのアルバム「There And Back』収録の「El Becko」について語る事にします。この曲の作者はアンソニー・ハイマスとサイモン・フィリップスがクレジットされている所も特徴的であり、これほど複雑で多様なハーモニーにドラマーが関与しているとはあらためて驚くばかりです。


 本アルバムはヤン・ハマーも参加しておりますが、その後のジェフ・ベックのアルバムから徐々にヤン・ハマーの名前が少なくなって行く事を示唆するアルバムであったのは多くのジェフ・ベック・ファンが知る所ではありますが、ベック本人のコンポージング能力というのはギター・パフォーマンスとは打って変わって凡庸であり、他人の複雑な楽曲の方で水を得た魚のようにプレイする所が不思議な物です。

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 元々はアルバムB面1曲目であった「El Becko」。冒頭の16分音符の5つのパルスが顕著(※ {7+5+5+5+5+5}+{3+3+3+3+4}+{4+4+4+4}というメトリック構造)であるそれは、よもやボリス・ブラッハーの「オルナメンテ」の可変拍子をも彷彿とさせる疾走感に富むフレーズでありますが、この楽曲の冒頭はこれほど素晴らしいにも拘らず古くから市販のバンド・スコアでは誤ったコード表記&解釈があまりにも有名であり、そのバンド・スコアの不自然さ故に楽譜に頼る者はその不自然さに気付くと途端に弾くのをやめてしまう位に興醒めしてしまう人が多いものです。




 ブラッハーの「可変拍子」という概念は、拍節構造を [2+3+4+5+6+7+8+9+8+7+6+5+4+3+2] という風にして、単純に分割可能な基のパルス構造に対して複雑な混合拍子を可変させて揺さぶりをかけようとする狙いがある物です。

 人々を魅了する楽曲であり乍らも流通する楽譜の誤りが禍して、きちんと採譜をした者だけが正しいプレイで再現可能という、若干敷居が高い曲であろうかと思います。

 なにせ市販のバンド・スコアは、冒頭の和音が「Fm7(♭5)」としてハーフ・ディミニッシュを充てているのですから滑稽です。あまりに滑稽な為、《「El Becko」の冒頭のコードはハーフ・ディミニッシュ》という皮肉で通じてしまう程です。

私のブログというのは巨大掲示板が繁栄していた時から嫌がらせを多く受けていた事も踏まえ、こういう状況を私は己の都合の好い様に利用して過去のブログ記事では態と《「El Becko」の冒頭はハーフ・ディミニッシュ》というエサを散りばめていた物でありましたが、今回YouTubeにて譜例動画の公開と併せて本記事を公開するに当たり、関連する記事はきちんと内容を変更しておいた事を先ずは報告をさせていただこうかと思います。


 すると、「誤り」となるのは市販のバンド・スコアという事になるのですが、まあ「El Becko」のバンド・スコアのそれについてはギター・パート以外は信用ならない位に酷い採譜である事は間違いありません。

 私自身、ジェフ・ベックのバンド・スコアというのは30年以上購入しておりませんが、その内容は現在も変わっていない様なので、折角の名曲を正しい解釈の下で高次な楽理的側面も踏まえて知識を共有できた方がより望ましいのではないかと思う事頻りであります。なにより、その謬見が酷い有様なのですから余計に正しい解釈で楽曲を捉える事は急務だと思われます。


YouTubeの方で譜例動画をアップした事もあり楽曲解説をかねて縷々語って行こうと思いますが、「El Becko」が収録されるアルバム『There And Back』は一般的に、ジェフ・ベックの代表的なアルバム『Blow By Blow』『Wired』の2作と比してあまり多く語られる事はありません。

 交通事故から数年空いての再出発というアルバムでもあり80年代の幕開けという事も相俟って多くの期待が寄せられた物でしたが、作品に関しては聴き手を選んでしまう類であろう小難しいアンソニー・ハイマスの近現代風ハーモニーには食いつきが悪いと言えるでしょう。アルバム全体としてビートを全面に押し出すよりも静謐なる楽曲が多く、収録時間も短く展開に乏しいのも一因ではあるでしょう。

