SSブログ

YMO名義の「Plastic Bamboo」考察 [楽理]

 扨て、私はYouTubeに於て坂本龍一の初期作品である「Plastic Bamboo」をYMO名義で演奏された『ライヴ・アット紀伊国屋ホール1978』のテイクを基に譜例動画のデモを制作した事もあり、その解説を兼ねて坂本龍一の初期作品にしばしば見受けられる「完全和音および下部付加音(=オンコード)」の解釈の差異を語っておく事は看過できぬ重要な事だと思うので、この譜例動画のアップを機にあらためて語る事に。それについては後ほど縷述します。


 1993年の暮れにアルファ・レコードから突如発売されたYMO黎明期のライヴ・アルバム『ライヴ・アット紀伊国屋ホール1978』でありますが、本来なら紀伊國屋ホールは旧字体の「國」を用いる方が正統な表記だとは思われるものの、アルファ・レコードでのリリース・タイトルが「国」を用いている為アルバム・タイトル表記に於てはリリース元に準ずる様に表わしたいと思っております。

YMO_Kinokuniya.jpg


 紀伊國屋ホール。贔屓目に見てもキャパは結構小さいと思いまして(特にステージ幅が狭い)、78年当時の私がこのライヴを生で観た訳ではないのでキャパシティの感想を伴わせても実感が湧かないかもしれませんが、まあ、ハコとしてはかなり小さい規模であります。今は無き、旧・国立霞ヶ丘競技場近傍地にあった日本青年館は1000人程のキャパであり、一般的な視点に於ても青年館のそれは小さい物でした。新しく売り出したい外タレ・バンドの集客力を勘案するに際して、概ね青年館がひとつの基準になっていたというのも今はもう昔の事でありますが、その青年館の半分程度のキャパなのですから相当小さいです。神奈川県民ホールの小ホール程度なのですから、そこで「フュージョン」を謳うフェスティバルとして繰り広げられた音源だったという訳です。


 とはいえ、77〜78年頃の日本国内というのはクロスオーバー・ブーム全盛期であった物の、夏場に商機を持って来る様な所があったので、冬場にあまり名の知れぬアルファ・レコードから大半は渡辺香津美の名前目当てであったろうという催しで、今となっては貴重な音源として記録されていたのですから畏れ入るばかりです。

 78年の春先というと、国内では街のどこを歩っていてもアラベスクの「ハロー・ミスター・モンキー」(※言わずと知れたジョージ・デューク関与)がヘヴィー・ローテーションで掛かっていた物でしたが、この「ヘヴィロテ」という語句自体当時はなかった物で、ブロック崩しゲームが浸透して来た年でした。宇宙船のスカイラブやらも新聞紙上を賑わせた物でして、夏場には庄野真代の「飛んでイスタンブール」や郷ひろみと故樹木希林のユニット「林檎殺人事件」がヒットしていたという時代。この曲はそもそもTBS系列「ムー一族」の番組内で使われた物でして(「暗闇のレオ」)、この番組も前年の「ムー」から継続した物だったのであります(77年の「お化けのロック」のヒットを経て翌年の「林檎殺人事件」のヒット)。主題曲は竹田和夫率いるクリエイション。当時の日本がクロスオーバーを苦もなく受け入れていた事があらためて能く理解できるという物です。














 いずれにしても、坂本龍一の77〜78年頃の活動となるとピラニア軍団のサントラ制作、りりィのバイバイ・セッション・バンド、渡辺香津美のアルバム参加などになるかと思われますが、そうして細野晴臣、高橋ユキヒロと炬燵を囲んでイエロー・マジック・オーケストラ構想を描き、その後の細野晴臣のソロ・アルバム『はらいそ』に於て細野はYMOへの確信を得たという訳です。78年の夏には企画オムニバス・アルバムでCBSソニーから『Pacific』という企画オムニバス・アルバムに於てプレYMO期の実験的な「Cosmic Surfin'」や同様のオムニバス別アルバム『エーゲ海』収録の「Reggae Aege Woman」「ミコノスの花嫁」なども耳にする事が出来るのですが、恐らく坂本としてはもう少しクロスオーバー寄りにしたかったのかもしれません。

