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ジノ・ヴァネリ「Appaloosa」のコード表記に思うリック・ビアト氏への感謝 [楽理]

 前回、ビアトさんの『THE BEATO BOOK 3.0』について語った様にビアトさんの体系整備にあらためて感謝しておきたい一つに、四度和音のコード表記としての分類を挙げる事ができます。


 完全四度音程同士で三和音を形成する場合、それが [ソ・ド・ファ] であるならば「GQ」という風に表され、「Q」というコード・サフィックスがクォータル・ハーモニーの為の表記であるという事が一目瞭然であり、その第1転回形は同義音程和音として「Csus4」にも還元する事が可能となり、同様に第2転回形は「Fsus2」という同義音程和音に還元する事も可能であるという説明が為されているのが実に心憎い所であります。

 加えてビアトさんの凄い所は、四度和音は完全四度等音程ばかりではない事も念頭に置いているので「不等四度」となる四度和音のコード表記体系についても前掲著書『THE BEATO BOOK』に掲載されているのですからあらためて瞠目するばかりであるのです。


 扨て、sus4コードに7度音が付与される状況を想起した時、その7th音は九分九厘を超える確率で短七度音が付与されている事でありましょう。

 例えば「ド・ファ・ソ・シ」という「C△7sus4」というコードを思弁的に作り出したとして、そうしたコード表記を殆ど見かけない理由に挙げられそうな物として推察するに容易い理由は、その和音構成音に「三全音」を包含しておりドミナント・コードを匂わせてしまうという事。加えて、ドミナント・コードの断片を示唆しつつもドミナント・コードの解決先となる音が根音となっているという状況なので、調性機能としては「トニック上のドミナント」という風に調性が逡巡している様な状況に手を余しかねないという所から回避されているのであろう事は推察するに容易いという訳です。

 こうした状況への「及び腰」となるスタンスは、機能和声的な振舞いを主眼に置くが故に生ずる「回避策」となってしまっている訳ですが、音楽的な見通しに容易い機能和声的状況を避けてプラガルな和音進行も是認されて半音階的全音階社会も視野を広げる音楽観を形成している状況下であるならば、先の様な「C△7sus4」という逡巡するかの様な状況を好意的に使用する事は可能なのであります。

 カノンが起こっている状況を考えてみましょう。つまり輪唱でありますし、もっと周到にアレンジを施せばカノンを利用して和声を更に重ね挙げて多様な状況を生む事も可能なのであります。こうした状況で生じた和声感は、対位法に基づいた技法を和声法に持ち来して応用して生ずる例となるでありましょう。バイトーナル(複調)という状況まで視野に入れた時、各調性がそれぞれ一元的に同じ調性機能を向いて多彩なハーモニーを作り上げるばかりではないのです。一方の調性でドミナントが鳴らされ、もう片方の調性ではその調でのトニックが鳴らされている事も想起するのは莫迦げた事でありません。

 こうした状況にまで視野を入れれば何も「sus4」という体ばかりでなく「add4」という状況も考えられる訳です。ビアトさんの場合「add4」は「sus4/3」という風に記載されますし、「△7sus4」も勿論きちんと述べられている物です。


 ビアトさんのコード表記体系整備に感謝するのはそれらばかりではないのは曰うまでもありませんが、今回ジノ・ヴァネリの「Appaloosa」の譜例動画を作るに当ってあらためてその体系整備に感謝する事になったという訳であります。

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 今回制作した譜例動画はイントロ部分。「Appaloosa」を採譜するに当たってもっとも難儀する部分であり、他の箇所では採譜できない人はいないであろうという位に容易である事を鑑みれば、イントロ部分をレコメンドする方が大いに価値ある事であろうと思うので、イントロ部を拔萃する事に。


 冒頭のクォータル・ハーモニーで示されるコード・サフィックスの「Q」の嵌当が示す様に、そうです、これは四度和音から始まっている理由です。とはいえ、コード表記が四度和音として示さざるを得ず、物理的な音程構造に四度和音が累積されているという事ではない点には注意をしていただきたい所です。




 1小節目の「BQ/EQ(on A)」ですが、「BQ」は [h・e・a] を示し、EQは [e・a・d] を示す訳ですが、いずれのポリ・コードの根音を採らずに、[g] が最低音を採る必要があるので「on A」を付与しているという訳です。これはもう、こういう和音構成音なのだから仕方ありません。ヴァネリ兄弟がどういうコードを標榜してメンバー間でやり取りしていたかまでは判りませんが、いずれにしても学ぶべき点の多いコードであります。

 後続のコードも「DQ/AQ(on G)」と充てざるを得ないコード表記です。そうして「Fm7(11)→E7(♯11)」と進行していく訳です。リード音は与件の容易い下行フレーズでありますが、和音が揺さぶりをかけているという状況である訳です。


 3小節目の「E♭△7→D♭△9(13)→Cadd9→A♭△7(♯11)」は、このイントロ中で最も採譜のしやすい部分でありましょう。多発するメジャー7thコードの内含する長七度音が結構あからさまなので判りやすいという所が影響しているかと思いますが、メジャー7thコードのそれに慣れていない方にとってはそれなりに難しさを伴うのかもしれません。何れにせよ一元的な調性を向いた機能和声的状況とはまるっきり異なる世界観ですので、リード音の見通しのしやすいフレージングと比してコードをこの様に揺さぶりをかければ、これもまた複調的なアレンジなのであります。リード音が判りやすい長的な世界で、コードの側がそれに随伴する別の調性という風に考える事も可能という意味です。