 とはいえ、高次なハーモニーに耳慣れた人からすると、アンソニー・ハイマスの世界観というのはかなり興味深い物であり、仰々しさの無さというのが歴時の短いハーモニック・リズムやコード進行の展開にあるので、なかなか多くの人々の耳に宿らないという所も、このアルバムの評価を上げない要因でもあるでしょう。本アルバムを高く評価する批評家の多くは、それなりに相当楽理的な側面からも口うるさいタイプの人に依る評が多かったと記憶しております。


 ジェフ・ベックのストラト・キャスターが3スイッチに依るマトリックスなピックアップ・セレクターだったという事も当時を知るギタリストならマストとなる関連知識のひとつでもありますし、何より本アルバムではサイモン・フィリップスが兎に角評価が高いというのも納得のアルバムなのでもありますが、稀代のギタリストに傾聴する人々の耳が意外にも他のアンサンブル、特にアンソニー・ハイマスなどの近現代風のハーモニーを志向して展開する世界観の前には敷居が高いのか、多くの採譜者を迷妄に陥らせた結果がその後の「誤謬」となってしまったのは悲哀なる側面であろうかとも思います。



 扨て、茲から「El Becko」の楽曲解説をしていきますので、下記に例示する譜例動画に沿って語って行こうかと思います。




 譜例のピアノ・パートの高音部と低音部ではそれぞれ異なる調号を充てているのがお判りかと思いますが、これこそが私の解釈でありまして、上にロ長調および下にヘ短調という三全音複調として解釈しているのであります。なにゆえに斯様な「複調」という仰々しい世界観を想起しているのか!? という事を先ずは語る事にします。



 市販のバンド・スコアの誤りを今一度再確認する事にしましょう。「Fm7(♭5)」という表記でありますが、この採譜者からすれば「ブルー五度」=完全五度が半音低いという状況をどうしてもコード表記に汲み取りたいという意図は感じ取る事ができます。処が、本曲では完全四度音である「B♭音」も区別されて奏されている為、「B♭とC♭」という風に感じ取った上でのコード嵌当だったのでありましょう。

 確かに、左手低音部パートをオクターヴでの「F音だけ」を聴いてしまうとハーフ・ディミニッシュっぽくも聴こえなくはないのでありますが、実際には根音+完全五度+完全八度というオクターヴ&パワーコードを強めに弾いているので、この「C音」の存在こそが決してF音をルートとするディミニッシュとして聴こえさせない為の音でもあり且つ右手高音部で奏される [gis=G♯] が、異名同音となって低音部との [f・c] と加味されてヘ短調=f moll という感じを強く演出する事に貢献しているのであります。

 とはいえ、左手低音部は右手の [gis] の援けを借りて初めてヘ短調という世界観を手繰り寄せる事となり、冒頭小節からは1拍半進まないと確定できぬ状況であろうと思いますが、実際には [dis] が高音部で鳴らされた途端に [dis] と [c] との間で生ずる差音が [gis] [as] を喚起させるので、冒頭から16分音符のパルス2つ目の部分でヘ短調を確定する状況が整っているのでもあります。また、[c] が補強されている事で、決して減和音としては成立し得ない状況を作る事にもなる訳です。

 左手の低音部が弱く再生されてしまう状況であるならば、確かにハーフ・ディミニッシュっぽい感じに聴こえなくもないでしょう。然し乍らこの冒頭のピアノは単一の調性ではそれらの世界観を一元的に示す事は無理難題であり、少なくともブルージィーな世界観およびブルー五度が出現してしかるべき状況を想起する必要があるとして捉えなければならないのです。


 アーサー・イーグルフィールド・ハルの著書『近代和声の説明と応用』の中には、短和音を基とし乍ら「♯11th」音を包含する和音が紹介されております。そういう先例があるにせよ、箇々では完全五度の [c] があり、ブルー五度相当の異名同音であるロ長調としての主音 [h] があり、加えてロ長調上の第7音 [ais] も併存するという状況になっており、これらがハーモニー形成に寄与している状況に於て一元的に「ディミニッシュ」とするのが問題なのであります。