 その理由として、『はらいそ』収録の「ファム・ファタール〜妖婦〜」での坂本に依るウーリッツァーの高速モノラル・トレモロを生かしたスタッカーティシモなどのプレイや音作りを聴くと、単に坂本はシンセサイザーの音色を固執していたのではなく、エレクトリック・ピアノなどの音色にも拘りを見せていたのではなかろうかと思える物で、同時期の高橋ユキヒロのソロ・アルバム『Saravah!』に於けるローズ、ハモンド ・オルガン、ARPオデッセイ、アコースティック・ピアノを幾重にも織り交ぜる方法や、YMOと並行して活動していたカクトウギ・セッションやKYLYNなどでのシンセ・パートとしての立ち居振る舞い、その後のスネークマン・ショーでの「今日、恋が」などでのオルガンの演奏などを聴くと、シンセサイザーに固執する事のない、所謂その後のヴィンテージ系定番楽器への執着心があった物と思われ、そうした思いが『ライヴ・アット紀伊国屋ホール1978』での「Plastic Bamboo」でのローズのアレンジなどは能く計算された「YMOらしからぬ」クロスオーバー・サウンドとして成立しており非常に好感が持てる物でもあります。






 YMOに於てローズの音を耳にするというのは非常に珍しい物であります。とはいえ先の「Plastic Bamboo」でのローズは坂本が演奏しているのではなく、松本弘が演奏している物であり、いわば渡辺香津美をサポートしていたメンバーをゲストにしてローズのパートを任せていたというのが実際でありますが、「Plastic Bamboo」のハーモニー感を形成しているのは坂本のシンセ類よりも松本弘の方のローズが強固であるので、この曲のコード感の表現には相当綿密な遣り取りがあったのではなかろうかと思えるのであります。


 そもそもオリジナルの「Plastic Bamboo」のコード感は希薄な方であり、クロスオーバーやフュージョン系統に耳慣れた人がオリジナル・アレンジを聴けばそれほど重厚なハーモニーではない事がお判りになる事でありましょう。それゆえに『ライヴ・アット紀伊国屋ホール1978』での「Plastic Bamboo」のアレンジを耳にした時は、その豊かなコード感にあらためて曲の魅力に気付いた物でもあり、とても大きな発見と喜びに変わった物だったのです。


 扨て、「Plastic Bamboo」でのコード感という核心部分を語る事にしますが、松本弘が奏する「クロスオーバー・アレンジ」のそれがオリジナル・スタジオ版と趣きを異にする最大の理由は、《属和音の完全和音としての解釈 or 下部付加音のコード 》なのか!? という解釈の違いを挙げる事が出来ます。それでは茲から譜例動画を確認し乍ら説明して行く事にしましょう。



 譜例動画2小節目。実際には曲イントロの先頭部分です。この最初のコードは「Gm11」ではありますが、オリジナル・スタジオ版として確認可能な原譜を『坂本龍一・全仕事』のp.46〜47での図版から見ると、冒頭のコードは「Gm7」という所に更に渡辺香津美のギター・カッティングにて9thおよび11th音を付加させてハーモニーを重厚にしている事が確認できます。

 重要なのは2つ目のコードとなる次の小節です。オリジナルは「B♭9」なのですが、譜例動画では「Fm7(on B♭)」と私は充てております。それは、[d] 音が無く「空虚」である響きであるにも拘らず、坂本自身はそれを不完全和音としては捉えず「完全和音」として解釈をしているのであろうと思われます。然し乍らおそらく坂本の脳裡には、「Fm7/B♭」という分数コードがあったとしてもそれを完全和音として見做して「B♭9」という表記を充てているのであろうと私は考えるのです。

 つまり、能くある「Ⅱ on Ⅴ」の型として見られる様な下部付加音(=オンコード)表記に対して、3度音程を充填させた完全和音の型として表記を充てるという手法が坂本龍一の初期作品には多くある様に私は感じております。これは、私が以前披露した譜例動画「I'll Be There」のブリッジにも謂える事でありまして、私が動画内で用いたコード表記は音コードの類でありますが、『坂本龍一の音楽』で見られる「I'll Be There」の原譜では完全和音の型として表記されているという所の解釈のそれと全く同様の状況なのであります。