 5小節目冒頭はポリコードの「G△/A△」。そうして後続はクォータル・ハーモニーである「DQ/AQ(on G)」を介在し、「G♭△7(♯11)→F△7(♯11)」という風に進行します。個人的な好みとして、「G♭△7(♯11)」の混濁感は非常に好きな響きであります。


 そうして7小節目は4度ベースの「Bm7(on E)」でありますが、予見のしやすい旋律の牽引力が、よもやこうした暈滃する和声を随伴させているとは思えない程に自然であり、その自然さがよもや [e]音を基底とする「Em11」として錯誤して聴かれる危険性を孕んでもいるので、聴覚上で騙されない様に注意したい所です。


 8小節目の「B♭69」も非常に見事なコード嵌当で、自然に聴こえさせているのが見事です。


 9小節目では「E♭△9」となるので、先行和音からは下行五度進行を採っているので調的な流れであります。とはいえ10小節目では「A7(♯9, ♭13)」という三全音進行を採る所が、隅々まで半音階社会を期待させるという感じが漂って来ます。

 尚、7〜10小節目での各小節の4拍目弱勢では、ベースがアンティシペーションに対して上行導音を採っているというフレージングも心憎い所であります。つまり、後続和音のアンティシペーションであるも、配下のコードからは強烈な逸音にもなっており、その逸音が後続和音のアンティシペーションであるという訳です。つまり、ベースは線的に、プラガルな和音進行の状況に於ても整合性を採るかの様に紡ごうとするが故に和音外音である逸音を生じさせて弾みをつけるという訳です。こうした「唄心」は看過できない技法のひとつでありましょう。


 11〜13小節目はイントロおよびブリッジ部の結句と為す部分であり、先ずは「C7(on B♭)」というドミナント7thコードの7度ベースから入って来ます。この7度ベースは非常に能く出来ており、[c] 音を「Ⅴ」というドミナント位置として見立てた場合、先行和音との調的な整合性が希薄である事で恰も「Ⅳ」を根音とする副十三和音すら喚起するかの様に振舞っている7度ベースなので素晴らしい動きだと思います。そうしてベースだけが下行五度進行を取りつつ、本体のコードはプラガルな進行であるという所が多様な、そして部分転調としての「ジャズ感」が際立つ結句となるのであります。


 また、このコードの後続となる本テーマはニ短調であり、その直前で現れるノン・ダイアトニックとなる特徴的な「♭Ⅱ度」という存在をあらためて語らなくてはなりません。

 本曲では、ニ短調としての本来の姿が現れる直前にDフリジアンに移旋しDフリジアン上での「♭Ⅱ△7(♯11)」=「E♭△7(♯11)」が現れる訳です。これが後続のトニックへ進む時にモーダル・インターチェンジしてスルリとDエオリアンまたはDドリアンへと移旋をするというのが「Appaloosa」での実際の状況となる訳です。

 フェリックス・ザルツァーは自著 'Structural Hearing' に於て、プレドミナント和音(ドミナントへ進行する♭Ⅱ)の先例を取り上げてフリジアン・スーパートニックと呼んではおりますが、フリジアン・スーパートニックという呼称自体のそれそのものは何もプレドミナントを限定している物ではなく、偶々ザルツァーのレコメンドがプレドミナントを説明する事で「♭Ⅱ」を取り扱っているだけの事であるのです。

 プレドミナントとしての「♭Ⅱ」というのはドミナントへ行く為の振る舞いなので、ナポリの六とかも後続和音にはドミナントへ向かおうとする振る舞いなのであります。山下邦彦は西洋音楽社会でのこの振る舞いについての知識が乏しい為か、坂本龍一とのインタビューに於てプレドミナントとしての「♭Ⅱ」とは全く異なる「♭Ⅱ」をナポリと総称してしまい坂本龍一を激昂させてしまったという状況を赤裸々に自著『坂本龍一の音楽』にて吐露しておりましたが、トニックへ向かう為に置かれるフリジアン・スーパートニックと、ドミナントへ向かうナポリの六とは雲泥の差があるという訳です。

 そもそもフリジアンというのはフィナリスそのものを正格でのドミナントとして聴こうとしない変格の姿であるが故に用いられる物です。Ⅱ度の位置を「♭Ⅱ」としてフィナリスへの下行導音として作用する様にして聴かれる事で、長旋法・短旋法とは異なる世界観を構築して是認されていった物なのです。そういう意味では、本来の正格の位置にあるドミナントを「Ⅴ」として聴かずにフィナリスとして聴こうとする音楽的な欺きこそが「プラガル」=偽終止的進行を意味しているのであり、フリジアンというのは元来、偽終止的な状況を示唆していると謂える訳です。

 ドミナントへ進まずにトニック・マイナーの直前に置かれる「♭Ⅱ」もフリジアン・スーパートニックと呼ぶ事自体に問題は無いのであり、そのフリジアンがスルリとエオリアンに移旋してしまうのが現代のジャズ/ポピュラー音楽で行われている「♭Ⅱ△7」の使われ方に過ぎないだけの事なのです。「サスケのテーマ」で用いられる「♭Ⅱ7」はメジャー7thではなくナポリの六の同義音程和音でもありません。



 サスケの場合は「Ⅴ7」のトライトーン・サブスティテューション(=三全音代理)で「♭Ⅱ7」が使われ、後続にはトニックへ進む物として使われているのです。

尚余談ではありますが、「Appaloosa」の8小節目「B♭69」での箇所での2拍目に現れるキックは5連符1:4構造となる物なので注意が必要です。私の臆断でこうしてデモを作っているのではなく原曲の当該箇所が5連符の1:4構造のパルスとなっているという意味ですので、あらためてご注意を。