 懸案となる斯様な状況を勘案すれば、高音部が「ロ長調」および低音部が「ヘ短調」という三全音忒いとなる複調を想起すれば一気に解決するのです。ヘ短調の側を平行長調に置換してしまえば「変ロ長調」でもあり、ロ長調とは実質セスクイトーン調域(=1全音半)忒いとなる調域での物としても見る事が可能ではあるのですが、平行長調同士のセスクイトーン調域とて三全音複調を形成する様に恣意的に換言すれば容易く三全音忒いの複調を呼び込む事が出来る物なのです。

 特に頻繁に半音階的世界観が顔を出し、部分転調的に斯様な調域が辷り込む様なシーンなどセスクイトーン調域の推移は珍しくない程に頻出します。つまりは、そうした状況であればあるこそ「半音階」社会の喚起という訳でもあります。

 調性を標榜しつつも半音階的全音階の世界観を演出すれば、半音階社会の最たる特徴となる「三全音」が誘引となる状況に於ては、機能和声社会に現れる減五度/増四度の世界観を持つコードに固執して和音を捉える必要は無いのです。複調が視野に入っていればこうした状況は直ぐに晴れやかになるという訳です。


 
 こうして三全音複調として邁進する「El Becko」の1〜2小節目という運びがお判りいただけたかと思いますが、3小節目での高音部では注釈として 'Triton substitution of Ⅳ7 in H dur' という語句が目に飛び込んで来ます。

 これが意味するのは「ロ長調でのⅣ7として現れるコード=E7の三全音代理」という物なので、ロ長調側から見たE7の三全音とは「ais=A♯」音になるのですが、それがエンハーモニック転調と同義となって [b=B♭] 音を向く事となり、低音部でそのまま引き継いで来ていた世界観「B♭7」はヘ短調の「Ⅳ7」と軌を一つにして重なるという訳です。この高音部のトライトーン・サブスティテューションは非常に能く計算された物であり見事だと思います。

 こうした世界観をもう一度リピートして5〜8小節という風に聴かせているという訳です。複調で示す事に依る世界観の多様さと半音階社会を俯瞰している事で呼び込める三全音代理という見渡しで常に音楽的な拡張する世界観を視野に入れているという側面は非常に興味深い物です。


 9小節目に入ればピアノのパートも調号は不要な程に局所的な転調を小刻みに展開する様になるので、調号の嵌当はもはや煩わしくなってしまうので無調号へと変化させています。冒頭のコード「F7(♯9、♯11)」ですが、茲の和音を先行していた和音のそれに倣いつつ謬見を呼び起こすかの様にして「Fm7(♭5)」とか「Fマイナー某し」としてしてしまうのが愚の骨頂です。顕著に現れるピアノの [a] 音を、市販のバンド・スコアの採譜者はなぜ耳で捉えられないのかが不思議なくらいです。

 加えて、この「♯9th」は長調と短調の世界観が両義的になるかの様に響かせる類の物で、バルトークは勿論、YMOのアルバム『ソリッド・ステート・サヴァイヴァー』収録の坂本龍一作品「Castalia」の次の動画埋め込み箇所に似る様な両義的な世界観の使い方と同様であろうかと思います。




 こうした両義的な世界観とやらを噛み砕いて『青髭公の城』のイメージで例に表すとするならば、女を騙して生きていく青髭公がわざとユディットの気を惹く様にバルコニーで悲嘆する気持ちを吐露して彼女から慰められ乍らも青髭公は気丈に振る舞いユディットをひとり部屋に行かせる。然し乍らユディットの目の届かない所で奸計を企み青髭公がニヤリと咍うかの様な、そうした苦々しく狂気に満ちた両義性を見るかの様な雰囲気を感じ取る事ができるかと思います。


 11〜12小節目は「B♭7sus4→B♭」という風に、sus4の掛留が6拍と長めに採られているのはなかなか好い意味での蹂躙が利いているかと思います。

 
 13〜15小節目も先行小節と同様ですが、16小節目3〜4拍目での「Gm9」は、先行小節での「B♭」のパラレル・コードであり乍らも [a] 音を包含する事で、「♯9th」を明示させていた世界観としての呪縛から解放されたかの様な弛緩という状況を巧みに生んでおり、非常に好ましい物です。