 こうした件を勘案した上で私は推察するのでありますが、恐らく初期の坂本龍一のジャズ/ポピュラー音楽に於けるコード表記のそれに対して、属十一・属十三和音や副十一・副十三和音の表記に対して、不完全和音とて完全和音の拔萃に過ぎないというポジションを採っていたが故に完全和音の型を原譜では表わしていたのではなかろうかと思うのです。無論、演奏の実際となるとそれは不完全和音の型として通俗的には分数コードやオンコードの類として奏されていたのでなかろうかと思うのです。寧ろこの様に考えないと、原譜では「B♭9」として記されていたそれが松本弘や渡辺香津美らが奏しているハーモニーのそれが「Fm7(on B♭)」として聴こえる訳がないと思えるのであります。

 亦、スタジオ・オリジナル版のイントロの4小節を原譜では「Gm7→B♭9→Gm7→Gm7」と為ているも、紀伊國屋ホール版では4小節目も揺さぶりをかけてベースは [f] を奏してトータルなハーモニーとしては「Fm7(11)」を感じさせるのであり、下主音上にある「Gm」というのはF音をルートと採る限り「Fm13」という副十三和音という全音階の総合という総和音の姿を完全和音として見做す必要性が生じてしまうので、副十三和音となる三全音の包含をなるべく避けて調的な閉塞感を避けた表記を採り乍らオリジナル・アレンジとは異なる揺さぶりを掛けて豊かなハーモニーを企図したのだと思います。

 無論、その「豊かなハーモニー」という姿も、調性感を見失う事なく予見が甚だしく可能な機能和声を標榜するそれとは意を異にする物で、偽終止的進行(=プラガル)を目指した上での調的には中立的である「豊かな」ハーモニーという意味であるという事はきちんと酌んで解釈すべきであろうと思われます。


 これらの件を勘案すれば、私が用いている分数コードおよびオンコードのそれらを、坂本龍一関連書籍の図版から確認できる原譜のそれと表記が異なるではないか!? という誹りを受ける事なく両者の表記の違いとハーモニーの実際という事をあらためてお判りいただけるかと思います。

 何処の馬の骨かも判らぬ譜例動画よりも出版物の方が信頼性は遥かに高いのは当然ではありますが、その原譜を紋切り型でそのまま解釈してしまうと陥穽に嵌りかねないのであらためてこうして注意喚起を促しているのであります。唯、こうした側面が判れば、なぜ私がそうしたコード表記で譜例動画を作ったのかという狙いがあらためてお判りいただけるかと思いますので、この辺りの疑念が払拭されれば今回の譜例動画のコード表記解釈は理解がスムーズだと思いますのであらためてご承知おきを。

 
5小節目のローズのパートでは和音外音が [ces] および [a] を左手低音部にて生ずるので、コード表記の「Fm7(11)」から見た減五度と長三度相当の音を奏する事になる為、これらの和音外音に関して私が音を取り損ねているかの様に思われるかもしれませんが、実際の録音がこの様に記録されている為私は盤に従って音を採譜しているのでご理解いただきたいと思います。

 しかしこの音の選択は松本弘の演奏ミスとも思えず、同様のカウンター・ノートとなる和音外音は後続の同箇所「Fm7(11)」上にて渡辺香津美もプレイするので、恐らくこのコード表記で表されるそれよりもずっと多様なアプローチを施す事の出来る前提として坂本龍一は彼らに呈示しているのであろうと思われます。それについては私が推測するしかありませんが、坂本龍一のコード表記の呈示としては [g] 音を根音とする属和音のオルタード・テンションを許容(見越した)した上で、例えるなら「G7(♯9)」や「G7alt」というコードにて「♯9th」を強調する様に指示しつつもベース部は [f] を奏するという風にしてオルタード・テンションを伴った属和音の第三転回形に等しい [f] を根音とする副十三和音などを呈示しているのかもしれません。

 例えば「G7(♯9,♭13)/F」という状況であるならば、[h] と [b] のどちらをも許容しつつ [es] 音をもまとわせた振る舞いが可能となる筈です。処がそれだと「Fm7(11)」が有する [as] を「G7(♯9,♭13)/F」では和声的に持つ事が出来ず(※「♯9th」を既に使用している為に同度由来の音を充填出来ないので、用途として閉塞状況に陥る)、コード表記として「G7(♯9,♭13)/F」を優先してしまうと、響きの上では重要な [as] を取りこぼしてしまう事にも繋がる訳です。ですので、少なくとも [f] を根音とする副十三の和音を「完全和音(=3度音程堆積による省略音のない充填)」として [f・as・c・es・g・b・d] を呈示しつつも、全音階的に包含する事になる三全音 [as・d] を持つ「G7某し」と同様のそれに対して「オルタレーション可能なG7」としての在り方を局所的にプレイをする様に注意を促しているのであろうと思うのです。

 ですので私の表記する「Fm7(11)」であっても、オルタレーションを可能とする様な自由度は与えられないのでありますが、

この副十一の不完全和音(※長九度オミット)は「副十三」として見做しても可能であるも、「G7alt」的な「G7(♯9、♭13)」が有するオルタード・テンションのそれを選択する事の できる副十三としてプレイ可能

とする類の注意が与えられているのであろうと思うのです。オリジナルの原譜では当該箇所のコードは「Gm7」のままである為、そこに揺さぶりをかけた粉飾を行なっている以上、多義的な解釈が伴っている訳ですが、少なくとも原曲の当初の案を把持した上で拡大解釈させると、「下主音 [f] 上のⅠ7alt」という解釈とせざるを得ない物の「G7某し」が有する [h] を強調しすぎては原案を損ねかねないので、留意すべき側面のあるオルタレーションが伴う状況であると私は思うのです。

 ですので茲は属和音の側に主体がある様な表記を回避して、副和音としての状況にて逸音を誘引可能な状況を想定して「Fm7(11)」上で [ces・a] が発生するという状況として採譜したのです。こうした特殊な状況に生じている [a] の音は譜面の上では [bes] として「B♭♭」として表わした方がより適切ではあるのですが、譜面の上では煩わしさを敢えて避けて、ギターは [as] を弾いてくれているのだからその状況に甘受して当該小節のローズの低音部では変化音として表さずに [a] を充てた方が却って平然と弾く事が出来るであろうという思いで私は敢えてこの様に表記しているのです。

 ジャズ/フュージョン界隈が許容しうるオルタレーションのそれをあまりに仰々しくやると、原曲の感じとは大きく乖離してしまいかねないので、この譜面通りに原曲を重んずる人が奏すれば「左近治の野郎、ひでぇ採譜だな」と思われる方もおられるかもしれませんが、茲は決して私の採譜ミスではなく、もっと大きなジャズ的配慮が裏にあるものだと念頭に置いていただきたい注意すべき箇処であるのです。同様のオルタレーションを渡辺香津美も後にプレイするという事についてはあらためて後述します。


 扨て、今回の譜例動画の楽譜編集で戸惑ったのは何と言ってもギターTAB譜編集。普段は全くTAB譜を作らない事もあり、作業工数は通常の50倍以上に匹敵する位でした。加えて、タブ譜用として用意されるFinaleでのライブラリは固より、旧バージョンと比較しても仕様変更が若干行われている様で既知のレイアウト修正が新しいバージョンの仕様とでは編集が異なり手間取りました。

 そういう事もあって普段とは見慣れぬTAB譜に目を遣っていただければと思うのですが、ギター・パートでの "G" および "g" という注釈はグリッサンドを表わしており、同様に "H" はハンマリング・オンを示しております。プリング・オフは今回現れなかったので "P" に相当する表記はありませんが、直線でグリッサンドを表わしている箇所もあるのでご注意を。


 譜例動画7小節目に於けるギターの4拍目のグリッサンドは、これは弦をミュートし乍ら下行グリッサンドを続けているのであり、ミュートを表わす「×」印とは異なりフレット番号が明記された箇所では明示的に音が鳴る様にしてプレイをする様に表わした物です。

 9小節目1拍目に注目していただきたいのですが、拍頭にて [ces] および後続弱勢にて [a] という和音外音を充てているのは私の採譜ミスではありません。このオブリガートのプレイで生じているオルタレーションは明らかに、先述のローズが奏していた和音外音と同様のアプローチなのです。

 この多様な和音外音は、端的に評すれば「GmとG△の併存」という状況を生もうとする狙いがあっての事なのだろうと思います。

 とはいえそうしたポリコードで表そうが [g] 音をルートとするオルタード・ドミナント・コードとして表そうが、どうしてもプレイする側はその両義的な和声感を常に複調状態で用いるのは難しく、単声の状況ならば状況を抜粋している事になる訳ですから孰れかの状況(※長・短の世界観のどちらか)を優先するかの様に見られる部分があるのは避けられません。故に、恣意的に長・短どちらかの状況を向いているかの様な解釈も第三者は採る事が可能ではあるのですが、原曲の当該箇所が「Gm7」であったものの少なくともこのライヴでのアプローチは揺さぶりをかけて多様な解釈として変えて来ているのは明白であるのに加え原曲の響きを大きく毀損しない様な配慮でもってオルタレーションのそれを生ずるプレイを許容する様に坂本は呈示しているのであろうかと思われるのです。