 17小節目のギター・パートの破線スラーは私の場合、スラーの過程にある音符の音高は微小音程としての音も連続的に含まれているという事を意味する物なのでご注意ください。破線スラーの意味合いの多くは、今回私がこうして解釈している物が多いのですが、全く逆の解釈として過程にある音符をクッキリと音高を表す様にという解釈を採る人も偶に居たりするので、西洋音楽を眺める時は原曲と記譜とを対照させていただきたいと思います。

 扨て、17小節目でのコード「Em9」は先行小節からのセスクイトーン進行となっているという点も見過ごせない物です。加えて、「Em7」上でEドリアンの♮6th音相当の [cis] をギターが奏するという点も見過ごせない点であります。Eドリアン・スケールから見れば♮6th音であるものの、コードの側から見れば13th音であるという所も看過できない物です。

 マイナー・コードから♮6th=♮13th音を取り扱う場合、短和音の第3音とそれとが三全音を形成してしまう為、機能和声的な世界からは通常アヴォイドとされる物です。つまり、ドミナント・コードっぽさを喚起してしまうという事から避けた方が好いとする振る舞いではありますが、これまでのコード進行に於てはとてもじゃありませんが調性を一元的に捉えようとしてはいない部分転調の著しい半音階的全音階の世界観である為、機能和声側のアヴォイド・ノートとやらに頭でっかちになる必要は無いと思います。

 更に付言しておきますと、このマイナー・コード上の13thの取り扱いは本曲イントロ部の更に後の方で非常に佼しい響きとして再度使われるので念頭に置いていただきたいと思います。


 19小節目での「A/B -> Bm7(11)」というコード進行は、それほど明示的に局面が変容するという物とは異なり、[h=B音] を掛留させての上声部のヴォイシングに揺さぶりをかけた様な状況とも考える事が出来るかと思います。先行の「A/B」の方が「Bm某し」という状況を希釈化(暈滃)させているとも言え、後続和音「Bm7(11)」があらためて和声的な世界観を強調する様な状況を生んでおります。

 
 20小節目での「E/F♯ -> B/C♯」は、分数コードでありつつも一応か下方五度進行を成立させているので、これまでの状況の中では最も調性的な状況であると言えるでしょう。曷は扨措き、ギター・パートの5連符を纏わせた譜例は、ちょっと拘りすぎなのではないか!? と思われるかもしれませんが、私自身はこういう解釈で好いと思っております。疑問に思われる方は是非とも打ち込んでみたりして確認して欲しいと思います。


 21小節目での「Am9」に於てピアノの左手で奏される3連符のケツの [e] は非常に重要な音です。この揺さぶりは必須の音なので聴き逃して欲しくない音なのですが、市販のバンド・スコアはギター目線での採譜なのか、鍵盤部分も結構無頓着で、ギターのトップ・ノートに釣られた採譜をしている所が嘆かわしい所です。


 22小節目の4拍目のギターとシンセ・ブラスを見ると拍節構造が若干異なり、ギターの方はタイの直後に16分音符があります。譜面(ふづら)としての綺麗さを鑑みれば、ギターもシンセ・ブラスの方に合わせた方が「揃った」様に映りますが、こうした方がニュアンスが近いと私は解釈したので「不揃い」な状況を甘受していただければと思います。


 23小節目での「Bm7(on E)-> Am7(on E)」での後続の「Am7(on E)」ですが、当初の譜例動画投稿では「C(on E)」としてしまっていた事をお詫びします。ベースが掛留してウワモノとなるコードがパラレル・モーションを採っているという状況であり、こうした経過和音の運びは更に後続で同様の世界観を期待させてくれる物です。経過和音そのものは「Am7(on E)」の方の事を指しており、和声的な主体は「Bm7(on E)」にあります。この主体となる和音に対して和音が平行を採って後続に辷り込んでウワモノに「Am7」が紛れ込むという物です。この紛れ込みを「経過和音」と呼んでいる訳です。