 この様に考える事で、原曲を深く知る人が今回の譜面を弾くと大きく原曲を毀損する様な音に遭遇してしまうかもしれませんが、それは各パートずつ抜粋して弾いてしまうと確かに毀損しかねない和音外音に遭遇するものの、全体のハーモニーとして新たなる解釈としてクロスオーバー的およびジャズ的なハーモニーの下地があった上での装飾と思って解釈していただければ、これらの演奏の実際で起こっている「不思議な逸音」の状況があらためてお判りいただけるかと思います。あらためて強調しておきますが、決して私の採譜ミスではありません(笑)。


 10小節目からはあらためてローズのパートに注目してもらう事に。両手でパラディドルを奏している訳ではありませんが、16分音符のリズムで両手を交互にリズムを刻む様に打鍵というプレイを明示しているので、一部は大譜表の五線を跨ぐ様にして表記しております。14小節目3拍目での両手が結果的に同じ音を奏する様にして符幹が上下に延びているのは、結果的にリズムは両手でもひとつのリズムの支配下にあり、その拍節感に収まった動きというのを示す為にこうして表記している訳です。

 同様に、15小節目4拍目では、大譜表高音部のスコッチ・スナップの後続となる付点八分音符が大譜表低音部に跨いでいる物なのですが、すぐ後続近傍に八分休符が見えるのは、元からある低音部の4拍目弱勢にある休符であり、強勢(拍頭)にある4拍目の低音部の左手は下から [c・es・as・c] と4音を八分音符で弾きつつ、その八分音符が鳴り終わる前に上から右手が十六分音符で叩きつける様にして交差しているという訳です。


 18小節目からはコード進行に変化があり、当初の投稿の譜例動画では私の誤表記で「B♭△9(on E♭)」としてしまっていたのですが現在では訂正済みとなっている「E♭9」が正しい表記となり、それは同様に20小節目でも誤表記となるのでご注意下さい。当初思い描いていた表記は「B♭m9(on E♭)」という風に、[es] から見た [g] をオミットした類の属十三の不完全和音という解釈を採ろうと企てていたものの [g] を明示的にして長属九の姿を顕著にした方が原曲の姿を能く表わしていると思い、表記を訂正しました。

 扨て、19小節目でのコード「D♭9」ですが、最初の投稿時では「D♭69」としておりました。とはいえこれも矢張り、7th音を顕著に表わした方が好ましいという判断から表記をあらためる事にしました。

 作曲者が思い描いているであろう和声的状況を勘案すると、メロディーの線的な運びである [b・g・des・es] は「D♭9(♯11、13)」を標榜する状況であるという事が判ります。とはいえ渡辺香津美は本位四度(=本位十一度)である [ges] も忍ばせているので、茲はクロマティシズムが滲み出てくる様にして複調的な判断を採った方が良いであろうとするのが私の解釈であります。

 尚、当該小節でのギター・パート4拍目で私は減四度相当の [fes] を奏してデモを作っておりますが、当アレンジで渡辺香津美が [fes] を弾いている訳ではありません。とはいえ渡辺香津美は本位四度(=♮4th=♮11th) [ges] を弾いているので、メロディーが奏している [g] とは明らかに異なるのですが、本位四度が同時に演奏されなければ許容される状況となるとコード表記は「D♭9某し」というドミナント9thではなく「D♭11」あるいは「C♭△/D♭△」という状況として捉えている方が実際の呈示に近いのであろうと私は思っております。

 その上で、その本位四度が非常に好い効果を生み出しているので、私は [des] 音の完全四度上にある 「A♭7(♭13)」の響きをどうしても入れたくなったので [fes] を付与させているのはご容赦下さい。《茲は [fes] が似合う!》という個人的な趣味によってギターのプレイに託けて付与させている音です。

 とはいえ私の個人的な趣味の音についてはどうでもよく、解釈として吟味すべきはメロディーが奏する [g] とギターの [ges] で生じている2音であり、機能和声的に眺めてしまうと同度由来の変化音が併存する事になる物の、複調を視野に入れればこれらの併存は充分有り得る事となります。