 
 24小節目。先行和音からはスケール・ワイズ・ステップで「Am7(on E)」から全音か半音でのパラレル・モーションを期待させるかと思いきや二全音下行進行として欺いて来て「Fm7(on B♭)」とするのですから畏れ入るばかりです。先行和音は五度ベースで来ていたのに四度ベースにもすり替わっているという状況。ですので、世界観の大いなる変容のそれを感じ取る事が出来るかと思いますが、更に3〜4拍目で減四度(=二全音の同義音程)進行して「C♯m11」へ進むのですから、この目紛しい変化は非常に素晴らしい世界観だと思います。本曲の醍醐味が現れております。

 つまり、23小節目での「Am7(on E)」から上方に二全音心喉させれば「C♯某し」へ進むのでありますが、そこを上に採らずに下方に二全音を繰り返した「四全音下方」に「C♯m11」を迂回して進行させるという心憎い蹂躙が実に心地良いのであります。


 そうして25小節目は「B♭/C」という二度ベースに進行して26小節目では奇を衒うかの様に「B7(♯11)」を介在させて来るのですから是亦畏れ入るテクニックです。♯11th音が非常に明示的に使われている事は言わずもがなでありますが、[h=B音] から見た♯11th雄は [eis=E♯] であるので、平易な調号や曲では嬰ホ音に遭遇する機会は少ないとは思いますし、ギターのレギュラー・チューニングに於て「E」音は非常に重要な音度でもある為、それを態々「F」とはせずに「E♯」とは何事か!? と思われる方も決して少なくはないと思います。とはいえ、楽理をきちんと学ばれる方であれば、茲が [f] である筈はないので、その辺りもご理解願いたい所であります。


 因みに、26小節目でのギター・パートの3〜4拍目を確認していただくと、装飾音となる前打音を除けば [eis -> gis -> b] とフレージングされておりまして、最後に [b] が表されるよりも嬰記号が連続して [eis -> gis -> ais] と現れる方が視覚的な「易しさ」を感ずるかもしれません。とはいえ、当該小節の一番最後の音が [ais および b] のいずれであろうとも、「B7(♯11)」のコードからはいずれも和音外音なのであります。その和音外音をどのような解釈で想起するのか!? という事が肝腎なのです。

 27小節目での前打音 [b] およびコードとしての「B♭m9」という状況を勘案すれば、28小節目最後の音はアンティシペーションでありましょう。この場合は逸音ではなく先取音=アンティシペーションという解釈になるのです。そうなると先取音である訳ですから、後続小節での和声的な配下となる構成音が先行小節に浸潤しているという訳ですから [ais] よりも [b] が適切な表記となる訳です。視覚的な意味では突拍子もない変記号の登場なのですけれどもね。

 結果的に [b=B♭] の先取音の導引は「B7(♯11)」上で見ればBビバップ・ドミナント・スケールやBプロコフィエフ・スケールとも「強弁」してしまえる物ではありますが、後続和音の音脈を奏者が予期している事で持ち込む音として強烈に聴こえるので、やはり先取音=アンティシペーションと理解した方が良いかと思います。


 27小節目でのギター・パートには破線スラーでセスクイトーン幅のチョーキング・ダウンを示しておりますが、此処も帰着点となる [b] を張力の激しいチョーキングから解放されたいとばかりに過程のチョーキング・ダウンを曖昧にして聴力の弛緩を急いでしまっては愚の骨頂であり、過程の微小音程すらも明示的にするかの様にゆったりと弛緩させるという風な表現が破線スラーを使わせるのです。


 28小節目でも破線スラーは使っております。コードの方に目を遣れば「G♯m9 -> F♯m7(13)」となっている訳ですが、3〜4拍目で現れる後続の「F♯m7(13)」は、先述のマイナー・コード上の♮13th音の絶妙な使用例である訳です。

 ヴォイシングを確認していただければ、ピアノ・パートの高音部が [dis・e] と短二度でぶつけて来ている訳ですね。これは本当に絶妙でして、私自身マイナー・コード上で♮13th音を用いている他の楽曲も多く知ってはおりますが、本曲ほど佼しいのはそうそうお目にかかりません。私は何も、マイナー・コード上での♮13th音はどの様に使っても佼しいのだと強弁しているのではなく、本曲でそれが際立つのは先行和音のヴォイシングもあっての事であります。

 先行和音の [dis] の上に短二度上方に乗っかって来る訳ですね。先行和音「G♯m9」上で [ais・h] と短二度を形成していた [h] が後続の「F♯m7(13)」で [e] に鞍替えして [dis] と短二度を形成しているとも見る事が出来るでしょう。それは即ち、先行和音の内声部で隠れていた短二度の「衝突」が露わになったが故に乙張りが生じているという訳です。この乙張りがあるからこそ、より際立つという訳です。


 29〜32小節目の「Cm7(on F)」で、イントロは一旦の帰結を見る事に。四度ベースという所も心憎いですが、決してF音をルートとする「Fm11」ではないので注意をされたし。シンセ・ブラスもどうにか似せる事が出来、とりあえずは安堵している所です。


 尚、今回の譜例動画のデモはギターを除いて全てArturiaの音源で仕上げました。ピアノは「Piano V2」の 'Japanese small room' で仕上げ、シンセ・ブラスは「Matrix-12 V2」、シンセ・ベースは「Moog Modular」という物です。記譜フォントはElbsoundのフォント・パッケージにある「beethoven-23」を用いた物です。


 扨て、譜例動画の冒頭小節に戻って確認していただきたいのですが、ピアノの大譜表高音部は冒頭からヘ音記号を用いないのが正当な大譜表なので、態々拍子記号の直後に音部記号変化を割り込ませているという訳ですが、Finaleでこうした楽譜を作る場合私は、冒頭にダミーの休符を辷り込ませて音部記号変更を充てております。Finaleユーザーズ・バイブルではダミー小節を挿入しつつダミー小節を小節数にカウントされない様にする方法が明記されておりますが、私の場合はダミー小節を用いない方法を採ったという訳です。

 私の場合は、冒頭小節を「1/64+4/4」拍子という風に設定し、それを見かけ上は4/4拍子として見える様にしているという訳です。次の画像を見れば、編集中にダミーの六十四分休符がダミーとしてグレーアウトしているのがお判りになるでしょう。

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 但しこのままだと、いくら音価の短い六十四分休符と雖も楽譜上のスペーシングを稼いでレイアウトされてしまいます。Finaleが便宜的にこの休符のレイアウトを無視して4/4拍子として扱ってくれた方が助かるのです。ですので、「フレーム編集」を使って、ダミーとして取り扱いたい六十四分休符をスペーシングの上でもカウントされない様に、下記の図版の様に、当該休符となる「エントリー番号:0」のペイン内右から2つ目の列にある「プレイバック」と「スペーシング」のチェックを外します。その上で、図版右上のボックスにある「位置」を「-24」に設定すると、休符が手前に寄ってくれ、随伴する後続のスペーシングがきちんと確保される様になり、印刷した時は六十四分休符が恰も無かったかの様に振る舞うという風にして編集しているのであります。

FlameEdit_Finale.jpg


 無論、近代作品の中には、ピアノ大譜表が曲冒頭からト音記号同士やヘ音記号同士という例もあったりしますが、少ない例が先例を覆してしまう様な程には至らぬ例外として取り扱われているのが実際なので、きちんと先例の顰に倣った上で楽譜を編集する事こそが音楽へ敬意を払う事にもなるので、私もこうして体系に服従し乍ら楽譜を編集したという訳です。いずれにしても、編集し甲斐のある作品だからこそ注意と敬意を払えるのでありまして、採譜をする事に依って作品の機微に触れる事にも繋がるという事もあらためて述べておきたい所であります。

 そういう訳で、「El Becko」の謬見に染まらぬ解釈で、あらためて作品に触れていただければ之幸いでございます。最後に「El Becko」原曲をどうぞ。