 D♭音をルートとする5th音をそうした後の「逡巡」として渡辺香津美は5th音の長二度下に羽を休めるかの様にアプローチを採るのですが、ジャズ界隈のプレイヤーがドミナント・コードおよび長和音上にて本位四度を選択する状況というのは通常、2度ベースの類のポリコード=F△/G△とかB♭△7(on C)などから見える本位四度を視野に入れている状況でないと通常は「♯11th」の変位で逃げてしまう事が多いのもあって、こうした本位四度をあからさまに弾いているという事はコード指定で相当な注意喚起がある様な呈示があるのではないかと思うのです。

 つまり、坂本龍一はメロディー・パートが想起しうるアヴェイラブル・ノート・スケールのモードとは異なる音組織を渡辺香津美に呈示していると考える事が可能という事です。もしくは「あたかもD♭7上のA♭7を想起しても可」という状況をイメージしやすい呈示が為されているのかもしれません。

 属和音の5度上にある属調としての属和音をあらためて見る事によって属調の調域に在るドミナント7thコード=A♭7を仮想的に想起した上でその♭13thをも併存させれば自ずと [fes] も生ずる訳で、私の個人的趣味となる音の選択も大局的に見れば [g→ges→fes] という流れを生んでいるとも言えます。いずれにしても箇々では「D♭7某し」系統のコードよりも「D♭69」や7度ベースの類としての「E♭m/D♭」系統の響きが備わっているので、「D♭11」という表記の可能性もあるのかもしれません。

 孰れにしましても18〜21小節間での長属九のパラレル・モーションは非常にプラガルな状況であり、最早ブルースでもありましょう。短属九でない所が響きとしての後続への予見を許さない状況を生んでおり大変好ましい物であると考えます。完全五度下への解決を慫慂する機能和声的な当てこすりの進行とは全く意を事にする響きであり好ましいのであります。


 22小節目は原調となる「Gm」からのモーダル・インターチェンジとなる同主調の調域への「G△9」に進んで直ぐさま23小節目ではセスクイトーン上行進行で「♭Ⅲ」というフラット・メディアントである「B♭△9」に進むのも原調への固執を匂わせているのも絶妙です。なぜなら「B♭△9」をトニック・メジャーと読み替えれば、その時点で平行短調である「vi」という原調の「Gm」の記憶を喚び起させる物であるからです。


 25小節目でのブリッジはとても坂本龍一らしさが出ている部分でもあり、これに似る他の作品はKYLYNに収録の「I'll Be There」でのブリッジでありましょう。また、ブリッジ冒頭の「Gm7(on D)」にて5度ベースを採るというのも坂本作品では珍しいと思えます。このブリッジ冒頭での「Gm7(on D)」は先行の和音本体(上声部)が後続へ「B♭m7(on F)」にセスクイトーン(=1全音半)進行をしている訳ですが、それはコード表記だけがセスクイトーン進行という平行進行になっているに過ぎず、実際には上声部の同種のコード=マイナー7thコードは譜例を確認すれば瞭然の通り、全く平行進行を起こしてはおりません。

 本ブリッジでの2つ目のコードである「B♭m7(on F)」を私は最初の投稿時に於ては同義音程和音としての「D♭6(on F)」と充てていたのですが、その場合の6th音= [b] は限定上行進行を採っている訳ではなく寧ろ下行進行を繰り広げている訳ですし、「D♭6」をサブドミナントとして見立てて「Ⅳ→Ⅰ」という進行としても成立している訳ではないので、6thコードを充ててしまったのは早計な判断であったという事を踏まえて訂正した次第です。

 なお、本ブリッジに於けるシンセ・リード2のパートはコード毎に3度音程に依る分散フレーズを忍ばせているのですが、最後の5音の音形の最高音 [a] を、私はArturia Stage-73Vに弾かせたデモの方では完全五度下の [d] を弾かせているのは敢えて本デモとの差異感を示す為にわざと変応させましたのでご容赦を。本デモではきちんと元を踏襲しております。



 26〜29小節目では単にリピートなので解説は省略します。

 30小節目。「Plastic Bamboo」の最も注目すべき部分であるでしょう。私は茲での冒頭のコードを「D♭△7(♯11)(on E♭)」という2度ベースの形を採りましたが、山下邦彦著『坂本龍一の音楽』でのp.265で確認可能な山下に依る解釈では「E♭7(9,13)」としております。私は山下邦彦を批判する訳ではありませんが、坂本龍一の初期作品の属十三および分数コードの解釈は先述の様に注意して考えるべきであると思うので、属十三であり乍ら11th音を省く不完全和音としての属十三の形としてのコード表記よりも2度ベースのメジャー7thコードとして見立てた方が良いのではなかろうかと私自身は山下案を棄却してこの様に解釈しました。

 私が山下案を甘受できない理由は他にもあり、30小節目4拍目で生ずる [d] 音を生ずる3連符での「逸音」を生ずる、これこそが「Plastic Bamboo」の最たる特徴的且つ聴衆が有り難く拝戴すべき音であると信じて已まないのでありますが、山下はこの4拍目に「G7(-9、+9)」という風な解釈でコードを充てているのです。確かに、9thのオルタード・テンションは変種と嬰種(=♭9thと♯9th)の双方があり、ベルクのヴォツェックなどでは同度由来の変化音の同時使用が確認できる例はあります。とはいえ、こうした稀な例を呼び込むのは単なる断章取義となるに過ぎず、根拠は甚だ甘い物でしかありません。

 仮に坂本龍一がヘプタトニックを超える音列(=つまり8音以上)の旋法を視野に入れておらずともこうして「逸音」が生ずる事は珍しい事ではなく、寧ろそれを珍しくしてしまっているのは、ジャズが徒らに体系化を整備してしまった事で真っ先にアヴェイラブル・モード・スケールというヘプタトニック(=7音列)を準備してしまう事で、それ以上の8音目以降の可能性を棄却してしまいかねない陥穽がジャズには起こってしまったという事を山下本人も本当は熟知している事でしょう。故に解釈に困り、9th音のオルタード・テンションの変種・嬰種の混在を呼び込む事自体、ヘプタトニックを想定していたり一つのモード体系で解釈する事がこの場合は陥穽に嵌る状況である為非常に危険で甘い解釈となってしまうので私は山下案に乗れない訳です。

 そもそも「フレーズ」という線的に強固な牽引力を生む源泉は和音構成音の外にある和音外音であります。調性感が強い音楽ならば非和声音となる音も全音階的に準備されている音(※「ドミソ」のコードの和音外音となる「シ・レ・ファ・ラ」はコードの側からすればアヴォイド・ノートを一部に含んでいるとは雖も調性を標榜している事で予見の容易い全音階的に準備されている音群)ですから予見が容易な音群でありますが、茲に半音階的揺さぶりがかけられると全音階的組織にも当てはまらない半音階的な音脈が使われる様になる訳です。

 西洋音楽の場合、和音の側面から見ても当てはまらない音の出現が対位法に依って生み出される事も顕著である為、ジャズなどの解釈は容易に超越した音脈が生じます。この [d] は、[des] の上部へ浸潤する上接刺繍音ではなく、[d] から三全音下行で [as] を経てから再び [b] へ進行しており、その [b] の3度上に [des] が補強して現れている状況の「逸音」であり、31小節目もヴォイシングとしての形を変えただけでコードは変化しておらず、ヴォイシングが下方へ推移しているという「同方向」へ向かおうとする逸音ですので、ノータ・カンビアータであるという解釈が適切であると私は考えるのであります。

 山下の解釈というのは、凡ゆる音を和声的あるいはアヴェイラブル・モードという音組織から考えようとしてしまう癖があるので、これをわざわざ和声的に考えると却って状況を閉塞させてしまうのです。ジャズよりも遥かに高度な和音外音の使い方があるという事を念頭に置く必要があると言える物で、山下の解釈はこうした甘い所があると言わざるを得ないのであります。また、山下が [g] を根音に採った上での [h] としたい音を私の場合は [ces] としているのも、長七度音= [c] が下方変位したオルタレーションとして [ces] を響かせつつ短二度で [b] が下支えしている状況だと私は解釈しているので、[g] 由来の「G7某し」とは決して解釈しないのもこの為であります。

 山下の案としてのコード表記の充て方が評価されるとすれば、この30〜37小節間に於けるコード進行が、単に行き場(=解決)の無い状況で三全音進行として半音階社会を逡巡しているという世界観を表わすという意味で「E♭とA」という三全音の行き交いを表わしている事でありましょう。その過程に生ずる同種のコードが経過的に忍ばされれば単に平行進行に過ぎないとも捉える事もできるでありましょうから。その三全音の途中に中継的に挟まれる「G7(-9,+9)」は三全音という音程から二全音を経由させての進行という風に大局的に見立てている事にもなります。つまり山下流に準ずるならば「E♭7(9,13)→G7(-9,+13)→A9」という風に。

 彼の解釈の様に和声的解決の無い茫洋とした状況でハーモニーが逡巡しているかの様な状況を敢えてコード進行として表わすとすれば、その時の茫洋と漂うドミナント7thコードはワンコードを貫くか、三全音進行としての形を繰り返すかという後者はまさに今回の状況が視野に入る訳です。

 但し、山下の場合は更にカンビアータの部分をも和声的に解釈しようとして無理なコードの解釈をしているに過ぎず、三全音進行の過程をもより中和を目指すのであれば三全音を丁度半分の音程として分割するセスクイトーン(=1全音半)あるいは1全音を2回中継させた平行進行を施さない限りは和声機能的な中和としては成立せず却って経過的には局所的な転調感として強い揺さぶりとして弾みがつきかねません。三全音進行に対してより中和を目指すのであるならば「E♭→G♭→A」の方が中心軸システムレベルで考えても和音機能は同属を保つ状況である筈なので、カンビアータ部分をわざわざ根拠の希薄な「G7(-9,+9)」というコードを持ち来してまで解釈するのは私は相容れない解釈であります。

 加えて、その三全音という突飛な跳躍進行を中和させるかのようにして経過和音を忍ばせて三全音を二全音に分割する狙いがあったとしても本曲の旋律形成の実際としてのシンセ・ブラス1のパートの線運びは [des - es - f - g] と三全音でリディアの響きを際立たせているのが最たる特徴です。対位法的線運びとしては三全音の寸止めという状況は概して好ましい類ではない物の、この運びもまた坂本龍一の凄さを垣間見るひとつの例に挙げられる事かと思います。

 この特徴的なリディアの運びの場合、解決を見ない和声的な背景も備えているので三全音として寸止めさせる線的な運びは決して禁忌でもないと言えるでしょう。

 ですので後続では [des - es - f - g - a] という風に [a] まで跳躍させる事でリディアン・オーギュメントの節回しを大局的に見る事ができる訳です。結果的に「四全音」の順次進行を見る事ができるという事は、この全音音程の多さがどういう旋法あるいは状況を誘引するのか!? という事を踏まえれば、カンビアータの部分の経過和音にコード表記を充ててまで、大局的な四全音の運びを寸断させてしまう様に和音の中継をわざわざ挟む必要はないと私は考えるのであります。中継として「G7某し」のコードを充てても、先行フレーズからの四全音の体を保ってはいる訳ですが、四全音としての誇張が寸断されてしまう様に聴かれてしまうのは問題を抱えてしまう解釈であろうと私は考えるのであります。

 この他にも多くの解釈が有っても良いとは思いますが、孰れにしてもカンビアータとして表わす坂本龍一の [d] 音の呼び込みは凄いと思います。この1つの逸音だけでその非凡さが如実に現れており、曲の価値も一層高めていると言えるでしょう。凄い音です。


 38〜41小節は渡辺香津美によるギター・カッティングのオブリガートですが、ライヴ・テイクにある仰々しいほどのグリッサンドは踏襲せずにデモを作っておりますので、その辺りはご容赦いただきたいと思います。


 とまあ、こういう風にして紀伊国屋ホール・アレンジ版を語った訳ですが、この曲がクロスオーバー風にアレンジされるというのは実に見事な風合いを醸し出す物であって、私の記憶が正しければ、本アルバム発売時期に合わせてサンレコ誌上で寸評を寄せていた砂原良徳も「Plastic Bamboo」の出来に驚きを隠せない様な満足している様なコメントを述べていた様でした。原曲がミャンミャンと五月蝿いほどにシンセのフィルターとレゾナンスを際立たせた曲である為、どことなく聴き疲れしてしまって本曲の良さを感じぬままに表層的な音で敬遠してしまいがちな聴き方をしてしまっていた事を後悔してしまう程に、この曲も周到に和声的にも練られていたのであろうと再確認する事ができるのは収穫であろうかと思います。なにせローズの音を聴く事のできる「YMO」ですからね。これは貴重な音源です。